ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.131レポート

2019-05-09 16:52:00 | Weblog
4月1日、新元号が発表された。平成も残り半月になった。ジネンカフェは平成19年1月からスタートしたプロジェクトだが、まさか時代を越えて続けられるとは思ってもみなかった。世の中には変わらないといけないものもあれば、変えてはいけないものがある。VOL.001から少しずつマイナーチェンジをしているジネンカフェだが、プロジェクトの軸は全く変わっていない。私(大久保)もこの2月に還暦を迎え、いつまで健康体でいられるか解らないけれど、続けられるだけ続けて行きたいと思っている。さて、今月のゲストは、NPO法人こどもサポートクラブ東海理事長、みんなのお家「ひなたぼっこ」主宰者の三輪宮子さん。三輪さんは、愛知県丹羽郡扶桑町生まれ。娘さんの子育ての支援で今は名古屋市在住だが、半世紀暮らした犬山が故郷だと思っているそうだ。犬山市の保育士を経て、3人の子育てをしながら自宅で塾経営。末っ子の時のPTA役員として、毎日の学校教育や子どもの育ちの環境を見ているうちに、子ども達にいろいろな体験をさせたいと思うようになり、64人の仲間を誘って2007年に任意団体を立ち上げる。その後、2009年8月にNPO法人の認可を受けた。お話のタイトルは『地域の子どもは、地域で守り育てよう』

【三輪さんの生い立ち】
三輪宮子さんは、愛知県丹羽郡扶桑町生まれ。現在は名古屋市に住んでいるが、半世紀暮らした犬山が故郷だと思っているそうだ。扶桑町で生まれたのだが、農家の5人兄弟姉妹の4番目の次女ゆえに、2歳の時に叔母と従兄弟がいた犬山の尼寺に跡取りとして養女に出されたのだという。養母は保育園の園長も務めていて一緒に寝ると気が散って眠れないとか、風邪がうつると仕事に差し支えるからと寝てはくれなかった。その代わりにお寺の尼さんだった養祖母が母親代わりになって一緒に寝てくれたり、檀家への月経についていったりして完全なお祖母ちゃん子として育った。月経について行って「観音寺の宮子ちゃん」として笑っていれば可愛がられるということをこの時に覚えたという。世の中笑って〈ニッ〉としていれば、みんなが「可愛いね」と言って下さる…。三輪さんは2歳にしてそんな処世術を学んで行ったという。

【中学で受けたカルチャーショック】
小学生になると自分が3月生まれで体が小さいということや、養女ということで〈貰われ子〉と言われて虐めに遭ってもいたが、総じて気の強い子どもで、お転婆で屋根の上に登って昼寝をしたり、木に登ったり、まるで野生児のように過ごされていたとか。三輪さんがご自分の中で転機を感じたのは、中学生になった頃だったという。名古屋市の私立中学に入ったのだが、その頃から世の中が全く違って感じられ、カルチャーショックを受けたそうだ。それまで過ごしていた犬山の楽田地区は田園風景が広がり、山も近く、学習塾など皆無であった。まして〈私立中学〉なんて、近くで有名だった「滝」ぐらいしか知らなかった。母に勧められるままそこを受験して入学出来たのはよかったが、体育の授業で体操服に着替える時に三輪さんはひとりだけ腹巻きに毛糸の下着を身につけていて、同級生から「なに、それ?」と言われ笑われたり、ネィティブな人かと思われるような発音で英語を喋る子がいたり、同じ学習塾出身者同士で仲が良かったり、ちょっと違う世界に来てしまった。そんな感じを受けていたという。

【ボランティア活動の原点】
三輪さんは中学・高校とそこで過ごしたわけなのだが、いま振り返ってみるとご自分のボランティア活動の原点はそこにあったと思っているそうだ。カトリックの学校だったので宗教の時間もあり、「汝の隣人を愛せよ」と他者のことを思いやる心はこの時に培われたかなと思われていらっしゃるし、現在でも他者のことばかりしている友人や仲間が多いのは、やはりここでの学生生活のおかげで、入学出来てよかったなと思っているという。

【成るべくして保育士に】
三輪さんが保育士という職業に就いたのは、これも成り行きなのだとか。お寺が保育園を経営しているのはよくあることで、三輪さんの養女先も元は保育園を営んでおり、そのころ犬山市の保育園長をしていた養母の園に、学校が休みに入るとよく遊びに行っていた。門前の小僧習わぬ経を読むではないが、三輪さんにとってこれは実習みたいなものであったのだ。昔の田舎の園だからできたことですが、保育士さんも三輪さんが来て子どもたちと遊んでくれていると、事務仕事が出来るからと歓迎されていた。こうして三輪さんは保育士に成るべくして成り、その後 犬山市の保育園に9年間勤めていた。

【我が子のために保育士を辞める】
その間犬山市の保育課担当の職員さんと結婚し、一児をもうけた三輪さんは、二人目のお子さんの出産間近に、園長を退任されて三輪さんの子どもさんをみてもらっていた養母さんを亡くされた。一緒に住んでいた義母さんからは「怖いから子どもは預かれない」と託児拒否に遇っていたので、ご主人とも相談の結果、それを機に保育士を辞めることにした。ご主人も犬山市の担当者として保育園を回っていて、3歳未満児が親御さんが迎えに来てくれる夕方まで心細げに待っている姿を見ていたから、我が子にはそんな想いをさせたくはないと思っていて、三輪さんも保育士でありながら3歳未満児を保育園に遅くまで預ける気になれず、それならもう自分で育てようと保育士を辞める決意されたのだという。

【子どもに「お帰りなさい」を言うために…】
保育士を辞められた三輪さんは、ご主人の父母とも同居していたのでそのお世話や、子どもたちの世話をされながらしばらく専業主婦をされていた。そして子どもたちが小学校に入った頃から、再び何か仕事を始めようかなと思われたのだが、ご主人に「春休みも、夏休みも、冬休みもちゃんと休め」と言われていたので、自宅で塾をやろうと思いついたという。それなら自宅に居て子どもが帰ってきた時に「お帰りなさい」と言えるだろう。もし生徒が集まらなくてもプレハブ小屋を建てておけば倉庫になるだろうから…ぐらいな気持ちで、家の敷地内に10畳の小屋を建てたのだ。そうして三輪さんは16年間自宅で塾を経営され、ご自分の3番目の子どもさんが教材を使い終わる頃に〈もう、いいか〉と思われてすっぱりと辞められたとか。

【ボランティアを始めたきっかけ】
三輪さんがボランティアを積極的に行い始めたのは、その3番目のお子さんが学校に通っていた頃で、PTAの副会長をされていた三輪さんは毎日のように雑用で学校へ行っていたという。そうした三輪さんの目についたのは、教室から飛び出してゆく発達障がい児の姿だった。犬山市では昭和50年頃から自閉症児に対しインクルージブな方針が採られていて、発達障がい児も他の子どもたちと同じ保育園に通っている。そしてそういう子どもは保育士さんがマンツーマンでケアをしているそうなのだ。三輪さんも保育士時代、そうしてケアしていた子どもたちが、小学校に入るとほったらかしになっているという現実を目の当たりにして、驚きとも憤りとも付かない感情が三輪さんの中に渦巻いた。しかし、学校の事情も解ってはいた。授業中に教室を飛び出して4階まで駆け上る子どもを誰が追いかけて行けるだろうか? 先生には授業がある。1人の子どものために授業を中断して、先生が追いかけては行けない…。それならばと、その子のサポートのため授業中の教室に入らせてもらえないかと当時の校長に談判し、募って集まった5人の仲間たちと毎日誰か1人はその子に付くという活動を始めたのである。

【活動をまとめよう! ―こどもサポートクラブ東海の誕生】
そうして平成17年のPTAの後からその子のケアをしていたり、〈おはなしおれんじ〉と  いうお話グループを作り、毎月1回全クラスに入って本を読んだり、保育園へ年長児の  茶道指導に行ったりと、いろいろな活動を行っていたのだが、平成19年の秋にこれを一つにまとめようかと立ち上げたのが『こどもサポートクラブ東海』の前身だったいう。メンバーは当時のPTA役員の五役と、その次の年度の五役、次次年度の五役さん、保護司さん、お寺の和尚さん、民生委員さんなどなど、子どものための活動に興味を持ってくれそうな方々にお声がけをして64人でグループを立ち上げ、社会的信用を得るためにその2年後の平成21年にNPO法人化したのであった。初代理事長には、三輪さんたちが学校に入り、活動をすることを許してくれた校長先生を迎えている。

【安定した活動費を得るために…
NPO法人にしてからモリコロ基金や、ドコモ、その他の助成金をいただけるようになり、団体としての活動も広がって行った。それまで1校しか入れなかったが希望があって4校に入れるようになり、朝の8時半から12時半ぐらいまでの間無給で活動してくれる人たちに交通費程度出してあげたいということで、それらの助成金を申請していたのである。しかし、助成金は採れるかどうかわからない、非常に不安定な財源で採れればありがたいけれど、そればかりに頼っているわけにも行かず、もう少し安定した活動費を…ということで3,4年前から企業に声をかけて現在43社からと、社会的地位のある方達から年間1万円以上の寄付をしていただいているという。その代わりに「ともそだち」という1年間の活動報告はきちんと出し、勉強会や、夏に行っている《こどもカルチャー講座》等のチラシには名刺広告として企業名を出させてもらっている。企業としても社会貢献のPRになるし、三輪さんたちにしても安定した活動費が賄えるということで、Win&Winの関係性が出来ているという。事務局経費も含めると、本当はそれだけではとても足りないのだが、なんとかやりくりをして運営されているとか。

【こどもサポートクラブ東海の会員さんは…】
現在、『こどもサポートクラブ東海』は、会員数が100名ぐらい。犬山市、大口町、扶桒町はチラシが入っているので会員さんが多くて、後は名古屋市、稲沢市、各務原市、春日井市、遠くは常滑市とか、豊橋市、豊田市など。発達障害の勉強会をすると、チラシ広告とは違う方法で情報を得て来られる方もいらっしゃり、そういう方たちが情報が欲しいからと会員になって下さることも多いのだそうだ。発達障がい児の支援では全国的に知られていて、40日間ある夏休みのうち46回も講演をされている川上先生にもご無理を言って4~5回来ていただいていらっしゃるという。

【こどもカルチャー講座】
『こどもサポートクラブ東海』にはこうした発達障がい児の支援のほかに、もうひとつの活動の柱がある。もともとこれが一番やりたかったことなのだが、最近の子どもたちは生の体験をしていない。バーチャルな世界で生き物を殺しても直ぐに復活したりとか、他者との会話が苦手だからAIとか、そういうものと会話をしている。そういう子どもたちを見ていると、やはり生で関わらないと駄目だよね…ということで、メンバーに大正琴が弾けたり、木工が上手だったり、草野球のコーチをしていたりと結構個性的な方が多いので、《カルチャー講座》を行おうということになった。

【ひとつでも自分の好きなものを見つけてくれたら…】
最初は9講座から始めて、現在26,7から30講座ぐらい行っているそうだ。今年は7/27~7/28の夏休みの土日に行う。昨年は8月のお盆にかかって行ったので皆さん帰省中だったり、家族旅行中だったりして極端に少なかったそうなのだが、例年2日間で延べ1,000人ぐらいの子どもたちが参加してくれている。たった1日だけの体験だけれど、いろいろなことをして欲しいと三輪さんは言う。学校の勉強だけでその子の評価をされるのは、ちょっと違うかなと思うのだ。勉強は苦手でも運動が出来たり、音楽の才能があったり、細かいことに気づけたり、多様な子どもがいるので、ひとつでも自分の好きなものを見つけてくれたらそれでよい…。そんな発想から《こどもカルチャー講座》を始めたのだった。

【講師は出会う人にお願いしている】
講師は、三輪さんが出会い、その方が何か出来ると「これもご縁だから」と、気軽にお願いするのだそうだ。構図はジネンカフェとそれほど変わらない。昨年、三輪さんは100枚ほど名刺を出したという。いままでは子どもに関する活動をする関係者と知りあうことが多かったけれど、ハーレーサンタクラブと関わるようになりいろいろな分野の人と知りあえるようになれたとか。そのみなさんが他人のために時間を使うことを惜しまない方ばかりなので、そこでいっぱい学ばせてもらっているそうだ。

【満を持して理事長に】
それでもいままで三輪さんは『こどもサポートクラブ東海』の専務理事として活動してきた。一番表に出るよりは、その後ろで企画し実行に移す方が性にあっていると思っていたからだ。助成金の審査委員長から“そろそろ実際に動いている人が代表になるように”と指摘され、昨年満を持して理事長に就任したのだ。

【みんなのお家『ひなたぼっこ』】
そんな大変な時期にも関わらず、三輪さんはもうひとつ事業を主宰することになった。以前から子ども関係の活動をしてきて、子どもの問題をその年代の方だけで片付けようとするのは無理があるなと思うようになってきたのだ。若いお母さんたちだけでは解決出来ないことや、高齢者だけでは解決出来ないこともあるが、多世代が交わることで互いにフォロー出来るのではないか。そういう異年代が交流出来る場が絶対に必要だよねと、昨年の暮れぐらいから思ってきた。幸いにご自分の犬山の家が売るか貸すか、選択肢がそのどちらかしか見えてなかったが、突然ここですればいいかと閃いたという。早速仲間に話をしたら「いいやん」「やろう」ということになった。本当に急な展開で、今年のお正月に子どもたちに「犬山の家、自由にしてもいい?」と確認したら、「いいよ」という答えが返ってきたので、早速1月から改装をしたそうだ。35年も経っているので壁のクロスが汚れていて、それを全部貼り替えた。和室二間と広縁があるところに塾を経営されていた時に使っていた横に長い座敷机を置いて会議をしたり、高齢の方が将棋や囲碁や麻雀(そういう道具もあったという)をしたり、手工芸や趣味の講座を開いたりする場に活用されることが期待されている。

【ボランティア連絡協議会の会議の場としても】
また、犬山市のボランティア連絡協議会が現在使っている福祉会館が、耐震の関係で解体されて会議をする場所がなくなる。解体後は有料で会場を借りて会議をしなければならなくなるけれど、ボランティア連絡協議会にはそんな余裕はなく困っていると伺ったので、「ボラ連の方もどうぞ使って下さい」と会議の場に使っていただけたらいいなと申し出ているという。

【みんなが集える場にしたい】
三輪さんがもうひとつ、この『ひなたぼっこ』に期待されていることがある。12~13年間発達障がい児の支援に関わっていて、親の会を運営されているのだが、親御さんたちが自由に相談したり、愚痴をこぼしたり、ランチをしながら自分を吐き出す場を作っているので、そういう時の基地が欲しいなと思っていたこともあり、そこで子どもさんを遊ばせながら集うことが出来ればいいかなと。10畳と4畳半の洋間にクッションマットを敷いて、絵本とか育児書や知育玩具を置いておいて、遊ばせながらお母さんたちが話せる場になればなと思っているそうだ。昔から近所に住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんがひとりで暮らしてみえる。その方たちにもたまにはみんなでご飯を食べに来て下さいと言えるような場所にしたいなあと思って整備しているそうだ。内装の方はもう殆ど済んでいて、あとカーテンとエアコンを取り替えなければいけないのだが、外周りにビザ窯と竈とBBQ窯、砂場を予定していて、仲間たちが出来る範囲で、得意なことを持ち寄って快く建設を手伝ってくれていて、本当にありがたいことだと感謝している。順調に行けば7月にはオープンの予定だという。

【勢いに任せて突っ走る三輪さん】
三輪さんは更にそれらに加えて、新たに活動の場を広げてゆく。犬山市というところは、市民活動は盛んな土地柄なのだが、それぞれがそれぞれに活動されていて、協働で何かをするというのは弱い部分があって、もう一歩踏み込めば…と思っていたという。繋ぎの立場が曖昧だったのかも知れないし、コーディネートが巧くいってなかったのだろう。この度、福祉会館が解体されることになり、それと共に市民活動センターも動くことになったのだそうだ。それを機会に市民活動センターの運営をする母体をプロポーザルで決めることになった。各市民活動団体にも募集が出されるのだが、『こどもサポートクラブ東海』にもプロポーザルに手を挙げてくれるよう打診があったという。でも、殆どの団体は「ちょっとそんなところまでは無理だから…」とばかりに手を挙げない。現在市民活動センターを運営している団体が「どうせどこも手を挙げないから、またウチになるだろう」と嘯いているのを聞いて、「それはまずいだろう。それでは何も変わりはしないし、みなさんそれぞれによいところをもちながらも出られないのは、ちょっといかんよね。みんなが力を合わせれば何とか出来るのではないか?」ということを3月に話していたばかりなのだが、もう中間支援団体を立ち上げることに決まり、都市計画の専門の先生も中に入ってくれ、全面的に支援してくれているという。現在、文章の作り方とか教えていただいているそうだ。こうして三輪さんは、犬山のまちづくりというか、中間支援組織にも手を出すことになったのだ。こんなに一挙にやってよいのだろうかと思いつつも、三輪さんの勢いは止まることを知らないようだ。

【みんなが役割を持って、生き生きと】
勢いに任せて突っ走っているのはよいけれど、勢いか付くのが年齢的にこんなに遅くてよいのだろうか? というのが三輪さんの現在の偽らざる気持ちだ。現在取り組んでいる活動を安定させようと思ったら、あと10年は若くなくてはいけなかったかと…。ご自分が2~3年で倒れたら…と考えると、『こどもサポートクラブ東海』に関しては理事がしっかりしてきたので何とでも運営して行ってくれるだろうけれど、『ひなたぼっこ』の方は折角立ち上げたものが消滅してしまうというのも嫌なので、安定するまで頑張れるかなと自信がなかったものの、イケイケでやってしまったという。まあ、ご自分が病気で主宰ができなくなったとしても、「留守番ぐらいなら行ってもいいよ」という会員さんもいるので、そんなふうにみんなが役割を持って、生き生きとして下されば嬉しいかなと思われているそうだ。

【いつでも発展途上でありたい】
そして三輪さん自身は年齢に関係なくいつも発展途上でありたいと思っているし、他者を気遣うたくさんの仲間に恵まれて、その中で自由に動かせてもらっているという。先日もラジオに出演する機会があった時にも話したのだが、三輪さんにとっては一番大切な、中学からの大親友がいらっしゃる。いつも三輪さんのすることを肯定し、文句ひとつ言わずに背中を押してくれている。その子に勇気づけられて、活動して来られて感謝しているという。

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