ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.031~カレーなる晩餐会PART2

2009-07-27 14:25:36 | Weblog
ジネンカフェVOL.031~カレーなる晩餐会PART2
日時:9月6日(日)16:00~20:00 
場所:まちの縁側MOMO+どんぐり広場
会費:大人1,000円  子ども500円(小学生まで)
定員25名(定員になり次第締め切ります)

お楽しみ企画(どんぐり広場)
 ・マジック少年・加藤昌平くんによるマジックショー
 ・加藤たけしさんによるギターの弾き語り

 ・カレー 4種類
 ・障がいをもつ主婦・井上さつきさんとサラダをつくろう! 
ノーマライゼーション企画
 ・ぐっちゃん&みやちゃんの
  『私たちの住むまちは誰もが楽しめるまちかな?』(電子幻燈会)
 ・大久保康雄新作ファンタジー「ムゲンの樹、水のない海」朗読/有山美波さん
 
主催・共催:NPO法人まちの縁側育くみ隊/かたひらかたろう/NPO法人くれよんBOX
 
お問い合わせ・申込み先
 
 NPO法人まちの縁側育くみ隊゜
 名古屋市東区代官町29-18 柴田ビル1階
 まちの縁側MOMO内 担当:大久保
 TEL/FAX:052-936-1717
 E-maik:ookubo@engawa.ne.jp

ジネンカフェVOL..030のご案内

2009-07-14 20:58:37 | Weblog
日時:8月8日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:山口耕平さん(くれよんBOX職員)
タイトル:『それでも、人生は続く…』

略歴:
1976年 愛知県海部郡弥富町(現弥富市)に生まれる。
様々な紆余曲折を経て県立N古屋西高校を卒業する。
また様々な紆余曲折を経てA知県立大学に入学する。
1998年 目覚めたら手足の動きや発声などの機能がおかしい、という奇跡体
験をして以来、障がい者道をまい進する。
2002年 当時いた総合リハビリセンターからの紹介で、くれよんBOXと出
会う。様々な紆余曲折を経て愛C県立大学を卒業する。
また様々な紆余曲折を経て2009年くれよんBOXの職員になる。
..And the life is going on.

コメント:
1998年、大学卒業を半年後に控えた(恥ずかしながら就職は決まる気配もあ
りませんでした)ワタクシの人生が急変しました。それから数年は三無主義(無気力、無関心、無感動)を忠実に実践しました。
タイトルどおり、「でも人生は続く」のです。(ここでは、あえて接続詞は逆接
ではなく順接にしました。
その理由をここに書いちゃうと、当日しゃべることがなくなっちゃいます。)
そこで、その半生をここで掘り下げてみたいと思います。
(たぶん、何も出てきやぁしません。埋蔵金伝説みたいなものです。
でも、あえて掘ってみます。)

参加費:300円(カフェ代別)

主催・共催:NPO法人まちの縁側育くみ隊/NPO法人くれよんBOX/かたひらかたろう

お問い合わせ/お申し込み先
名古屋市東区代官町29-18 柴田ビル1階
まちの縁側MOMO内
NPO法人まちの縁側育くみ隊/担当:大久保

VOL.029レポート

2009-07-13 21:25:19 | Weblog
今回のゲストは、地元半田市を中心に〈人にやさしいまちづくり・人がやさしいまちづくり活動〉をされている、人まちクラブはんだ代表の杉江徳長さん。杉江さんは私の悪友でもあるが、手が全く使えないので足で携帯やPCを使ったり、食事をする、人間の可能性を教えてくれる人でもある。お話のテーマは「半田市民マラソンからひろがった私の活動」杉江さんには昨年の早くからラブコールを送っていたのだが、脳性小児まひの二次障害により腰椎の手術を受けたため、体調が戻るまで待ってほしいと言われていたのである。今年に入って完全ではないが、もう大丈夫だというのでお越し願ったわけである。

杉江徳長さんは、1963年に半田市で生まれた。生まれて三ヶ月が経った頃、40度の高熱が3日間も続き、生死の境をさまよった。翌年の冬に脳性小児まひと診断され、母子入園を経て小学校二年生の時、名古屋市西区にあった第一青い鳥学園に入園する。学校は小学校一年生は自宅での訪問教育を受け、二年生から青い鳥学園に隣接する名古屋養護学校に通っていた。

中一の時、もうこれ以上の機能回復は難しいと判断され、青い鳥学園から養護学校の寄宿舎に移ることになった。しかし、青い鳥学園はともかく養護学校の寄宿舎は炊事と配膳を除いて身の回りのことは自分でできないと入れなかったのだが、寮母さんや舎監の先生方のサポートもあり、学校生活をエンジョイすることができた。

杉江さんが当事者運動、市民活動をはじめるのは、1995年に「半田市民マラソン」への出場がきっかけだった。半田市では毎年11月にマラソン大会を催している。それまでは健常者の出場者ばかりだったのだが、その大会に自分も半田市民として出場したいと思い、担当部局だったスポーツ課に申し出た。慌てたのは行政だろう。前例がなかったからだ。前例がないのなら、作ればよいじゃないか…と思うのだが、それがなかなかできないところが行政というものである。

「危ないから」という理由をつけて一旦は断られたのだが、それで引き下がる杉江さんではない。何度もスポーツ課に足を運び、交渉を続けた。その結果、根負けしたスポーツ課から「ボランティアをつける」「一番後ろから走る」等々の条件つきで出場OKの許可を取り付けたのだ。「粘りの杉江」の本領発揮である。

その後、杉江さんは次から次へと、半田市に前例のないことを突きつけ、ある程度の妥協はしながらも、前例を積み上げてゆく。その傍らで半田市内の工業高校の生徒さんたちと一緒に公民館にスロープをつけたり、半田市内をボランティアの人たちと駆けめぐり、2000軒ものバリアフリー調査をしてマップを作ったり、一昨年には知多新四国八十八カ所めぐりを敢行して、見事に満願成就を果たした。それもこれも半田や知多半島を誰もが安心して生き生きと暮らしてゆけるまちにしたいという、熱い思いがさせることなのであろう。

また、杉江さんは趣味で風景写真を撮っている。それも足で一眼レフを器用に操り、素晴らしい写真を撮る。街中や港などで写真を撮っていると、同好のよしみで見知らぬアマチュアカメラマンのおじさんたちから声をかけられるという。もしカメラを趣味にしてなかったら、おじさんたちは杉江くんと接したい気持ちがあっても、なかなか声がかけられないだろう。それを写真というひとつの趣味を通していとも簡単に話しかけられるようになるのだ。

杉江さんの体調は、まだまだ万全ではない。私も頸椎に爆弾を抱えているので人ごとではないが、お互い健康に留意してなるべく長く活動を続けられるとよいと思っている。