今年の梅雨入りは早かった。その上エルニーニョ現象の影響なのか台風が早くも発生し、前線を刺激して災害級の雨が降る。日照時間の短いこと。こんな時には食べ物も黴びる恐れがあるが、ともすれば人間も黴びて来てしまいそうだ。こんな時には爽快な生き方をされているゲストさんをお呼びして、お話を聞くのが一番だ! というわけでもないが、6月・ジネンカフェVOL.142のゲストは、(公財)名古屋国際センター事業課主事の池田昌代さん。これをお読みになられている中にも、国際センターって名古屋市営地下鉄の駅名にもなっているけれど、実際にどんなことをされている機関なのかご存知ない方もいらっしゃるだろう。実は私もその口で、駅には何度も降りたことはあり、待ち合わせのために建物の中に入ったこともあるのだが、3Fのセンターには出入りしたことがないのでどんなことをされているところなのか知らないのだ。その謎も後半で明らかになる。題して『知らない場所で生きるには〜予定はミテイ、脱線はハッテン』はじまり、はじまり。
【教員志望でも勉強嫌いな女の子】
池田昌代さんは豊川市(旧音羽町)のご出身。2008年からカナダへ行っている間に音羽町が豊川市と合併したので、行く前は音羽町民だった筈なのに、帰って来たら豊川市民になっていたという市町村合併の洗礼を受けたひとりである。カナダに行く前は会社員をされていたそうだ。もともと教員志望だったので大学も教育学部に通っていたのだが、勉強がそれほど好きではなく、教員採用試験の勉強もあまりしていなかったので、周りが採用試験に合格してゆく中、池田さんだけ、教員免許はあるものの採用されることはなかったという。
【カナダからの帰国後、外国籍児童担当教員として勤める】
大学卒業後、会社員を6年ほどされていたが、英語や海外には興味があったので一念発起で退職し、ワーキングホリデーの制度を使ってカナダへ渡ったそうだ。そこで一年半過ごし、帰国されてからはせっかくの教員免許を活かそうと思い、たまたまポストが空いていた外国籍児童担当教員として勤めることになった。豊橋や豊川には外国にルーツを持つ子どもたちが多く、愛知県からそのための講師雇用に予算がつけられている。そのポストに空きがあり、年度途中の9月から学校勤めをすることになったのだ。クラス担当というわけではなく、多い時で一時間に4〜5人、多様な学年でルーツもバラバラな子どもたちがひとつの教室に集まって、日本語やいろいろな教科の勉強をする。そのための先生であった。
【もう一度教師採用試験を受けようと考えたけれど…】
池田さんはその仕事が好きだった。この仕事をずっと続けて行きたいと思い、もう一度教員採用試験を受けようと考えたほどに。しかし、受けるのであればもっと教員として当たり前のこともしなければいけなくなるだろうとも考えた。つまりクラス担任である。当時も常勤で働いていたのだが、クラス担任になると仕事量が半端ではない。この頃から既に教師不足が指摘されていて、池田さんも二年続けて「来年はクラス担当をしてもらうからね」と言われていたのだ。そんな働き方は自分には無理だと思った。それに何よりも池田さんは、外国籍児童に教えることが好きだったのである。始業前のこれからどんなことを教えてもらえるんだろうという好奇心と期待とが混ざったような瞳。知識を学んで行くに連れて喜びと次は何?と言わんばかりに輝くように綻ぶ顔。
【運命を変えたJICA研修参加】
丁度その頃JICA中部が行う『開発指導者研修』、それと並行して行われながら夏休みには現地研修へ行く教員向けの『教師海外研修』について知り、池田さんは即座に参加することに決めた。その年の現地研修先の1つがブラジルで、外国籍児童担当教員として日系ブラジル人の子どもたちを教えることが多かった池田さんは、彼らのルーツの国を体感してみたいと思ったのだ。
その研修で、JICAの日系社会青年ボランティア(現在は青年海外協力隊に統一されている)について知ることになる。
【日系社会青年ボランティアへの挑戦】
JICAの現地研修は池田さんにとってよい経験だったし、その時に知りあった先生方とも今もお付き合いがあるのだが、彼らは当時皆正規採用の教員だった。JICAのボランティア(海外協力隊)には現職教員のままでも参加できる制度があるが、学校や地域の教育委員会の推薦等を経て希望を出してから3年〜5年後にやっと行けるか行けないか、というところだそうだ。でも池田さんの場合は当時常勤講師で一年ごとの契約だったので、講師を辞めれば直ぐにでも参加できる立場だった。
一方その頃池田さんが豊川でしていた外国にルーツのある方に日本語を教えるボランティアのグループの中に、青年海外協力隊経験者の方が二人いらした。とても素敵な方々で、その人たちからもお話を聞いたりしてますますJICAボランティア参加への想いを募らせていく。
ブラジルでボランティア活動や生活をしてくれば、帰国してからもまた外国籍児童担当教員として働くための大きな糧になるのではないかとまだ見ぬ未来への期待を膨らませ、研修同期の現職教員たちや地元の先輩たちに背中を押され、池田さんは研修から導かれるように日系社会青年ボランティアへの応募を決意した。
【選考試験に通り、晴れてブラジルへ】
その年の募集でブラジルからは1つだけ「文化」という幅広い要請が出されていた。普通日系社会だと「日本語教師」とか「特定のスポーツ指導が出来る人」(池田さんの同期にはバドミントンの指導者がいらした)、日本文化であっても「エイサー(沖縄と奄美群島に伝わる伝統芸能)」「和太鼓」等々特定分野の知識や経験が求められるそうだが、この時に要請されていた「文化」は、要件が「何かの指導経験がある人」だったという。指導経験と言えば池田さんも二年半教員として勤めてきたわけだから当然応募資格はあるだろう。そうはいうもののJICAの選考試験は極めて厳格で、細やかな健康チェックはもちろん、面接も行われ様々なことを質問される。「茶道経験あり」と書いたものの池田さんは高校時代にかじった程度だったので「申し訳ありません。わかりません。勉強してきます」と答えた。池田さん曰く、謙虚な姿勢と応募者が少なかったことが幸いし、晴れて合格となり、ブラジルに行けることになった。
【日系コミニティー・タウバテ】
ブラジルの日系社会は、100年以上も前に始まった移民政策で日本からブラジルに渡った人たちがそこで家族を作り、二世、三世と世代が代わってゆく中で、学校や日本語学校を自分たちで運営していたという。そういったブラジル全土にある日系コミュニティに池田さんたち同期の30余名が散り散りバラバラに飛ぶことになった。
池田さんが入ることになったタウバテの街の日系コミュニティでは、既に4名が2年ずつ、合計8年、JICAボランティアの日本語教師が活動しており、受け入れ先のタウバテ日伯文化協会が次に5人目の日本語教師を呼べるかどうかわからないので、「文化」という幅広い分野で要請を出したのではないか、と池田さんは思ったそうだ。
【初カルチャーショック】
池田さんがタウバテの日本語学校に入って初めての行事が〈運動会〉であった。日系の方々が日本式の〈運動会〉を行うということで池田さんも参加されたのだが、運動会定番の種目〈綱引き〉競技の仕方が独特で驚かされたという。日本の場合、綱を引き合う双方の力が均等になるように予め人数を揃えたり、男女差や大人と子どもの割合を整えたりしてから競技を行うものだけれど、そこではそんなことにはお構いなく目一杯〈綱引き〉を楽しんでいる感じだった。綱を引き合う双方のバランスもバラバラで釣り合いが取れていないばかりか、盛り上がってきたなと思ったら周りで見ていた人たちまでも参加し始め、左右のバランスも何もない状態。圧倒されている間に勝敗が決し、勝った方のチームは当然喜んでいるが、負けたチームもそれほど悔しそうではなく、むしろ「楽しかったね」と笑い合っている。池田さんはその時「なんだこれは?!」とショックを受けた。「凄いところだな〜。こういうところで2年間生活するんだ」と思ったそうだ。最初は圧倒されたものの、池田さんには次第にそのことが好ましく思えてきた。日本のようにキッチリ行うのも良いが、多少の不均衡は狡いなどと思わずにみんなが楽しいことを分かちあい、誰もが笑顔を浮かべている。これはいい、と。ただ、これまで自分が経験して来たことと全く異なる光景を目の前にしてただ単純に戸惑ったのだ。JICAの研修でも「日本とは文化が違うから、自分の考えだけで動くな」と言われたが、その言葉の意味を実際に体験したのはこの時が最初だった。
【自分はクロージングの仕事をしに来たんだな】
タウバテの日系社会は成熟していて、ボランティアの受け入れもしっかりしたところに池田さんは入った訳だが、やはり協会の人たちも、一応JICAには要請は出したものの、もう8年間もボランティアに来てもらっているので、他のコミュニティにも譲らなければいけないかなと思われていたらしい。自分はクロージングの仕事をしに来たんだな、ボランティアがいなくても回るようにするとか、何かを残してゆくことが役割なんだな、とぼんやりと思ったという。そんなことを思いながら、主に週末に開催される日本語学校では、子どもたちに手遊びをしながら日本の歌を教えたり、茶道も書道も算盤もひと通り齧っていたのでそれら教えたりしていたそうだ。また、日本語教師資格はもっていなかったが、教師をしていたという経歴からもう少し歳の大きな子どもたちにも日本語を教えていたとか。
ブラジルの日系社会はその地域によって様々な特色があるが、池田さんが入ったタウバテは工業地帯で、ブラジルの航空機会社のエンブラエルや、フォルクスワーゲンの工場があり、豊川に似た規模の街であった。日系人と現地の方のカップルのお子さんも多く、日本語学校には、全く日本にルーツはないけれど日本語を教わりたいという子もいれば、日系人だけれど日本語を勉強するというよりは遊びに来るように通って来ていた子どももいたそうだ。
【ブラジルの学校事情】
その傍で池田さんは、帰国してから何かの役に立つかも知れない、と、現地の子どもたちが通っている学校を見学させてもらいに行ったという。文化協会に現地校の先生がいらして、その方にお願いして見学させてもらったのだ。ブラジルは午前中の授業で終わり、午後の授業だけで終わり、という感じが多く、日本のように一日中授業をすることがあまりなかった。だから先生方の働き方も様々で、午前中・午後・晩〜夜間とそれぞれの時間帯で違う学校を掛け持ちして働いている方もいらっしゃるとか。池田さんは現地の子どもたちと一緒に折り紙で折り鶴を折ったり、日本語の挨拶や文字などの紹介をしたそうだ。
【お年寄りの仲良し会】
タウバテ日伯文化協会にはお爺ちゃんやお婆ちゃんの会もあり、日本語で話す機会を求めて『仲良し会』と言う集まりを持っている。日本人一世の方もいれば、二世の方もいらっしゃり、二世の方の中にも日本語の方が得意という方もおられるとか。皆さん持ち寄りパーティーやビンゴが好きで、食べ物を一品ずつ持ち寄ったり文化協会のキッチンでお料理を作り、池田さんたちが提供する川柳や習字、体操などのアクティビティをされたりして、ビンゴゲームをして帰る…みたいなことをされていたという。
【日本語教師?としての2年間】
日本で国語の教員免許を持っている池田さんだが、国語を教えるのと日本語を教えるのは別物で、先生だから日本語を教えられる、日本人だから日本語を教えられるというものではないという。しかし、ネイティブの日本人は貴重な存在、要請の職種は日本語教師ではなかったが、結局協会の日本語学校で日本語を教えることも仕事になり、2年間の任期中は同期派遣の仲間に助けてもらっていたとか。隣町にも同期がいて、池田さんが困っている時には「こういう教材を使ったらいいよ」「こんなふうに仕掛けると面白いよ」と教えてくれたり、アマゾンなどブラジル各地にいる同期もオンラインで「こんなのやったらどう?」と教えてくれた。
日本語を教えること以外にも、突然シャワーが出なくなったり便座が割れたりなど、困るけれど面白おかしい事態に何度も遭遇したそうだが、本当に周囲の人たちに助けられながら2年間異国の地で過ごしていたという。
【ゲートボールデビューを果たす】
ブラジル滞在中、池田さんは協会の人たちに誘われてゲートボールにも挑戦し、サンパウロ大会にも出場したそうだ。日本ではゲートボールというと高齢者のスポーツというイメージが強いが、ブラジルでは結構若い人も競技しているらしい。日系人だけではなく、現地の方々も楽しまれているという。しかし、まさか自分の人生の中でゲートボールをすることになるとは、池田さん自身も思ってもいなかったとか。
【ブラジルの食卓】
タウバテの池田さんが住んでいた家の程近いところに、日系の方が経営されていた『シバタ』というスーパーがあり、ブラジルで栽培されている日本米が販売されていて、白米は食べられた。最も池田さんは和食だろうが、洋食だろうが、美味しいものなら何でも食する人なので、食べることには困らなかったという。ただ、任地に入った初日に「ご飯をご馳走しましょう」と連れて行ってもらったお店で、定番の『ポルキロ』をご馳走になったそうだが、これはお皿に取った料理の量り売りで、どれも美味しそうで量をあまり考えなかったことと、材料として使われているデンデヤシの油が体にあわなかったらしく、初日からお腹を壊したそうだ。でも食で困ったのはそれぐらいで、後は何でも美味しく食べられた。ブラジル料理として有名なシュラスコは家庭でごく普通に行うもので、基本的には男性がホスト役になることが多く、シュラスケイラという専用の場所を設置している家はそこで焼くものなのだそうだ。日本のBBQとは違うようだ。
【昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?】
食べることが好きな池田さん、食に関する話はまだ続く。タウバテの日本語学校の先生方や協会の人たちの多くは日系の方達で和食を作られることも多く、池田さんのところにも届けたり分けたりもしてくれたそうだ。また、日本ではまずあり得ない話なのだが、「先生、うちのバナナ採れたのでどうぞ」と言って、枝のままバナナを貰ったこともあったという。これには池田さんも驚いたのだが、ブラジルでは畑などの風よけにバナナの木を植えている家があり、枝ごとボキッと折ったりするそうで、ブラジルでは普通なんだと思い直したそうだ。市場にはバナナだけを販売しているスタンドがあり、ある時「昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?」と訊かれて〈え? バナナはバナナじゃん。〉と思ったが、ブラジルではバナナでもいろいろな種類があるのだ。大久保調べではオウロバナナ(いわゆるモンキーバナナ、小さくて濃厚)・マッサンバナナ(少し小さめでリンゴのような香りが特徴的。甘味もコクもあっさりしている)・プラッタバナナ(少し小さめで甘味もあっさりしている)・ナニカバナナ(日本でも見かける一般的なバナナ)・テッハバナナ(生食できない料理用バナナ)など。日本にいるとモンキーバナナとフィリピン産バナナの違いぐらいしか分からないのだが、ブラジルに行ったら「どのバナナが好き?」と訊かれ、“これも日本語の勉強に使わなくては”と考え、『どれが好きですか?」とか『どの(名詞)が好きですか?』を教える時や、日本風に『これ、つまらないものですが…』とものを贈る時の練習にもバナナの枝の絵を使うなど、バナナと現地での経験をしっかり使って帰って来たという。
【トラブルを楽しむようになるにはトラベルに出なければ】
こうして2年間の任期を終えて帰国した池田さんだったが、苦しいこともあったけれど同期にも恵まれて楽しかったという。池田さんは大丈夫だったけれど、住んでいた近くでも殺人事件があったり、銀行強盗が起きたりしたそうで治安は確かに日本と比べて悪く、同期にも強盗に遭って履いていたナイキのスニーカーと、買ってきたばかりのヨーグルトを盗られた子がいたそうだ。その時は「怖かった」と言っていたその同期の子も、別の同期の子に「凄いネタ拾ったじゃん」と明るく励まされ、その強盗にあった子も明るい性格だったから「そうだよね。ネタだよね。生きてるもんね」と切り返していた。もともとネガティブな性質の池田さんが、現在ポジティブに見えているのはこうした海外でのトラブルを楽しんできた体験が大きいのではないかとご自分で分析されている。
【やはり自分は裏方向きではないか?】
帰国後も外国籍児童担当教員として学校に勤めたいと思ってブラジルに行った池田さんではあったが、同期の隊員が皆いろいろな企画をたくさん考えたり、人を呼んでくるようなことが上手で、どちらかと言えば池田さんはその後方支援・裏方仕事が得意、それで「ありがとう」と言われることが嬉しいとさらに強く感じていた。教員にはなりたいけれど、なればきっとクラス担任をしなければならないだろうし、兎にも角にも今は裏方仕事がしたい!と思いながら帰国したのだった。帰国してすぐに、派遣前の教員研修を一緒に受けた方が産休に入るのでその間だけ自分の代わりに非常勤でも良いから入ってくれない? と言われ、非常勤講師として勤めたのだそうだ。その時は特別教科で1年生から6年生まで日本人の子どもを教えていたのだが、ご自分でも授業が下手だなと思ったし、日本人の子ども達とのコミュニケーションも楽しかったけれどあまり上手くいかないなぁ、やはり自分は裏方向きだ、と改めて思い、外国籍の子どもと関わるのはボランティアでも出来るからと、事務職の仕事を探し始めたそうだ。
【名古屋国際センターの嘱託職員になる】
すると、たまたま名古屋国際センターの『事務職。一年契約。更新有り』という募集があり、国際センターという言葉の響きに事務職、「ここ、いいじゃん。」と軽い気持ちで応募した。その年度が約7年ぶりの採用試験だったそうで、久しぶりということでか応募者が少なかったらしい。池田さんは補欠合格だったので「これはダメだな」と思っていたら、運が良いことに合格者の中に辞退者が出た。こうして晴れて池田さんは名古屋国際センターの嘱託職員として働くことになったのだった。
【名古屋国際センターに入職してみたら】
しかし、入ってみたら仕事は事務だけではなかった。事務仕事ももちろんあるが、企画や調整、交渉といった仕事もある。人影に隠れてその人を輝かせるための事務仕事がしたかったのに…と思ったが、企画をしたりイベントをしたり。ロクに下調べもせずよくわからない団体で仕事を始めてしまった…と、池田さんは思った。学生時代にキチンと就職活動をしていれば受験する会社のこともしっかり調べるけれど、ご本人曰く、教員採用試験受からなかった組の池田さんは急いで就職しなければと求人広告を見て応募した会社にラッキーにも採用されたみたいな人だったので、就職活動がどんなものかもあまり知らなかったという。この時も国際センターのことを知らないまま受験したが、それでも受かったのは、履歴書に「カナダに行ってました」とか「ブラジルに行ってました」と記して、〈趣味・特技〉の欄に〈趣味〉程度のつもりで「ポルトガル語」と書いたのを〈特技〉だと思われたのかも知れない、と笑っておられた。
【名古屋国際センターとは何しているところ?】
そもそも名古屋国際センターとは何をしているところなのか? ざっくりと言うと、在留外国人の方々の相談を受けたり、名古屋圏にお住まいの市民の方々に異文化理解をしてもらう、多文化共生について知ってもらう、そういう意識を持ってもらうよう働きかける。そんなことを仕事としているところだ。名古屋国際センターでは情報を多言語発信されており、昨年度までは紙媒体で日本語版の『NIC NEWS』、英語版の『NAGOYA Calendar』、WEB上でポルトガル語と中国語の『NAGOYA Calendar』を発行していたが、今年度から紙媒体のものは辞めてWEB上のみで見ていただくものになっているという。子ども向けには『子どもニック・ニュース』を紙で発行していて、こちらは名古屋市内の小学校の高学年の子ども達に配布しているそうだ。また、多言語相談対応は今年度からは日本語と英語を含めて11言語対応になっているという(日本語、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、ハングル(韓国語)、フィリピン語、ベトナム語、ネパール語、インドネシア語、タイ語)。ただ各々の言語のスタッフさんが来られる曜日や時間が限られているので、いつも対応できるとは限らないという。要確認ということだろう。
【在留外国人の方にとって心の拠り所であり、心強い機関】
池田さんたちセンターの職員さんが相談に乗ることも多々あるのだが、名古屋国際センターには専門相談員さんがいらっしゃる。行政相談員さんが毎日必ずお一人、教育相談員の先生が週に三日間、行政書士会から行政書士の先生は週に二日午後のみ来て下さり、弁護士会から弁護士の先生も週に一回午前中に来て下さる。行政書士、法律相談、教育の相談は、要予約になっているそうだ。いずれも通訳さん付きで相談出来る。外国の方が日本で暮らすためには必ず在留資格というものが必要で、相談の内容によっては在留資格が大きく関わってくる。相談を受ける時にはまず在留資格を伺って、その人の在留資格に応じた対応をお話しなければならない。入国管理局の方も月に一度来て、入管相談ということで在留資格そのものに関する相談にも乗ってくれるという。これも予約が必要だということだ。その他、難民支援本部さんもセンターとの共催で難民の面接などもしているし、こころの相談もカウンセラーの先生がスペイン語・英語・ポルトガル語・中国語で直接話を聴いてくれるという(要予約)。
名古屋圏にお住まいの在留外国人の方にとっては心の拠り所であると共に、これほど心強いセンターはないだろう。
【情報発信や相談の他にもいろいろしてます】
前述したように名古屋国際センターでは情報発信や相談対応の他に、イベントや研修も行っている。
若者向けのグローバルユース事業は、35歳までの人たちが集まってイベントしようとか、こんな感じで勉強しようとかやっている。池田さんはその部署から離れてしまったので現在どんな感じなのかよくわからないのだそうだが、若い職員が担当となり、とても良い雰囲気で盛り上がっているなぁと思って見ているという。
日本語教室は、ボランティアさんが先生になって子ども向け・高校生向け・大人向けの三教室を日曜日に行っている。高校生向けの教室は近年新しく出来たのだが、親御さんが先に日本にいらしていて、後から子どもを呼び寄せるケースの場合、子どもさんが現地で中学を卒業しているかいないかは大きなポイントで、日本に来られた時に次のステップに進むためにも中学卒業資格を持っていれば高校受験が出来(日本語の勉強や受験勉強は必要になってくるにせよ)、進路の取り方が変わって来る。中学を卒業していないのに、中学卒業年齢になっている子どももいる。そういう子たちは高校進学のために中学卒業資格を取得しなければいけないので、例えば中学卒業認定試験の勉強もしなければならなくなる。そのため高校生日本語教室に関しては、高校生と、高校には行ってないけれど高校に行きたい子たちが通って来ているとか。その他にも名古屋国際センターでは、まちづくり事業として地域の方と一緒にお祭りやイベントなどもされていたそうだ。
【災害時のために】
また、災害時の対応や防災について。外国の方は日本人のように学校で防災訓練をしたという経験もないし、母国とは気候も全然違うし、地震がある国・ない国から来られている訳で、地震のない国の方は地震のことをご存知ない。日本では建物の耐震が結構しっかりしているので、地震が起きてもすぐに外に出てくださいとは言わない。先ずは机の下など頭や体を保護できるところに隠れて、素早く火の始末をし、ドアや窓を開けて逃げ道の確保を図ると言うことが手順なのだが、国によっては崩れやすい建物のところもあるので地震が起きたらすぐ建物の外に逃げて下さいという対応をとっている。そういう日頃からの災害への意識や知識、日本での対応の仕方などの防災普及啓発の事業も行っている。毎年9月には名古屋市の総ぐるみ防災訓練があり、国際センターの職員もどこかの区の防災訓練に外国の方とともに参加しているという。
【やさしい日本語啓発】
これも災害時の対応がきっかけで生まれた啓発事業。災害時に難しい日本語で情報を貰っても、外国の方はわからない。池田さんたちがよく例として使うのが「高台に避難して下さい」という言葉。「高台」と「避難」二つの難しい言葉が使われているが、これをやさしい言葉に言い換えるとどうなるか? 正解はないのだけれど、例えば「高いところに逃げて下さい」。これにジェスチャーや顔の表情などを加えると一層わかりやすくなるそうだ。「飲食厳禁」と壁に貼ってあって例えカナがふってあっても、読めるけれど意味がわからない。「食べたり飲んだりしてはいけません」とか「食べてはいけません。飲んでもいけません」にし、絵を添えたりしてもわかりやすい。相手に伝わるように書き換える、言い換えるのが、やさしい日本語だ。国際センターは出前講座の形で、学校とか非営利団体さんとかに出向いての啓発活動も行っている。
【海外の子どもたちの識字教育のために】
日本ユネスコ協会連盟さんが進めておられる途上国への識字支援に、(公財)名古屋国際センターの自主事業として募金をしている。書き損じのハガキを集めてそれを現金化し、日本ユネスコ協会連盟さんを通じて海外の子どもたちの識字教育のために役立てていただくという。
【国際センターのライブラリー】
名古屋国際センタービルの3階に情報サービスカウンターがあり、そこに常時職員が2名いて、英語と日本語で対応されている。お客様がみえるとそこで用件を伺って、日英以外言語ご希望の方はそう言えば、中で翻訳作業をされているスタッフがいるのでその職員が対応して下さるそうだ。
また同じフロアのライブラリーには、『国際協力』とか『多文化共生』『異文化理解』に関するものや各国・地域の書籍等々、日本語のものも外国語のものも置いているという。このライブラリーは出入り自由で、飲食は基本出来ないけれど静かで、ここで読書をしている人も多いという。面白い書籍を取り揃えていて、例えば『日本紹介』のコーナーには、話題になった『日本人の知らない日本語(マンガ)』とか『名古屋弁』『日本史』『日本の暮らし』『英語落語で世界を笑わす』などもある(これらの書籍はもしかしたら普通の図書館にもあるかも知れないけれど、とのこと)。他にも日本語教材(日本語の教科書)も別のコーナーで取り揃えているという。
【似ている言葉】
今回、時間に余裕があればライブラリーの書籍を紹介できたらと思い、本好きな同僚に「お薦めの本選んで」とお願いしたところ、3冊のシリーズ本を選んでくれたので、と実際に持参された。そのうちの1冊が『似ている言葉』という本。例えば「サンデー」と「パフェ」の違いはなんだ? 他にも「あんみつ」と「みつまめ」の違いとか、「糸こんにゃく」と「しらたき」、「はす」と「睡蓮」の違いとか。みなさんはおわかりになるだろうか?国際センターのライブラリーでぜひ同書を手に取ってみてほしい。ちなみに同じシリーズで英語を取り上げたもあり、「ビック」と「ラージ」との違いは、「ビック」は「わぁ、大きいと思うもの」で、「ラージ」は「他と比べて大きいもの」だそうだ。
【言語は難しい、日本語も難しい】
昨年度(2022年度)から池田さんは、多言語翻訳のコーディネートをされている。名古屋市からの行政文書や名古屋国際センター内の文章の翻訳依頼を調整して多言語スタッフさんに翻訳の依頼を出し、戻って来たものをチェックして名古屋市やセンター内の担当部署に納品する仕事だ。その中で池田さんが感じていることは、言語って難しい、日本語って本当に難しい!ということだそうだ。そこでライブラリーで目についたのが『翻訳できない世界の言葉』と『翻訳できない世界のことわざ』の二冊。例えば『翻訳できない世界の言葉』の中には日本語が4つ載せられている。「木漏れ日」「ボケ〜っと」「侘び寂び」「積読」。ちなみに、池田さん自身の思う翻訳できない日本語の最たるものは「よろしくお願いします」だという。英語でも、ポルトガル語でも、それに対応する言葉はないらしい。
【池田さんが好きだったポルトガル語】
ブラジルで話されているポルトガル語で同書に載っているのは「サウダージ」。ポルノグラフィティの曲のタイトルにも使われていて、「郷愁」とか「淋しさ」とか「哀愁」といった意味合いをもつ言葉。恋しい訳ではないけれど、遠く離れていて長年会ってなかったりすると「ああ、サウダージ」と言ったりするそうだ。
ポルトガル語と言えば、池田さんがブラジルで覚えて好きになったポルトガル語単語は「アプロベイタール(aproveitar)」という動詞。使われていた状況からすると、何かをする時ついでに何かをして利益を取ってくる、得する感じ。日本にも「行きがけの駄賃」という言葉があるが、例えば誰かがどこかに行くのに車を出すから一緒に乗せて行ってもらう時に「アプロベイタしたら」という感じで使っていたそうだ。
【チラカスカして、トマカフェしましょ】
話は流れでポルトガル語単語からブラジル滞在中の言葉についてに。
ブラジル日系社会は、文章は日本語、名詞や動詞をポルトガル語にした「コロニア語」と呼ばれる混ぜこぜの日本語で話をしたりする。池田さんがよく憶えているのは「チラカスカしたら、トマカフェしましょ」というひと言。「チラ」はチラール「剥く」という意味で、「カスカ」は「皮」のこと。「トマール」は英語の「ハブ」或いは「ティク」で「カフェ」は「コーヒー」。つまり「皮を剥いたらコーヒー飲みましょう」という意味だとか。どうしてこの言葉をよく聞いたのかと言えば、日系人協会で資金集めのお祭りなどをする時には日本食を作ってそれを売ったり、会費制のパーティーで日本食の提供をし、みんな大好き・ビンゴもして、お金を集める、ということをよくしていたからだ。そういう時には朝早くから出掛けて行って料理の準備をする。ニンジンの皮をめちゃくちゃ剥いて散らかす。それが終わったらコーヒー飲みましょう。休憩しましょう…みたいな感じで、日系の方々はポルトガル語と日本語を混ぜて使われていたそうだ。池田さんは、このような言語生活の中で名詞はわかるものが増えたけれど、動詞の活用となると全然わからないそうで、文章にならない。だからポルトガル語は話せないという。
【ライブラリーには絵本もあります】
さて、話は国際センターに戻る。今回このような機会をいただいて、せっかく錦二丁目のスペース七番で話すのだから、時間があったら会場に縁のある故・延藤先生がお好きだった本の話題も出したいと思っていたそうだ。ライブラリーには絵本も配架されていて、月に1~2回程度ボランティアさんによる外国語と日本語、2~3の言語での絵本の読み聞かせも行っている。この6月はジネンカフェvol.096ゲストの伊藤早苗さんのところで知りあったスウェーデンの方に読み聞かせボランティアの話をしたら、ご本人も奥様も「いいね」「素敵ね」と言ってくださり、旦那さんが読みに来てくれるそうだ。コロナ前は会場に何人入っても気にせず、マットを敷いて子どもさんはそこに座わり、親御さんはお子さんと寄り添って座ったり後ろで見守ったりして参加している感じだったという。コロナ中はなかなかそれが出来ず、5人とか10人までとか人数を制限して行っていたが、前回から参加定員を増やしたという。
ちなみに延藤先生と言えば、延藤先生が早苗さんのところで紹介された『わたしたちのてんごくバス』の英語版を池田さんは自分で買って、その本の話を小学校で絵本の読み聞かせ活動をされている知りあいに話したら、その人がご自分で日本語版を買われて学校で読み聞かせをし、子どもたちに好評だった、ということもあったとか。
【ライブラリーには洋書もあります】
ライブラリーの絵本コーナーの反対側には洋書のコーナーもある。これら外国語の絵本や書籍には市民のみなさんからの寄付本も多く、貸出本として出せる状態のものはライブラリー内に配架をし、来館者に読んでいただいたり、借りていただけるようにしているが、寄付が配架本と重複する場合や、読むのには差し支えないものの損傷や書き込みなどがある場合は、ブックバザーを実施して来館者に差し上げる代わりに、前述の日本ユネスコ協会連盟が行っている「世界寺子屋運動」(大久保が某高校ボランティア同好会の学外講師をしていた頃、同好会の顧問の先生が学生さん達と一緒に取り組んでおられた)とライブラリー維持費への現金寄付をお願いしている。このバザーのことは結構知られていて、コロナ前は1日で行なっていたそうだが、大きな部屋にダンボール箱に詰めた書籍やビデオテープなど寄付本等を並べていた。それを目当てにスーツケースを転がして開場前から列を作っていらっしゃる方もいた。コロナ禍では不特定多数の人を一箇所に集めることが難しくなってしまったため、1日での実施ではなく期間を長くされているそうだ(今年度は6~8月)。先日も「ダウンサイジングをするんだ」と言われて年配の外国の方が、英語だったりスペイン語の本を持ってきてご寄付下さったという。スペースは小さくなるが、コロナ禍で常設のリサイクルコーナーも作られたとのことなので、興味のある人はぜひ訪れてほしい。
【教員志望でも勉強嫌いな女の子】
池田昌代さんは豊川市(旧音羽町)のご出身。2008年からカナダへ行っている間に音羽町が豊川市と合併したので、行く前は音羽町民だった筈なのに、帰って来たら豊川市民になっていたという市町村合併の洗礼を受けたひとりである。カナダに行く前は会社員をされていたそうだ。もともと教員志望だったので大学も教育学部に通っていたのだが、勉強がそれほど好きではなく、教員採用試験の勉強もあまりしていなかったので、周りが採用試験に合格してゆく中、池田さんだけ、教員免許はあるものの採用されることはなかったという。
【カナダからの帰国後、外国籍児童担当教員として勤める】
大学卒業後、会社員を6年ほどされていたが、英語や海外には興味があったので一念発起で退職し、ワーキングホリデーの制度を使ってカナダへ渡ったそうだ。そこで一年半過ごし、帰国されてからはせっかくの教員免許を活かそうと思い、たまたまポストが空いていた外国籍児童担当教員として勤めることになった。豊橋や豊川には外国にルーツを持つ子どもたちが多く、愛知県からそのための講師雇用に予算がつけられている。そのポストに空きがあり、年度途中の9月から学校勤めをすることになったのだ。クラス担当というわけではなく、多い時で一時間に4〜5人、多様な学年でルーツもバラバラな子どもたちがひとつの教室に集まって、日本語やいろいろな教科の勉強をする。そのための先生であった。
【もう一度教師採用試験を受けようと考えたけれど…】
池田さんはその仕事が好きだった。この仕事をずっと続けて行きたいと思い、もう一度教員採用試験を受けようと考えたほどに。しかし、受けるのであればもっと教員として当たり前のこともしなければいけなくなるだろうとも考えた。つまりクラス担任である。当時も常勤で働いていたのだが、クラス担任になると仕事量が半端ではない。この頃から既に教師不足が指摘されていて、池田さんも二年続けて「来年はクラス担当をしてもらうからね」と言われていたのだ。そんな働き方は自分には無理だと思った。それに何よりも池田さんは、外国籍児童に教えることが好きだったのである。始業前のこれからどんなことを教えてもらえるんだろうという好奇心と期待とが混ざったような瞳。知識を学んで行くに連れて喜びと次は何?と言わんばかりに輝くように綻ぶ顔。
【運命を変えたJICA研修参加】
丁度その頃JICA中部が行う『開発指導者研修』、それと並行して行われながら夏休みには現地研修へ行く教員向けの『教師海外研修』について知り、池田さんは即座に参加することに決めた。その年の現地研修先の1つがブラジルで、外国籍児童担当教員として日系ブラジル人の子どもたちを教えることが多かった池田さんは、彼らのルーツの国を体感してみたいと思ったのだ。
その研修で、JICAの日系社会青年ボランティア(現在は青年海外協力隊に統一されている)について知ることになる。
【日系社会青年ボランティアへの挑戦】
JICAの現地研修は池田さんにとってよい経験だったし、その時に知りあった先生方とも今もお付き合いがあるのだが、彼らは当時皆正規採用の教員だった。JICAのボランティア(海外協力隊)には現職教員のままでも参加できる制度があるが、学校や地域の教育委員会の推薦等を経て希望を出してから3年〜5年後にやっと行けるか行けないか、というところだそうだ。でも池田さんの場合は当時常勤講師で一年ごとの契約だったので、講師を辞めれば直ぐにでも参加できる立場だった。
一方その頃池田さんが豊川でしていた外国にルーツのある方に日本語を教えるボランティアのグループの中に、青年海外協力隊経験者の方が二人いらした。とても素敵な方々で、その人たちからもお話を聞いたりしてますますJICAボランティア参加への想いを募らせていく。
ブラジルでボランティア活動や生活をしてくれば、帰国してからもまた外国籍児童担当教員として働くための大きな糧になるのではないかとまだ見ぬ未来への期待を膨らませ、研修同期の現職教員たちや地元の先輩たちに背中を押され、池田さんは研修から導かれるように日系社会青年ボランティアへの応募を決意した。
【選考試験に通り、晴れてブラジルへ】
その年の募集でブラジルからは1つだけ「文化」という幅広い要請が出されていた。普通日系社会だと「日本語教師」とか「特定のスポーツ指導が出来る人」(池田さんの同期にはバドミントンの指導者がいらした)、日本文化であっても「エイサー(沖縄と奄美群島に伝わる伝統芸能)」「和太鼓」等々特定分野の知識や経験が求められるそうだが、この時に要請されていた「文化」は、要件が「何かの指導経験がある人」だったという。指導経験と言えば池田さんも二年半教員として勤めてきたわけだから当然応募資格はあるだろう。そうはいうもののJICAの選考試験は極めて厳格で、細やかな健康チェックはもちろん、面接も行われ様々なことを質問される。「茶道経験あり」と書いたものの池田さんは高校時代にかじった程度だったので「申し訳ありません。わかりません。勉強してきます」と答えた。池田さん曰く、謙虚な姿勢と応募者が少なかったことが幸いし、晴れて合格となり、ブラジルに行けることになった。
【日系コミニティー・タウバテ】
ブラジルの日系社会は、100年以上も前に始まった移民政策で日本からブラジルに渡った人たちがそこで家族を作り、二世、三世と世代が代わってゆく中で、学校や日本語学校を自分たちで運営していたという。そういったブラジル全土にある日系コミュニティに池田さんたち同期の30余名が散り散りバラバラに飛ぶことになった。
池田さんが入ることになったタウバテの街の日系コミュニティでは、既に4名が2年ずつ、合計8年、JICAボランティアの日本語教師が活動しており、受け入れ先のタウバテ日伯文化協会が次に5人目の日本語教師を呼べるかどうかわからないので、「文化」という幅広い分野で要請を出したのではないか、と池田さんは思ったそうだ。
【初カルチャーショック】
池田さんがタウバテの日本語学校に入って初めての行事が〈運動会〉であった。日系の方々が日本式の〈運動会〉を行うということで池田さんも参加されたのだが、運動会定番の種目〈綱引き〉競技の仕方が独特で驚かされたという。日本の場合、綱を引き合う双方の力が均等になるように予め人数を揃えたり、男女差や大人と子どもの割合を整えたりしてから競技を行うものだけれど、そこではそんなことにはお構いなく目一杯〈綱引き〉を楽しんでいる感じだった。綱を引き合う双方のバランスもバラバラで釣り合いが取れていないばかりか、盛り上がってきたなと思ったら周りで見ていた人たちまでも参加し始め、左右のバランスも何もない状態。圧倒されている間に勝敗が決し、勝った方のチームは当然喜んでいるが、負けたチームもそれほど悔しそうではなく、むしろ「楽しかったね」と笑い合っている。池田さんはその時「なんだこれは?!」とショックを受けた。「凄いところだな〜。こういうところで2年間生活するんだ」と思ったそうだ。最初は圧倒されたものの、池田さんには次第にそのことが好ましく思えてきた。日本のようにキッチリ行うのも良いが、多少の不均衡は狡いなどと思わずにみんなが楽しいことを分かちあい、誰もが笑顔を浮かべている。これはいい、と。ただ、これまで自分が経験して来たことと全く異なる光景を目の前にしてただ単純に戸惑ったのだ。JICAの研修でも「日本とは文化が違うから、自分の考えだけで動くな」と言われたが、その言葉の意味を実際に体験したのはこの時が最初だった。
【自分はクロージングの仕事をしに来たんだな】
タウバテの日系社会は成熟していて、ボランティアの受け入れもしっかりしたところに池田さんは入った訳だが、やはり協会の人たちも、一応JICAには要請は出したものの、もう8年間もボランティアに来てもらっているので、他のコミュニティにも譲らなければいけないかなと思われていたらしい。自分はクロージングの仕事をしに来たんだな、ボランティアがいなくても回るようにするとか、何かを残してゆくことが役割なんだな、とぼんやりと思ったという。そんなことを思いながら、主に週末に開催される日本語学校では、子どもたちに手遊びをしながら日本の歌を教えたり、茶道も書道も算盤もひと通り齧っていたのでそれら教えたりしていたそうだ。また、日本語教師資格はもっていなかったが、教師をしていたという経歴からもう少し歳の大きな子どもたちにも日本語を教えていたとか。
ブラジルの日系社会はその地域によって様々な特色があるが、池田さんが入ったタウバテは工業地帯で、ブラジルの航空機会社のエンブラエルや、フォルクスワーゲンの工場があり、豊川に似た規模の街であった。日系人と現地の方のカップルのお子さんも多く、日本語学校には、全く日本にルーツはないけれど日本語を教わりたいという子もいれば、日系人だけれど日本語を勉強するというよりは遊びに来るように通って来ていた子どももいたそうだ。
【ブラジルの学校事情】
その傍で池田さんは、帰国してから何かの役に立つかも知れない、と、現地の子どもたちが通っている学校を見学させてもらいに行ったという。文化協会に現地校の先生がいらして、その方にお願いして見学させてもらったのだ。ブラジルは午前中の授業で終わり、午後の授業だけで終わり、という感じが多く、日本のように一日中授業をすることがあまりなかった。だから先生方の働き方も様々で、午前中・午後・晩〜夜間とそれぞれの時間帯で違う学校を掛け持ちして働いている方もいらっしゃるとか。池田さんは現地の子どもたちと一緒に折り紙で折り鶴を折ったり、日本語の挨拶や文字などの紹介をしたそうだ。
【お年寄りの仲良し会】
タウバテ日伯文化協会にはお爺ちゃんやお婆ちゃんの会もあり、日本語で話す機会を求めて『仲良し会』と言う集まりを持っている。日本人一世の方もいれば、二世の方もいらっしゃり、二世の方の中にも日本語の方が得意という方もおられるとか。皆さん持ち寄りパーティーやビンゴが好きで、食べ物を一品ずつ持ち寄ったり文化協会のキッチンでお料理を作り、池田さんたちが提供する川柳や習字、体操などのアクティビティをされたりして、ビンゴゲームをして帰る…みたいなことをされていたという。
【日本語教師?としての2年間】
日本で国語の教員免許を持っている池田さんだが、国語を教えるのと日本語を教えるのは別物で、先生だから日本語を教えられる、日本人だから日本語を教えられるというものではないという。しかし、ネイティブの日本人は貴重な存在、要請の職種は日本語教師ではなかったが、結局協会の日本語学校で日本語を教えることも仕事になり、2年間の任期中は同期派遣の仲間に助けてもらっていたとか。隣町にも同期がいて、池田さんが困っている時には「こういう教材を使ったらいいよ」「こんなふうに仕掛けると面白いよ」と教えてくれたり、アマゾンなどブラジル各地にいる同期もオンラインで「こんなのやったらどう?」と教えてくれた。
日本語を教えること以外にも、突然シャワーが出なくなったり便座が割れたりなど、困るけれど面白おかしい事態に何度も遭遇したそうだが、本当に周囲の人たちに助けられながら2年間異国の地で過ごしていたという。
【ゲートボールデビューを果たす】
ブラジル滞在中、池田さんは協会の人たちに誘われてゲートボールにも挑戦し、サンパウロ大会にも出場したそうだ。日本ではゲートボールというと高齢者のスポーツというイメージが強いが、ブラジルでは結構若い人も競技しているらしい。日系人だけではなく、現地の方々も楽しまれているという。しかし、まさか自分の人生の中でゲートボールをすることになるとは、池田さん自身も思ってもいなかったとか。
【ブラジルの食卓】
タウバテの池田さんが住んでいた家の程近いところに、日系の方が経営されていた『シバタ』というスーパーがあり、ブラジルで栽培されている日本米が販売されていて、白米は食べられた。最も池田さんは和食だろうが、洋食だろうが、美味しいものなら何でも食する人なので、食べることには困らなかったという。ただ、任地に入った初日に「ご飯をご馳走しましょう」と連れて行ってもらったお店で、定番の『ポルキロ』をご馳走になったそうだが、これはお皿に取った料理の量り売りで、どれも美味しそうで量をあまり考えなかったことと、材料として使われているデンデヤシの油が体にあわなかったらしく、初日からお腹を壊したそうだ。でも食で困ったのはそれぐらいで、後は何でも美味しく食べられた。ブラジル料理として有名なシュラスコは家庭でごく普通に行うもので、基本的には男性がホスト役になることが多く、シュラスケイラという専用の場所を設置している家はそこで焼くものなのだそうだ。日本のBBQとは違うようだ。
【昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?】
食べることが好きな池田さん、食に関する話はまだ続く。タウバテの日本語学校の先生方や協会の人たちの多くは日系の方達で和食を作られることも多く、池田さんのところにも届けたり分けたりもしてくれたそうだ。また、日本ではまずあり得ない話なのだが、「先生、うちのバナナ採れたのでどうぞ」と言って、枝のままバナナを貰ったこともあったという。これには池田さんも驚いたのだが、ブラジルでは畑などの風よけにバナナの木を植えている家があり、枝ごとボキッと折ったりするそうで、ブラジルでは普通なんだと思い直したそうだ。市場にはバナナだけを販売しているスタンドがあり、ある時「昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?」と訊かれて〈え? バナナはバナナじゃん。〉と思ったが、ブラジルではバナナでもいろいろな種類があるのだ。大久保調べではオウロバナナ(いわゆるモンキーバナナ、小さくて濃厚)・マッサンバナナ(少し小さめでリンゴのような香りが特徴的。甘味もコクもあっさりしている)・プラッタバナナ(少し小さめで甘味もあっさりしている)・ナニカバナナ(日本でも見かける一般的なバナナ)・テッハバナナ(生食できない料理用バナナ)など。日本にいるとモンキーバナナとフィリピン産バナナの違いぐらいしか分からないのだが、ブラジルに行ったら「どのバナナが好き?」と訊かれ、“これも日本語の勉強に使わなくては”と考え、『どれが好きですか?」とか『どの(名詞)が好きですか?』を教える時や、日本風に『これ、つまらないものですが…』とものを贈る時の練習にもバナナの枝の絵を使うなど、バナナと現地での経験をしっかり使って帰って来たという。
【トラブルを楽しむようになるにはトラベルに出なければ】
こうして2年間の任期を終えて帰国した池田さんだったが、苦しいこともあったけれど同期にも恵まれて楽しかったという。池田さんは大丈夫だったけれど、住んでいた近くでも殺人事件があったり、銀行強盗が起きたりしたそうで治安は確かに日本と比べて悪く、同期にも強盗に遭って履いていたナイキのスニーカーと、買ってきたばかりのヨーグルトを盗られた子がいたそうだ。その時は「怖かった」と言っていたその同期の子も、別の同期の子に「凄いネタ拾ったじゃん」と明るく励まされ、その強盗にあった子も明るい性格だったから「そうだよね。ネタだよね。生きてるもんね」と切り返していた。もともとネガティブな性質の池田さんが、現在ポジティブに見えているのはこうした海外でのトラブルを楽しんできた体験が大きいのではないかとご自分で分析されている。
【やはり自分は裏方向きではないか?】
帰国後も外国籍児童担当教員として学校に勤めたいと思ってブラジルに行った池田さんではあったが、同期の隊員が皆いろいろな企画をたくさん考えたり、人を呼んでくるようなことが上手で、どちらかと言えば池田さんはその後方支援・裏方仕事が得意、それで「ありがとう」と言われることが嬉しいとさらに強く感じていた。教員にはなりたいけれど、なればきっとクラス担任をしなければならないだろうし、兎にも角にも今は裏方仕事がしたい!と思いながら帰国したのだった。帰国してすぐに、派遣前の教員研修を一緒に受けた方が産休に入るのでその間だけ自分の代わりに非常勤でも良いから入ってくれない? と言われ、非常勤講師として勤めたのだそうだ。その時は特別教科で1年生から6年生まで日本人の子どもを教えていたのだが、ご自分でも授業が下手だなと思ったし、日本人の子ども達とのコミュニケーションも楽しかったけれどあまり上手くいかないなぁ、やはり自分は裏方向きだ、と改めて思い、外国籍の子どもと関わるのはボランティアでも出来るからと、事務職の仕事を探し始めたそうだ。
【名古屋国際センターの嘱託職員になる】
すると、たまたま名古屋国際センターの『事務職。一年契約。更新有り』という募集があり、国際センターという言葉の響きに事務職、「ここ、いいじゃん。」と軽い気持ちで応募した。その年度が約7年ぶりの採用試験だったそうで、久しぶりということでか応募者が少なかったらしい。池田さんは補欠合格だったので「これはダメだな」と思っていたら、運が良いことに合格者の中に辞退者が出た。こうして晴れて池田さんは名古屋国際センターの嘱託職員として働くことになったのだった。
【名古屋国際センターに入職してみたら】
しかし、入ってみたら仕事は事務だけではなかった。事務仕事ももちろんあるが、企画や調整、交渉といった仕事もある。人影に隠れてその人を輝かせるための事務仕事がしたかったのに…と思ったが、企画をしたりイベントをしたり。ロクに下調べもせずよくわからない団体で仕事を始めてしまった…と、池田さんは思った。学生時代にキチンと就職活動をしていれば受験する会社のこともしっかり調べるけれど、ご本人曰く、教員採用試験受からなかった組の池田さんは急いで就職しなければと求人広告を見て応募した会社にラッキーにも採用されたみたいな人だったので、就職活動がどんなものかもあまり知らなかったという。この時も国際センターのことを知らないまま受験したが、それでも受かったのは、履歴書に「カナダに行ってました」とか「ブラジルに行ってました」と記して、〈趣味・特技〉の欄に〈趣味〉程度のつもりで「ポルトガル語」と書いたのを〈特技〉だと思われたのかも知れない、と笑っておられた。
【名古屋国際センターとは何しているところ?】
そもそも名古屋国際センターとは何をしているところなのか? ざっくりと言うと、在留外国人の方々の相談を受けたり、名古屋圏にお住まいの市民の方々に異文化理解をしてもらう、多文化共生について知ってもらう、そういう意識を持ってもらうよう働きかける。そんなことを仕事としているところだ。名古屋国際センターでは情報を多言語発信されており、昨年度までは紙媒体で日本語版の『NIC NEWS』、英語版の『NAGOYA Calendar』、WEB上でポルトガル語と中国語の『NAGOYA Calendar』を発行していたが、今年度から紙媒体のものは辞めてWEB上のみで見ていただくものになっているという。子ども向けには『子どもニック・ニュース』を紙で発行していて、こちらは名古屋市内の小学校の高学年の子ども達に配布しているそうだ。また、多言語相談対応は今年度からは日本語と英語を含めて11言語対応になっているという(日本語、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、ハングル(韓国語)、フィリピン語、ベトナム語、ネパール語、インドネシア語、タイ語)。ただ各々の言語のスタッフさんが来られる曜日や時間が限られているので、いつも対応できるとは限らないという。要確認ということだろう。
【在留外国人の方にとって心の拠り所であり、心強い機関】
池田さんたちセンターの職員さんが相談に乗ることも多々あるのだが、名古屋国際センターには専門相談員さんがいらっしゃる。行政相談員さんが毎日必ずお一人、教育相談員の先生が週に三日間、行政書士会から行政書士の先生は週に二日午後のみ来て下さり、弁護士会から弁護士の先生も週に一回午前中に来て下さる。行政書士、法律相談、教育の相談は、要予約になっているそうだ。いずれも通訳さん付きで相談出来る。外国の方が日本で暮らすためには必ず在留資格というものが必要で、相談の内容によっては在留資格が大きく関わってくる。相談を受ける時にはまず在留資格を伺って、その人の在留資格に応じた対応をお話しなければならない。入国管理局の方も月に一度来て、入管相談ということで在留資格そのものに関する相談にも乗ってくれるという。これも予約が必要だということだ。その他、難民支援本部さんもセンターとの共催で難民の面接などもしているし、こころの相談もカウンセラーの先生がスペイン語・英語・ポルトガル語・中国語で直接話を聴いてくれるという(要予約)。
名古屋圏にお住まいの在留外国人の方にとっては心の拠り所であると共に、これほど心強いセンターはないだろう。
【情報発信や相談の他にもいろいろしてます】
前述したように名古屋国際センターでは情報発信や相談対応の他に、イベントや研修も行っている。
若者向けのグローバルユース事業は、35歳までの人たちが集まってイベントしようとか、こんな感じで勉強しようとかやっている。池田さんはその部署から離れてしまったので現在どんな感じなのかよくわからないのだそうだが、若い職員が担当となり、とても良い雰囲気で盛り上がっているなぁと思って見ているという。
日本語教室は、ボランティアさんが先生になって子ども向け・高校生向け・大人向けの三教室を日曜日に行っている。高校生向けの教室は近年新しく出来たのだが、親御さんが先に日本にいらしていて、後から子どもを呼び寄せるケースの場合、子どもさんが現地で中学を卒業しているかいないかは大きなポイントで、日本に来られた時に次のステップに進むためにも中学卒業資格を持っていれば高校受験が出来(日本語の勉強や受験勉強は必要になってくるにせよ)、進路の取り方が変わって来る。中学を卒業していないのに、中学卒業年齢になっている子どももいる。そういう子たちは高校進学のために中学卒業資格を取得しなければいけないので、例えば中学卒業認定試験の勉強もしなければならなくなる。そのため高校生日本語教室に関しては、高校生と、高校には行ってないけれど高校に行きたい子たちが通って来ているとか。その他にも名古屋国際センターでは、まちづくり事業として地域の方と一緒にお祭りやイベントなどもされていたそうだ。
【災害時のために】
また、災害時の対応や防災について。外国の方は日本人のように学校で防災訓練をしたという経験もないし、母国とは気候も全然違うし、地震がある国・ない国から来られている訳で、地震のない国の方は地震のことをご存知ない。日本では建物の耐震が結構しっかりしているので、地震が起きてもすぐに外に出てくださいとは言わない。先ずは机の下など頭や体を保護できるところに隠れて、素早く火の始末をし、ドアや窓を開けて逃げ道の確保を図ると言うことが手順なのだが、国によっては崩れやすい建物のところもあるので地震が起きたらすぐ建物の外に逃げて下さいという対応をとっている。そういう日頃からの災害への意識や知識、日本での対応の仕方などの防災普及啓発の事業も行っている。毎年9月には名古屋市の総ぐるみ防災訓練があり、国際センターの職員もどこかの区の防災訓練に外国の方とともに参加しているという。
【やさしい日本語啓発】
これも災害時の対応がきっかけで生まれた啓発事業。災害時に難しい日本語で情報を貰っても、外国の方はわからない。池田さんたちがよく例として使うのが「高台に避難して下さい」という言葉。「高台」と「避難」二つの難しい言葉が使われているが、これをやさしい言葉に言い換えるとどうなるか? 正解はないのだけれど、例えば「高いところに逃げて下さい」。これにジェスチャーや顔の表情などを加えると一層わかりやすくなるそうだ。「飲食厳禁」と壁に貼ってあって例えカナがふってあっても、読めるけれど意味がわからない。「食べたり飲んだりしてはいけません」とか「食べてはいけません。飲んでもいけません」にし、絵を添えたりしてもわかりやすい。相手に伝わるように書き換える、言い換えるのが、やさしい日本語だ。国際センターは出前講座の形で、学校とか非営利団体さんとかに出向いての啓発活動も行っている。
【海外の子どもたちの識字教育のために】
日本ユネスコ協会連盟さんが進めておられる途上国への識字支援に、(公財)名古屋国際センターの自主事業として募金をしている。書き損じのハガキを集めてそれを現金化し、日本ユネスコ協会連盟さんを通じて海外の子どもたちの識字教育のために役立てていただくという。
【国際センターのライブラリー】
名古屋国際センタービルの3階に情報サービスカウンターがあり、そこに常時職員が2名いて、英語と日本語で対応されている。お客様がみえるとそこで用件を伺って、日英以外言語ご希望の方はそう言えば、中で翻訳作業をされているスタッフがいるのでその職員が対応して下さるそうだ。
また同じフロアのライブラリーには、『国際協力』とか『多文化共生』『異文化理解』に関するものや各国・地域の書籍等々、日本語のものも外国語のものも置いているという。このライブラリーは出入り自由で、飲食は基本出来ないけれど静かで、ここで読書をしている人も多いという。面白い書籍を取り揃えていて、例えば『日本紹介』のコーナーには、話題になった『日本人の知らない日本語(マンガ)』とか『名古屋弁』『日本史』『日本の暮らし』『英語落語で世界を笑わす』などもある(これらの書籍はもしかしたら普通の図書館にもあるかも知れないけれど、とのこと)。他にも日本語教材(日本語の教科書)も別のコーナーで取り揃えているという。
【似ている言葉】
今回、時間に余裕があればライブラリーの書籍を紹介できたらと思い、本好きな同僚に「お薦めの本選んで」とお願いしたところ、3冊のシリーズ本を選んでくれたので、と実際に持参された。そのうちの1冊が『似ている言葉』という本。例えば「サンデー」と「パフェ」の違いはなんだ? 他にも「あんみつ」と「みつまめ」の違いとか、「糸こんにゃく」と「しらたき」、「はす」と「睡蓮」の違いとか。みなさんはおわかりになるだろうか?国際センターのライブラリーでぜひ同書を手に取ってみてほしい。ちなみに同じシリーズで英語を取り上げたもあり、「ビック」と「ラージ」との違いは、「ビック」は「わぁ、大きいと思うもの」で、「ラージ」は「他と比べて大きいもの」だそうだ。
【言語は難しい、日本語も難しい】
昨年度(2022年度)から池田さんは、多言語翻訳のコーディネートをされている。名古屋市からの行政文書や名古屋国際センター内の文章の翻訳依頼を調整して多言語スタッフさんに翻訳の依頼を出し、戻って来たものをチェックして名古屋市やセンター内の担当部署に納品する仕事だ。その中で池田さんが感じていることは、言語って難しい、日本語って本当に難しい!ということだそうだ。そこでライブラリーで目についたのが『翻訳できない世界の言葉』と『翻訳できない世界のことわざ』の二冊。例えば『翻訳できない世界の言葉』の中には日本語が4つ載せられている。「木漏れ日」「ボケ〜っと」「侘び寂び」「積読」。ちなみに、池田さん自身の思う翻訳できない日本語の最たるものは「よろしくお願いします」だという。英語でも、ポルトガル語でも、それに対応する言葉はないらしい。
【池田さんが好きだったポルトガル語】
ブラジルで話されているポルトガル語で同書に載っているのは「サウダージ」。ポルノグラフィティの曲のタイトルにも使われていて、「郷愁」とか「淋しさ」とか「哀愁」といった意味合いをもつ言葉。恋しい訳ではないけれど、遠く離れていて長年会ってなかったりすると「ああ、サウダージ」と言ったりするそうだ。
ポルトガル語と言えば、池田さんがブラジルで覚えて好きになったポルトガル語単語は「アプロベイタール(aproveitar)」という動詞。使われていた状況からすると、何かをする時ついでに何かをして利益を取ってくる、得する感じ。日本にも「行きがけの駄賃」という言葉があるが、例えば誰かがどこかに行くのに車を出すから一緒に乗せて行ってもらう時に「アプロベイタしたら」という感じで使っていたそうだ。
【チラカスカして、トマカフェしましょ】
話は流れでポルトガル語単語からブラジル滞在中の言葉についてに。
ブラジル日系社会は、文章は日本語、名詞や動詞をポルトガル語にした「コロニア語」と呼ばれる混ぜこぜの日本語で話をしたりする。池田さんがよく憶えているのは「チラカスカしたら、トマカフェしましょ」というひと言。「チラ」はチラール「剥く」という意味で、「カスカ」は「皮」のこと。「トマール」は英語の「ハブ」或いは「ティク」で「カフェ」は「コーヒー」。つまり「皮を剥いたらコーヒー飲みましょう」という意味だとか。どうしてこの言葉をよく聞いたのかと言えば、日系人協会で資金集めのお祭りなどをする時には日本食を作ってそれを売ったり、会費制のパーティーで日本食の提供をし、みんな大好き・ビンゴもして、お金を集める、ということをよくしていたからだ。そういう時には朝早くから出掛けて行って料理の準備をする。ニンジンの皮をめちゃくちゃ剥いて散らかす。それが終わったらコーヒー飲みましょう。休憩しましょう…みたいな感じで、日系の方々はポルトガル語と日本語を混ぜて使われていたそうだ。池田さんは、このような言語生活の中で名詞はわかるものが増えたけれど、動詞の活用となると全然わからないそうで、文章にならない。だからポルトガル語は話せないという。
【ライブラリーには絵本もあります】
さて、話は国際センターに戻る。今回このような機会をいただいて、せっかく錦二丁目のスペース七番で話すのだから、時間があったら会場に縁のある故・延藤先生がお好きだった本の話題も出したいと思っていたそうだ。ライブラリーには絵本も配架されていて、月に1~2回程度ボランティアさんによる外国語と日本語、2~3の言語での絵本の読み聞かせも行っている。この6月はジネンカフェvol.096ゲストの伊藤早苗さんのところで知りあったスウェーデンの方に読み聞かせボランティアの話をしたら、ご本人も奥様も「いいね」「素敵ね」と言ってくださり、旦那さんが読みに来てくれるそうだ。コロナ前は会場に何人入っても気にせず、マットを敷いて子どもさんはそこに座わり、親御さんはお子さんと寄り添って座ったり後ろで見守ったりして参加している感じだったという。コロナ中はなかなかそれが出来ず、5人とか10人までとか人数を制限して行っていたが、前回から参加定員を増やしたという。
ちなみに延藤先生と言えば、延藤先生が早苗さんのところで紹介された『わたしたちのてんごくバス』の英語版を池田さんは自分で買って、その本の話を小学校で絵本の読み聞かせ活動をされている知りあいに話したら、その人がご自分で日本語版を買われて学校で読み聞かせをし、子どもたちに好評だった、ということもあったとか。
【ライブラリーには洋書もあります】
ライブラリーの絵本コーナーの反対側には洋書のコーナーもある。これら外国語の絵本や書籍には市民のみなさんからの寄付本も多く、貸出本として出せる状態のものはライブラリー内に配架をし、来館者に読んでいただいたり、借りていただけるようにしているが、寄付が配架本と重複する場合や、読むのには差し支えないものの損傷や書き込みなどがある場合は、ブックバザーを実施して来館者に差し上げる代わりに、前述の日本ユネスコ協会連盟が行っている「世界寺子屋運動」(大久保が某高校ボランティア同好会の学外講師をしていた頃、同好会の顧問の先生が学生さん達と一緒に取り組んでおられた)とライブラリー維持費への現金寄付をお願いしている。このバザーのことは結構知られていて、コロナ前は1日で行なっていたそうだが、大きな部屋にダンボール箱に詰めた書籍やビデオテープなど寄付本等を並べていた。それを目当てにスーツケースを転がして開場前から列を作っていらっしゃる方もいた。コロナ禍では不特定多数の人を一箇所に集めることが難しくなってしまったため、1日での実施ではなく期間を長くされているそうだ(今年度は6~8月)。先日も「ダウンサイジングをするんだ」と言われて年配の外国の方が、英語だったりスペイン語の本を持ってきてご寄付下さったという。スペースは小さくなるが、コロナ禍で常設のリサイクルコーナーも作られたとのことなので、興味のある人はぜひ訪れてほしい。