ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.114レポート

2017-05-24 07:57:52 | Weblog
5月は暦の上から行けば〈初夏〉で、薫風という季語が示すように暑くもなく寒くもなく、風も爽やかで体を動かすにはちょうどよい頃合いだ。しかし、そうした一般的なイメージとは異なり、5月というのは思いのほかに雨が多いというデーターがある。雨が降らないまでもどんよりとした日も結構多い。確率的に言えば晴天の日が大半を占めるので、〈風薫る5月〉というような形容がされることになるのだろう。ジネンカフェVOL.114当日の天候は雨、雨の日はチェアウォーカーの参加者が少なくなるのだが、この日は健常者の参加者さんとチェアウォーカーの参加者さんの参加率がよい感じだった。ゲストは、株式会社テイコクの井上満夫氏。井上氏は私(大久保)の友人・知人の中では古い部類に属し、長きに渡ってつきあい、年に1度の拡大版の折には一宮から毎年のように手伝いに来てくれる貴重な人でもある。にも関わらず、これまで一度もジネンカフェに登場したことがなかったのでオファーをかけたところ、快くお引き受け下さった。お話のタイトルは『市民活動への関わり~なぜ関わっているんだろう?』
 
【もともとは土木系】
井上満夫氏は工業系の学生時代に〈土木工学科〉を専攻し、その中の〈交通計画〉を学んでいたそうだ。大学院まで進み、その時の研究テーマが『交通行動分析』。〈土木工学科〉とはいえ、その範囲は土系、水系、地震、橋梁の設計と多岐に渡っており、それらも〈計画〉がなければ物事にかかれないという点では、土木の根幹を成す学問であるともいえようか。しかし、その中において『交通行動分析』というのは、土木の分野なのだけれどそこから外れてゆくような、社会学をやっているような、そんな感じの研究を院生時代にしていたそうだ。

【会社ではどんな仕事をしているのか】
大学を無事に卒業した井上氏は、現在の会社〈株式会社 帝国建設コンサルタント〉に入社することになる。この会社はもともと測量会社で、井上氏が通っていた大学に測量を教えるために会社から講師が招かれていたりするそうで、そういう縁で大学のOBが多い職場だそうだ。測量会社とはいうものの、会社としてはいろいろな分野に関わっており、都市計画のコンサルタントなどもしているのだが、そういう部署には配属されず、GISの構築=地理情報システムの構築に携わっているという。測量の技術を活かして地図づくりを得意としている会社でもあるのだ。

【測量会社が地図を作っているわけ】
地図は、地方自治体の仕事には欠かせないものだ。お役所の仕事にはいろいろな許可事務手続きがあるが、どこからの申請、どこに対しての申請なのかは、地図上で管理していると把握しやすいという。例えばよく店の前などに看板が掲げられていたり、置かれていたりするが、本来は各県に条例があって私有地・共有地(道路)に関わらず申請手続きをして、役所から許可されて初めて掲げられたり、立てられることになっているのだ。しかし、それが周知されてなく、しっかり管理がされてなくて看板が剥がれたり、倒れたりして通行の妨げになる…というようなことが時々あるのだそうだ。そのようなこともあって、許可期間が3年以内となっているが、2年~3年というとよくお役所の担当が交代する時期と重なり、許可事務手続きの更新の時に地図を見て担当者が把握している。最近はいろいろなデーターを地図上に落とし込み、〈私たちの住むまちはこんなふうになっている〉というように、視覚的に「見せる」仕組みも手がけているとか。一番イメージしやすい例が〈カーナビゲーション〉だという。井上氏は、そのシステムづくりをする部署で仕事をしているのだそうだ。三年ほど前に都市計画やマスタープランの策定に携わる部署に異動させてもらったことがあったが、大学卒業からのブランクがあり過ぎて、2年で元の部署に戻ったという。

【ひとにやさしいまちづくりへの関わり】
井上氏の市民活動といえば、〈福祉のまちづくり〉や〈ひとにやさしいまちづくり〉は外せない。井上氏が〈福祉〉に共感を寄せたのは、小学生の頃に24時間テレビで障害をもつ人の姿を見て、感動を覚えたのがそもそものきっかけだった。「障害をもった人たちのために何かしたい」そう思ったという。しかし、その時はそれだけのことだった。大学生になり、交通計画の指導教授から「ひとにやさしいまちづくりネットワーク会議」なるものを教えられ、参加した。その参加者名簿が一宮・犬山などを中心に活動していた「尾張ひとまちネット」に流れたのだ。これが〈ひとにやさしいまちづくり〉に関わるきっかけになる。

【尾張ひとまちネットでの活動】
尾張ひとまちネットは現在その活動を休止しているが、ここでの活動は井上氏にとって衝撃的だったそうだ。学生時代はある特定の分野の専門家ばかりが集まって話をするので専門性は高まるけれど、ネットワーク的には弱い一面がある。画一的な見方しか出来ないというか、自分たちと違う見方をされるとにっちもさっちも行かないところがある。しかし、尾張ひとまちネットの参加者は建築家、理学療法士、作業療法士、障害をもつ方等々「ひとにやさしいまちづくり」に関連する方々が集まって話をされていて、とても刺激を受けたのだ。障害をもつ方と遊びに行ったり、施設見学に行って「視覚障害者の方は、こんな考え方をされるんだなぁ~」と知ったり、バリアフリーの意味を物語の中に落とし込んだ紙芝居をつくり公演をしたり、建築家と理学・作業療法士という専門家集団で、〈リフォームヘルパー制度〉などの制度学習もしていた。最初の頃はいろいろな人たちが代わる代わる入って来てくれ、「こんなことをしてみよう」とか「ここに見学に行こう」とか意見も交わされて、集まる度に結構新鮮だったのだが、段々と会員の方々も忙しくなってゆくと共に活動するメンバーも定着してきて、新鮮さに欠けるようになってしまったという。しかし、この活動を通して「障害をもっていようと、いなかろうと、考えることはそれほど変わりないな」ということが実感出来たことは、井上氏にとって大きかったという。もうひとつは〈土木〉とか〈建築〉はその範囲内でしか物事を考えないところがあるけれど、実際の現場(社会)というのは移動してゆくので連続性があるものだ。その連続性が途切れることは本来ないので、縦割りではなく連なって考えてゆかないと物事はうまく行かないなということを感じたそうだ。

【一宮での活動】
井上氏は尾張一宮で生まれて育った。大学院を卒業して二年目、地元でもなにか活動したいと思っていた時に、一宮で〈ひろば〉を住民参加型で作るワークショップがあった。一宮市の中心、市の名前の由来になっている尾張一ノ宮・真清田神社と本町商店街との間に市有地があり、アスファルトが敷かれ殺風景な場所だったのだが、その殺風景な空間を神社と本町商店街とを繋ぐよい雰囲気のひろばにしたいという趣旨のものだった。その時にコーディネーターを務めていたNPO法人まちの縁側育くみ隊の代表理事・延藤安弘氏(当時は千葉大学の教授)や、後々このひろばを中心に杜の宮市というイベントを企画することになる星野博氏らと出会うことになる。これをきっかけに井上氏の活動は広がってゆくことになるのだ。

【宮前三八市ひろばづくりワークショップで目の当たりにしたこと】
その〈宮前三八市ひろばづくりワークショップ〉が、また大変なワークショップで、真清田神社の周辺の住民、氏子さんたちにとって本町商店街や件のひろばは〈お宮さんの参道〉なのだ。その〈参道〉に手をつけるとは何事だという反発もあり、延藤安弘氏もご苦労されたのだが、延藤氏の「トラブルはエネルギーに変えるんや」という考え方で、トラブルを解消してひとつの方向に向かうと本当に力強い推進力が出てきて、徐々にまとまってゆく…という過程を目の当たりにしたことは貴重な経験だったそうだ。その後、このひろばを使っていろいろなイベントが開催されたりしているので、非常によい空間が出来たのではないかと井上氏は思っている。

【杜の宮市】
住民参加で作ったその宮前三八市ひろばを使用しつつ…という感じで、毎年5月には《杜の宮市》が催される。神社としても開かれた場所でもありたいというような想いもあって(ワークショップで意見をぶつけあったということもあり)、非常によい関係性を築くことが出来ており、「一宮と言えば七夕祭りしかないよね。GWのあたりに何かイベントがあってもよいよね?」という話を出した時に、神社側も非常に協力的で杜の宮市が開かれるようになったのだ。最初は「手作り作家さんのクラフト市」という感じで始まり、今年で17回目を迎えた。初期の頃は真清田神社の境内と、宮前三八市ひろばという限られた空間が会場だったが、徐々に本町商店街の方にも広がって行き、昨年から本町商店街の1丁目から4丁目まで全体に拡大してきたという。一日だけのイベントで公称3万人の参加者数というのは凄い。飲食関係のお店にもブースを出して貰っているのだが、用意した分量を午前中で完売してしまうところも結構あるらしい。遅くても3時とか4時には完売してしまうそうだ。3.11の震災直後にはGWにも自粛ムードの影響で「休みはあるけど、どこにも行かない」人たちがドッと地元のイベント・杜の宮市に詰めかけ、〈地元でもこんな楽しいイベントをやっているんだ〉みたいに思ってくれて、それが現在でも続いているのかなとは推測しているという。

【東日本大震災の被災地を見て】
学生時代に土木を専攻していたこともあり、近い将来東海地方にも南海トラフ地震が襲うともいわれているので、地震の被害の状況や復興の様子を見てゆく必要性を感じ、七夕祭り繋がりで仙台七夕まつりの飾りつけに、一宮で活動をしているメンバーと共に赴いた。8月の仙台の七夕祭りの時に行ったのだが、市街地ではほぼ平常な感じ。街も賑わっていたし、瓦礫の撤去などの工事業者や、復興ボランティアの方々も仙台入りしていたために、七夕祭りは盛大に行われていた。しかし、レンタカーを借りて沿岸部をまわったところ、育くみ隊も支援に入っていた荒浜地区の荒浜小学校跡地や、津波に襲われた海沿いの集落をみてまわったという。震災の時に津波は小学校の二階まで押し寄せ、子どもたちや避難してきた人たちは屋上に上がって難を逃れ、救助を待っていたという。校舎の奥にあった体育館にも当然水が押し寄せ、柱しか残っていない状況だった。次の年2012年に行ったら校庭に瓦礫の山が積まれていた。復興のために撤去された瓦礫置き場として、小学校の校庭が使われていたのだ。2013年には瓦礫がなくなると同時に、体育館も撤去されていたという。現在、荒浜小学校のある地域は居住禁止区域に指定されていてこの小学校の校舎も使われていないものの、これほど大きくて頑丈な建物は荒浜地区ではここ以外にないので、今後の避難所として残されている。この小学校から真っ直ぐ降りてきたところが海で、地元では海水浴場として親しまれていたらしいが、現在では使えない状況になってしまっているという。震災から一年後でも海側の砂浜にはまだ行ける状態ではなく、昨年立派な堤防が出来たのでその上に乗って海を眺めることが出来るようになった。結構波が高く〈荒浜〉という地名の由来って、そういうことなのだなと井上氏は納得したという。現在の海沿いの地域では多重防御といって、先ず海沿いに堤防を築き、また離れた陸側に高い道路を造って、二段階、三段階で波を食い止める工夫が提案され、計画もされているそうだ。

【なだらかな形の堤防にも理由がある】
その堤防の形もなだらかな形にしているのだそうだ。津波の恐ろしさは襲って来る時よりも引いてゆく時の方が力が大きいということがあり、船をつける岸壁のようにすると余計に持って行かれやすくなってしまうので、堤防をなだらかな形にして内地のものを海へあまり持って行かれないようにしているのだという。

【七里ヶ浜町の街路樹】
同じ宮城県の七里ヶ浜町にも被災状況の確認に行き、驚いたことがある。津波によって建物は根こそぎ流され、被災した街並みに街路樹が立ち並んでいた。しかし、この街路樹、本来なら真っ直ぐに立ち並んでいる筈なのだが、津波の力により倒れかけのままで辛うじて立ち並んでいたのだ。自然の力(水の力)の脅威を感じると共に、その力に抗うように倒れかけのまま立っている街路樹の姿に、粘り強い東北の人々の姿を見たように思ったという。この街路樹の他に電柱も立っていたが、震災時には多分全て倒されて流されただろうから、新しく建てられた電柱なのだろう。ライフラインで一番早く復旧するのは地上に設置可能な〈電気〉で、地面に埋める作業が伴う水道やガスは、その後になるらしい。〈携帯〉もどこかに基地アンテナを建てるだけなので早いのだ。荒浜や七里ヶ浜といった沿岸部でももうさすがに基礎だけが残っているところはないのだが、これからも毎年こうした復興状況は見に行きたいと思っているという。

【日本福祉のまちづくり学会】
その他にも井上氏は《日本福祉のまちづくり学会》に関わっている。《学会》というと先生方の集まりで、特定の分野の人たちが集まるというイメージがあるが、ここは開かれた感じで障害者の方々が参加している学会は珍しいとか。障害を持った方も発言してもらって、段々とバリアフリー整備も整ってゆくという、よい循環になってきているかなと井上氏は思っている。著名な先生方も入っているので、バリアフリー法とか力を入れているが、差別解消法との混合も、今後どのようにしてゆくかということも含めながら学会の中で勉強しているところだという。2020年の東京オリンピック・パラリンピックの成功を目指して、バリアフリー整備基準の見直しを行っているところだとか。ハード整備は日本でも進んでいるので問題は少ないと思うけれど、最近は情報技術の進歩が目覚ましく、その基準が追いついていなくて、その《情報保障》の分野に関してまだ弱い部分があり、そこをどうして行くか勉強会を開いたりもしているそうだ。

【今年は愛知県で開催します!】
その《日本福祉のまちづくり学会》は、全国で毎年研究会が催されている。今年(2017年)は東海北陸地域の担当で、8月9日~11日にかけて東海市の日本福祉大学東海キャンパスで開催されるそうだ。9日・10日は学会員に対しての研究報告会となり、11日は一般市民向けの公開講座になっている。午前中は「20周年のふり返り」ということで、現・津島市副市長で、「愛知県人にやさしい街づくり条例」の生みの親・星野弘美氏の講演。午後からは高齢者運転手の事故が多発している現状を受けて、自動車がないと移動が難しい各市町村の現実と、それに代わる交通機関の促進をどうするか等々、話しあいます。ご関心をお持ちの皆様、ぜひご参加下さい。

【大久保的まとめ】
井上満夫氏との出会いは、いまから17年前、本文にも出てきたが、一宮の〈宮前三八市ひろばづくりワークショップ〉の時のことだ。私もそうだったのだが、これが井上氏にとってはじめての住民参加のまちづくりの現場だったらしい。それ以来、尾張ひとまちネットの活動や、いろいろな場面でご一緒してきた。ジネンカフェ絡みでは、毎年拡大版のスタッフとして手伝いに来てくれる貴重な人でもあるのだが、これまで一度もプライベートな話をしたことがなく、飄々としていることも手伝って生活感が感じられないために、どこか怪しげではあった。しかし、それは何も井上氏に限らず、まちづくりをしている人間には怪しげな雰囲気のひとが多く、その怪しさが興味深かったり、魅力的だったりするのではあるが…。今回のお話によって謎の一端が明らかになった。今回の話を聞いて「なるほど…」と納得した。まちづくりの意図が現場に出てみないとよく解らないのと同じで、ひとの行為や行動・活動といったものも、そのひとの話を聞いてみないとわからない。それが解ったところで、そのひとの面白さが半減するわけではない。返って想いを聞いた方がその人や活動に共感しやすくなるのだ。ひとは、誰かの想いに共感・共鳴して動くものであり、その活動が長く続けられているのは、その誰かの想いに共感する人々が多いということなのである。井上氏の益々のご活躍を願いたい。

ジネンカフェVOL.113レポート

2017-05-06 08:32:50 | Weblog
春4月、厳しい冬の寒さに耐え続けた植物が一斉に芽吹く喜びと、様々な彩りが街中にあふれ出す季節。日本の大概の企業や事業所、学校、法人などは4月から新年度が始まるところが多い。ジネンカフェを共に行っているNPO法人くれよんBOXさんも、この月から平成29年度が始まった。しかし、まちの縁側育くみ隊の新年度は5月から。つまり4月は平成28年度の最終月となるわけである。ということで、今月のゲストは年度末に相応しいかどうかは解らないけれど、まちの縁側育くみ隊の前事務局長で、現在はご自分の建築設計事務所を立ち上げている古池弘幸建築設計事務所の古池弘幸氏だ。お話のタイトルは『人の佇まいをまちに落としこんでいきたい−小さな設計事務所の考え』

【最初のターニングポイント】
古池弘幸氏は1981年、生まれも育ちも愛知県の現在35歳。小学校から中学校にかけては極々普通の公立に通っていたそうだ。しかし、中学3年生の時に古池氏にとって最初のターニングポイントが来る。愛知県では5段階評価というものがあり、成績がオール5なら旭が丘などの進学校に行け、オール3をクリア出来ると公立の高校に行ける。それ以下の成績の進学希望者は私立高校を勧められるボーダーラインがある。古池氏の場合、進路指導の教師から工業高校を勧められたという。古池氏も勉強がそれほど好きではなかったので、「工業高校でもいいか」という気持ちで名古屋市の千種区にある愛工大名電の電子科に入学した。愛工大名電と言えば高校球界では有名な高校で、メジャーリーガーのイチローや、現・福岡ソフトバンクホークスの工藤公康監督などを輩出している。電子科というところは、PCを使ってワープロ検定を取ったり、アニメーションを作ったりすることを勉強する学科だそうだが、電気科や機械科と一緒の授業もあり、電気科では電気配線とか電気関係のことを学び、機械科ではアルミの丸い棒を削って四角い棒にするという地味な作業を学んだそうだ。

【健康診断で発覚した色神異常から建築の道へ】
第二のターニングポイントは、名電時代の健康診断だった。高校二年生の健康診断の時に色覚検査もあり、その検査で色神異常(色を判別する機能の障害)が発覚したのだ。工業高校で色神異常が発覚することは致命的で、この障害がと電気関係の仕事には就職出来ないという。それは電気回路の中に色で判断するものがあるためで、それが判断出来ずに間違えて配線したりすると、ケーブルが燃えたりするトラブルが発生するのだ。古池氏の父親が電気工事の仕事をされていたので、電気工事の仕事には何の抵抗もなかったが、どうやらその道は行けないらしいということが発覚したのである。そこでどうしょうかと悩んだ末、なんとなく「建築」を学んでみようと思いたったのだという。

【建築学生の迷い】
建築を学ぶに際して専門学校に行く手もあったが、大学にも建築学科があるのを知り、取りあえず推薦で受験してみようかと思って愛工大と中部大を受けたのだ。その結果、中部大に推薦で入学できた。運良く中部大の建築学部に入学することが出来た古池氏だが、学んでゆくにつれて迷いが出てきたのだという。授業などでよく「建築物をデザインして下さい」と言われて、最初の頃は楽しいので〈こういう形の建物はどうだろう〉といろいろと創ってゆくのだが、途中から〈格好いい建物を創っても何の意味も成さない〉つまり自己満足に過ぎないのではないか? この建物が何の役に立つのだろう? と感じ始めたのが大学二年生の終わりぐらいだったそうだ。

【まちづくりとの出会い】
三年生になると「マンション」とか「オフィス」をデザインする課題が出たが、格好いいデザインを考えても面白くないので、せっかくならひととひとが繋がれる建物を創ろうということで、SOHO-個人で新しく仕事を立ち上げた人たちが横に繋がりあえるようなマンションをデザインしたり、会社内における縦の上下関係の風通しをよくするには? というテーマをそのまま空間に反映させたオフィスビルのデザインを提案したりと、形だけではなく使い方やコンセプト重視の意味のある建築を造りたいと思っていたのだ。そうして悩んでいた大学三年の中盤頃にとある建築設計事務所へインターンシップに行くことになった。そこで後々影響を受けることになる坪井俊和氏と出会った。上司とインターン学生という関係である。そこで坪井氏がまちづくりをしているという話を聴き、何日か後に「こういうイベントがあるから来てみない?」と誘われた。「それじゃ行ってみます」そんな軽いノリで参加したのが一宮だったか名古屋のイベントだったか憶えていないが、それから間もなく私(大久保)とも出会ったのだ。

【まちづくりの世界へ】
同じ大学の二年先輩・渡邊丈紀氏もその建築設計事務所でアルバイトをしながら、坪井氏と同じ団体でまちづくり活動をしていたこともあり、身近なモデルケースを眺めつつも、自分もこうなれるのかな? こういう動き方も面白いなと思われてきたのだそうだ。その建築設計事務所でのインターンは二ヶ月で終了したのだが、その後も大学で建築を学びつつ、坪井氏を筆頭に活動していたまちづくりグループの手伝いをするようになる。

【NPO法人まちの縁側育くみ隊設立パーティー】
その後、そのグループは延藤安弘氏とNPO法人を立ち上げることになった。まちの縁側育くみ隊の誕生である。2003年のことだ。その春5月に橦木館を借り切り、延藤安弘氏の教え子や知人なども全国から招いて盛大に設立パーティーを催すことになった。その手伝いに、古池氏も参加したのである。


【三代目事務局長への就任】
大学を卒業した古池氏は、坪井氏のいた建築設計事務所で1年間アルバイトをしていて、NPOの事務局には週1の割合で手伝いに来ていたのだが、NPOが軌道に乗り始めた3期目か4期目ぐらいに、初代・藤原貴代氏、二代目・渡邊丈紀氏の後を受けて、三代目の事務局長に就任する。その当時は法人の活動としては軌道に乗り始めてはいたのだが、それは初期の頃から関わってくれていた若い人たちが就職したり、個人的な事情からNPOの活動から離れ始めた時期と重なり、それと共に理事さんたちも本業や家庭があるため、一時期のことを想うと事務局に顔を出す回数が減ったり、自主事業よりも委託事業が増えてきた時期でもあった。

【自分の将来像を見失う】
そんな中、組織の中枢にいて古池氏は自分の将来像が全く見えて来ない状態に焦りを感じていた。NPOの理事やスタッフなどは、本業は別で大学の先生だったり、会社の社長や幹部だったりする。しかし、自分は別に大学教授になりたいわけでも、会社の幹部になりたいわけでもない。つまり学生の頃に〈こうなれるのかな?〉〈こういう動き方も面白いな〉と感じていたモデルケースを、古池氏は見失ってしまったわけである。若者は自分だけ。後は社会的に地位のある人たちばかり…。当時の古池氏からみたら、そんな感じだったろうか?

【再度建築の道へ】
この時期を境に、古池氏はまちづくりから遠ざかってゆくことになる。まちの縁側育くみ隊の事務局長を辞め、もう一度〈建築〉に戻ろうと思って、育くみ隊の理事で建築設計事務所を経営している森登氏の事務所で居候をさせてもらいながら、再度建築を勉強することにしたのだ。毎日通っていたのは森氏の事務所の方で、まちの縁側MOMOには時々顔を出す程度であった。この時古池氏は26歳であったという。

【お姉さんの家を建てる】
古池氏には三歳年上のお姉さんがいる。そのお姉さんがご結婚をされ、子どもさんが生まれるので家を建てたいと言うので、建築を学んでいる弟としては、一肌脱ぐことにした。二級建築士の資格を取得し、これが初めて自分の名前で設計して建てた物件であった。

【そして独立へ】
建築設計事務所というところは、継ぎ目なく仕事があるわけではない。仕事が入る時には立て続けに入ることもあれば、入らない時もある。水ものなのだ。森氏の事務所の仕事も一段落したので、別の建築設計事務所に行くことになり、そこで勉強を重ねて一級建築士の資格も取得し、32歳の時に仕事があったわけではなく、見切り発車的に独立したのだった。

【ニューショップ浜松】
浜松市に興味深いビルがある。そのビルは地元の不動産屋さんがひとつのビルを買って改修し、志がある若者に貸して、設計事務所であったり、ギャラリーであったり、カフェであったり、本屋であったりといっぱい出店しているところなのだが、そこで行われた写真家の作品展を観に行く機会があったという。そのビルの一階に『ニューショップ浜松』というところがあった。そこは何をしている店なのかといえば、〈まちのデパートメント〉というコンセプトで、出店したい人(革細工とか、クラフト製品など)に貸して、いわば〈チャレンジショップ〉のようなことをしている店だったのだ。古池氏はそこに魅力を感じて、自分も何か出店したいと思った。しかし、設計事務所には何も売るものがない。その『ニューショップ浜松』の店長と話をする中で、「何か持って帰れるものがいいですよ」と言われ、考えた末に空想上の家の間取りに、その家にはこんなイメージで住んでみたら面白いのではないですか? という提案を小冊子にしたのだそうだ。いままで〈まちづくり〉と〈建築〉をやってきたということもあり、まちに関わるものでもよいかなと思っていたのだ。一年間出店して50部ぐらい持って行ってもらったという。家の模型も作って展示しておいていたこともあり、近くの子どもが通ってきて、模型の家の屋根を開けて遊んでいたそうで、一年間の展示期間を終える時にその模型は、その子どもに持って行ってもらったそうだ。実質的には宣伝効果的にはゼロだったが、それはそれで自分の営業ツールが出来たのでよかったと思っているという。

【フリーペーパーは面白い!】
そんな経験を通して、古池氏は〈フリーペーパー〉の面白さに目覚めてゆく。一昨年に長野県の上田市でフリーペーパーを発行している人たちが集まるトークイベントがあり、一時期はブームになっていたフリーペーパーだが、最近はあまり流行っていないらしい。それでも発行している人も結構いて、例えば山梨県出身の人は、山梨に住みながら街々をまわっては山梨の魅力を伝える冊子を作っていろいろなところに置いてもらうようにしているのだ。山梨の魅力を発信するツールであり、結果的にこういうものを作れますよという自分の営業ツールにもなったことで、仕事の依頼が入るようになったという。その小冊子は何万部と印刷をされていて、印刷費が30万~40万円ぐらい掛かってる。個人で発行されていて、どこからも資金の提供を受けていないそうだ。

【まちと暮らしをほんの少し…考える ROOF】
古池氏は、自分もそういう冊子を作れればよいなあ~と思った。発信するものは設計事務所なので、ネット上にあげて「自分のところのウリはこうですよ」と知ってもらうよりも、ピンポイントでちょっと興味を持って取った方にクッと伝えるメディアの方が向いているのではないかという感覚もあり、作ってみたいなと思って『まちと暮らしをほんの少し…考える ROOF』というタイトルの一冊を作ってみたという。その中身は古池氏の考える空想の間取りに、空想の物語を描いて、〈こういう住まい方はどうですか?〉という提案であり、要するに家を媒体にして人とまちとが繋がる出来事を物語の形にまとめたものなのだ。
その小冊子は24ページ物で、200部刷って4万円ぐらいだったそうだ。

【採算が取れなくても、二冊目を作ります】
フリーペーパーが廃れて行った背景には、大半のフリーペーパーは全く採算が取れないし、そうなると続けてゆくことも難しいからだと思われる。名古屋の千種に『シマウマ書房』という古本屋さんがあるが、そこの店長さんも「一時期はたくさん出ていたけれど、いまはそんなにない」と話していたという。それならそれで逆に注目されやすいし、珍しがってくれるのではないかと古池氏は思って置いていただいているそうだ。いまのところは何の反響もなく仕事に繋がったこともないが、感想を下さる方はチラホラといらっしゃるとか。いま二号目を作っている最中だそうだ。一冊目を置いて下さったところにまた二冊目も置いてもらって、そうして関係性を作ってゆくことで、仕事に繋げてゆけたらいいなと思っているという。

【古池氏の考えるまちづくり】
基本的に〈まちづくり〉というものに興味を持っているひとは少なく、どちらかと言えば〈公共〉というイメージが強く、それだけで興味をそいでもいけないので、そういう切り口ではなくて「こういう住まい方をしていたら」それって〈まちづくり〉だよというアプローチの仕方。物語の中には、直接〈まちづくり〉という言葉は出て来ない。「こんな住まい方もたのしいですよ」という提案をさせてもらう形。欲を言えばそこにピンと来て下さる方がいれば、古池氏としては嬉しいという。古池氏の考える〈まちづくり〉とは、例えば住宅街があって〈お隣の猫がよくうちの庭に来るんだけど…。うちの庭を通り道にしているようなんだけど…〉みたいな現状があるとしたら、お隣との境のブロック塀をちょっと低くしてあげるとか、一部を削って通りやすくしてあげる…。それでお隣の猫がウロウロしていて、家の中からでも猫が見られて幸せ…みたいな感じ。それだけでも〈まちづくり〉にならないかなと思っている。そう言った小さなことを物語に詰め込んで発信して行きたいという。

【街の中に人影や動きを】
猫に限ったことではなく、住宅街というのはどこでも殺風景で日中は人通りも少ないから、桜は手入れが大変だから考えものだけれど、比較的手入れが簡単で花の咲く木を植えて散歩のコースに使ってもらえるかなと思ったり、そうすればちょっとは人通りが増えるかなとか。街灯が少ない住宅街であれば、遮光カーテンで家の中の光が漏れないように覆ってしまうのではなく、光の透けるカーテンをしておいてくれたら外まで明るくなるので、多少人影もみえて何となく動きも見える。だからなに? と言われてしまえばそれまでなのだが、少しでも人影とか動きを、車のほかに街に出したいのだと、古池氏はいう。

【大久保的まとめ】
古池氏の記憶によれば、古池氏と私との出会いは14年ぐらい前に遡る。場所はおそらく橦木館か金城学院高校だったと思う。当時の私はもう電動車いすを使っていたらしく、古池氏にとって私との出会いは衝撃的だったという。それまでの人生の中でチェアウォーカーに出会ったのはそれが初めてだったし、なによりも言語障害のために言葉がよく聞き取れなかったからだ。私は私で彼が坪井氏の知りあいだとは聞いていたが、まさかインターン生で坪井氏の下で研修をしている人だとは知らずにいろいろと話しかけていた憶えがある。その後、NPOの事務局長となった彼と一緒に仕事をしたり、HPづくりを手伝ってもらったり、ジネンカフェの立ち上げの時に関わってもらったり…。いろいろと関わりは浅からぬものはある。夜のミーティング終了後、よく事務局近くのラーメン屋に夜食を食べに行ったものだ。そんな古池氏がNPOを卒業し、知りあいの設計事務所で建築を学び直しながら建築士の資格を取得し、お姉さんの家を建てたり、独立して自分の名前を冠した建築設計事務所を構えた。古池氏がフリーペーパーを発行する際、依頼されて文章の添削をさせてもらった。古池氏は学生時代から私たちとまち育て活動を共にして、それを建築に活かそうとされている。閑散としたまちの中に、ひとの存在を感じさせる家。ひとと、そのひとの暮らしと、まちとを繋ぐ建築。そういう建築を指向し、広めようとされている。それが古池氏流のまちづくりの形なのだろう。古池氏の健闘を祈りたい。