ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.128レポート

2018-12-26 09:33:08 | Weblog
平成最後の12月がやってきた! 今年は例年に比べて比較的暖かいけれど、それでも空気がひんやりとしているのには変わりない。私事で申し訳ないが、今年は大切な人たちが二人も旅立って行った。遅いか早いかの違いはあるものの、人は誰もが旅立って行き、もう二度と会えやしない。しかし、その人の想いは記憶と共に、生きている人の胸の中に残り続ける。一期一会という言葉があるが、私たちはその人とまた会えるだろうと高をくくるから、いざその人と二度と会えない状況に陥った時に慌てふためいたり、嘆き悲しむのだ。考えてみればいつ、誰が、どこで、どうなるかなど解らない。私でも無事に明日を迎えられる保証なんてないわけだ。だからこそいま、この時、この場で会っている人のことを慈しみ、愛おしみ、大切にしたいと思う。さて、ジネンカフェVOL.128のゲストは、株式会社対話計画の三田祐子さん。お話のタイトルは『想像と疑問、それがわたしの生きるキーワード』

【祐子です。裕子(ひろこ)ではありません】
三田祐子さんはご自分の名前を漢字で書くこともあるが、最近はひらがなやカタカナで書くこともあるそうだ。三田ゆうこ、三田ユウコ、または最後の文字だけを漢字にしたりする場合もある。それは名前の「祐」という文字のせいだ。名前を「裕子さん」と間違われるのだ。読み方まで「ひろこ」と呼び間違われることもある。請求書まで「三田裕子さん」と書かれることがある。その度に面倒臭いなあ~と思われるのだ。だからあえて漢字を使わずに名前をひらがなやカタカナで書く場合があるという。漢字を説明しなければいけない時には「示す偏に右」と言ってもよく解らない方がいるので、「ネに右」と説明されるそうだ。

【名前をめぐる忘れられない話】
そんな三田さんには〈名前〉をめぐる小学生の頃の忘れられない記憶がある。小学校の卒業式に卒業生代表で答辞を読むような成績優秀で格好よく、みんなが憧れるような先輩がいた。三田さんが小学一年生か二年生の時、答辞で曰く「僕の名前は〈清完〉と言います。どうしてこの名前が付けられたのかと言うと、僕が生まれたことによって両親がもうこれで子作りはしません。清く完了します」という意味で〈清完〉になりました」と言ったのだそうだ。頭もよく格好もよい、みんなが憧れる先輩が…。その時、三田さんは「〈清く正しく完了させる〉って、凄い名前だな」と思ったという。

【誰かのサポートとして動く人】
それでは自分の名前にはどんな想いが込められているのだろう? と三田さんは思い、先ず父親に訊いてみた。しかし父親は何も言わず照れている。そこで三田さんは「好きな芸能人の名前から取ったんじゃないの?」と尋ねてみたのだが、「それだけはない」とハッキリとした答えが返ってきたという。母親に電話しても出てくれなく、まあいいわと思いつつ今日に至っている。ネットで調べてみると、「祐」という字は訓読みだと「助ける」という意味あいをもつ字で、もともとは「神を助ける」という意味で、つくりの「右」という文字は器をもって神に祈りを捧げている姿を表していて、偏の「示」が神事の様子を示しているそうだ。「神を助ける子ども」なのか解らないけれど、この説明をみて三田さんは納得したとか。自分から率先して何かをするより、誰かのサポートとして動いている方が自分にはあっていると感じていたからだ。因みに妹さんの名前も調べてみたら、神事や祭事に使われる字が使われていて、なるほど…と納得したそうだ。ご自分の名前の由来は、母親には再び尋ねてみたいと思っているという。

【石積みの構造に興味をもつ小学生】
その小学校の頃、三田さんは片道1時間もかけて学校に通っていたそうだ。子どもの足で片道1時間は結構遠い道程である。現在でもグーグルマップで距離を測ってみると、大人の足で28分もかかるらしい。高学年になるにつれて1時間が40分になったりしたが、その1時間なり、40分なりが子どもの頃の三田さんにとっては楽しくて仕方がなかったという。住宅街にあった自宅を出ると、通学路には田園があり、アンダーパスを潜り、小さな川を渡って国道沿いの歩道を通り、国道から一本中に入った細い道を集団登校していた。子どもは日常のちょっとした変化に疑問を持ったり、面白く感じたりするものだ。田んぼには四季折々の色彩や景観がある。田の隅には石積みがあった。普通の石を積んだものもあれば、ブロックが積んであり塀のようになっているところもあったという。そんな景観を毎日のように眺めながら、三田さんは普通の石積みとブロック塀のような石積みとの違いが気になっていたそうだ。ブロックは形状的に積んでも大丈夫なのはわかるけれど、普通の石を積んでどうして大丈夫なのだろうと…。しかし、子どもらしくその石積みの間から出て来る蛇などを捕まえては遊んだりしていたそうだ。

【ある日突然通学路が…】
そんな楽しい通学路の中にも、三田さんが唯一不満に思っていた箇所があった。田んぼの中を抜ける農道が雨が降るとぐちゃぐちゃになる上に、友だちと手を繋ぎながら歩きたいのに、子どもが縦一列にならなければ通れないほど細かったのだ。しかし、ある日その道が広くて舗装された道路に変わった。そうなればそうなったで「ちょっと広すぎない? 税金の無駄使いだよね」と、中学生ぐらいの時には言っていた。が、ある時三田さんはふとあることを思い出したのだ。「そう言えば、わたし、この通学路のこと、町長への手紙に書いたわ」と。三田さんが住んでいた地方では町の広報誌の一番後ろに「町長への手紙」募集コーナーがあり、小学校低学年の頃にその通学路のことを書いて出していたのであった。

【インフラ的には整備されたかも知れないけれど…】
三田さんにとってはその「町長への手紙」は、「どうしてもっと安全な道があるのに、こんな道を通学路に指定しているのですか?」という疑問の発露であったのだ。しかし、その疑問に対する回答は返っては来ず、ある日突然の広くてキレイな道が出来た。インフラ的には整備されたかも知れないが、三田さんの中には未解決の疑問がそのままになってしまったのだ。そういう疑問は数え切れないほどある。通学路の途中にある家の手すりが古いのは何故なの? 国道沿いの歩道なのにひとひとりぐらいしか通れないのはどうしてなの? 融雪装置があるところとないところがあるのは何故なの? 現在は解る事でも、当時の三田さんには解らず、納得が行かなかったという。

【構造物マニア】
三田さんの職業は設計士であり、コンサルタントなのだが、何よりも構造物が好きなのだそうだ。最も好きな構造物は(橋梁)で、これは以前からなのだとか。殊に東京はお茶の水にある(聖橋)と同じ年代に造られた富山の笹津橋が好きで、アーチ型の橋梁がとても美しい。聖橋の方は一、二年前に長寿命化の工事をして新しくなり、フォルムは残っているものの、趣きがなくなったという。全長は65mで笹津橋の方が85mあるのだが、全長の関係でアーチは聖橋の方が深いけれど、川面に映る感じやアーチの形状に大らかな感じがあって、三田さんは笹津橋の方がより好きなのだそうだ。笹津橋はもともと車道橋であったが、古くなったために新笹津橋が旧笹津橋と並行するように建設された。旧笹津橋も撤去されずに歩行者・自転車専用橋として、現在でも使われている。因みにこの旧笹津橋は、登録有形文化財に指定されていて、こちらの方は4代目だそうだ。構造物、殊に橋マニアとして三田さんも観に行った時に、3代目か2代目の旧い橋脚だけがそのままになっていたという。地元の人たちにとってはそんな橋脚なんて関心がないので邪魔な存在なのだろうが、コンクリートや鉄筋が使われ始めた頃の良質な構造物として、三田さんはひとりでコソコソと写真を取っていたのだが、いま思えばかなり〈怪しいひと〉だったかも知れない。学生時代には構造だけではなく構造物の保存方法なども学んだので、遺産とか遺構として今後どうしてゆくのか気になるところだという。

【人が使いやすい構造物にしてゆくにはどうすればよいのだろう?】
その時に〈調べる〉ということも、三田さんは学んだ。しかし、一概に〈調べる〉といっても、その難しさも感じている。三田さんは測量もして、その後に設計もするわけなのだが、設計する段階から〈これをどうやって造るか?〉とか、使われないとその構造物はオブジェと同じになってしまうので、人々が使いやすい構造物にしてゆくのにはどうしたらよいのだろうと、絶えず疑問に思いながら設計をしているという。

【自分も関わっても良いのではないかな】
そんなある時、ふと気がついたのだ。その構造物は、自分にとっても使いやすいものである必要があるのではないかと。そして自分も設計だけではなく、他の方法で〈ものづくり〉とか〈居場所づくり〉〈未来づくり〉に関わっても良いのではないかな?と思ったのだ。

【未来茶輪】
こうして三田さんは設計だけではなく、まちづくりにも関わることになり、様々な分野の人たちが集い、語りあう『未来茶輪』を3人の仲間たちと共同主宰するようになった。それは自分が設計する構造物が人々はもちろん自分にとって使いやすいものにする感覚を養うためであり、自分もまた様々な人たちと共に寄り添いながら、時には設計士としての視点で、時にはひとりの生活者としての視点で未来を作ってゆく地球市民の一員でもあるのだという宣言でもあるのだろう。三田さんのご活躍に期待したい。
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ジネンカフェVOL.127レポート

2018-12-04 09:51:50 | Weblog
気がついてみれば、もう11月の半ば。今年ももう1ヶ月余りで終わってしまう。嘘のような本当の話だ。本当のような嘘の話には世の中を救う夢があり、それが例え実現不可能なほど荒唐無稽なものでも人々に希望を与えてくれるだろう。しかし、嘘のような本当の話には薄ら寒い上に目を背けたかったり、現実逃避したくなるほどの衝撃的な真実もある。ジネンカフェVOL.127のゲストは、嘘のような本当の話である児童虐待防止の啓発活動を、派手なパフォーマンスでされている、ハーレーサンタCLUB NAGOYA代表の冨田正美さんだ。お話のタイトルは「無題」

【最悪を想像して、最善を創造しよう!】
冨田正美さんは1959年愛知県名古屋市生まれ、三重県桑名市在住の59歳。本業は公務員で、公務員になってからずっと愛知県教育委員会に勤められておられる珍しい方だ。愛知県教育委員会は大組織であり、それでなくても固いイメージがつきまとっているが、固いのは組織としての性質だけで、そこに勤められておられる職員ひとりひとりは、私たち一般的な県民と大差がなかったりする。わけても冨田さんはご自分で「出すぎた公務員」と名乗られておられるように、『最悪を想像して、最善を創造しよう!』をモットーに、いろいろな地域活動に身を染めておられる。その代表的な活動がハーレーサンタCLUB NAGOYAなのだ。

【冨田正美さんというひとは、こんなひと】
現在ではそんな言葉も死語になっているのだが、一昔前に公務員は「税金どろぼう」と揶揄されていた。朝は九時から仕事を始めて、夕方五時には退庁する。仕事の割に給料は安定しているし、休みもしっかり取れる。何よりも親方日の丸だから勤め先がつぶれることは考えられないし、よほどのことがない限りクビを切られることもない。そんな安定感抜群のイメージがあるからだろう。子どもに人気の職業として、公務員が上位にランキングしていた時期もあった。冨田さんは採用試験の面接官も務められているので、採用試験を受験した若者と接することもある。そうした折に「ボランティアをしたことがあるか?」尋ねてみるのだという。しかし、返って来るその答えは9割方が「NO」である。公務員を志しているのだから公共の福祉に関心があるのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。そんなものなのだなあ~と、冨田さんは残念に思っているという。冨田さん自身は組織の建前にこだわるよりも自分の想いを伝えたいと思い、「青い」とか「若い」とか言われたりする状況で、職場の中ではかなり浮いているらしい。冨田さんはしかし、全く意に返さない。自分がこの世を去る時に後悔しない生き方をしたいと思っているからだ。

【阪神・淡路大震災―これは何とかしなければと駆けつける】
自分がいつこの世を去ろうとも悔いのない生き方をしたい。冨田さんがそんなふうに思われたのは平成7年1月18日の未明、関西地方を襲った未曾有の大震災の影響だ。その時、冨田さんは第一報をテレビを通じて知った。早朝5時頃にテレビをつけたら、まだ真っ暗な街並みが映っていた。やがて火災があちらこちらから発生する。それから夜が明け、次々と信じられない光景がテレビを通して全国に届くことになる。無残にもひしゃけた街並み、陥没した道路、高速道路が倒れかかり、バスが滑り落ちそうになっている…。昭和34年生まれの冨田さんは、伊勢湾台風を経験している。しかし、生後いくらも経っていなかったので、こんな悲惨な光景を目の当たりにするのはこれが初めてだった。「これは何とかしなければ…」そう思った冨田さんはホームセンターに走り、「こんなのいるかな?」と思ったものをバイクの荷台に詰め込んで、神戸まで駆けつけたのだという。道路はところどころ寸断されていて、公共交通機関ももちろん動いていないことは情報として受けていたので、これはバイクの出番だと考えたのだ。避難所を訪れたのだが、避難所に来られない人たちがいると聞いて、そういうところへもバイクで入って行き、物資を届けたら泣いて感謝されたという。それまでの人生の中でそこまで感謝されたことがなかった冨田さんの全身に、その時電気が走った。被災地の人々に、感謝されたことがたまらなく嬉しかったのだ。「ああ、そうか…。公務員の仕事もきっとこういうものなのではないか?」と感じたのだという。

【公務員になる気はなかったのに…】
学生時代の冨田さんは、公務員になる気は更々なかった。実際に民間のマスコミ関係の会社への就職が内定していて、そちらの方面に就職したかったのだ。しかし、親の薦めもあって親孝行のために公務員採用試験を受けたら、幸か不幸か合格してしまった…。人生とはそんなものだろう。そうして冨田さんは、そのまま公務員になった。せっかく公務員になったのだから、徹底的にひとの役に立とうと思い、仕事をしていたところに阪神・淡路大震災である。冨田さんは現地に赴いて、公務員という職業のやり甲斐を一層強く感じたのである。

【冨田さんはなぜ現場に赴いたのか?】
では、なぜ冨田さんは阪神・淡路大震災の時に現地に赴いたのか? それは部屋の中でテレビで観たり、新聞で読んだりするよりも現場に飛び出して行って皮膚感覚として感じたいという気持ちもあったのだ。やはり現場に勝るものはない。現地に行って自分の目で見て、匂いを嗅いで、肌で感じることってすごく大事かなと感じたという。そういうことを通してひとの役に立ちたいとか、喜んで欲しいとか、そんな想いがお金以上に働く上での原動力になるのだなとも感じたそうだ。こうして阪神・淡路大震災の時の体験を経て、冨田さんは仕事用の名刺の他に、もう一つの名刺を作り、仕事を終えてから地域に飛び出すようになったのである。

【教育が変われば未来が変わる】
市町村の職員や県庁の職員もそうなのだが、大概は周期で担当課が変わるものだ。しかし、冨田さんは珍しいケースで愛知県庁に入庁以来、課内での移動はあるものの、ずっと教育委員会にいる。それは冨田さん自身の信念として「教育が変われば未来が変わる」「教育でしか未来は変えられない」と思っていて、ずっと教育委員会にいたいと思っているから、人事異動のヒアリングを受ける度、そんなふうに直訴して自らの意思で教育委員会に居続けているそうだ。技術系を除けばレアケースであろう。

【オレンジリボン】
冨田さんのシンボルカラーは、なんといってもオレンジ色だろう。正確には〈オレンジリボン〉のオレンジなのだが、オレンジリボンとは、児童虐待防止運動のシンボルである。親からも愛されず、反対に親から言葉を含めた暴力を受けている子どもたちが、恐らく世の中の子どもの中で一番辛い思いをしていて大変だろう…ということで暖色系のオレンジを運動のシンボルカラーにしたのだ。しかし、あまり認知度がなく、何とか広めたいなと思って名刺にもオレンジリボンのイラストを入れているのだそうだ。名刺のみならず、イベントの時などにはオレンジ色の覆面を被り、オレンジ色の全身スーツを身につけ〈オレンジレンジャー〉に変身して活動をされているとか。

【仕事は身内の物差しよりも、社会の物差しで】
地域に飛び出して子ども関連のNPOの方達の集まりに参加をすると、当事者意識を追体験出来たということもあるし、大学教授が言っているような話や、本に書いてある話、教育委員会内部の幹部とか同僚の話だけではない、いろいろな話が聞けて仕事の上でも有益だった。それを踏まえて冨田さんは仕事というのは、身内の物差しではなく社会の物差しでするべきだと痛感したという。前例踏襲、縦割り、横並びというのが役所の一般的な論理なのだけれど、生活者が起点で横の繋がりや、公表する透明性が大事なのではないかと思って仕事をされるようになったそうだ。

【オレンジへのこだわり】
冨田さんのこだわりは、イベント時の全身スーツ、覆面だけに止まらず、時計や文房具にカバンに至るまでオレンジ色に染めて、人々が「どうしてオレンジ?」とか疑問に覚え、質問してくればしめたもの。自らが広告塔になることにより、オレンジリボンを広めようとされているわけだ。ちょうど11月はオレンジリボンの推進月間なのだが、今日はジネンカフェということで自分が燃えているような色合いのシャツを着ているのだけれど、普段はどこかにオレンジ色のものを身につけていて、もう少し寒くなるとオレンジ色のコートを着たりするそうだ。

【ハーレー好きが集まって…】
冨田さんはバイク好きで、16歳の頃から乗っている。殊にハーレーがお気に入りで、ダビッドソン社のイメージカラーは黒とオレンジ色なのだそうだ。しかし、世間的には暴走族とか、荷物がそれほど詰めるわけでもなかったり、雨が降ったら濡れるしと、あまりよいイメージを持たれていない。でも、冨田さんはそのバイクを使って社会貢献出来ないかと考えたのだ。その時にちょうどオレンジ色のハーレーに乗っていたこともあり、オレンジリボンを広めるにはよい機会だと思い、全国のハーレー好きに呼びかけて年に数回集まり、オレンジリボンを啓発していた時期があったという。

【バイク好きの限界】
しかし、バイク好きの人たちはもともと〈自由〉とか〈ツーリング〉が好きなので、「オレンジリボンの啓発」と言っても、なかなか集まらないところがあり、年に一回しか出来なくなった。また、オレンジ色のバイクにこだわるのもやめたそうだ。一時期はナゴヤドームにバイクを並べたり、公園に集結してはオレンジリボンの啓発をしていたという。

【行政の永遠の課題に挑戦】
では、冨田さんはどうしてこんなスタイルで啓発しようと思われたのだろう? それは行政マンをしていて、行政としての仕事の限界を感じていたからだ。いろいろなことを啓発しようと思っても、本当に聞いて貰いたい人たちに話を聞いてもらうのはなかなか難しいという。例えば子育てをまともにしていない親に啓発しようと思っても、そういう親を集めて講演会なんて出来ないわけで、行政はいろいろ啓発をしてジェスチャーのようなことはしているけれど、実際にはお金を掛ける割には当事者には届いていないし、効果はないのではないかと冨田さんは思うのだ。どうしたら話を聞いてほしい人たちに届けることが出来るのか? いかに関心のない人たちに関心を持って貰えるのか? 講演会とかシンポジウムを開いても、関心のある人、想いのある、そんな話を聴かなくてもよい人ばかりが集まっているという感じなので、いかに無関心な人に関心を持って貰うことが出来るかということを考えたり、行政は予算があるから事業が出来るのだと考えるが、いかに予算がなくても持続して行けるか? いわば行政の永遠の課題に挑戦しようと始めたのがハーレーサンタCLUBのイベントなのだ。

【クリスマスにサンタの格好して走ろう!】
そのイベントとは、クリスマスにサンタの格好をしてバイクに乗って走る…というものだ。バイク好きの人なら「面白そうだな、楽しそうだな」と思って集まってくれる。そこで話を聴かせたい人たちに伝えることが出来る。無関心な人に児童虐待防止のことを知って貰うことが出来る。このイベントには全く予算をかけていない。場所も無料で借りているし、参加するのも無料。行政の事業なら三年で終わるのが一般的なパターンなのだが、このイベントは今年で10年目を迎えるという。

【厳つい人たちにも伝わる啓発活動】
ただ、それだけでは「ふざけているだけではないか?」とか、「それでどうして伝えたいことを伝えることが出来るのだ」と言われるので、パレードに繰り出す前にセレモニーをして、冨田さんや児童虐待防止の取り組みをしているNPO法人『キャブナ』の代表とか事務局長に指導虐待の話をしていただき、その後に実際に幼少期、児童虐待を受けていた人に話をしていただくのだという。女性で、若くてキレイな人にお話をしてもらうと、集まっているバイク乗りの厳つい人たちも「それは絶対にいかん」とか「なんとかしないと…」とすこく感じてもらえて、話も通じるそうだ。大学教授や弁護士さんがお話をされても「可哀想だね」で終わってしまうパターンが多いが、実際に虐待を受けていた人たちに話してもらうと、イベントが終了して地元に帰ってから一歩動いてくれるのだという。例えば「うちはお店をしているから〈児童虐待を見かけたら通報しましょう〉というカードを置いてあげるよ」とか、「家の近所に児童養護施設があったから、今度プレゼント持って行ってみるよ」と言ってくれたり、「近所の子どもには声をかけるようにするよ」「泣いている子どもがいたから、今度からは通報するようにするよ」とメールで伝えてくれたりするのだ。いままでしてきた児童虐待防止啓発の講演会やシンポジウムよりも伝わり、意味があるなと感じているという。

【12月23日にパレードをする理由】 
このパレードは10年も続いているということだが、継続するにもちょっとした工夫がある。年度を入れたステッカーや缶バッチを作成し、ちょっとコレクション欲を煽るようにしているのだとか。ステッカーは左腕に貼って貰う。そうすることによって街を走っていても街頭から何をしているのか解っていただける。これも毎年ブラッシュアップしているそうだ。毎年12月23日にパレードを行っているのにも理由がある。24日がクリスマスイブだからマスコミはそういう〈画〉を報道したいわけだ。23日にパレードをすると24日の朝刊には多い時で全社、少ない時でも二社はカラーで新聞に掲載してくれる。TVも二社は取材してくれて、ニュースで流してくれるのだ。ニュースに流してくれることにより、こんな子どもたちが一番楽しく嬉しいクリスマスの時季に、こんな悲しい想いをしている子どももいるんだよ…ということを知って貰える効果を狙ってのことだという。

【ハーレーでなくても】
ハーレーサンタCLUBというぐらいだから、ハーレーに乗っていないと入れないのでは? と思われるかもしれないけれど、特にこだわりはないとか。〈ハーレー〉というのは解りやすいだけで、〈バイクサンタCLUB〉だと語呂が悪いかなというところもあって、〈ハーレーサンタCLUB〉と名乗っているのだ。だから原付であっても、国産のバイクや外車や国産車、いろいろな車で走って貰っている。パレードの前後には総勢100人の集合写真を撮り、「また来年」という形で毎年行っている。

【自分が生きている世の中よりも、世の中を良くしてから死んで行きたい】
昔は人生50年と言っていたが、平均寿命が延びて人生80年時代に突入した。冨田さんもせいぜい生きてもそれぐらいだろうと、ご自分でも思っている。そして、現在自分が生きている世の中よりも、世の中を良くしてから死んで行きたいなと考えてもいるという。そうこうしている間に東日本大震災が起きた。地域活動を始めようと思ったのが阪神・淡路大震災の時で、今度の東日本大震災の時に『愛チカラ』という団体の創設に関わった。これは愛知県内の各大学の学生たちが震災の復興を自分たちで何か出来ることはないか考えて実践してゆく団体で、バスを貸し切って東北を訪れたり、福島の子どもたちとその親御さんを名古屋に招いたり、冨田さんも自ら名古屋城を案内したそうだ。現在この団体は一般社団法人になっているという。

【地域に飛び出す公務員ネットワーク】
冨田さんのような〈地域に飛び出した公務員〉の全国に何人かいて、「地域から日本を変えよう」という趣旨で年に二、三回会って、オフサイド・ミーティングをしている。

【公園のゴミ拾い】
それ以外にも以前から冨田さんは、池田公園のゴミ拾いをしている。この公園のゴミ拾いを通していろいろな人たちと繋がりが出来て、またいろいろなイベントや様々なことが出来たそうだ。池田公園の周辺にはリッチな人が多くて、そんなことを狙っていたわけでもないが、無償で公園のゴミ拾いをしている変わった人がいるということで、いろいろな方々から支援をしてもらったり、逆に「池田公園で何か面白いこと出来ないか?」と、一緒に企画してイベントを行ったりしている。

【人間は、人間の中で磨かれる】
ダイヤモンドはダイヤモンドの中で磨かれるように、人間も人間と会うことによって、多様な人々と会うことによって成長して行くんだなと思っているという。役所の中だけにいると、役所の人としか接しなかったり、役所の人だけとしか飲み会に行かなかったりする。そうすると役所の常識が全て日本の常識かなと思ってしまう。一歩そこから踏み出してみると、様々な人たちがいて学ばせてもらうという。子どもも親と学校の先生ぐらいしか接しないのだけれど、そうではなくどういう大人に出会えたか、それがその子どもの将来に大きく影響するのではないかと冨田さんは思っている。幸いに教育委員会にいるので、そんな機会を子どもたちに提供したいなと思って、いろいろな子どもたちのためのイベントも、そんな想いでやったりはしているという。

【冨田さんの4Cとは】
ダイヤモンドの価値を決める4Cというのがあるのだが、冨田さんの4Cは〈challenge〉することによって、〈charity〉をすることによって、自分が〈change〉する〈chance〉なんだなと思うそうだ。だからいろいろな人にも一歩外に出ると違う景色が見えるよという話を担当課でもさせてもらうのだが、役所の中にはなかなかそういう人はいない。

【世の中こんなふうに変わって来ている】
一昔前、自分の彼氏や旦那にするには〈高学歴・高収入・高身長〉いわゆる三高のひとがよい条件として求められたが、ちょっと前からは〈低姿勢・低リスク・低依存〉の三低の男性が求められていた。それが現在〈手伝う・手を取りあう・手をつなぐ〉の三手が出来る男性が求められているようだ。最近のカップルをみていると、友だち感覚で本当に仲の良さが伝わって来る。そんなふうに世の中も変わって来ているんだな…と冨田さんは思っているという。

【子どもに大人の格好いい背中をみせたい】
子どもに、大人の格好いい背中を見せたいと常々冨田さんは思っていて、それは子どもに偉そうなことを言うことでも、「あーしろ」とか「こーしろ」とか指示をするのではなく、楽しそうに活動している背中をみせることが大事なのではないかという。未来を良くしたい、そのための種を蒔きたいと、冨田さんは活動をしているそうだ。

【冨田式算数】
冨田さんには独自の理論がある。1+1=2なんてくそ食らえと思っているのだ。1+1は絶対に2以上にするんだ! 人と人とが繋がることによって、ふたりではなくてそれ以上のパワーが発揮出来るんだと思っているし、足し算というのは助けあうこと。引くということは、引き受けること。かけるというのは声をかけることで、割るというのは労ることだよと、自分の算数を持っていて子どもたちにも伝えているという。結局人間は幼稚園や保育園で教えられたことを守って生きて行ければ良い大人になるのだろうし、この算数が出来れば世の中もよくなってゆくのではないかと、冨田さんは思われている。


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