ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.103のご案内

2016-04-25 19:00:55 | Weblog
ジネンカフェVOL.103
日時:5月14日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:丹下 靖(社会福祉法人あさみどりの会)
タイトル:とりとめもなく語ります、うた、ボランティア、就労・生活支援…。
参加費:500円(お茶代別途)
ゲストプロフィール:
1962(s37)神奈川県横浜市生まれ、小学生で名古屋に来てから引っ越すこと10回以上、現在北名古屋市在住。
高校時代に障がいのある子どもたち、障がいのある方たちの書いた詩(歌)に出会いボランティア活動をはじめたことが「福祉」や障がいのある人と関わりの始まりです。その後、わたぼうしコンサート、大阪・応援センターなどの活動を経て、大学時代はアルバイト、地域の療育活動、福祉コンサート「なないろコンサート」をはじめとして全国各地でのボランティア活動に精を出してきました。
仕事は名古屋手をつなぐ親の会「ちくさ小規模作業所」(現在の若水授産所)、師勝町社会福祉協議会「師勝町心身障害者小規模作業所(現在のセルプしかつ)」、愛光園「知多地域障害者就業・生活支援センター」の立ち上げと運営と地域における就労支援の分野で仕事をしてきました。自分勝手定年をした現在、あさみどりの会法人本部の共同生活援助事業所総合管理責任者として仕事をさせていただいています。
若いころから「パンツを選んでいますか」「(障がいのある人にも)交通事故に合う権利を」とみなさんに話す機会があると言わせていただいています。

コメント:
うた、ボランティア、就労・生活支援の話をごちゃまぜに-さてさて…何の話をしましょうか?-


ジネンカフェVOL.102レポート

2016-04-19 20:08:29 | Weblog
春4月、これをまとめている現在は、名古屋の桜もあらかた散ってしまい、葉桜になっているが、VOL.102を行った4/2、くれよんBOXさんのお庭の桜は、まだ八分咲き程度であった。今回のゲストは、日本福祉大学非公式サークルきょうだい会のメンバー4名。兄弟姉妹に障がいのあるきょうだいをもつ学生さんたちだ。日本福祉大学にはもうひとつ大きなきょうだい会があるが、そちらとは別にひとりの学生さんが同学年の学生さんに声をかけ、同好会のような形で発足したらしい。現在7名で活動している。主な活動としては、週一度に集まり、お互いのきょうだいについてのことを話し合う機会を作ることや、障がいについての理解を深めてほしいという願いから、啓発活動の一環としてチラシの作成・配布、時には、ゲスト講師を呼び、勉強会を行っているそうだ。お話下さる4名のメンバーさんそれぞれにタイトルはついているのだが、全体のテーマは『きょうだいの気持ち』である。

【私がきょうだいであったからーUくんの場合】
一見「?」マークが点灯しそうなタイトルだが、きょうだいであったからこそ起こり得ることを伝えたい。「障害」というものは、それをもった者にしか解らない。これはきょうだいといえども同じことだが、そこからどんな影響を受けて生きてきたのか。自分の視点だけだが、話したいとの想いでこのようなタイトルをつけたという。

Uくんは三人きょうだいの長男で、お姉さんと妹さんがいる。三歳離れているお姉さんがダウン症だ。三歳離れているため、Uくんが中学に入学したのと同時にお姉さんが卒業していたので、お姉さんがどんな中学校生活を送っていたのか、Uくんには解らない。お姉さんは中学卒業後、養護学校(特別支援学校)の高等部に通い、その後生活介護事業所の運営する作業施設でクッキーを焼いたり、内職のようなことをして働いているそうだ。お姉さんは小学校低学年まで普通学校で同学年のクラスメイトたちと同じ教室に通っていたが、高学年になると特別支援学級のある学校に転校することになった。Uくんがお母さんからお姉さんの障害のことを聞かされたのは、その頃だったという。以前から薄々感じていたことだったが、そうして言葉としてお母さんから聞かされるとやはりショックだった。中学校に入ったお姉さんが通学する姿を見て、ますます他の人との違いが目につくようになったという。

大学に入ったUくんは、いろいろと振り返る機会があり、障がいをもっているお姉さんから自分が受けた影響を考えた。先ずは自分は「いい子」でいなければいけないと思っていた。親に迷惑をかけないように自分の意思を殺して、きょうだいのお世話をする。また進路など自分の将来の選択を迫られた時、福祉関係を選びがちである…ということを文献や、ほかのきょうだいの話の中で解ってきた。これは将来自分がきょうだいのお世話をして行かなければいけないという気持ちの表れであると感じたという。「福祉の道を選んだ理由」を訊かれると、「身近に障がいのある人がいて、昔から興味があった」と答える人が多いのかと思うとか。Uくん自身がそうだった。

Uくんが大学二年生になった時、お姉さんに対する接し方が以前と違ったものになっていることを感じたという。お姉さんを一層〈障がいをもったひと〉として認識するようになった。障害のことを学ぶことにより、お姉さんの可能性を潰してしまっていたのではないかという思いが湧いてきて、お姉さんのために福祉を学ぼうと入った大学が嫌になった。しかし、考え方を変えて「これからは自分のために福祉を学ぼう」と思った時、自分の肩の荷がふと軽くなった気がして、現在では福祉を学ぶことが楽しくなったそうだ。

振り返ってみれば、お姉さんが障がい者でも嫌なことばかりだったわけではない。むしろよかったと思うことの方が多いという。そのひとつとして福祉大に来て、同じ境遇のきょうだいの方たちと出会うことが出来たこと。きょうだい会の存在を知り、自分だけがこんな想いを抱えているのではないということが解り、とても安心した。また、きょうだい会
の人たちと話すことは、自分にとって何か特別なものだと感じたという。自分の話を共感して聞いてくれる仲間がいるということは、これほど大切なことなのだと改めて気づかされた。もう一つは、〈障害〉について一層興味が湧いてきたという。自分のためにと思い学んでいると自然と楽しくなってくるもので、いまではゼミも障害の分野を選び、学びを深めている。ひとの成長にはそれぞれのプロセスがあるが、障がいのあるきょうだいをもつと共通したものを思い、自分なりの答えを出してプロセスを完成してゆくものなのだなとUくんは感じている。以下はUくんが参考にした文献である。関心のある方はお読みになって下さい。

吉川かおり 発達障害のある子どものきょうだいたちー大人へのステップと支援―生活書院 2008年
白鳥めぐみ、諏方智広、本間尚史  きょうだいー障害のある家族との道のりー 中央法規 2010年
1994年 きょうだいは親になれない…けれど ぶどう社 編者「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」
2010年 重症児のきょうだい ねえ、きいて…私たちの声 かもかわ出版 家森百合子 大島圭介 全国重症心身障害児(者)を守る近畿ブロック

【きょうだいと家族問題―Iさんの場合】
Iさんのきょうだいは、23歳になるお兄さんである。自閉症と知的障害をもっていて、区分はA判定になっている。三歳の頃に障害が発覚し、通っていた保育園から「障がい児を受け持つことは出来ないから」と言われ、別の保育園に移ったそうだ。小学校から高校まで特別支援学校に在籍した。現在では地元の事業団が運営する生活介護施設で日々を過ごしている。趣味は多く、ビデオ・DVD・音楽鑑賞は毎日欠かさずにしていて、レンタルビデオ店にも週に一度の割で通っているそうだ。カラオケも録音したいぐらいにうまいという。ただ、大人数では歌えないので、合唱は苦手だ。そこは自閉症の特性が出ているかなとIさんはみている。ドライブも好きでお母さんに運転してもらい、夜に行っている。行き先はどこでもよいらしく、車窓を流れる景色を眺めることが好きみたいだという。

Iさんの家の家族構成は、祖父母・父母・お兄さん・Iさんの6人家族。Iさんのお母さんは特別支援学校の元教師で、障害についての理解はもともとあった。お兄さんが小学校にあがるまで教師を続けていたそうだが、小学校にあがったお兄さんの介助をするために退職し、現在は主婦をしながら地元の手をつなぐ育成会の役員をされている。お父さんは高校教師で、家にいるお兄さんには話しかけたりしているそうだが、基本的に仕事人間で家にいないことが多いのだそうだ。祖父母はお兄さんが小学生の頃は介助してくれていたが、現在は高齢ということもあって体力的な面でお兄さんの介助をすることが難しい状況にあり、障害の理解も他の家族に比べて少しギャップがある。そのような家族の中、Iさんは大学に通いながらも、お母さんのサポート役としてお兄さんの側にいることが多いそうだ。日本福祉大学で福祉を学びたいと思ったのも、お兄さんのことがあったからだという。

Iさん家族はこれまで相談援助のヘルパーサービスを利用して来なかった。なぜ利用して来なかったかというと、お兄さんの障害である自閉症特有のこだわり行動が強く、例えば「トイレットペーパーを使いすぎる」ことや「歯磨きの際に歯磨き粉を使いすぎ、水を含んで口内を洗浄するときに勢いよく水を吐き出す」ことなどがあり、行為をすること自体は止めずに、やり過ぎない程度に、配慮・注意をしている。また家を勝手に出ることはないものの、最近では一人で勝手に行動することが多く、外出先のスーパー等で自分の用事が済んだらさっさと車に戻ることが多くなり、人が多いイベントではぐれてしまって警察に捜索願を出すこともあった。今ではGPS機能を使うときもあるそうだ。ヘルパーサービスを利用していないということもあり、家族以外で兄のことを頼めるとしたら、母の妹(I
さんの叔母)にしか頼めないという。

現在日常的なお兄さんの介助は気が抜けない状態なので、お兄さんのストレスにならない程度にお母さんかIさんのどちらかが必ず側にいることにしているという。トイレや入浴介助、外出時の付き添いもふたりのうちのどちらかがしている。祖父母の役割としては、非常時(お母さんもIさんもいない時)の介助を出来る範囲でしてくれているという。お兄さんは片言ながら言葉を話して自分の意思を主張出来るので、そこから意図を読み取ってお菓子を与えたり、食事をさせたりしてくれているそうだ。また、お兄さんにとって自分の要求が一番通りやすい人たちだと認識しているらしく、何かをおねだりする時にはすぐ側にお母さんやIさんがいても、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんのところへ頼みに行くとか…。

こうした家族の協力の下、お兄さんの日常は恙なく保たれているわけだが、前述したように家族間におけるお兄さんの障害に対する理解度の差によって家族間の関係悪化が起きてきているという。また祖父母そうだが、両親亡き後の問題も当然考えなければならない。そうなるとお兄さんのことが一気にIさんにのし掛かってくることになる。Iさんは、それを苦ではないと思いたいけれど、将来ひとりで抱え込んで万が一虐待に繋がってしまいそうで怖いというのだ。その解決策として現在考えられるのは、同じ境遇の人たちを見つけてお互いの現状を話しあうことでピア・カウンセリングになるということと、ヘルパーサービスを受けて自分自身が余裕を持つことができるようになるのではないかと考えているが、これだけではまだ不足している部分もあるので、今後の生活環境の変化に伴って考えて行きたいと思っているという。

現在大学4年生になったIさんだが、就職活動を始め、周りの環境も少しづつ変化してゆく中で思っていることがある。大学に通わせてもらい、きょうだい会の仲間とも出会うことが出来た。そこから当事者側の視点と、支援者側の視点を考えることが出来るようになれた。これから起きる問題のことも考えながら、互いに支えあえる関係性を築き、自分が家族にしてもらった分、家族の支えになりたいと考えているという。

【同じ社会で生きたいーOさんの場合】
Oさんの弟さんは現在18歳。この4月から福祉事業所が運営している『流大学』に通うことになった。ダウン症と聴覚障害をもっている。小学生の頃はOさんと同じ小学校の特別支援学級に通っていたが、中学校から特別支援学校に通うようになった。弟さんが特別支援学校に入学した時、Oさんは高校一年生だったが、〈自分とは別の世界に行ってしまった…〉と感じたという。Oさんが感じたその〈別の世界〉とは、障害のある人だけがいる〈福祉〉という世界のことだ。

Oさんにとって弟さんは確かに日本語も話せないし、他の子と比べると出来ないことが多いけれど、それが当たり前で特に障がい者と思ったことはなかった。けれと、突然特別支援学校という障害のある子どもが通う学校に行くようになり、どんどん弟さんが障がい者になって行くように感じたという。そういうこともあり、Oさんは弟さんの特別支援学校の行事に行くことが出来なかった。そうすることによって、弟さんのことをますます障がい者と認識するようになり、出来ないことばかりに目が行くようになって「自分がやってあげなきゃ」とか「将来わたしが介助して行かなきゃ」という意識が芽生えてきたそうだ。

Oさんが日本福祉大学を受験したのも、弟さんを取り戻したい。弟さんと同じ世界で生きて行くにはどうすればよいのかと考えた結果だった。しかし、大学生活や友だちとのやりとりから違和感を感じることがあったという。Oさんは友だちによく自分の弟さんの話をするそうだが、そんな時に友だちは「えっ、ダウン症? かわいいね」とか、「毎日楽しそうじゃん」という反応が返って来るのだとか。それは自分の弟をひとりの人間である前に、障がい者であり、ダウン症だという認識されているのだと感じてとても悔しかったそうだ。また、大学の講義で「福祉のこころ」を学び、どんな人でも自分らしい暮らしが出来るよう、福祉のこころを持って接して行きましょう…みたいなことが云われていたのだが、それにもOさんは〈福祉のこころを持った人しか弟は接してくれないのか?〉と思ったという。弟はいつまでも保護の対象で、何も出来ない障がい者という存在なのだなと悔しかったのだ。

弟さんを取り戻そうと思って大学で福祉を学んできたが、それが負担に感じる時期もあった。その頃インターネットなどでダウン症の方の平均寿命を勝手に調べて、その結果50歳と出た。その時Oさんは平均寿命の短さを嘆くのではなく、ホッとしたのだという。弟が50歳ならば自分は53歳、看取れるかと思ってホッとしたのだという。弟さんを取り戻そうとする気持ちが重くなって、弟さんの存在自体も負担に感じられるようになってきた。そうすると当然弟さんとの関係も悪くなって、家でもケンカばかりするようになったという。

そんな時に大学からスウェーデン研修に行ける機会があり、自分を見つめ直す良いチャンスだと思って参加することにしたのだ。そこでスウェーデンの就労支援について知ることになった。スウェーデンでは国から補助金(日本の障害基礎年金のことか?)は貰え、平均的な水準の生活は送れるけれど、それにプラスして就労も促進している。それというのもスウェーデンでは〈働く〉という意味が〈自己発達の場のリハビリ〉であったり、〈社会的役割〉として位置づけられているからだ。重度の障がい者はリハビリがその人の仕事であり、社会的役割でもあるという捉え方である。Oさんはその考え方に感激し、共感を覚えた。これこそ共生社会だし、自分の弟も取り戻すことが出来ると思ったという。

しかし、実習で日本の就労の現場を見たOさんは、スウェーデンとの施策の違いに愕然とした。日本の大半の障がい者の就労は福祉就労と言われ、障がい者は健常者に比べて能力が低いから、労働時間も短くし、賃金も安くても構わないというあり方で、〈働く〉という意味あいよりも日中看る人がいないから安全安心を図るために集めておこうという〈居場所〉的な意味あいの方が強くて、これでは社会の中で役割もないし、保護の対象のままではないかと感じている。「働く」には「カセギ」「ツトメ」の2つの要素がある(寺島実郎 2013年 『なんのために働くのか』文春新書)のであるから、一般就労や物事などを生産することだけが〈働く〉ということではない。社会をよりよくしていくための活動・運動もその中に入ると思う。障害がある人も社会の中にその人だからこそ出来る役割があり、そうしてお互いの立場から出来ることをして、支えあって行くことが共生社会ではないかと思っている。そう考えると就労支援とは、障害のある人の社会的役割を探し出したり、創り出すことではないかとOさんは考えている。

Oさんは今後、社会と障がいのある人を媒介する〈通訳者〉になりたいと思っているという。現在の福祉は障がい者と健常者を区別して、障がい者が社会から隔離されているように感じるというのだ。障がいがあっても同じ社会で生きて行けるように、社会と障がい者とを媒介する通訳者になりたいと考えていると言い、このような通訳者が増えることによって、障がい者が活躍出来る場や生活範囲が拡がって行くのではないかと考えている。弟さんにしても家族や福祉施設に守られる存在ではない。一緒に寄り添う福祉職員がプロとして通訳者になり、支援することでその能力を引き出すことが出来るのではないかと思っている。そう考えると福祉の仕事は凄いなと思うし、誰にでも出来る仕事ではないとも思うという。

きょうだいの悩みは親にも友だちにも言えないことが多い。Oさん自身も弟さんの将来についてひとりで抱え込んで、その重さに耐えきれなくなって大好きだった弟さんとの関係も悪くなった。環境を変えようと思ってスウェーデンへ研修に行ったり、ひとり暮らしを始めた。そうして弟さんと距離を置くことによって、弟さんの成長もみることが出来たし、きょうだい会でいろいろな人たちと話しをすることでとても救われたという。最近になってやっと自分には自分の人生があり、弟には弟の人生があると解りかけてきたものの、現在就職活動をしている中で一般職に行こうか、福祉職にしようか。一般職にしたとしても地域別にしようか、全国にしようか悩むところがある。その悩みも親には言えないところもあり、弟さんの将来のこともあるし、良い機会だからこの日もお母さんに来てもらおうかと思っていたが、なかなか言い出せず次の機会に来てもらおうかなと思っているそうだ。

これからは弟さんが弟さんらしい生活が送れる環境を整えてゆくことが、きょうだいに出来ることかなと思っているので、距離をまたいい感じで取りながら、そのような支援をして行きたいと、Oさんは思っている。

【きょうだいとしてできることーCさんの場合】
Cさんの弟さんは三人きょうだいの末っ子で、障がいは自閉症である。先日中学校を卒業したばかりの15歳。小学生の頃、はじめのうちは同級生と一緒に授業を受けていたが、授業の理解度により通級(普通クラスに在籍しながら、授業によって特別教室、または別の学校で指導を受ける措置)による指導を受け始め、最終的には特別支援学級ですべての授業を受けるようになった。高学年になってみんなが同じクラスで授業を受けているのに、自分だけ違うクラスで勉強していることに弟さんは疑問を持ち始めた。このときから周囲の人たちと自分は違いがあると気づき始めたようだったという。

Cさん自身は小学生の頃は〈障害〉について解ってなく、弟さんのことも友人に話せていたそうだ。しかし、中学生の時に弟さんのことで同級生から揶揄されることが多々あり、それが嫌で弟さんの話を避けるようになってしまった。弟さんが周囲から理解されない行動を取るのは障害のせいだと思い、障害に対して否定的な感情を持ち始めたのもこの頃だったそうだ。Cさんが高校生だった頃、出生前診断に関するニュースが取り上げられていた時期で、Cさんも友人と「自分が宿した生命が障がい者だったらどうする?」という話をしたことがある。友人はインターネットの某掲示板でみた障がい児とその親のコピペの話をして、絶対に障がい児を生まないと言っていた。そのコピペの内容はとてもひどい内容で、障がい児が身近にいるCさんにとっては、実際とは違うと思ったという。実際に関わった経験もないのに真偽不明の情報からネガティブなイメージを持たれてしまっていることがショックだった。弟さんのことを思い浮かべてよいところもいっぱいあるのに…と思って悲しくもなった。本当は弟さんのことが大好きだったのに、周囲に隠すようにしてしまい、自分はなんてひどいことをしているのだと、このとき思ったという。よいところもたくさん知っているのに、当時は〈弟〉としてではなく、〈障がい〉の部分が大きく見えていたのかも知れないと、Cさんはいう。弟さんのよいところ、思い出を思い浮かべながら、きょうだいの障がいについてその友人に打ち明けた。Cさんが弟さんの障がいのことを友人に話したのは、このときが初めてだったという。

中学校に入学した弟さんは、当初から特別支援学級に通っていたが、通常学級の友人たちと一緒に〈テニス部〉の活動を励んでいたそうだ。三年生になると高校進学を目指して勉強も頑張っていた。普通、特別支援学級の生徒は、通常学級の生徒とテストを受けることはない。しかし、弟さんは「マッサージ師」という自分の将来の夢を叶えるため、高校進学に向けて通常学級の生徒たちとテストを受けたりもしていた。

Cさんは大学に進学したことにより、弟さんとは別の土地で生活することになった。それがきっかけになり、身近にいた弟さんを離れた距離で見ることが出来るようになったという。弟さんが持っていたたくさんの能力や、その変化にも気づかされた。中学校生活で勉強や部活などいつも一生懸命に頑張って生きている弟さんをとても誇りに思っているそうだ。

弟さんはやると決めたことは最後までやりきる努力家だが、高校進学に向けて頑張っている途中で問題が発生した。高校進学をめぐり、両親の意見が対立しているのをCさんは何度も目撃したのである。お父さんは「普通高校に入っても、将来あの子が就職できるのか?」と言えば、お母さんは「あの子の夢を叶えるためには、普通高校に行くのが近道なの」と主張し、「これだけ頑張っているのだから、支援学校ではなく普通高校へ進学させたい。出来る筈だ」とも言っていたという。

Cさんはお母さんの主張を聞きながら、お母さんは弟のことももちろん考えてはいるだろうけれど、普通高校に行かせることに理想もあるのでは…という印象をもったという。お母さんがなぜそんな理想を抱くようになったのか? Cさんは自分なりに分析してみた。Cさん一家の場合、仕事の関係もあり学校と連絡を取るのはお母さんだった。お父さんはCさんたち子どもとはたくさん関わってくれているが、対外的な情報を得ていたのはお母さんだったと思うという。それゆえにお母さんは、息子を一番理解しているのは自分だと思っていたのかも知れない…。また、Cさんの地元では福祉が充実してなく、相談出来る機関もないことも原因にあったのではないかという。頼れるところがないため、お母さんはひとりで悩むことも多かったのではないかと思う。障がいがあっても普通高校に入学したということは、育て方が間違っていなかったという証明のような意味もあったのかも知れないと、Cさんは感じた。

進学先の高校は、弟さんが最終決定をしたそうだ。しかし、それには学校やお母さんからの進めも少なからずあったのではないかと、Cさんは推測している。Cさんは大学に進学してたまにしか弟さんと会えなくなったことから、地元へ帰省する度その成長に驚かされるそうだが、いつも一緒にいるお父さんやお母さんはその変化に気づけないこともあるかという。それにより弟さんの行動を判断するのも親になってしまうところもあるのではないかとも懸念している。弟さんの能力ならできることがあっても、大事にしているからこそ親としては自分たちが代わりにやってしまう。その根底には弟さんの成長を認め切れていない親心もあるのではないかとCさんは分析しているのだ。

しかし、それはCさんの家庭のみならず、ほかの障がい児がいる家でもみられる光景である。Cさんはお話の最後に〈いままでは両親がたくさん悩みながら子育てをしてきた。様々な場面で親が抱え込んでしまうことも多かったかも知れない〉と、両親の置かれた立場や想いを慮り、〈以前は弟さんの障がいに対しネガティブな考えを持っていた〉自分だが、いまではきょうだいだからこそできる関わり方があると思っている。それは親には不可能な自分なりのやり方で、弟さんや両親を支えながら生きてゆききたい…と結ばれた。

【大久保的まとめ】
今回のジネンカフェは、実に画期的で社会的意義のある集いだったのではないかと自負している。『障がいのある子どもの父母のネットワーク愛知』等々の先行事例はあるものの、障がいのある兄弟姉妹をもつきょうだいの気持ちを直接聞く機会はあまりにも乏しい。それは企画する側の問題なのだろうか? それとも発信者(障がい児・者をもつ家族)側の問題なのだろうか? 私はそのどちらの問題でもあるし、また一家族、一個人に帰することのない、社会的な問題であろうとも思っている。今回の企画は以前から温めていたものだが、私自身障がい当事者であるにも関わらず、障がいのある兄弟姉妹をもつきょうだいと出会う機会がなく、たまたま今回ひょんなことから出会った学生さんが〈こんな活動をしているんですよ〉と話してくれたのがきっかけになり、「それじゃ、ジネンカフェという集いできょうだいの気持ちを話してみない?」ということになったのだ。そして今回これもたまたまいろいろな立場の人が参加して下さり、ゲストとしてお話下さった学生さんたちにとっても、自分や家族のことを見直す良い機会になったのではないだろうか。ひとは誰もが自分らしく生きる権利を持っている。それは障がい児・者も、その家族も同等なのだ。家族であるがゆえに、兄弟姉妹であるがゆえに、自分の意思や気持ちを抑えて「いい子」でいなければいけなかったり、両親からの過度な期待を一身に受け、それが障がいのある兄弟姉妹をもった自分の宿命だ…みたいに思い込み、自分らしい生き方が考えられなくなってしまう。福祉サービスの地域格差もあるとは思うし、その家庭にはそれなりの事情があるだろうが、自分の将来のことも大切に考えてもらいたいと思っている。お話下さった4名の学生さんを筆頭に、全国の障がいのある兄弟姉妹をもったきょうだいやそのご家族が、自分らしく生きられるように、それを地域社会が支えてゆける、そんな社会に変革させて行かねばならないと思っている。

ジネンカフェVOL.101レポート

2016-04-03 11:51:37 | Weblog
VOL.101のゲストは、名古屋市社会福祉協議会認知症連携担当の染野徳一さん。染野さんは福岡県のご出身。もともと地元でボーイスカウトの活動をされていて、福祉の仕事に就きたいと思っていたそうだが、染野さんが大学受験をされる頃、九州では福祉を学べる大学が少なく、日本福祉大学を受験して合格した。大学卒業後に地元へ帰ろうかとも考えたのだが、現在も昔も九州は全体的に景気が悪く、そのまま名古屋に残って名古屋市社会福祉協議会に就職した。福祉の仕事といってもいろいろあり、学生時代から福祉施設でのボランティアとか、実習も経験したこともあったが、染野さんは地域の中でみんなが安心し、楽しみながら暮らして行けるお手伝いが出来るといいなという思いから、社会福祉協議会の仕事を選ばれたという。区社協で地域の高齢者の方と仕事をしたり、名古屋市社会福祉協議会ボランティアセンターでは3.11の被災者支援をしたり、現在の認知症のことも地域の人たちと関われる仕事をさせてもらっているので嬉しく思っているという。お話のタイトルは『認知症、いっしょに知って、学んで、考えよう』

【認知症は誤解されている】
テレビの健康番組などでもよく取り上げられている認知症だが、まだまだ世の中に誤解されている点が多いのではないかと、染野さんはいう。先ず一点目は〈認知症って何か特別な病気〉だと思われている点だ。データーでみると全国の高齢者の中で認知症の方が462万人もいて、10年後には700万人になると云われている。それに加えてMCI(軽度認知障害・物忘れがあったり、物事を理解することが難しくなったりして、少し生活に支障がある程度の状態の方)が400万人いるのだ。その400万人を単純に700万人と足してみると1,100万人にもなる。この数字は日本の人口の1割に相当するそうで、そうなって来ると認知症というのは誰か特別な人がなるのではなくて、誰もがなるかも知れないし、誰もが関わりをもつことになるかも知れない症状とも言えるのだ。一人暮らしの高齢者の方もいるが、介護する家族等々を含めると、1,000万人が2,000万人にもなる…。10年後にはそのような状況になると予測されているとか。

【認知症になったからといっても…。】
先頃行われた内閣府の調査による「認知症になったら、地域で住み続けたいか、施設に入所したいか」およそ半々だったらしい。その中でも「認知症になったら地域で生活してゆけない」と考えている人が40%もいるということだ。認知症に対する不安の中でも「いままで自分がしてきたことが出来なくなってしまうのではないか?」と思っている方が半分ほど。それ以上に不安に思っていることが「家族に身体的、精神的な負担をかけるのではないか?」と思っている方が75%もいる。〈自分のこと〉よりも〈他者のこと〉を気にかける方が多いという数字が出ている。日本人らしいといえば言えるのだが、これはあまり好ましい状況ではない。確かに出来ないことが多くなるかも知れないけれど、認知症になったからといってすべて誰かに負担をかけながら生きてゆくわけではない。認知症によって受ける障害は脳の中の一部分、物忘れがあっても周囲の人々が理解してくれて「まあ、良いんじゃない」と思って、自分でもそう思えたり、忘れたことを誰かが「あれ、忘れているんじゃないの?」と教えてくれれば、全然問題なく普通に生活してゆけるのだ。

【認知症になっても地域で生活している人たち】
実際に認知症と診断されながらも、発症前とは多少異なるが、それほど変化はない生活を送っている人たちがいる。テレビ東京の『ガイアの夜明け』とか、NHKのドキュメンタリー番組などにも出演しているトヨタ系のディーラーの丹野さんの場合、39歳で認知症を発症された。現在42歳で中学生と高校生のお子さんがひとりずついらっしゃる。39歳の時に人の顔が憶えにくくなったり、自分がしたことを忘れてしまったりする中で、気づいて受診したら認知症だという診断が下されたのだ。しかし、いつも朗らかに微笑みながら生活されている。現在65歳の中村しげさんは56歳の時に認知症と診断された。公務員をされていたが、ある時、無意識のうちにお店のものを持って行ってしまったという。表面的にみれば万引き行為なので公務員を解雇されそうになったのだが、それは前頭側頭型認知症の症状のせいだということがわかって罪には問われずに復職され、退職をされた。現在は日本全国を趣味のカメラをもって旅をされているそうで、撮った写真を見せながら講演活動で活躍されているという。現在55歳の青山さんは若年性認知症。仕事をされたいという意欲が強い方で、子どもと車に関わる仕事をされたいという希望もあり、認知症の方々が働きに来られるディ・サービスで近くの自動車屋さんの車の洗車をする仕事をされていたり、名古屋市でいうトワイライトみたいに学校の放課後に子どもたちと遊ぶ活動もされているそうだ。

【周囲の人々の理解とサポートがあれば…】
丹野さんの場合、社長さんの顔も忘れてしまうらしい。社長が来て話かげても丹野さんはわからないので、あとで周りの人に「あの人、誰?」と尋ね、周りの人たちも面倒臭がらずに「社長だわ」と教えている。そういうことを繰り返しているので、丹野さんは支障もなく生活していられるのだ。社長さんも丹野さんのことを理解されているので、そのことで咎めることはないそうだ。丹野さんも忘れ物をしないように二冊のノートをつけているとか。日々の記録と、やるべき仕事の手順を書いたものと。それを毎日確認するという作業をしながら仕事をされているのだ。中村さんの場合も全国を旅する時にはパートナーさんがいらっしゃり、その方と一緒に旅をされておられるという。このように例え認知症になったとしても、周りの人たちの理解とサポートがあれば、この方たちのように生き生きと生活してゆけるのだ。

【認知症は物忘れだけではない】
とはいうものの、本人の症状を理解することも必要だけれど、認知症にはいろいろな症状が現れるので〈物忘れ〉だけが認知症の症状ではないということを知っておいてほしいと、染野さんは思っている。認知症の症状として物忘れの他に、見当識障害や失行が特徴として挙げられる。見当識障害というのは、症状の進行に伴い、先ずは〈時間〉の見当がつかなくなり、場所の見当がつかなくなり、症状の進行すると人の顔が解らなくなることをいう。もっと進行すると家族の顔さえ解らなくなってくる。また記憶は新しいものから順に忘れてしまうので、例えば80歳の方が40年分の記憶が曖昧になると、自分は40歳だと思ってしまう。自分は40歳なのに旦那さんが80歳だと、それが自分の旦那さんだと思えないわけだ。しかし、その症状はずっとあるわけでもなく、その時の脳の状態によって出てくるのだ。失行というのは、行為とか行動とかがどうしてよいのか一瞬出て来ず、フリーズしてしまうことをいう。トイレでの用の足し方がわからない、洋服の着方がわからない、ご飯の食べ方がわからない等々がこれにあたる。

【認知症の原因となる疾患―アルツハイマー型】
認知症は必ず原因となる疾患がある。有名なのはアルツハイマー型だけれど、老人斑や神経原繊維変化が海馬を中心に脳の広範囲に出現し、神経細胞を死滅させて行く病気で、海馬を中心に脳の萎縮がみられるという。この疾患が原因の場合は〈物忘れ〉が顕著に出てくる。次に出てくるのが〈物盗られ妄想〉。これはモノがなくなったことを、誰かが盗ったのではないかと思ってしまう症状。これも基本は〈物忘れ〉から始まるという。例えば大事なものを机やタンスの引き出しに入れたとする。でも〈物忘れ〉がある場合、引き出しに入れたことを忘れてしまったら、ここに置いてあったものがなくなってしまったのだから、誰かが盗ったのではないかという発想になる。その時に関係がうまくいってない人が身近にいた場合に、「あの人が盗ったのかも?」という妄想に繋がってゆく。それは誰かが持って行ってしまったという疑惑よりも、自分がここに置いた筈のモノがなくなってしまったという不安の方が強いのだという。それが何回も起こると更に不安な気持ちになり、疑いたくなくても誰かを疑いたくなるのだ。そういう〈物忘れ〉が中心に起こって来るのがアルツハイマー型の認知症の特徴。

【レビー小体型認知症】
レビー小体という特殊なものが出来ることにより、脳の神経細胞が死滅してゆくのがレビー小体型認知症。はっきりした脳の萎縮はみられないが、パーキンソン病などから引き起こることが多く、よって物忘れは目立たない。しかしながら他の人には見えないものが見えたり、自律神経が少し弱くなってくるので一日のうちで気分の波があったり、血糖や血圧が不安定になるので気分が悪くなりやすく、うつ症状も出てくるのがこの型。アルツハイマー型は記憶を司る海馬が障害を受けるのだが、レビー小体型は後頭部の見たものを判断する部分が障害を受けるので幻視などがみえて来るというわけだ。

【三つの点が顔に見える】
ただでさえ人の脳の認識機能はファジーなところがあり、どこかに三つの点があるとそれを人の顔のように見せる錯視を起こさせるが、レビー小体型認知症になるとそれがより顕著に現れて来るのだ。カーテンなどの波打っているところも顔にみえ、そこに人がいると錯覚してしまう。最近は認知症の2割ほどの方がこの型で、増えて来ているという。しかしこれが正しく診断されないままに、アルツハイマー型だと診断されて対応されている方々もいる。レビー小体型認知症の方々は自律神経が弱く、薬に過剰反応を起こしやすくなるため、誤った処方されてしまうと、それによって気分が落ち込み、動けなくなることもある。だから認知症の診断は、専門医のいる病院で正確に受けてもらうことが大事だという。

【血管性認知症】
脳梗塞や脳出血などが原因で、脳の血液循環が悪くなり一部が壊死することから起こって来る認知症。まだら認知症とも呼ばれていて、〈物忘れ〉の他にも手足の麻痺、感情のコントロールがうまくいかないなどが特徴として挙げられる。脳梗塞を発症するごとに状態が進行してゆく。

【認知症の型によってサポートの仕方も異なって来る?】
一概に認知症といってもこういった三つの型があり、それぞれ出現する症状も異なって来る。それを知っておくことは、サポートする上で大切なことだという。例えばレビー小体 型認知症の場合、物忘れはなく、パーキンソン症状が出ていて、歩く時に転倒しやすくなっているなら、気分がよい時の外出の際に歩行をサポートしてあげるとか、関わり方も違って来るので、これもぜひ知っておいてもらいたいと染野さんはいう。

【徘徊という言葉】
3月1日の夜からニュースなどである裁判の判決が報道されていた中で、〈徘徊〉という言葉が頻繁に出てきたが、〈徘徊〉って厳しい言葉だと染野さんは思っている。〈徘徊〉を辞書で調べてみると、「当てもなくさまよい歩く」とあるが、認知症の方の徘徊はそのような状態ではない。それも誤解されていることのひとつだという。現在いる場所がどこなのかわからないため、行きたいところに辿り着けないということはある。以前していたことや人が曖昧になってしまうと、その人がそこにいるのではないかと思って探しに行ったりとか、実際にはその人が横にいても過去の記憶と混乱して別のところにいるのではないかと思ってしまったり、もう済んでいる予定をまだしてなかったと思い込み、やりに行こうとして出かけるのだけれど場所がわからなかったり、予定が済んでしまっているので目的の人がいなかったりすると、その場所に行っても目的が果たせないわけで…。例えば子どもをもつ親であれば、子どものために外出先から早く帰らなければと思って家に帰る。しかし、実際にはその日子どもはお祖母ちゃんの家に泊まりに行っていていない。記憶に障害をもっている人はそこが曖昧になっているので、家に帰っても子どもがいないとなると、親なら探しにゆくのが当然の行動。そして探しているうちにそこがどこなのか解らなくなってしまったりすることもある。それをもって〈徘徊〉と言われてしまうのは、なんだか違うような気がすると染野さんはいうのだ。確かに目的があるのなら、それは「当てもなくさまよい歩く」こととはほど遠い行動だろう。そうなのだ。徘徊している人にはその人なりの理由が、目的があるのだ。ただそれがその人以外にわかっていないだけのことなのだ。

【徘徊のもうひとつの理由】
認知症による徘徊には、もうひとつの理由があるという。その場の居心地が悪い場合、そこに居たくなくて出かけてしまう場合もある。人と一緒に居たくない気分の時に、無理矢理人の輪の中に入れられると気分も悪いし、話したくもないからどこかに行きたいなと思ってしまうこともあるだろう。それを伝えられればよいのだが、伝えられなくて外に出かけて行って場所が解らなかったり、時間が解らなかったり、エピソード的な記憶が曖昧になっていると道に迷ってしまう状況になるのだ。

【闇雲に否定せずに声を掛ける…】
前述したように徘徊する人たちは、ただ無目的に歩きまわっているわけではない。何らかの目的があるのに、その目的が果たせないまま混乱して歩きまわっている状況にあるのだ。そういう状況にある人に、現在の状況を否定しても本人は納得出来ないだろう。子どもがいるから早く帰らなければ…と思い込んでいる人に、「今日あなたのお子さんはお祖母さんの家に泊まりに行って留守だから、早く帰らなくてもよいのですよ」と言っても、本人はなかなか納得出来るものではない。そこら辺は難しいところなのだが、それを理解した上で徘徊している人に声を掛けて下さるとよいかなと、染野さんはいう。

【今後認知症の方を介護する中で考えて行かなければならないこと】
その徘徊中の認知症の方が起こした鉄道事故を巡って最近報道されていたのは、鉄道会社がその方を介護されている奥さんと息子さんに損害賠償を請求した事案の裁判で、鉄道会社から奥さんと息子さんに対して720万円の賠償請求があり、第一審では息子さんには責任はないとの判断で奥さんだけに360万円の賠償が求められた。今回3/1の最高裁では奥さんも見守ることが難しかったのではないかということで、鉄道会社からの賠償請求は退けられる判決が出されたのだ。それというのもこの奥さんも〈要介護1〉という状態で、〈要介護4〉の旦那さんの介護をしていたという現状があり、そのような判決が出たのではないかと云われている。しかし、これはケースバイケースで、今回はこのような判決が出されたけれど、健康な人が介護をしていた場合にこういうケースが起きてしまったら、やはり賠償請求がされてしまうかも知れない。だから今回のケースはよかったが、ほかの状況で介護をされているご家族には手放しでは喜べないところもある。しかしご本人さんも出かけたいという気持ちがあって出かけて行くわけで、外出先で事故に遭ってしまうことは認知症の方に限らずあるわけで、そこをどういう風に考えて行けばよいか? 今回は相手が大きな企業だった最高裁の判決に従って賠償金を請求することを諦めた形だが、これが個人と個人だった場合にどうなるのだろうなという思いもある。今後認知症の方を介護したり、関わって行く中で考えられて行かなければいけないことで、社会的な救済措置も講じて行かねばならない問題だろうという。世の中の流れとしては認知症の方を家の中に閉じ込めておくのではなく、ご本人も、介護されているご家族も、安心して出かけられるためのシステムを作って行こう…ということになってきているようだ。

【介護する家族の気持ち】
認知症の方を介護するご家族も、自分の親や身近な人に物忘れがあったりしても、なかなか受け入れられないところがある。特に家族の場合はその傾向が強く、〈昔のお母さんなら出来たから、きっと言えば出来る筈だよな〉と思ってしまう。それが病気のためにそうなったのであれば、病気の受け入れや、これからの生活をどうしてゆくか考えて行かねばならないので、染野さんたちもお話を聴きながら支援されているそうだ。認知症に限らずいきなり現実を突きつけられて、それをすんなりと受け入れられる家族も少ないと思うので、ご家族の立場に立った支援を心がけている。中にはなかなかSOSが発信出来なくて、〈どうして自分だけがこんなことをしなければいけないんだろう…〉と思いながら介護される時期もあるのではないかという。

【病気を受容する上でのプロセス】
認知症に限らず癌や障害や突然の身内の不幸など、受け容れがたい現実を受容する上における心理ステップには5段階のプロセスがある。先ずは〈ショック期〉目の前の現実にショックを受けて、茫然自失になる。続いて〈否定期〉。これは何かの間違えだ! こんな筈はない! とばかりに現実を否定する。〈混乱期〉目の前の現実を否認できない事実と受け止めて、怒りや悲しみで心がいっぱいになり、激しく落ち込む。次に〈解決への努力期〉。感情的になったり、落ち込んでいても何も変わらないと知り、前向きな解決に向かって努力しようとする。そして最後に〈受容期〉が来る。価値観が変わり、現実を積極的に受け容れて前向きに生きようとする時期だ。染野さんたちが関わることになるのはご本人、若しくは介護しておられる方からの連絡を受けてということになるのだが、SOSは〈混乱期〉の早い段階で出していただけるように、周りの人たちが声掛けをして行くということも大事だという。〈混乱期〉が長引くと、ご家族も大変なので、ご本人が〈混乱期〉を早く抜けられるように、若しくは少しは気持ちが落ち着かれたりするような支援をしていかないといけない。そのために介護されておられる家族の方も、早めのSOSを出していけるよう、いろいろな機関の情報を知っておいてもらえれば…と思っているという。

【認知症の方のご家族のサポートは…】
染野さんたちが支援されておられる中で、やはり家族の方がなかなか受け入れられなくて、頑張った挙げ句発症から二、三年経って「もう無理になったから…」と相談にみえる方々が多いとか。認知症というのは少しずつ出来ないことや、サポートされることが増えて来る病気なので、早めに相談して対応していかないと余裕が段々なくなってきてしまうのだ。そういう状況もあり、認知症の受容の問題はご家族だけではなかなか解決出来ないので、周りの人たちがサポートしてもらえるとありがたいし、ご本人と同じようにご家族の方を周りの方がサポートしてゆくことが大事だと云われているそうだ。

【とにもかくにも早めの受診や対応を】
認知症は前述した三つの病気以外にも、原因として疑われる病気がいろいろとある。頭を打って血液が脳内に溜まってしまう病気や、水が溜まってしまうこともある。しかし、そういう病気は治療すれば改善される場合もあるという。ニュースなどで言われている〈治る認知症もありますよ〉と言われているのがこのことで、これは緊急に受診しなければいけないので、何か気になることがあれば早めに受診して治療してゆくことが効果的であり、それに加えて生活のしづらさに対する対応と、周りの人たちのサポートがあれば状態は
落ち着いて来るので、そういう意味でも早めの受診、対応をお勧めしたいとのことだ。

【家庭内でも自分のことは伝えておく】
それと同時に歳を重ねるごとに、家庭内で家族ひとりひとりの情報や意思を共有しておくことが必要だと染野さんはいう。〈通帳はどこにあるのか?〉とか、〈将来どうしたいのか?〉とか、〈どんなものが好きで、どんなものが苦手なのか?〉食べ物の好みだけでは、趣味や趣向品などのこと。一緒に暮らしていても案外知らないこともあるし、身近な存在だからこそみえないこともある。最期は家で過ごしたいとか、嫌いな食べ物があってこれだけは食べたくないとか、そういうことを周りの人たちが知っておかないと、晩年の生活が楽しいものにはなってゆかない。認知症の早期発見、症状の進行を遅らせる薬、そしてサポートを受けつつも、自分のことを周りの人たちに伝えてゆくことにより、少しでも安心して楽しい生活が送れるのだ。それをしておかないと嫌なことを押しつけられたり、行きたくないところに入所させられたりする状況になり兼ねない。前述した三人の方々も周りの人たちに出来ないことを伝えられていて、周りがそういうことを理解しながらサポートしてゆくが大事だという。

【地域全体で理解し、サポートしてくれれば】
認知症になると自分でものを伝えることが苦手になる。コミュニケーションを取ったり、相手の立場に立って考えたりすることが苦手になってくる。そういう状態なので周りの方がその方の行動の意味を理解して、想像して関わることが大事になってくるのだ。これは別に難しいことではなくあたりまえのことなのだが、そういう〈認知症の方の立場に立つ〉ということが行われないまま、「認知症は怖いよね」とか「認知症になったら嫌だよね」という言われている。しかし、病気の特性を考えても周りのサポートがあればそれほど困ることもないのではないかと思われることでも、大きく捉えられてしまっているのが現状だという。ご家族や周りの人たちはもちろん、介護職や医療職の方だけではなくスーパーで仕事をされている方とか、銀行員などの方々が〈認知症ってこういうものだよね〉ということを理解されていれば、全然関わり方が変わってくるのだ。お金の計算がちょっと苦手だということであれば、本人が許せば支払いの時に少しサポートしたり、お金の計算をメモに書いて「おつりは幾らですよ」ということを渡してくれるだけで、その人は普通に生活してゆけるのである。それぞれの立場からご本人の話を訊いて「何が出来るのだろうか?」ということを考えて貰えれば、それでケアできるのでその地域全体で取り組んでくれればよいなあと、染野さんは思っている。

【最後に】
認知症のことを正しく理解することも大事。けれどもそれよりも、先ずはその人のことを理解してあげられるとよいという。自分の家族や友だちが認知症になった時に、別に認知症になったからではなくて、その家族なり、友だちと楽しみたいからできることは何だろうと考えるのが先だと思うので、その方の〈出来ないところ〉だけではなくて、一緒に〈出来る〉ところを見て行ったりとか、声を掛けてゆくことも大事だし、さりげなくサポートしていただける環境が必要になってくるのではないかという。現在名古屋では安心して出かけられるまちをめざして、徘徊して行方不明になった方を探すサポートや、安心して出かけられるようなカフェの場を作って行ったりしている。また認知症の理解を広めるためにオレンジリングの活動もしている。これは仕事の場で活かしてもらったり、地域で支えるための基本的な認知症の理解講座を受けて「認知症サポーター」になってもらおうというもので、養成講座を受けた人に証としてオレンジリングが渡される。現状では7万人の方が受講されているという。認知症の方がゴミを出す曜日が解らないと、ご近所の方が「〇〇さん、今日はゴミを出す日だよ」と教えてくれる地域も出てきている。笑顔でさりげなく手伝って下さる方がいると、その地域で安心して暮らして行けるし、若年性認知症の方でも、高齢者の認知症の方でも、自分の得意なものをいろいろな場で活かせる取り組みも進んでいるそうだ。コミュニティカフェとか地域の活動でも、例えば手芸が好きだった方が認知症になられて少しやりにくくなった時でも順番を通して行うことは難しいにしても、一手順ごとに伝えてゆくと手芸に限らずいろいろなことが出来る状況がある。そういったことを周りの人が理解をして声をかけてくれると、その方の得意なことをみんなが必要としている中でやっていけるので、認知症に対する誤解を解消してゆくことが大切なのだ。もしも家族や友人が認知症になったからといって遠ざけるのではなく、それを理解した上で地域の仲間として関わって行ってほしいと、染野さんはお話を結ばれた。

【大久保的まとめ】
染野徳一さんとは、NPOの事務局がまだ東区にあった頃からの知りあいで、東区社協におられた時は福祉活動計画の担当職員と委員として、名古屋市協ボラセンにおられた時は直接的に関わりはなかったが、ボランティア情報誌の編集委員として市社協に度々顔を出していたので、その折りなどに顔をあわせる機会はあった。そして今回の企画を考えていた時、染野さんが〈認知症連携担当〉という部署に移られていることを思い出したのだ。認知症のことは以前から関心があった。二十数年前に亡くなった父親がやはり、パーキンソン病から認知症を発症し、寝たきりの状態で体力も弱っていたのだろう。肺炎をこじらせ入退院を繰り返していた。最期には私の存在すらも忘れてしまったかのようだった。当時はこれほど認知症に対する知識もなかったので、父親がおかしな言動を取った時などに信じられなくて叱りつけてしまったことがあるのだ。いま思えば父親のおかしな言動の理由もわかり、どうしてもっと優しく接してあげられなかったのだろうかと反省している。そんなこともあったので、認知症理解に対する思い入れは、障がい者理解に対するそれと同じぐらいにもっている。いや、今回の染野さんのお話を聞いて、認知症を理解することは、障がい者を理解することでもあり、強いていえば〈人間〉を理解するのと一緒なのではないかと思った。染野さんも言っておられたが、認知症への理解は広まりつつあるとはいえ、まだまだこれからであろう。このブログの一文が、細やかながらもその一助になることを願ってまとめにかえたいと思う。