私への質疑応答が終わると、続いてこの日のメイン、まちの縁側育くみ隊の代表・延藤安弘氏による『世界の縁側めぐり』幻燈講演会が始まった。延藤安弘氏のことをご存じの方もおられるかと思うが、ご存じない方のためにここで少し紹介しておこう。
延藤 安弘(えんどう やすひろ)氏は、1940年、レンゲ畑ひろがる大阪に生まれる。幼いころから絵本好き。北海道大学工学部建築工学科卒業、京都大学大学院建築学専攻(修士課程)修了。熊本大学教授、千葉大学教授、愛知産業大学教授、国立台湾大学客員教授等を経て、現在、NPO法人まちの縁側育くみ隊代表理事。京都のコーポラティブ住宅ユーコート、熊本のもやい住宅Mポート、神戸の真野地区まち育て、世田谷のまち育て、千葉・高知・長野・北海道・中部圏等、全国各地の住民主体のまち育てにかかわってきており、まちの縁側活動が各地で育ってきている。現在名古屋都心錦二丁目長者町地区で、「まちの会所」世話人代表として、コミュニティデザインにかかわっている。『まち再生の術語集』(岩波書店)『こんなまちに住みたいナ-絵本が育む暮らし・まちづくりの発想』(晶文社)等著書多数。
延藤氏の講演は自らが関わられたまちづくりの事例や絵本を使い、スライドと〈延藤節〉と呼ばれる独特の語りで紹介してゆくスタイルだ。わかりやすい手法で、人々の心の中に灯火をひとつひとつ点してゆくように、自分の住み暮らすまちとひとに対する愛着を呼び覚まさせ、人々をまち育て活動へと誘ってゆくのである。今回の幻燈会は、題して「生命の欠如を満たすあたたかい居場所づくりー世界の「まちの縁側めぐり」―」
延藤氏は「世界の縁側めぐり」に入る前に、先ずは詩人の吉野弘さんの【生命は】という詩の一節を引用し、「まちの縁側とは何なのか?」のレクチャーを始めた。
生命は
それ自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花もめしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
そう、花がそうであるように私たちもひとりで生まれてきたわけでは
、ひとりで生きているわけでもない。またひとりで育つこともできない。花が育つには太陽の光や慈雨や虫や獣や鳥たちが落として行ってくれる養分が必要なように、そこには数え切れないほどの他者との出会いや、関わりあいがある。出会い、関わりあった他者が多ければ多いほど、ひとは心豊かに育ってゆけるものなのだ。それと同じで地域を育み、豊かなものにしてゆくにはヒト・モノ・コトのゆるやかなつながりが大切で、そのつながりを通して私たちひとりひとりの生命の欠如を、ふかふかとしたあたたかさで満たしてくれる居場所のことを「まちの縁側」と呼ぶのである。
【何のためのまちの縁側なのかー絵本『私たちのてんごくバス』】
延藤氏は続いてイギリスはボブ・グレアム作の絵本『私たちのてんごくバス』の世界に分け入って行った。それはこんな物語だ。
あるまちの通りの真ん中にバスが棄てられていました。このおんぼろバス、なぜか〈天国行き〉と書かれてあります。いままでバラバラだった人々も、それを見つけてバスの周りに集まってきました。主人公の女の子・ステラも大喜びでバスの中に入り、月明かりの下に照らし出されゴミ溜めのような車内を眺めながら「このバスはもしかして私たちのものになるかも?」と呟きます。それを聞いた人々は駆け寄り「えっ、誰のものだって?」と興奮気味に聞き返します。ステラは、決心したように宣言しました。「そうよ! これは私たちのものよ!」
人々と共にバスを家の前に運んで行ったステラだったが、家の敷地からはみ出しているのを仕事から帰ってきたお父さんから「これは道路交通法違反だぞ」と窘められます。しかし、ステラは「それは大人の考え方だわ。私は私のやり方でやるんだから…」と言い返します。
子どもの発想は大人の硬直した常識を越えて状況を切り開く力を孕んでいる。
翌日子どもたちは一日中バスの周りで遊び、でんでん虫はバスのボディーに白い道を作り、つぶれたエンジンルームにはツバメが巣を作っていました。真夜中になると暴力的な落書きをして社会的環境問題を起こしているバンダリズムの若者たちがやって来て、早速バスに落書きを始めます。そんな若者たちを見つけたステラのお母さんは〈落書き〉という行為自体を咎めず、逆に「あんたたち絵が上手いなあ~。でも今日はもう夜も遅いから、明日の朝おいで」と誘いました。
ステラの下書きでその落書きは綺麗な絵になりました。社会問題を招く悪い若者を叱り飛ばすのではなく、あらゆる子ども、おらゆる人間には表現する力、生きる力があるのだという、いわば集約的正義の考え方に基づいて地域の人々の間をつないでゆく縁側発想。やがて大人たちもみんなが好きなものを持ち寄り、集まってくるようになりました。お年寄りは柔らかいものが好きで触りたいだろうからと犬を連れて来る人。壊れたサッカーゲームを持ってくる子、棄てられているものでも、そこに地域の宝を持ってゆけば〈まちの縁側〉になる!
ケンカをする子どももいる。デートをする若者もいる。お年寄りはやはり犬のお腹をさすりに来る。幻燈会をやりに来るおじさんもいる。日曜日の朝にはインド人がバスの屋根に上ってシタールを弾き、アラブ人はBBQを楽しみに来ていた。そこには、世界中の文化が響きあっているのです。
するとそこに、うなりをあげてレッカー車がやってきました。レッカー車から降りてきた産業廃棄物処理場の所長・ジョンは、何事が起きたのかとジョンの周りに集まってきたステラたちに通告します。「おい、このバスおまえの家の敷地からはみ出しているじゃないか! 道路交通法違反だから運んでゆくぞ。運んで行って、産業廃棄物として処分しなきゃならん」と。もちろんステラも黙ってはいません。「このバスは私たちのまちの縁側なんだから、そんなこと言わんといて」。しかし、「おまえたち、法律が読めんのか? 違法車は処理場でぺちゃんこに潰してしまうんだ」とジョンは聞く耳を持ちません。いまにもレッカー車で〈天国行きバス〉を運んで行こうとしています。
怒りにワナワナと震えるステラの頬は、真っ赤に染まりました。しかし、ステえラは怒りの感情をどうにか鎮めると、冷静になってこう言いました。「おじさん、私とサッカーゲームしませんか? おじさんに壊れてない方のサイドにしてあげる。私がゴールキーパーの壊れているサイドにするから…。その代わり私が勝ったら、このバスは私のものよ」ジョンは珍しいものを見るように目をすぼめながら、ステラにこう言います。「おまえ、どうしてそんなに俺と勝負がしたいんだ。俺も暇ではないんだぞ」ステラは言います。「あのバスの壊れたエンジンルームにツバメが巣を作っているから…」
いざ、勝負!
そして勝負を決したのは、すべてゴールを決めたステラでした。負けたジョンはバスに駆け寄り、エンジンルームを覗いてみると、ツバメの子がタマゴから孵ったところでした。ジョンはステラに言います。「わかったよ。おまえの言うとおりにしてやる」そう告げてバスをそこに置いたまま、レッカー車と共に去って行ったのでした。ステラはもちろん、周りの子どもも大人も快哉を叫び、今度は〈天国行きのバス〉をステラの家の裏庭に運んだのでした。家々の周りを隔てるように取り囲んでいた塀を取り除き、広場をつくりました。
そうしてその中心に〈天国行きバス〉を置いてお祭りのように歓待したのでした。夜露を孕んだ草むらにはでんでん虫がゆったりと散歩を楽しんでいます。ステラはふとときめきを覚えました。「あの雀の子ら、そのうちに空を飛んで行くわね!」
物語は、ここで閉じられる。地域の棄てられているところに、みんなで宝物を持ち寄るとそこか〈まちの縁側〉になる。しかし、そこに行き着く過程は子どもの発想に学ばなければいけない。そして闘わなければ、〈まちの縁側〉は出来ない…。そんなメッセージがこの『私たちのてんごくバス』の中に込められているかのようだ。
延藤 安弘(えんどう やすひろ)氏は、1940年、レンゲ畑ひろがる大阪に生まれる。幼いころから絵本好き。北海道大学工学部建築工学科卒業、京都大学大学院建築学専攻(修士課程)修了。熊本大学教授、千葉大学教授、愛知産業大学教授、国立台湾大学客員教授等を経て、現在、NPO法人まちの縁側育くみ隊代表理事。京都のコーポラティブ住宅ユーコート、熊本のもやい住宅Mポート、神戸の真野地区まち育て、世田谷のまち育て、千葉・高知・長野・北海道・中部圏等、全国各地の住民主体のまち育てにかかわってきており、まちの縁側活動が各地で育ってきている。現在名古屋都心錦二丁目長者町地区で、「まちの会所」世話人代表として、コミュニティデザインにかかわっている。『まち再生の術語集』(岩波書店)『こんなまちに住みたいナ-絵本が育む暮らし・まちづくりの発想』(晶文社)等著書多数。
延藤氏の講演は自らが関わられたまちづくりの事例や絵本を使い、スライドと〈延藤節〉と呼ばれる独特の語りで紹介してゆくスタイルだ。わかりやすい手法で、人々の心の中に灯火をひとつひとつ点してゆくように、自分の住み暮らすまちとひとに対する愛着を呼び覚まさせ、人々をまち育て活動へと誘ってゆくのである。今回の幻燈会は、題して「生命の欠如を満たすあたたかい居場所づくりー世界の「まちの縁側めぐり」―」
延藤氏は「世界の縁側めぐり」に入る前に、先ずは詩人の吉野弘さんの【生命は】という詩の一節を引用し、「まちの縁側とは何なのか?」のレクチャーを始めた。
生命は
それ自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花もめしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
そう、花がそうであるように私たちもひとりで生まれてきたわけでは
、ひとりで生きているわけでもない。またひとりで育つこともできない。花が育つには太陽の光や慈雨や虫や獣や鳥たちが落として行ってくれる養分が必要なように、そこには数え切れないほどの他者との出会いや、関わりあいがある。出会い、関わりあった他者が多ければ多いほど、ひとは心豊かに育ってゆけるものなのだ。それと同じで地域を育み、豊かなものにしてゆくにはヒト・モノ・コトのゆるやかなつながりが大切で、そのつながりを通して私たちひとりひとりの生命の欠如を、ふかふかとしたあたたかさで満たしてくれる居場所のことを「まちの縁側」と呼ぶのである。
【何のためのまちの縁側なのかー絵本『私たちのてんごくバス』】
延藤氏は続いてイギリスはボブ・グレアム作の絵本『私たちのてんごくバス』の世界に分け入って行った。それはこんな物語だ。
あるまちの通りの真ん中にバスが棄てられていました。このおんぼろバス、なぜか〈天国行き〉と書かれてあります。いままでバラバラだった人々も、それを見つけてバスの周りに集まってきました。主人公の女の子・ステラも大喜びでバスの中に入り、月明かりの下に照らし出されゴミ溜めのような車内を眺めながら「このバスはもしかして私たちのものになるかも?」と呟きます。それを聞いた人々は駆け寄り「えっ、誰のものだって?」と興奮気味に聞き返します。ステラは、決心したように宣言しました。「そうよ! これは私たちのものよ!」
人々と共にバスを家の前に運んで行ったステラだったが、家の敷地からはみ出しているのを仕事から帰ってきたお父さんから「これは道路交通法違反だぞ」と窘められます。しかし、ステラは「それは大人の考え方だわ。私は私のやり方でやるんだから…」と言い返します。
子どもの発想は大人の硬直した常識を越えて状況を切り開く力を孕んでいる。
翌日子どもたちは一日中バスの周りで遊び、でんでん虫はバスのボディーに白い道を作り、つぶれたエンジンルームにはツバメが巣を作っていました。真夜中になると暴力的な落書きをして社会的環境問題を起こしているバンダリズムの若者たちがやって来て、早速バスに落書きを始めます。そんな若者たちを見つけたステラのお母さんは〈落書き〉という行為自体を咎めず、逆に「あんたたち絵が上手いなあ~。でも今日はもう夜も遅いから、明日の朝おいで」と誘いました。
ステラの下書きでその落書きは綺麗な絵になりました。社会問題を招く悪い若者を叱り飛ばすのではなく、あらゆる子ども、おらゆる人間には表現する力、生きる力があるのだという、いわば集約的正義の考え方に基づいて地域の人々の間をつないでゆく縁側発想。やがて大人たちもみんなが好きなものを持ち寄り、集まってくるようになりました。お年寄りは柔らかいものが好きで触りたいだろうからと犬を連れて来る人。壊れたサッカーゲームを持ってくる子、棄てられているものでも、そこに地域の宝を持ってゆけば〈まちの縁側〉になる!
ケンカをする子どももいる。デートをする若者もいる。お年寄りはやはり犬のお腹をさすりに来る。幻燈会をやりに来るおじさんもいる。日曜日の朝にはインド人がバスの屋根に上ってシタールを弾き、アラブ人はBBQを楽しみに来ていた。そこには、世界中の文化が響きあっているのです。
するとそこに、うなりをあげてレッカー車がやってきました。レッカー車から降りてきた産業廃棄物処理場の所長・ジョンは、何事が起きたのかとジョンの周りに集まってきたステラたちに通告します。「おい、このバスおまえの家の敷地からはみ出しているじゃないか! 道路交通法違反だから運んでゆくぞ。運んで行って、産業廃棄物として処分しなきゃならん」と。もちろんステラも黙ってはいません。「このバスは私たちのまちの縁側なんだから、そんなこと言わんといて」。しかし、「おまえたち、法律が読めんのか? 違法車は処理場でぺちゃんこに潰してしまうんだ」とジョンは聞く耳を持ちません。いまにもレッカー車で〈天国行きバス〉を運んで行こうとしています。
怒りにワナワナと震えるステラの頬は、真っ赤に染まりました。しかし、ステえラは怒りの感情をどうにか鎮めると、冷静になってこう言いました。「おじさん、私とサッカーゲームしませんか? おじさんに壊れてない方のサイドにしてあげる。私がゴールキーパーの壊れているサイドにするから…。その代わり私が勝ったら、このバスは私のものよ」ジョンは珍しいものを見るように目をすぼめながら、ステラにこう言います。「おまえ、どうしてそんなに俺と勝負がしたいんだ。俺も暇ではないんだぞ」ステラは言います。「あのバスの壊れたエンジンルームにツバメが巣を作っているから…」
いざ、勝負!
そして勝負を決したのは、すべてゴールを決めたステラでした。負けたジョンはバスに駆け寄り、エンジンルームを覗いてみると、ツバメの子がタマゴから孵ったところでした。ジョンはステラに言います。「わかったよ。おまえの言うとおりにしてやる」そう告げてバスをそこに置いたまま、レッカー車と共に去って行ったのでした。ステラはもちろん、周りの子どもも大人も快哉を叫び、今度は〈天国行きのバス〉をステラの家の裏庭に運んだのでした。家々の周りを隔てるように取り囲んでいた塀を取り除き、広場をつくりました。
そうしてその中心に〈天国行きバス〉を置いてお祭りのように歓待したのでした。夜露を孕んだ草むらにはでんでん虫がゆったりと散歩を楽しんでいます。ステラはふとときめきを覚えました。「あの雀の子ら、そのうちに空を飛んで行くわね!」
物語は、ここで閉じられる。地域の棄てられているところに、みんなで宝物を持ち寄るとそこか〈まちの縁側〉になる。しかし、そこに行き着く過程は子どもの発想に学ばなければいけない。そして闘わなければ、〈まちの縁側〉は出来ない…。そんなメッセージがこの『私たちのてんごくバス』の中に込められているかのようだ。