平成最後の12月がやってきた! 今年は例年に比べて比較的暖かいけれど、それでも空気がひんやりとしているのには変わりない。私事で申し訳ないが、今年は大切な人たちが二人も旅立って行った。遅いか早いかの違いはあるものの、人は誰もが旅立って行き、もう二度と会えやしない。しかし、その人の想いは記憶と共に、生きている人の胸の中に残り続ける。一期一会という言葉があるが、私たちはその人とまた会えるだろうと高をくくるから、いざその人と二度と会えない状況に陥った時に慌てふためいたり、嘆き悲しむのだ。考えてみればいつ、誰が、どこで、どうなるかなど解らない。私でも無事に明日を迎えられる保証なんてないわけだ。だからこそいま、この時、この場で会っている人のことを慈しみ、愛おしみ、大切にしたいと思う。さて、ジネンカフェVOL.128のゲストは、株式会社対話計画の三田祐子さん。お話のタイトルは『想像と疑問、それがわたしの生きるキーワード』
【祐子です。裕子(ひろこ)ではありません】
三田祐子さんはご自分の名前を漢字で書くこともあるが、最近はひらがなやカタカナで書くこともあるそうだ。三田ゆうこ、三田ユウコ、または最後の文字だけを漢字にしたりする場合もある。それは名前の「祐」という文字のせいだ。名前を「裕子さん」と間違われるのだ。読み方まで「ひろこ」と呼び間違われることもある。請求書まで「三田裕子さん」と書かれることがある。その度に面倒臭いなあ~と思われるのだ。だからあえて漢字を使わずに名前をひらがなやカタカナで書く場合があるという。漢字を説明しなければいけない時には「示す偏に右」と言ってもよく解らない方がいるので、「ネに右」と説明されるそうだ。
【名前をめぐる忘れられない話】
そんな三田さんには〈名前〉をめぐる小学生の頃の忘れられない記憶がある。小学校の卒業式に卒業生代表で答辞を読むような成績優秀で格好よく、みんなが憧れるような先輩がいた。三田さんが小学一年生か二年生の時、答辞で曰く「僕の名前は〈清完〉と言います。どうしてこの名前が付けられたのかと言うと、僕が生まれたことによって両親がもうこれで子作りはしません。清く完了します」という意味で〈清完〉になりました」と言ったのだそうだ。頭もよく格好もよい、みんなが憧れる先輩が…。その時、三田さんは「〈清く正しく完了させる〉って、凄い名前だな」と思ったという。
【誰かのサポートとして動く人】
それでは自分の名前にはどんな想いが込められているのだろう? と三田さんは思い、先ず父親に訊いてみた。しかし父親は何も言わず照れている。そこで三田さんは「好きな芸能人の名前から取ったんじゃないの?」と尋ねてみたのだが、「それだけはない」とハッキリとした答えが返ってきたという。母親に電話しても出てくれなく、まあいいわと思いつつ今日に至っている。ネットで調べてみると、「祐」という字は訓読みだと「助ける」という意味あいをもつ字で、もともとは「神を助ける」という意味で、つくりの「右」という文字は器をもって神に祈りを捧げている姿を表していて、偏の「示」が神事の様子を示しているそうだ。「神を助ける子ども」なのか解らないけれど、この説明をみて三田さんは納得したとか。自分から率先して何かをするより、誰かのサポートとして動いている方が自分にはあっていると感じていたからだ。因みに妹さんの名前も調べてみたら、神事や祭事に使われる字が使われていて、なるほど…と納得したそうだ。ご自分の名前の由来は、母親には再び尋ねてみたいと思っているという。
【石積みの構造に興味をもつ小学生】
その小学校の頃、三田さんは片道1時間もかけて学校に通っていたそうだ。子どもの足で片道1時間は結構遠い道程である。現在でもグーグルマップで距離を測ってみると、大人の足で28分もかかるらしい。高学年になるにつれて1時間が40分になったりしたが、その1時間なり、40分なりが子どもの頃の三田さんにとっては楽しくて仕方がなかったという。住宅街にあった自宅を出ると、通学路には田園があり、アンダーパスを潜り、小さな川を渡って国道沿いの歩道を通り、国道から一本中に入った細い道を集団登校していた。子どもは日常のちょっとした変化に疑問を持ったり、面白く感じたりするものだ。田んぼには四季折々の色彩や景観がある。田の隅には石積みがあった。普通の石を積んだものもあれば、ブロックが積んであり塀のようになっているところもあったという。そんな景観を毎日のように眺めながら、三田さんは普通の石積みとブロック塀のような石積みとの違いが気になっていたそうだ。ブロックは形状的に積んでも大丈夫なのはわかるけれど、普通の石を積んでどうして大丈夫なのだろうと…。しかし、子どもらしくその石積みの間から出て来る蛇などを捕まえては遊んだりしていたそうだ。
【ある日突然通学路が…】
そんな楽しい通学路の中にも、三田さんが唯一不満に思っていた箇所があった。田んぼの中を抜ける農道が雨が降るとぐちゃぐちゃになる上に、友だちと手を繋ぎながら歩きたいのに、子どもが縦一列にならなければ通れないほど細かったのだ。しかし、ある日その道が広くて舗装された道路に変わった。そうなればそうなったで「ちょっと広すぎない? 税金の無駄使いだよね」と、中学生ぐらいの時には言っていた。が、ある時三田さんはふとあることを思い出したのだ。「そう言えば、わたし、この通学路のこと、町長への手紙に書いたわ」と。三田さんが住んでいた地方では町の広報誌の一番後ろに「町長への手紙」募集コーナーがあり、小学校低学年の頃にその通学路のことを書いて出していたのであった。
【インフラ的には整備されたかも知れないけれど…】
三田さんにとってはその「町長への手紙」は、「どうしてもっと安全な道があるのに、こんな道を通学路に指定しているのですか?」という疑問の発露であったのだ。しかし、その疑問に対する回答は返っては来ず、ある日突然の広くてキレイな道が出来た。インフラ的には整備されたかも知れないが、三田さんの中には未解決の疑問がそのままになってしまったのだ。そういう疑問は数え切れないほどある。通学路の途中にある家の手すりが古いのは何故なの? 国道沿いの歩道なのにひとひとりぐらいしか通れないのはどうしてなの? 融雪装置があるところとないところがあるのは何故なの? 現在は解る事でも、当時の三田さんには解らず、納得が行かなかったという。
【構造物マニア】
三田さんの職業は設計士であり、コンサルタントなのだが、何よりも構造物が好きなのだそうだ。最も好きな構造物は(橋梁)で、これは以前からなのだとか。殊に東京はお茶の水にある(聖橋)と同じ年代に造られた富山の笹津橋が好きで、アーチ型の橋梁がとても美しい。聖橋の方は一、二年前に長寿命化の工事をして新しくなり、フォルムは残っているものの、趣きがなくなったという。全長は65mで笹津橋の方が85mあるのだが、全長の関係でアーチは聖橋の方が深いけれど、川面に映る感じやアーチの形状に大らかな感じがあって、三田さんは笹津橋の方がより好きなのだそうだ。笹津橋はもともと車道橋であったが、古くなったために新笹津橋が旧笹津橋と並行するように建設された。旧笹津橋も撤去されずに歩行者・自転車専用橋として、現在でも使われている。因みにこの旧笹津橋は、登録有形文化財に指定されていて、こちらの方は4代目だそうだ。構造物、殊に橋マニアとして三田さんも観に行った時に、3代目か2代目の旧い橋脚だけがそのままになっていたという。地元の人たちにとってはそんな橋脚なんて関心がないので邪魔な存在なのだろうが、コンクリートや鉄筋が使われ始めた頃の良質な構造物として、三田さんはひとりでコソコソと写真を取っていたのだが、いま思えばかなり〈怪しいひと〉だったかも知れない。学生時代には構造だけではなく構造物の保存方法なども学んだので、遺産とか遺構として今後どうしてゆくのか気になるところだという。
【人が使いやすい構造物にしてゆくにはどうすればよいのだろう?】
その時に〈調べる〉ということも、三田さんは学んだ。しかし、一概に〈調べる〉といっても、その難しさも感じている。三田さんは測量もして、その後に設計もするわけなのだが、設計する段階から〈これをどうやって造るか?〉とか、使われないとその構造物はオブジェと同じになってしまうので、人々が使いやすい構造物にしてゆくのにはどうしたらよいのだろうと、絶えず疑問に思いながら設計をしているという。
【自分も関わっても良いのではないかな】
そんなある時、ふと気がついたのだ。その構造物は、自分にとっても使いやすいものである必要があるのではないかと。そして自分も設計だけではなく、他の方法で〈ものづくり〉とか〈居場所づくり〉〈未来づくり〉に関わっても良いのではないかな?と思ったのだ。
【未来茶輪】
こうして三田さんは設計だけではなく、まちづくりにも関わることになり、様々な分野の人たちが集い、語りあう『未来茶輪』を3人の仲間たちと共同主宰するようになった。それは自分が設計する構造物が人々はもちろん自分にとって使いやすいものにする感覚を養うためであり、自分もまた様々な人たちと共に寄り添いながら、時には設計士としての視点で、時にはひとりの生活者としての視点で未来を作ってゆく地球市民の一員でもあるのだという宣言でもあるのだろう。三田さんのご活躍に期待したい。
【祐子です。裕子(ひろこ)ではありません】
三田祐子さんはご自分の名前を漢字で書くこともあるが、最近はひらがなやカタカナで書くこともあるそうだ。三田ゆうこ、三田ユウコ、または最後の文字だけを漢字にしたりする場合もある。それは名前の「祐」という文字のせいだ。名前を「裕子さん」と間違われるのだ。読み方まで「ひろこ」と呼び間違われることもある。請求書まで「三田裕子さん」と書かれることがある。その度に面倒臭いなあ~と思われるのだ。だからあえて漢字を使わずに名前をひらがなやカタカナで書く場合があるという。漢字を説明しなければいけない時には「示す偏に右」と言ってもよく解らない方がいるので、「ネに右」と説明されるそうだ。
【名前をめぐる忘れられない話】
そんな三田さんには〈名前〉をめぐる小学生の頃の忘れられない記憶がある。小学校の卒業式に卒業生代表で答辞を読むような成績優秀で格好よく、みんなが憧れるような先輩がいた。三田さんが小学一年生か二年生の時、答辞で曰く「僕の名前は〈清完〉と言います。どうしてこの名前が付けられたのかと言うと、僕が生まれたことによって両親がもうこれで子作りはしません。清く完了します」という意味で〈清完〉になりました」と言ったのだそうだ。頭もよく格好もよい、みんなが憧れる先輩が…。その時、三田さんは「〈清く正しく完了させる〉って、凄い名前だな」と思ったという。
【誰かのサポートとして動く人】
それでは自分の名前にはどんな想いが込められているのだろう? と三田さんは思い、先ず父親に訊いてみた。しかし父親は何も言わず照れている。そこで三田さんは「好きな芸能人の名前から取ったんじゃないの?」と尋ねてみたのだが、「それだけはない」とハッキリとした答えが返ってきたという。母親に電話しても出てくれなく、まあいいわと思いつつ今日に至っている。ネットで調べてみると、「祐」という字は訓読みだと「助ける」という意味あいをもつ字で、もともとは「神を助ける」という意味で、つくりの「右」という文字は器をもって神に祈りを捧げている姿を表していて、偏の「示」が神事の様子を示しているそうだ。「神を助ける子ども」なのか解らないけれど、この説明をみて三田さんは納得したとか。自分から率先して何かをするより、誰かのサポートとして動いている方が自分にはあっていると感じていたからだ。因みに妹さんの名前も調べてみたら、神事や祭事に使われる字が使われていて、なるほど…と納得したそうだ。ご自分の名前の由来は、母親には再び尋ねてみたいと思っているという。
【石積みの構造に興味をもつ小学生】
その小学校の頃、三田さんは片道1時間もかけて学校に通っていたそうだ。子どもの足で片道1時間は結構遠い道程である。現在でもグーグルマップで距離を測ってみると、大人の足で28分もかかるらしい。高学年になるにつれて1時間が40分になったりしたが、その1時間なり、40分なりが子どもの頃の三田さんにとっては楽しくて仕方がなかったという。住宅街にあった自宅を出ると、通学路には田園があり、アンダーパスを潜り、小さな川を渡って国道沿いの歩道を通り、国道から一本中に入った細い道を集団登校していた。子どもは日常のちょっとした変化に疑問を持ったり、面白く感じたりするものだ。田んぼには四季折々の色彩や景観がある。田の隅には石積みがあった。普通の石を積んだものもあれば、ブロックが積んであり塀のようになっているところもあったという。そんな景観を毎日のように眺めながら、三田さんは普通の石積みとブロック塀のような石積みとの違いが気になっていたそうだ。ブロックは形状的に積んでも大丈夫なのはわかるけれど、普通の石を積んでどうして大丈夫なのだろうと…。しかし、子どもらしくその石積みの間から出て来る蛇などを捕まえては遊んだりしていたそうだ。
【ある日突然通学路が…】
そんな楽しい通学路の中にも、三田さんが唯一不満に思っていた箇所があった。田んぼの中を抜ける農道が雨が降るとぐちゃぐちゃになる上に、友だちと手を繋ぎながら歩きたいのに、子どもが縦一列にならなければ通れないほど細かったのだ。しかし、ある日その道が広くて舗装された道路に変わった。そうなればそうなったで「ちょっと広すぎない? 税金の無駄使いだよね」と、中学生ぐらいの時には言っていた。が、ある時三田さんはふとあることを思い出したのだ。「そう言えば、わたし、この通学路のこと、町長への手紙に書いたわ」と。三田さんが住んでいた地方では町の広報誌の一番後ろに「町長への手紙」募集コーナーがあり、小学校低学年の頃にその通学路のことを書いて出していたのであった。
【インフラ的には整備されたかも知れないけれど…】
三田さんにとってはその「町長への手紙」は、「どうしてもっと安全な道があるのに、こんな道を通学路に指定しているのですか?」という疑問の発露であったのだ。しかし、その疑問に対する回答は返っては来ず、ある日突然の広くてキレイな道が出来た。インフラ的には整備されたかも知れないが、三田さんの中には未解決の疑問がそのままになってしまったのだ。そういう疑問は数え切れないほどある。通学路の途中にある家の手すりが古いのは何故なの? 国道沿いの歩道なのにひとひとりぐらいしか通れないのはどうしてなの? 融雪装置があるところとないところがあるのは何故なの? 現在は解る事でも、当時の三田さんには解らず、納得が行かなかったという。
【構造物マニア】
三田さんの職業は設計士であり、コンサルタントなのだが、何よりも構造物が好きなのだそうだ。最も好きな構造物は(橋梁)で、これは以前からなのだとか。殊に東京はお茶の水にある(聖橋)と同じ年代に造られた富山の笹津橋が好きで、アーチ型の橋梁がとても美しい。聖橋の方は一、二年前に長寿命化の工事をして新しくなり、フォルムは残っているものの、趣きがなくなったという。全長は65mで笹津橋の方が85mあるのだが、全長の関係でアーチは聖橋の方が深いけれど、川面に映る感じやアーチの形状に大らかな感じがあって、三田さんは笹津橋の方がより好きなのだそうだ。笹津橋はもともと車道橋であったが、古くなったために新笹津橋が旧笹津橋と並行するように建設された。旧笹津橋も撤去されずに歩行者・自転車専用橋として、現在でも使われている。因みにこの旧笹津橋は、登録有形文化財に指定されていて、こちらの方は4代目だそうだ。構造物、殊に橋マニアとして三田さんも観に行った時に、3代目か2代目の旧い橋脚だけがそのままになっていたという。地元の人たちにとってはそんな橋脚なんて関心がないので邪魔な存在なのだろうが、コンクリートや鉄筋が使われ始めた頃の良質な構造物として、三田さんはひとりでコソコソと写真を取っていたのだが、いま思えばかなり〈怪しいひと〉だったかも知れない。学生時代には構造だけではなく構造物の保存方法なども学んだので、遺産とか遺構として今後どうしてゆくのか気になるところだという。
【人が使いやすい構造物にしてゆくにはどうすればよいのだろう?】
その時に〈調べる〉ということも、三田さんは学んだ。しかし、一概に〈調べる〉といっても、その難しさも感じている。三田さんは測量もして、その後に設計もするわけなのだが、設計する段階から〈これをどうやって造るか?〉とか、使われないとその構造物はオブジェと同じになってしまうので、人々が使いやすい構造物にしてゆくのにはどうしたらよいのだろうと、絶えず疑問に思いながら設計をしているという。
【自分も関わっても良いのではないかな】
そんなある時、ふと気がついたのだ。その構造物は、自分にとっても使いやすいものである必要があるのではないかと。そして自分も設計だけではなく、他の方法で〈ものづくり〉とか〈居場所づくり〉〈未来づくり〉に関わっても良いのではないかな?と思ったのだ。
【未来茶輪】
こうして三田さんは設計だけではなく、まちづくりにも関わることになり、様々な分野の人たちが集い、語りあう『未来茶輪』を3人の仲間たちと共同主宰するようになった。それは自分が設計する構造物が人々はもちろん自分にとって使いやすいものにする感覚を養うためであり、自分もまた様々な人たちと共に寄り添いながら、時には設計士としての視点で、時にはひとりの生活者としての視点で未来を作ってゆく地球市民の一員でもあるのだという宣言でもあるのだろう。三田さんのご活躍に期待したい。