ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.092レポート

2015-04-28 21:13:06 | Weblog
VOL.092のゲストは、中区の伏見で高齢者や障がい者の在宅型の介護支援をされているNPO法人はれとけの理事長・伊藤步さん。伊藤さんは1967年愛知県犬山市生れ、もともとは福祉とは別の仕事(ホテルマン)をしていたが、そのホテルが廃業するのをきっかけに介護業界へ。平成13年より法人設立、介護事業を開始された。現在は正社員・パート・事務職含め約50名が在籍する訪問介護あゆみ・訪問看護みづき・居宅支援こよみを運営されながら、錦二丁目長者町のまちづくりにも関わっておられる。お話のタイトルは『「晴と褻」の考える社会とは?』

【ホテルマンからの転身】
冒頭でも触れたように、伊藤步さんは愛知県犬山市の出身で、はじめは保険会社に就職され、続いて名古屋の矢場町にあった〈和風ホテルさくらや〉のマネージャーをされていたそうだ。しかし、老舗の旅館は老朽化も著しくなり、オーナーは廃業を決意した。当時ホテルはリノベーションされて、若手アーティストが自分の作品を展示・販売する〈さくらアパートメント〉として生れ変わったが、伊藤さんはそれを機会に訪問支援型の介護事業所を立ち上げた。ホテルマンといい、介護事業所といい、他者のために考え、お世話をするホスピタリティーが大切なサービス業である。伊藤さんらしい…。伊藤さんが事業所を立ち上げた前年に、〈介護保険法〉が施行され、これまで福祉とも介護とも関係がなかった大企業から中小企業に至るまで、介護事業に参入して来てはお金にならない、サービス提供に苦慮する事案が多い、などと解ると直ぐに撤退していた。それを目の当たりにしていた伊藤さんは、やはり福祉や介護業界は志がなければ、成り立っていかない職業なのだな~と思い、自分に向いているかも知れない…と確信したそうだ。

【ハレとケとは?】
法人名にもなっている〈はれとけ〉とは、民俗学者の柳田国男さんが見いだした日本人独特の時間論を含んだ世界観で、日常と非日常(祭りや冠婚葬祭・年中行事)を区別する言葉であり、伊藤さんの好きな言葉でもあるという。〈ハレ〉とは非日常のことであり、漢字で表すと〈晴〉ということになる。その人にとって特別に晴れがましいことを〈晴れの舞台〉とか、正月や特別な日に着る着物のことを〈晴れ着〉と言うのもそこから来ている。それに対して日常を〈褻(ケ)〉と呼んだ。介護を必要としている人たちは、日常はもちろん、非日常の時であっても支援を必要としているのだ。家族と暮らしていても、ひとり暮らしであっても、それは変わらない。介護事業をはじめるにはこれほど適切な言葉はないだろうと思い、法人名にしたのだという。因みに人の死や不浄なものを表す〈穢れ(ケガレ)〉という言葉があるが、その〈褻(ケ)〉が枯れるからとも、憂いで〈気が枯れる〉からともいわれている。また、不浄なものを清め祓う意味で玄関口に盛り塩をしたり、葬儀帰りの人に塩をふりかける行為は、現在でも私たちが無意識のうちにしている穢れ祓いの名残なのだという。

【福祉ってなんだ?】
そもそも〈福祉〉とはなんであろうか? Web上の検索サイト・ウィキペディアによれば、福祉(Welfare)とは、「〈しあわせ〉とか〈ゆたかさ〉を意味する言葉であり、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供する理念を指す」とある。つまり〈福祉〉とはある特定の人たちだけのものではなく、この国に暮らすすべての人々の幸福を願い、どうすればそれが可能になるのかを考え、実践してゆくことなのである。そしてそのための制度が〈介護保険〉〈障害者基本法〉であり、それに基づいて行われるのが各種の〈福祉サービス〉なのだ。

【それでは社会ってなんだろう?】
それでは〈社会〉とはなんであろうか? 同じくウィキペディアによれば、社会(Society)とは「人間と人間のあらゆる関係を指す」とある。ただ、社会という言葉で表される範囲は幅広く、ひとつの組織や結社などの部分社会から、国民を包括する全体社会までさまざまである。その社会の中では構成員の利害を調整することにより秩序を維持し、生活が円滑に営めるように様々な制度があり、私たちが生まれながらに持っている権利行為も法律に基づいてさまざまな制限が加えられている。しかし、その反面で人権に対してどこまで制限を加えられるのか議論の対象になっており、制度に基づく義務は重い負担になってきているのも確かだろう。

【例えば高齢者を例に考えてみると…】
高齢者と一口に言っても、介護が必要な人もいれば、必要でないお元気な方もいる。しかし、この両者は両極なのかといえば、そうでもない。介護が必要な方であっても、何かの支えやサポートがあれば、介護が必要でない方と同じ生活が送れるようになる。介護も、バリアフリーも、それ自体が目的なのではない。介護が必要な方が、そうでない方たちと同じような生活が営めるようになるための〈手段〉なのだ。何かがひとりで〈出来るか〉〈出来ないか〉は問題ではなく、〈出来る〉方に限りなく近づける…。〈出来ること〉が理想だとするならば、その理想に近づくための自力・他力、手段や道具、そのすべてが〈福祉〉ということが出来るのではないかと、伊藤さんはいう。

【如何にそこに近づいてゆくか? 如何にそこに近づけてゆくか?】
言い換えれば福祉の最終的な目的とは、何らかの困難があってひとりでは〈出来ない〉方たちの生活を、ひとりで〈出来る〉方たちと同等の条件にし、その環境を整えることにある。高齢者や障がい者などの当事者にとっては〈如何にそこに近づいてゆくのか?〉であるし、伊藤さんのような支援者にとっては〈如何にそこに近づけてゆくのか?〉がキーポイントになるわけだ。そう、すべての人々が安心して安全で心地よい暮らしが送れるように…。
【安心・安全で心地よい生活環境を整えるために…】
その安心・安全で心地よい暮らしの環境を保つためには、危険な因子や不快な要素を排除して行かなければいけないこともあるし、最近ではネットを使っての陰湿ないじめや事件が横行しているが、他者同士が如何に相互理解してゆくか…? おとなも子どもも一番望んでいるのは、やはり平和な環境だろう。また、ひとりひとりの思い描いている〈夢や希望や目標〉を実現させてゆくための道具(資金)が必要な時もある。そのために行政は減税をしたり、補助金制度を設けて経済的支援をしているのだし、争議の解決には司法が関わり、身体的な改善には医療や介護が、いじめ意識の変革には教育が、犯罪や悪事を働けば受刑によって一時的に隔離され、矯正されて再び仲間の内に戻される。それもこれもすべてが安心・安全で心地よい生活環境を保護するためで、そのために世の中が動いているのである。その動きのことを〈社会〉と呼ぶのではないかと伊藤さんはいう。

【大久保的まとめ】
伊藤さんと知りあったのは、いまから三~四年前になる。確か延藤安弘先生の退官記念のパーティーの折で、奇しくも同じテーブルを囲んだのがはじめてだったと記憶している。それ以降幾度となく顔を合わせ、言葉も交わしているのだが、いずれも酒の席なのでマジメに〈福祉とはなんぞや?〉〈社会とはなんぞや?〉と語り合うこともなかったけれど、うちあわせの時に話していて、伊藤さんってこういう人だったのか…と認識を新たにした。施設型の福祉実践者の方は、その施設の運営のことや利用者さんの生活を支援するだけで精一杯になりがちで、個人的な社会像とか福祉理論を聴く機会に恵まれないが、それぞれに顔があるように、支援者それぞれの福祉観や社会像があることだろう。伊藤さんは今後新たに、障がい者の就労支援プロジェクトを立ち上げようとされている。日本、殊に名古屋の大須や長者町へ観光に訪れる外国人の方たちをターゲットにした面白いプロジェクトなので、うまく立ち上がり、軌道に乗ると良いなあ~と思っている。