ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.128レポート

2018-12-26 09:33:08 | Weblog
平成最後の12月がやってきた! 今年は例年に比べて比較的暖かいけれど、それでも空気がひんやりとしているのには変わりない。私事で申し訳ないが、今年は大切な人たちが二人も旅立って行った。遅いか早いかの違いはあるものの、人は誰もが旅立って行き、もう二度と会えやしない。しかし、その人の想いは記憶と共に、生きている人の胸の中に残り続ける。一期一会という言葉があるが、私たちはその人とまた会えるだろうと高をくくるから、いざその人と二度と会えない状況に陥った時に慌てふためいたり、嘆き悲しむのだ。考えてみればいつ、誰が、どこで、どうなるかなど解らない。私でも無事に明日を迎えられる保証なんてないわけだ。だからこそいま、この時、この場で会っている人のことを慈しみ、愛おしみ、大切にしたいと思う。さて、ジネンカフェVOL.128のゲストは、株式会社対話計画の三田祐子さん。お話のタイトルは『想像と疑問、それがわたしの生きるキーワード』

【祐子です。裕子(ひろこ)ではありません】
三田祐子さんはご自分の名前を漢字で書くこともあるが、最近はひらがなやカタカナで書くこともあるそうだ。三田ゆうこ、三田ユウコ、または最後の文字だけを漢字にしたりする場合もある。それは名前の「祐」という文字のせいだ。名前を「裕子さん」と間違われるのだ。読み方まで「ひろこ」と呼び間違われることもある。請求書まで「三田裕子さん」と書かれることがある。その度に面倒臭いなあ~と思われるのだ。だからあえて漢字を使わずに名前をひらがなやカタカナで書く場合があるという。漢字を説明しなければいけない時には「示す偏に右」と言ってもよく解らない方がいるので、「ネに右」と説明されるそうだ。

【名前をめぐる忘れられない話】
そんな三田さんには〈名前〉をめぐる小学生の頃の忘れられない記憶がある。小学校の卒業式に卒業生代表で答辞を読むような成績優秀で格好よく、みんなが憧れるような先輩がいた。三田さんが小学一年生か二年生の時、答辞で曰く「僕の名前は〈清完〉と言います。どうしてこの名前が付けられたのかと言うと、僕が生まれたことによって両親がもうこれで子作りはしません。清く完了します」という意味で〈清完〉になりました」と言ったのだそうだ。頭もよく格好もよい、みんなが憧れる先輩が…。その時、三田さんは「〈清く正しく完了させる〉って、凄い名前だな」と思ったという。

【誰かのサポートとして動く人】
それでは自分の名前にはどんな想いが込められているのだろう? と三田さんは思い、先ず父親に訊いてみた。しかし父親は何も言わず照れている。そこで三田さんは「好きな芸能人の名前から取ったんじゃないの?」と尋ねてみたのだが、「それだけはない」とハッキリとした答えが返ってきたという。母親に電話しても出てくれなく、まあいいわと思いつつ今日に至っている。ネットで調べてみると、「祐」という字は訓読みだと「助ける」という意味あいをもつ字で、もともとは「神を助ける」という意味で、つくりの「右」という文字は器をもって神に祈りを捧げている姿を表していて、偏の「示」が神事の様子を示しているそうだ。「神を助ける子ども」なのか解らないけれど、この説明をみて三田さんは納得したとか。自分から率先して何かをするより、誰かのサポートとして動いている方が自分にはあっていると感じていたからだ。因みに妹さんの名前も調べてみたら、神事や祭事に使われる字が使われていて、なるほど…と納得したそうだ。ご自分の名前の由来は、母親には再び尋ねてみたいと思っているという。

【石積みの構造に興味をもつ小学生】
その小学校の頃、三田さんは片道1時間もかけて学校に通っていたそうだ。子どもの足で片道1時間は結構遠い道程である。現在でもグーグルマップで距離を測ってみると、大人の足で28分もかかるらしい。高学年になるにつれて1時間が40分になったりしたが、その1時間なり、40分なりが子どもの頃の三田さんにとっては楽しくて仕方がなかったという。住宅街にあった自宅を出ると、通学路には田園があり、アンダーパスを潜り、小さな川を渡って国道沿いの歩道を通り、国道から一本中に入った細い道を集団登校していた。子どもは日常のちょっとした変化に疑問を持ったり、面白く感じたりするものだ。田んぼには四季折々の色彩や景観がある。田の隅には石積みがあった。普通の石を積んだものもあれば、ブロックが積んであり塀のようになっているところもあったという。そんな景観を毎日のように眺めながら、三田さんは普通の石積みとブロック塀のような石積みとの違いが気になっていたそうだ。ブロックは形状的に積んでも大丈夫なのはわかるけれど、普通の石を積んでどうして大丈夫なのだろうと…。しかし、子どもらしくその石積みの間から出て来る蛇などを捕まえては遊んだりしていたそうだ。

【ある日突然通学路が…】
そんな楽しい通学路の中にも、三田さんが唯一不満に思っていた箇所があった。田んぼの中を抜ける農道が雨が降るとぐちゃぐちゃになる上に、友だちと手を繋ぎながら歩きたいのに、子どもが縦一列にならなければ通れないほど細かったのだ。しかし、ある日その道が広くて舗装された道路に変わった。そうなればそうなったで「ちょっと広すぎない? 税金の無駄使いだよね」と、中学生ぐらいの時には言っていた。が、ある時三田さんはふとあることを思い出したのだ。「そう言えば、わたし、この通学路のこと、町長への手紙に書いたわ」と。三田さんが住んでいた地方では町の広報誌の一番後ろに「町長への手紙」募集コーナーがあり、小学校低学年の頃にその通学路のことを書いて出していたのであった。

【インフラ的には整備されたかも知れないけれど…】
三田さんにとってはその「町長への手紙」は、「どうしてもっと安全な道があるのに、こんな道を通学路に指定しているのですか?」という疑問の発露であったのだ。しかし、その疑問に対する回答は返っては来ず、ある日突然の広くてキレイな道が出来た。インフラ的には整備されたかも知れないが、三田さんの中には未解決の疑問がそのままになってしまったのだ。そういう疑問は数え切れないほどある。通学路の途中にある家の手すりが古いのは何故なの? 国道沿いの歩道なのにひとひとりぐらいしか通れないのはどうしてなの? 融雪装置があるところとないところがあるのは何故なの? 現在は解る事でも、当時の三田さんには解らず、納得が行かなかったという。

【構造物マニア】
三田さんの職業は設計士であり、コンサルタントなのだが、何よりも構造物が好きなのだそうだ。最も好きな構造物は(橋梁)で、これは以前からなのだとか。殊に東京はお茶の水にある(聖橋)と同じ年代に造られた富山の笹津橋が好きで、アーチ型の橋梁がとても美しい。聖橋の方は一、二年前に長寿命化の工事をして新しくなり、フォルムは残っているものの、趣きがなくなったという。全長は65mで笹津橋の方が85mあるのだが、全長の関係でアーチは聖橋の方が深いけれど、川面に映る感じやアーチの形状に大らかな感じがあって、三田さんは笹津橋の方がより好きなのだそうだ。笹津橋はもともと車道橋であったが、古くなったために新笹津橋が旧笹津橋と並行するように建設された。旧笹津橋も撤去されずに歩行者・自転車専用橋として、現在でも使われている。因みにこの旧笹津橋は、登録有形文化財に指定されていて、こちらの方は4代目だそうだ。構造物、殊に橋マニアとして三田さんも観に行った時に、3代目か2代目の旧い橋脚だけがそのままになっていたという。地元の人たちにとってはそんな橋脚なんて関心がないので邪魔な存在なのだろうが、コンクリートや鉄筋が使われ始めた頃の良質な構造物として、三田さんはひとりでコソコソと写真を取っていたのだが、いま思えばかなり〈怪しいひと〉だったかも知れない。学生時代には構造だけではなく構造物の保存方法なども学んだので、遺産とか遺構として今後どうしてゆくのか気になるところだという。

【人が使いやすい構造物にしてゆくにはどうすればよいのだろう?】
その時に〈調べる〉ということも、三田さんは学んだ。しかし、一概に〈調べる〉といっても、その難しさも感じている。三田さんは測量もして、その後に設計もするわけなのだが、設計する段階から〈これをどうやって造るか?〉とか、使われないとその構造物はオブジェと同じになってしまうので、人々が使いやすい構造物にしてゆくのにはどうしたらよいのだろうと、絶えず疑問に思いながら設計をしているという。

【自分も関わっても良いのではないかな】
そんなある時、ふと気がついたのだ。その構造物は、自分にとっても使いやすいものである必要があるのではないかと。そして自分も設計だけではなく、他の方法で〈ものづくり〉とか〈居場所づくり〉〈未来づくり〉に関わっても良いのではないかな?と思ったのだ。

【未来茶輪】
こうして三田さんは設計だけではなく、まちづくりにも関わることになり、様々な分野の人たちが集い、語りあう『未来茶輪』を3人の仲間たちと共同主宰するようになった。それは自分が設計する構造物が人々はもちろん自分にとって使いやすいものにする感覚を養うためであり、自分もまた様々な人たちと共に寄り添いながら、時には設計士としての視点で、時にはひとりの生活者としての視点で未来を作ってゆく地球市民の一員でもあるのだという宣言でもあるのだろう。三田さんのご活躍に期待したい。
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ジネンカフェVOL.127レポート

2018-12-04 09:51:50 | Weblog
気がついてみれば、もう11月の半ば。今年ももう1ヶ月余りで終わってしまう。嘘のような本当の話だ。本当のような嘘の話には世の中を救う夢があり、それが例え実現不可能なほど荒唐無稽なものでも人々に希望を与えてくれるだろう。しかし、嘘のような本当の話には薄ら寒い上に目を背けたかったり、現実逃避したくなるほどの衝撃的な真実もある。ジネンカフェVOL.127のゲストは、嘘のような本当の話である児童虐待防止の啓発活動を、派手なパフォーマンスでされている、ハーレーサンタCLUB NAGOYA代表の冨田正美さんだ。お話のタイトルは「無題」

【最悪を想像して、最善を創造しよう!】
冨田正美さんは1959年愛知県名古屋市生まれ、三重県桑名市在住の59歳。本業は公務員で、公務員になってからずっと愛知県教育委員会に勤められておられる珍しい方だ。愛知県教育委員会は大組織であり、それでなくても固いイメージがつきまとっているが、固いのは組織としての性質だけで、そこに勤められておられる職員ひとりひとりは、私たち一般的な県民と大差がなかったりする。わけても冨田さんはご自分で「出すぎた公務員」と名乗られておられるように、『最悪を想像して、最善を創造しよう!』をモットーに、いろいろな地域活動に身を染めておられる。その代表的な活動がハーレーサンタCLUB NAGOYAなのだ。

【冨田正美さんというひとは、こんなひと】
現在ではそんな言葉も死語になっているのだが、一昔前に公務員は「税金どろぼう」と揶揄されていた。朝は九時から仕事を始めて、夕方五時には退庁する。仕事の割に給料は安定しているし、休みもしっかり取れる。何よりも親方日の丸だから勤め先がつぶれることは考えられないし、よほどのことがない限りクビを切られることもない。そんな安定感抜群のイメージがあるからだろう。子どもに人気の職業として、公務員が上位にランキングしていた時期もあった。冨田さんは採用試験の面接官も務められているので、採用試験を受験した若者と接することもある。そうした折に「ボランティアをしたことがあるか?」尋ねてみるのだという。しかし、返って来るその答えは9割方が「NO」である。公務員を志しているのだから公共の福祉に関心があるのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。そんなものなのだなあ~と、冨田さんは残念に思っているという。冨田さん自身は組織の建前にこだわるよりも自分の想いを伝えたいと思い、「青い」とか「若い」とか言われたりする状況で、職場の中ではかなり浮いているらしい。冨田さんはしかし、全く意に返さない。自分がこの世を去る時に後悔しない生き方をしたいと思っているからだ。

【阪神・淡路大震災―これは何とかしなければと駆けつける】
自分がいつこの世を去ろうとも悔いのない生き方をしたい。冨田さんがそんなふうに思われたのは平成7年1月18日の未明、関西地方を襲った未曾有の大震災の影響だ。その時、冨田さんは第一報をテレビを通じて知った。早朝5時頃にテレビをつけたら、まだ真っ暗な街並みが映っていた。やがて火災があちらこちらから発生する。それから夜が明け、次々と信じられない光景がテレビを通して全国に届くことになる。無残にもひしゃけた街並み、陥没した道路、高速道路が倒れかかり、バスが滑り落ちそうになっている…。昭和34年生まれの冨田さんは、伊勢湾台風を経験している。しかし、生後いくらも経っていなかったので、こんな悲惨な光景を目の当たりにするのはこれが初めてだった。「これは何とかしなければ…」そう思った冨田さんはホームセンターに走り、「こんなのいるかな?」と思ったものをバイクの荷台に詰め込んで、神戸まで駆けつけたのだという。道路はところどころ寸断されていて、公共交通機関ももちろん動いていないことは情報として受けていたので、これはバイクの出番だと考えたのだ。避難所を訪れたのだが、避難所に来られない人たちがいると聞いて、そういうところへもバイクで入って行き、物資を届けたら泣いて感謝されたという。それまでの人生の中でそこまで感謝されたことがなかった冨田さんの全身に、その時電気が走った。被災地の人々に、感謝されたことがたまらなく嬉しかったのだ。「ああ、そうか…。公務員の仕事もきっとこういうものなのではないか?」と感じたのだという。

【公務員になる気はなかったのに…】
学生時代の冨田さんは、公務員になる気は更々なかった。実際に民間のマスコミ関係の会社への就職が内定していて、そちらの方面に就職したかったのだ。しかし、親の薦めもあって親孝行のために公務員採用試験を受けたら、幸か不幸か合格してしまった…。人生とはそんなものだろう。そうして冨田さんは、そのまま公務員になった。せっかく公務員になったのだから、徹底的にひとの役に立とうと思い、仕事をしていたところに阪神・淡路大震災である。冨田さんは現地に赴いて、公務員という職業のやり甲斐を一層強く感じたのである。

【冨田さんはなぜ現場に赴いたのか?】
では、なぜ冨田さんは阪神・淡路大震災の時に現地に赴いたのか? それは部屋の中でテレビで観たり、新聞で読んだりするよりも現場に飛び出して行って皮膚感覚として感じたいという気持ちもあったのだ。やはり現場に勝るものはない。現地に行って自分の目で見て、匂いを嗅いで、肌で感じることってすごく大事かなと感じたという。そういうことを通してひとの役に立ちたいとか、喜んで欲しいとか、そんな想いがお金以上に働く上での原動力になるのだなとも感じたそうだ。こうして阪神・淡路大震災の時の体験を経て、冨田さんは仕事用の名刺の他に、もう一つの名刺を作り、仕事を終えてから地域に飛び出すようになったのである。

【教育が変われば未来が変わる】
市町村の職員や県庁の職員もそうなのだが、大概は周期で担当課が変わるものだ。しかし、冨田さんは珍しいケースで愛知県庁に入庁以来、課内での移動はあるものの、ずっと教育委員会にいる。それは冨田さん自身の信念として「教育が変われば未来が変わる」「教育でしか未来は変えられない」と思っていて、ずっと教育委員会にいたいと思っているから、人事異動のヒアリングを受ける度、そんなふうに直訴して自らの意思で教育委員会に居続けているそうだ。技術系を除けばレアケースであろう。

【オレンジリボン】
冨田さんのシンボルカラーは、なんといってもオレンジ色だろう。正確には〈オレンジリボン〉のオレンジなのだが、オレンジリボンとは、児童虐待防止運動のシンボルである。親からも愛されず、反対に親から言葉を含めた暴力を受けている子どもたちが、恐らく世の中の子どもの中で一番辛い思いをしていて大変だろう…ということで暖色系のオレンジを運動のシンボルカラーにしたのだ。しかし、あまり認知度がなく、何とか広めたいなと思って名刺にもオレンジリボンのイラストを入れているのだそうだ。名刺のみならず、イベントの時などにはオレンジ色の覆面を被り、オレンジ色の全身スーツを身につけ〈オレンジレンジャー〉に変身して活動をされているとか。

【仕事は身内の物差しよりも、社会の物差しで】
地域に飛び出して子ども関連のNPOの方達の集まりに参加をすると、当事者意識を追体験出来たということもあるし、大学教授が言っているような話や、本に書いてある話、教育委員会内部の幹部とか同僚の話だけではない、いろいろな話が聞けて仕事の上でも有益だった。それを踏まえて冨田さんは仕事というのは、身内の物差しではなく社会の物差しでするべきだと痛感したという。前例踏襲、縦割り、横並びというのが役所の一般的な論理なのだけれど、生活者が起点で横の繋がりや、公表する透明性が大事なのではないかと思って仕事をされるようになったそうだ。

【オレンジへのこだわり】
冨田さんのこだわりは、イベント時の全身スーツ、覆面だけに止まらず、時計や文房具にカバンに至るまでオレンジ色に染めて、人々が「どうしてオレンジ?」とか疑問に覚え、質問してくればしめたもの。自らが広告塔になることにより、オレンジリボンを広めようとされているわけだ。ちょうど11月はオレンジリボンの推進月間なのだが、今日はジネンカフェということで自分が燃えているような色合いのシャツを着ているのだけれど、普段はどこかにオレンジ色のものを身につけていて、もう少し寒くなるとオレンジ色のコートを着たりするそうだ。

【ハーレー好きが集まって…】
冨田さんはバイク好きで、16歳の頃から乗っている。殊にハーレーがお気に入りで、ダビッドソン社のイメージカラーは黒とオレンジ色なのだそうだ。しかし、世間的には暴走族とか、荷物がそれほど詰めるわけでもなかったり、雨が降ったら濡れるしと、あまりよいイメージを持たれていない。でも、冨田さんはそのバイクを使って社会貢献出来ないかと考えたのだ。その時にちょうどオレンジ色のハーレーに乗っていたこともあり、オレンジリボンを広めるにはよい機会だと思い、全国のハーレー好きに呼びかけて年に数回集まり、オレンジリボンを啓発していた時期があったという。

【バイク好きの限界】
しかし、バイク好きの人たちはもともと〈自由〉とか〈ツーリング〉が好きなので、「オレンジリボンの啓発」と言っても、なかなか集まらないところがあり、年に一回しか出来なくなった。また、オレンジ色のバイクにこだわるのもやめたそうだ。一時期はナゴヤドームにバイクを並べたり、公園に集結してはオレンジリボンの啓発をしていたという。

【行政の永遠の課題に挑戦】
では、冨田さんはどうしてこんなスタイルで啓発しようと思われたのだろう? それは行政マンをしていて、行政としての仕事の限界を感じていたからだ。いろいろなことを啓発しようと思っても、本当に聞いて貰いたい人たちに話を聞いてもらうのはなかなか難しいという。例えば子育てをまともにしていない親に啓発しようと思っても、そういう親を集めて講演会なんて出来ないわけで、行政はいろいろ啓発をしてジェスチャーのようなことはしているけれど、実際にはお金を掛ける割には当事者には届いていないし、効果はないのではないかと冨田さんは思うのだ。どうしたら話を聞いてほしい人たちに届けることが出来るのか? いかに関心のない人たちに関心を持って貰えるのか? 講演会とかシンポジウムを開いても、関心のある人、想いのある、そんな話を聴かなくてもよい人ばかりが集まっているという感じなので、いかに無関心な人に関心を持って貰うことが出来るかということを考えたり、行政は予算があるから事業が出来るのだと考えるが、いかに予算がなくても持続して行けるか? いわば行政の永遠の課題に挑戦しようと始めたのがハーレーサンタCLUBのイベントなのだ。

【クリスマスにサンタの格好して走ろう!】
そのイベントとは、クリスマスにサンタの格好をしてバイクに乗って走る…というものだ。バイク好きの人なら「面白そうだな、楽しそうだな」と思って集まってくれる。そこで話を聴かせたい人たちに伝えることが出来る。無関心な人に児童虐待防止のことを知って貰うことが出来る。このイベントには全く予算をかけていない。場所も無料で借りているし、参加するのも無料。行政の事業なら三年で終わるのが一般的なパターンなのだが、このイベントは今年で10年目を迎えるという。

【厳つい人たちにも伝わる啓発活動】
ただ、それだけでは「ふざけているだけではないか?」とか、「それでどうして伝えたいことを伝えることが出来るのだ」と言われるので、パレードに繰り出す前にセレモニーをして、冨田さんや児童虐待防止の取り組みをしているNPO法人『キャブナ』の代表とか事務局長に指導虐待の話をしていただき、その後に実際に幼少期、児童虐待を受けていた人に話をしていただくのだという。女性で、若くてキレイな人にお話をしてもらうと、集まっているバイク乗りの厳つい人たちも「それは絶対にいかん」とか「なんとかしないと…」とすこく感じてもらえて、話も通じるそうだ。大学教授や弁護士さんがお話をされても「可哀想だね」で終わってしまうパターンが多いが、実際に虐待を受けていた人たちに話してもらうと、イベントが終了して地元に帰ってから一歩動いてくれるのだという。例えば「うちはお店をしているから〈児童虐待を見かけたら通報しましょう〉というカードを置いてあげるよ」とか、「家の近所に児童養護施設があったから、今度プレゼント持って行ってみるよ」と言ってくれたり、「近所の子どもには声をかけるようにするよ」「泣いている子どもがいたから、今度からは通報するようにするよ」とメールで伝えてくれたりするのだ。いままでしてきた児童虐待防止啓発の講演会やシンポジウムよりも伝わり、意味があるなと感じているという。

【12月23日にパレードをする理由】 
このパレードは10年も続いているということだが、継続するにもちょっとした工夫がある。年度を入れたステッカーや缶バッチを作成し、ちょっとコレクション欲を煽るようにしているのだとか。ステッカーは左腕に貼って貰う。そうすることによって街を走っていても街頭から何をしているのか解っていただける。これも毎年ブラッシュアップしているそうだ。毎年12月23日にパレードを行っているのにも理由がある。24日がクリスマスイブだからマスコミはそういう〈画〉を報道したいわけだ。23日にパレードをすると24日の朝刊には多い時で全社、少ない時でも二社はカラーで新聞に掲載してくれる。TVも二社は取材してくれて、ニュースで流してくれるのだ。ニュースに流してくれることにより、こんな子どもたちが一番楽しく嬉しいクリスマスの時季に、こんな悲しい想いをしている子どももいるんだよ…ということを知って貰える効果を狙ってのことだという。

【ハーレーでなくても】
ハーレーサンタCLUBというぐらいだから、ハーレーに乗っていないと入れないのでは? と思われるかもしれないけれど、特にこだわりはないとか。〈ハーレー〉というのは解りやすいだけで、〈バイクサンタCLUB〉だと語呂が悪いかなというところもあって、〈ハーレーサンタCLUB〉と名乗っているのだ。だから原付であっても、国産のバイクや外車や国産車、いろいろな車で走って貰っている。パレードの前後には総勢100人の集合写真を撮り、「また来年」という形で毎年行っている。

【自分が生きている世の中よりも、世の中を良くしてから死んで行きたい】
昔は人生50年と言っていたが、平均寿命が延びて人生80年時代に突入した。冨田さんもせいぜい生きてもそれぐらいだろうと、ご自分でも思っている。そして、現在自分が生きている世の中よりも、世の中を良くしてから死んで行きたいなと考えてもいるという。そうこうしている間に東日本大震災が起きた。地域活動を始めようと思ったのが阪神・淡路大震災の時で、今度の東日本大震災の時に『愛チカラ』という団体の創設に関わった。これは愛知県内の各大学の学生たちが震災の復興を自分たちで何か出来ることはないか考えて実践してゆく団体で、バスを貸し切って東北を訪れたり、福島の子どもたちとその親御さんを名古屋に招いたり、冨田さんも自ら名古屋城を案内したそうだ。現在この団体は一般社団法人になっているという。

【地域に飛び出す公務員ネットワーク】
冨田さんのような〈地域に飛び出した公務員〉の全国に何人かいて、「地域から日本を変えよう」という趣旨で年に二、三回会って、オフサイド・ミーティングをしている。

【公園のゴミ拾い】
それ以外にも以前から冨田さんは、池田公園のゴミ拾いをしている。この公園のゴミ拾いを通していろいろな人たちと繋がりが出来て、またいろいろなイベントや様々なことが出来たそうだ。池田公園の周辺にはリッチな人が多くて、そんなことを狙っていたわけでもないが、無償で公園のゴミ拾いをしている変わった人がいるということで、いろいろな方々から支援をしてもらったり、逆に「池田公園で何か面白いこと出来ないか?」と、一緒に企画してイベントを行ったりしている。

【人間は、人間の中で磨かれる】
ダイヤモンドはダイヤモンドの中で磨かれるように、人間も人間と会うことによって、多様な人々と会うことによって成長して行くんだなと思っているという。役所の中だけにいると、役所の人としか接しなかったり、役所の人だけとしか飲み会に行かなかったりする。そうすると役所の常識が全て日本の常識かなと思ってしまう。一歩そこから踏み出してみると、様々な人たちがいて学ばせてもらうという。子どもも親と学校の先生ぐらいしか接しないのだけれど、そうではなくどういう大人に出会えたか、それがその子どもの将来に大きく影響するのではないかと冨田さんは思っている。幸いに教育委員会にいるので、そんな機会を子どもたちに提供したいなと思って、いろいろな子どもたちのためのイベントも、そんな想いでやったりはしているという。

【冨田さんの4Cとは】
ダイヤモンドの価値を決める4Cというのがあるのだが、冨田さんの4Cは〈challenge〉することによって、〈charity〉をすることによって、自分が〈change〉する〈chance〉なんだなと思うそうだ。だからいろいろな人にも一歩外に出ると違う景色が見えるよという話を担当課でもさせてもらうのだが、役所の中にはなかなかそういう人はいない。

【世の中こんなふうに変わって来ている】
一昔前、自分の彼氏や旦那にするには〈高学歴・高収入・高身長〉いわゆる三高のひとがよい条件として求められたが、ちょっと前からは〈低姿勢・低リスク・低依存〉の三低の男性が求められていた。それが現在〈手伝う・手を取りあう・手をつなぐ〉の三手が出来る男性が求められているようだ。最近のカップルをみていると、友だち感覚で本当に仲の良さが伝わって来る。そんなふうに世の中も変わって来ているんだな…と冨田さんは思っているという。

【子どもに大人の格好いい背中をみせたい】
子どもに、大人の格好いい背中を見せたいと常々冨田さんは思っていて、それは子どもに偉そうなことを言うことでも、「あーしろ」とか「こーしろ」とか指示をするのではなく、楽しそうに活動している背中をみせることが大事なのではないかという。未来を良くしたい、そのための種を蒔きたいと、冨田さんは活動をしているそうだ。

【冨田式算数】
冨田さんには独自の理論がある。1+1=2なんてくそ食らえと思っているのだ。1+1は絶対に2以上にするんだ! 人と人とが繋がることによって、ふたりではなくてそれ以上のパワーが発揮出来るんだと思っているし、足し算というのは助けあうこと。引くということは、引き受けること。かけるというのは声をかけることで、割るというのは労ることだよと、自分の算数を持っていて子どもたちにも伝えているという。結局人間は幼稚園や保育園で教えられたことを守って生きて行ければ良い大人になるのだろうし、この算数が出来れば世の中もよくなってゆくのではないかと、冨田さんは思われている。


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ジネンカフェVOL.126レポート

2018-11-08 11:50:51 | Weblog
このところ天災が続いている。大雨による川の氾濫や土砂崩れ、台風による被害、北海道の大地震…。天災ばかりではない。日々耳にしたり、目にするニュースには耳を塞ぎ、目を背けたくなるような事件や悲惨な事故の報道が…。天の意思も、人の世の有り様も異常どな様相を見せ、音を立てて世の中がざわついている。しかし、こんな世情だからこそ、私たちは心静かにいつも通りの生活を続けていけばよいと思う。大切な人たちのために、その人たちを想いながら生きていけばよいと思う。さて、ジネンカフェVOL.126のゲストは、名城大学2年生の西山和寛さん。西山さんは名古屋市青少年交流プラザ(ユースクエア)を中心に高校生の頃から活動しており、現在では《まちと学生をつなぐL プラネット》という学生サークルを立ち上げ、学んでいるキャンパスからも近い大曽根の商店街 を盛り上げるためのまちづくりに関わっている。お話のタイトルも、ズバリ『大学生の私ができる、まちへの関わり方』

【西山和寛ってどんな人?】
西山和寛さんは、今年20歳になったばかりの青年である。名古屋市の郊外、春日井市で生まれ育った。現在は名城大学都市情報学部に通う学生さんだ。都市情報学部とは聞き慣れない学部名だろうが、都市の問題について幅広く学び、その背後にある情報、数値化したまちのデーターを分析したり、都市計画を策定してゆくことを学ぶ学部だ。趣味はドライブとカメラ。NIKON-D7 100を愛用していて、いろいろな地方のまちに車で出かけて行っては風景や人々の営みを写真に撮ることが好きなのだとか。その折の殆どが車中泊だという。若いからこそ出来る芸当であろう。行く先の地酒を買って、車の中で飲んで眠るのにハマっているそうだ。加えて新し物好きな面もあり、限定の飲み物が出ると飲みたくなるとか、ちょっと変わったものが好きだとか。

【お母さんに諭されて、学級委員に】
名古屋のベッドタウン、春日井市出身の西山さんは、現在でこそまちづくり活動をしているが、小学校低学年までは自ら活発に何かをすることもなく、クラスでそれほど目立つわけでもなく、どちらかと言えば虐められるようなタイプだったという。小学校4年生になった時、自分を変えてみるため学級委員に立候補してみなさいとお母さんに諭され、最初は勇気が要ったものの、それでも自分でもトライしてみようという気持ちが強く、立候補して学級委員になった。その頃から他者のためにとか、自分でみんなをまとめて何かをすることにやり甲斐を感じるようになり、それから機会がある度に児童会や生徒会の活動に勤しむようになったとか。

【Fくんや白川さんとの出会い】
名古屋の高校に進学した西山さんは、「こいつには到底かなわないな」と思わせる友人と高校で出会った。その友人Fくんは、高校時代から学校外で 『Createach A』(クリエイティーチ・エー)という学生団体を立ち上げて、高校生が高校生同士で学びあいの場を作ってゆく…という活動をしていて、学校だけではなく外に出てそういう活動をしている。自分のやりたいことを、高校の外でやりたいようにやっているFくんをみて、ひとをまとめる能力もそうだが、自分の想いを行動に移してゆく能力は凄いと思ったという。それと同じ頃に白川陽一さんとも出会っている。Fくんの団体はユースクエアで団体登録をしていて、ユースクエアを利用する高校生でコミュニティを作っていたのである。

【まちづくりは楽しいと感じた初体験】
Fくんとは最初高校の生徒会で一緒に活動していたのだが、あるとき〈チェンジ・ザ・シティ〉という、まちの課題を発見して、その課題解決のための方法について考えてみるワークショップに誘ってくれ、西山さんも参加したのだという。その時にはじめてまちづくりや地域活動に触れたわけだが、こんなにいろいろな人たちが一緒になってまちのために知恵を出しあい、一から作ってゆく現場は面白いなと思ったとか。その時は行動に移すところまではいかなかったが、みんなで考えること自体が楽しかったのだ。

【楽しいポイントを自己分析してみる】
その後高校二年生の時に進路選択を迫られた西山さんは、先ずは自分の好きなこと、将来的に自分が職にしたいことを考えた。西山さんにとって小学校から高校に至るまでやってきた児童会や生徒会の活動や、〈チェンジ・ザ・シティ〉の経験が楽しくて、それらの経験がどうして楽しいのだろうと考えた時に、自らのポイントを幾つかみつけた。一つ目は、顔の見える繋がりで何かをやりきること。西山さんは、自分は顔のみえないところで活動なり仕事をすることは向いてないと感じているのだ。二つ目は、誰かのために何かが出来ること。それが西山さんにとってやり甲斐になることが多い。三つ目は、その人達と一緒に何かをすること。自分だけではなく、誰かと一緒に何かを作りあげてゆく。その三つが自分の中で児童会や生徒会の活動、(チェンジ・ザ・シティ〉の経験を楽しいと感じるポイントなのだろうと自己分析したという。そこから自然に導かれた自分がしたいこと、それが〈まちづくり〉であった。

【自分のやりたいことはここにあるのかも知れない…】
そして高校三年生になり、大学を受験することになっていろいろな選択肢の中から、名城大学ナゴヤドーム前キャンパスへ見学に行った時、学生だけではなく地域の人たちや子どもたちも出入り出来て使用出来る社会連携ゾーン という場所があり、興味深い大学だなと思った西山さんは、自分がやりたいことはここにあるのかも知れない…と思って、この大学に決めたという。

【大学に入った途端に…】
それから西山さんのキャンパスライフが始まるのだが、大学に入って間もない頃、ユースクエアの職員・白川陽一さんからFacebookのメッセンジャーを通して一本のメールが届く。そこには「西山くん、ユースクエアへ来ないかい?」と書かれてあった。呼び出しである。高校時代にもそれほど密に話したことがなかった白川さんからの呼び出しに何事だろうとユースクエアへ行ったら、三時間ほどぶっ通しで話すことになったという。その時に大曽根の商店街 のお話を聴いたのだ。高校時代から「まちづくりに興味がある」と言っていた自分のことを白川さんが憶えてくれていて、たまたま入った大学が大曽根の商店街 からほど近いキャンパスだったこともあり、これはもう誘うしかない…と思ったらしい。三時間も商店街についてのプレゼンを聴かされることになったのだそうだ。しかし、誘われた西山くんの方も「これは面白いぞ」と感じたらしく、「一度、見学に行かなきゃいけませんね」と言いながらも、その二三日後には西山くんは大曽根商店街に姿を現していたそうだ。

【大曽根商店街の魅力にハマる】
白川さんに連れられて大曽根の商店街 内を歩くことになっていたのだが、当の白川さんが用事で一時間ほど遅れることになり、西山さんはひとりでまわることになった。これが良かったのかどうかは定かではないが、大曽根商店街でお祭りを盛り上げようと活動されている若者に出会い、一時間ほどお話をしたあげく、連れて行ってもらったAnri Caféの店主の荒川涼子さんと初対面なのに、これまた三時間もお話をして、こんな面白い人たちがいる商店街なんだと、すっかり大曽根の商店街 の魅力にハマってしまったそうだ。西山さんにとって商店街の魅力は、人の魅力とイコールしていた。自分のようなどこの馬の骨とも牛の骨とも解らないよそ者にも気軽に接してくれ、やさしくしてくれる人々がいるまち。そう、そのまちの魅力とは、そのまちに住んでいたり、働いている人々の魅力でもあるのだ。

【ご当地キャラでGOGO!】
その後、ユースクエアで『ご当地キャラゴーゴゴー! 』という白川さんが企画した講座があり、西山さんもそれに参加した。大曽根の商店街 には〈おおぞねこ〉と〈つくねくん〉いうご当地キャラがいるのだが、そのキャラクターを盛り上げるために、自分たちでその活用の方法を考えてみる…といった内容で、それは大曽根の商店街 で一番大きなお祭りである七夕祭りに向けて準備をしようという企画でもあった。その講座には大曽根商店街から理事長さんも来られていて、商店街の説明とか七夕祭りの説明などをして下さったそうだ。西山さんは大学の友人を誘ったりして、七夕祭り当日も参加し、それが商店街でもっと活動したいと思わせてくれる原体験になったという。

【おおぞねことつくねくん】
大曽根商店街のご当地キャラクター〈おおぞねこ〉と〈つくねくん〉は、その設定が面白い。普通同じ地区にキャラが何体かいると、その関係性は友だち同士とか、仲間とか、比較的友好的な設定になっているが、この二体の関係性は名前からも解るように、〈つくねくん〉というのは〈おおぞねこ〉の大好物で、隙あらば食べてしまおうと狙っているという設定なのだとか。アメリカのアニメ『トムとジェリー』のトム&ジェリーのような関係性なのだろう。

【おおぞねこを探せ】
講座のワークショップは2週間に1回 、西山さんと同じ大学の学生さんもいれば、他の大学の学生さんもいたり、社会人もいて、いろいろな人たちと繋がれて楽しかったという。実際に行ったこととは《おおぞねこを探せ》と銘打ったスタンプラリー。大曽根の商店街 というのはふたつに分かれているのだが、その分かれている商店街を繋ぐ意味あいをもって〈おおぞねこ〉を使ったスタンプラリーを実施したのだ。スタンプラリーの台紙もスタッフがつける猫耳も、自分たちで作成したとか。七夕まつり自体も結構な人出で、やり応えがあったという。

【資源回収プロジェクト】
《おおぞねこを探せ》とは別に、西山さんは単独で〈資源回収プロジェクト〉を行っていた。これは会場に落ちているゴミなどを子どもたちと一緒に拾いながら、ゴミを拾ってくれたらおみくじを引けるよという企画を実施していたという。そのふたつとも行ってみるまではどうなのかなと思っていたが、実施してみると結構楽しくて、子どもたちも喜んでくれたし、手伝ってくれた同じ大学の子も「楽しかったよね」という感想を聞かせてくれたという。それが大学1年の夏のことだった。

【想いを形に-実現した地域&学舎コラボ】
それ以後、せっかくあんなに楽しかったのに、繋がりが切れてしまうのもなんだか物足りない気がした西山さんは、この後も何か出来ないかと考えた。たまたま自分たちが通うナゴヤドーム前キャンパスは出来て間もなく、その年に初めての学園祭を開催することになっていた。これはチャンスだなと思った。自分たちで大曽根商店街の人たちを招いて、学園祭においてその人達とコラボ企画をしたら楽しいだろうなあ~と考えたのだ。そしてそれは実際に昨年の学園祭で実現したのである。

【具体的にどんなことをしたのか?】
そのコラボ企画自体は七夕祭の打ち上げの時に話をしたら、講座から一緒に活動してきた仲間たちも、商店街の人たちも乗ってきてくれて、5つの企画をすることに決まったという。①〈おおぞねこ〉を活かした模擬店企画。大曽根商店街のAnri Caféiには地域の人たちが集うAnri+というコミュニティがあり、その方々にご協力をいただきながら〈おむすび〉や〈お味噌汁〉などを販売する。②ステージ企画。名古屋の夏の一大イベント《どまんなか祭り》にも出演するようなダンスチーム《アクティブおおぞね》さんや、現在は 解散してしまったが、ご当地アイドルグループの《PSC》さんを招いてステージでパフォーマンスをしていただいた。③スタンプラリー企画。七夕祭りの時に行ったスタンプラリー企画を大学祭でも行った。④〈おおぞねこ〉をキャンパスに呼んでしまえ企画。ナゴヤドーム前キャンパスの中庭で〈おおぞねこ〉と《わっぱの会》さんの〈わっぱチンドン〉が練り歩きながら、地域のイベントのPRをした。⑤大曽根フィーチャーセッション。白川さんの協力を得ながら西山さんと友人とで企画 したもので、本来は地域の人たちをしっかりと呼んで行うべきなのだが、この時は社会人や一部の地域の人を招いて、未来を面白くするためにはどんなことがあったらよいかなというコミュニティとを考えてゆく会を開催したそうだ。

【楽しかっただけではなく、自分にとってよかったよね】
この一連のコラボ企画は、西山さんを含めて仲間たちが「自分たちが企画して作った」という経験から、当日もよい顔をしていて皆が楽しくやり甲斐を持ってやっていて、そこで出会った仲間たちが学園祭終了後もただ単に「楽しかったよね」だけではなく、「自分にとってよかったよね」と言えるような機会として、このコラボ企画は大成功だったのではないかと、西山さんは思っている。

【Lプラネットを立ち上げる】
こうして1年間地域で活動してきた西山さんは、自分と地域、自分の仲間たちと地域との繋がりはこれで出来たけれど、その繋がりはとても小さなものだなと感じたという。同じ大学に通う人に「大曽根に商店街があること知っている?」と尋ねても、「そんなの知らない」と答える人が殆どで、直ぐ近くにありながら知らないというのは寂しいな、この繋がりの輪を広げてゆきたいなと思ったという。そこで西山さんは〈Lプラネット〉というサークルを立ち上げることにした。それが自分に出来る形だと考えたからだ。大学生と言えばなにかしらサークルに入って楽しいことをする人たちが多いから、サークルにしていろいろな人に入ってもらったら、この繋がりはもっと広がってゆくのではないかと思ったのだ。

【ふたつのキーワード】
西山さんが〈Lプラネット〉を立ち上げようと思ったのには、ふたつのキーがあるという。一つ目は現在〈Lプラネット〉の副代表をされているパートナーとの出会い。二つ目が『ソトコト』編集長・指出一正氏が提唱されている《関係人口》という概念。このふたつの出会いが〈Lプラネット〉を立ち上げる要因ともなったのだ。大学に入ってはじめて西山さんが意気投合したのが副代表をされている人だったそうなのだが、福井県出身者で地元のことが大好きで、大学を卒業したら福井に帰って地元を活性化させたいという強い意志の持ち主なので、まちづくり、まちおこしに関心を持っている西山さんとは馬が合い、一緒に活動をしてきている。七夕まつり、学園祭と活動してきて、今後も自分たちが一緒に出来ることってなんだろうと考えた時に、この繋がりを広げてゆくためのサークルを作ろうよという流れになったのだという。それはきっと自分たちの将来のためになるのではないかとも思ったのだ。

【関係人口】
キーワードの二つ目の《関係人口》というのは比較的新しい用語で、《定住人口》《交流人口》の真ん中辺りに位置する概念だろう。《定住人口》とはその地域に住んでいる人や移住する人たちを差している。いわゆる〈土のひと〉である。《交流人口》とは《観光人口》とも呼ばれるが、その地域に観光に訪れる人たちのことを差す。《関係人口》とは、その地域には住んでいないし、観光に来ているわけでもなく、その地域の問題に対して自分事として関わる人たちのことを差す言葉だ。いわゆる〈風のひと〉であろう。大学生がその地域をさせたいからと言って、そこに住むということはそれほど簡単なことではないだろう。でも、ただ単にボランティアで関わるだけでは何も変えてはいけない。西山さんが大曽根商店街の活性化で心がけていたのは、まちに関わるひとをもっと増やしていければ。大曽根商店街に愛着をもって自分事として動いてゆく人たちが増えれば、きっとこの街は変わってゆくのだろうなと思って〈Lプラネット〉を立ち上げたのだという。

【Lプラネットはなにをめざしている?】
学生のボランティアサークルによくある活動指向として、地域のニーズがあり、そのニーズに応えるという形で動くことが多い。しかし、それでは一時的な関わりしか生まれないが、〈Lプラネット〉が目指しているものとは、地域が学生に何かをしてほしいという想いと、学生の地域で何かをしてみたいという想いを繋げてゆく架け橋的な存在になれたら…と考えているのだ。そのような架け橋的な存在のことを『関係人口』の提唱者は〈観光案内所〉をもじって〈関係案内所〉と呼んでいるらしいが、〈観光案内所〉がその地域の観光地を教えてくれるように、その地域に関係したいなと思った時に「こんな関わり方がありますよ」とか「こんな人がいますよ」ということを紹介して繋げてゆけるようなそんな場にしたいのだという。

【Lプラネットという名前の由来】
〈Lプラネット〉と名乗ると、よく「天文サークル」と間違われるそうだが、〈Lプラネット〉とは〈ローカル・プラット・ネットワーク〉から来ているのだという。地域のプラットホームのような場所にしたいなと思ってつけた名前だそうだ。地域の中で〈Lプラネット〉という場所がいろいろな人たちを繋げていって、そこからいろいろなものが生まれてゆく、そんな場所にしたいと思って〈Lプラネット〉と名付けたのだという。

【メンバーが増加した】
そんな想いをもってサークルを立ち上げ、今年の4月に初めての新入生を勧誘する活動をスタートさせた。最初のメンバーは七夕祭りや学園祭に関わってくれた6名で、正直地域の活動に興味をもっている人って少ないかなと思って、よく入ってくれて10名ぐらいだろうと考えていたのだが、現在〈Lプラネット〉のメンバーは48名に増加してきているそうだ。

【はらぺこたちの集い 】
48名に増加した背景には、やはり新勧活動を頑張ったからだろうと、西山さんは思っているという。学校行事の中でも〈遠足〉って楽しいものだが、小学生・中学生は行っても高校生や大学生になると行かなくなる。大曽根商店街とナゴヤドーム前キャンパスはせっかく歩ける距離にあるので、遠足してみたら楽しいのではないかと思って新勧活動に遠足を取り入れることにしたのだ。加えてせっかく遠足に行くのならば、地域の魅力を発見出来るようなものにしたらいいねと考え、いままで繋がりのあった大曽根商店街のお店にご協力いただいて、ワンコイン、500円程度で食べられるメニューをして貰い、食+レクリエーションという感じの、みんながフランクに参加出来るような企画を新勧でしたのだそうだ。初めから地域での活動ありきの新勧ではなく、学生にとっても居場所になるような新勧活動をしてみたら、多くのひとが興味を持ってくれたのだという。

【ご当地キャラをプロデュース】
そうして48名という大所帯になった〈Lプラネット〉がこの4月から役半年間、何をしてきたかと言うと、ユースクエアで白川さんたちがしていた『ご当地キャラでゴーゴゴー!』というワークショップの運営を、今年は自分たちでしてみようということで、『ご当地キャラをプロデュース』という企画を行った。ワークショップの会場もユースクエアではなくて、大曽根商店街の理事会を開催するような場所を提供していただいて、そこで開催したという。1年間の繋がりの結果であろう。そのワークショップでまとめられた意見に基づいて、〈おおぞねこ〉と〈つくねくん〉をモチーフにしたふたつの御神輿を作ったり、毎年お祭りで子どもたちがしている〈路上お絵描き〉を、今回は〈おおぞねこ〉と〈つくねくん〉を主役に、『ゾネウォーズ』というストーリーを仕立てて、そのストーリーをボードに掲げ、そこから連想するものを子どもたちに路上でお絵描きをしてもらうという趣向にしたそうだ。もちろんふたつに分かれた商店街をまわってもらうため、三ヶ所を周遊するような仕掛けを施したとか。これも子どもたちには大人気で、今年の七夕祭りも良い感じで終了することができたという。

【まちづくりで大切に思っていること】
西山さんがまちに関わる時に、大切にしていることがふたつある。一つ目が前出の『関係人口』の話で、二つ目も前出の『プラットホーム形成』の話である。『関係人口』の話は、要するに『人と人との繋がり』の話でもあるのだ。大曽根商店街に関わった時に一番最初に感じたのもひととひとが繋がった時の面白さだったし、その後に西山さんが一番活動出来てよかったなと思ったことも、大学祭の企画だったり、『ご当地キャラをプロデュース』だった。そのどちらも人と人とが繋がったからこそ生まれた企画であった。これも前述したが、学生がいきなりその地域に移住するのは簡単な話ではないが、先ずは自分のやってみたいことを地域で実現させてみようよ、自分の面白いと思うことをその場所でやってみようよ…そういったことは、大学生や高校生にとっても遣りやすく、まちにも関わりやすい。しかし、そのためには繋ぐための場所が必要で、学生がいきなりこういうことがしたいと思ってそのまちに行っても、繋ぐひとや環境がなければどうにもならない。そういった意味での〈プラットホーム〉。地域の中でいろいろな活動が次々と生まれてくるような、そんな場所や仕組みが大切だと思っているという。

【ローカルプレイヤーを目指そう!】
「大学生とまち」という観点で考えた場合、『関係人口(西山さんは、ローカルプレイヤーと呼んでいる)』になることを目指してゆくことが、とても重要なことだと思っているという。西山さんにとってローカルプレイヤーはふたつポイントがあって、一つ目は自分事として楽しむことが出来ること。二つ目は、自分が活動しているからその地域は変わってゆくんだ、つくってゆけるんだという、未来をつくっているやり甲斐。この二つがないといけないと、西山さんは思っている。

【『ご当地キャラをプロデュース』で感じたこと】
そういう考えに至った背景には、今年度(Lプラネット)で行った『ご当地キャラをプロデュース』にあるという。表向きは成功したようにみえていても、西山さん自身では失敗したなと思うところが幾つもあるという。大体、自分でポイントだと思っているふたつのポイントさえも出来ていなかったなと反省しているとか。行動を起こす時に誰かのためにやろうというところが専攻し過ぎて、自分が楽しめなくなってしまったらしい。何かに追われて、自分がやっているのだ、楽しんでいるのだという想いがないと、心が辛くなってくる。それは今回の講座の中でもみんなも感じていたらしく、受講生がやりたかったことよりも西山さんを含めた〈Lプラネット〉のコアメンバーがやろうと決めたことの方を優先してしまったところがあり、講座の受講生にとっては《自分でつくる》というやり応えをあまり大切に出来ていなかったのではないかと感じているそうだ。楽しめたにしても、自分事として楽しかったと言ってくれる人はどれだけいたのだろうと考えたときに、今回の講座の進め方はもう少し考えた方がよかったなと思ったそうだ。

【奥大和アカデミーに参加して】
西山さんは現在、『奥大和アカデミー』という講座に参加しているという。奈良県吉野郡の天川村を舞台に、自分のしたいことを実現させようという趣旨の講座だ。地方への関わり方というのは様々あるが、西山さん自身その地域と関わるために、弾丸で旅行に行こうと思っているそうだ。そんなふうに自分の中で顔の見える繋がりや、そこに行って自分が楽しいと感じると、人ってその地域にもっと愛着をもつと思う。そのように地方にとっても『関係人口』を増やしてゆくことが地域活性化に向けて大切なことだろうと、西山さんは思っているという。
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ジネンカフェVOL.127 のお知らせ

2018-10-06 11:36:11 | Weblog
ジネンカフェVOL.127
日時:11月10日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:冨田正美さん(ハーレーサンタCLUB NAGOYA 代表)
参加費:500円

ゲストプロフィール:
愛知県名古屋市生まれ、三重県桑名市在住。「教育が変われば未来が変わる!」との思いで一貫して教育行政に従事し、現在は愛知県教育委員会生涯学習課長。プライベートでは困難を抱える子どもの支援を中心に、自らも児童虐待防止啓発活動の団体を立ち上げ、その代表を務めている「飛び出している公務員」 (お腹もね…)。子どもは親を選んで生まれてくることができないことから その親から酷い仕打ちを受ける「児童虐待の防止」に特に力を注ぐこととしたが、ハードルを低くして一人でも多くの人に知ってもらうために、マジメニフザケている。

コメント:
左右の目は、どちらも1.5ですが、座右の銘は「最悪を想像して、最善を創造しよう!」です。
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ジネンカフェVOL.125レポート

2018-08-17 18:57:04 | Weblog
降りそそぐ蝉時雨の中で、毎年この言葉を書いているけれど、暑い! なんでもこの暑さは日本だけではなく、世界規模らしい。北欧でさえ33℃は平均してあるという。こうなると、冗談でなしに夏の平均気温が40℃になる日もそれほど遠くはないだろう。政府も2020年の東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、2年間限定でサマータイムの導入を検討しているとか。まあ、サマータイムを導入しようが暑さは変わらないし、私にも全く関係ないけれど…。さて、8月のジネンカフェVOL.125のゲストは、株式会社永楽堂の社員の高野仁美さん。株式会社永楽堂は、業務用のパン専門に製造し、販売している会社である。高野さんはその会社の中に「社内カフェ」を立ち上げられたという。そこには高野さんの夢や想いが込められているのだ。お話のタイトルは、『地域コミュニティの中心としての喫茶店の可能性』

【生粋の名古屋っ子】
高野仁美さんは、名古屋生まれの名古屋育ち。名古屋圏の文化と言えばひとつに〈喫茶店〉があり、〈モーニングサービス〉がある。日曜日の朝食は家族揃って家の近所の喫茶店に行って、コーヒー一杯の値段でモーニングサービスを楽しむ家庭も少なくない。高野家も家族で旅行に行く時には朝早く起きて喫茶店に行き、モーニングを食べてから出かけるという。家族も全員が名古屋っ子で、もちろん喫茶店が大好きという家庭で育った生粋の名古屋っ子だ。大学を卒業して直ぐに業務用のパンの製造・卸しをしている株式会社永楽堂に就職し、現在に至っている。

【永楽堂とはどんな会社?】
高野さんが勤めている株式会社永楽堂とは、創業50年という、業務用のパンを製造・卸しをしている会社である。創業した当初は喫茶店も多かったので、ひたすらモーニング等に使う食パンを焼いていて、営業に出なくても注文の電話がどんどんかかってきたらしい。しかし、個人経営の喫茶店が減少してきている現在では、結婚式場やホテルにも卸すようになっているという。それでも社是として飲食店に卸すパンを…という想いは持ち続けている会社なのだ。

【パン好きは変態が多い?】
高野さんも就職した当初はパンを製造していたのだが、途中から営業にまわり、いろいろな喫茶店にパンを持って行き、パンを売るというよりは、個人経営の喫茶店が繁栄して行けるようなお手伝いがしたいという想いで働いているという。喫茶店も好きなのだが、パン自体も大好きなので、〈パンソムリエ〉とも呼ばれている〈パンコーディネーター〉の資格も取得した。その道を究るには何事も凡人と同じことをしていてはいけない。一度、その〈パンコーディネーター〉の集まりに行ったのだが、そこは奇人変人の世界であった。女優の藤吉久美子さんもパンコーディネーター〉だったりするそうだが、同じ協会の人が時々『マツコの知らない世界』に出る。20年間、365日3食パンしか食べたことがないという人がいるかと思えば、パンを食べる時は先ず目で眺めて、匂いを嗅いでからおもむろに食べるという、パン好きな人特有のパンの食べ方があるらしい。パンを先ず口ではなく鼻に持って行ったら、間違いなくその人は変態レベルのパン好きであるという。

【パン好きは焼ける音はまるでメロディ?】
また、高野さんはパン好きの仲間たちと、パン屋さんをまわったことがある。本当に皮がパリパリのフランスパンは、焼きたてをオーブンから出すと、外側の皮がパリパリパリとか、ピキピキとかいう音がするのだそうだ。普通のひとは「面白い音」とか「こんな音がするんだ」という反応をするのだが、パン好きの人は目を閉じて「いい音色!」と一言呟くのだそうだ。

【雑貨・カフェクリエーター】
もうひとつ、高野さんは「雑貨・カフェクリエーター3級」の資格も取得している。これはカフェの開業支援、カフェの集客やインテリア、メニュー構成など、カフェ開業に関わる全般を指導して行く資格である。もっと上の級を目指して、ただいま勉強中だとか。

【まちの縁側を作りたい!】
大学ではファシリテーションを学んでいた高野さんだが、実は長い間温め続けている夢がある。将来離れのある家に住んで、その離れにはピアノとギターがあり、将棋盤も置いてあって、普段はお年寄りや地域の人が集まって自由にお喋りしたり、将棋を指したり、時にはみんなで歌ったり、そんな風に過ごしたいという。離れには縁側もあって赤ちゃんを連れたお母さんがそこにひと休みに来たり、学校帰りの子どもたち、家に帰っても誰もいないという子どもたちがここに来て、お年寄りに宿題をみてももらう。そんな自由な、まちのひとたちが自然に立ち寄れるような、そんな場所が作りたいとか…。もともとは学生の頃、就職活動をし始めるタイミングで祖父母と同居したのがきっかけで、祖父母と暮らしてゆく中で「こういう場所ってすごく大事だな」と思ったのだという。ひとり暮らしのお年寄りなんて、一日に何回名前を呼んでもらえるんだろう? そんなことを考えていたら、家族以外で名前で呼び合えるような人がいつでも近くにいる環境が必要で、そのような〈まちの縁側〉をいろいろなまちにつくりたい。そんなことを思い描きながら、就職活動をされていたという。

【そこではないんだけれど…】
ところが大体の企業の面接でそんなことを言っても、面接官には伝わらない。「あなたの夢は何ですか?」と訊かれたので答えてもみんなピンと来ないらしく、それどころか「離れのある家に住みたいと言うけれど、離れを建てるのに幾らかかるか解ってる?」「で、月収は幾ら欲しいの?」と訊かれたりしたそうだ。〈いや、そういうことではないし、そこでもないんだけれど…〉と思っていたそうだ。そんなこんなで就職活動は難航し、そんな時に現在の会社に出会ったという。

【それって喫茶店で出来るんじゃない?】
株式会社永楽堂の面接を受けた時に、件の質問の答えに対して「それって喫茶店で出来るんじゃない?」という反応が返ってきて、その瞬間高野さんは「あっ、私はこの会社で働くんだ」と思ったという。それから現在までこの会社に勤められているとか。パンを通じてまちの喫茶店を応援して行こうということで、いろいろなまちにある喫茶店ひとつひとつに、自然に人が集まってくる場所になる。そのお手伝いをパンを通してしていけたら…と思っている。自分が名物おばあちゃんになるのはまだ後、40年~50年先のことなので、それまでの間はそうして喫茶店を応援出来ればいいなと思っている。

【自分が作りたかったのは喫茶店だったんだ!】
もともと高野さんは喫茶店が好きで、小さな頃からおばあちゃんの家に遊びに行くと、お散歩しながら近所の喫茶店に連れて行ってもらえたそうだ。そこに行くとおばあちゃんの友だちがいて、いっぱいしゃべりかけてくれて、必ず「お母さんには内緒ね」と言ってアイスクリームを食べさせてもらえた。でも、それが嬉しくて家に帰るとすぐに「おばあちゃんとアイスを食べた」とお母さんに報告してしまう…。それまでがセットになって、現在でも色褪せない思い出として高野さんの中に残っているという。そうして仕事を通して喫茶店のことを知れば知るほど、自分が作りたかった「場」というのは喫茶店だったんだ! と、思うようになっていったのだった。

【喫茶店は面白い①私のモーニングはあとで山田さんが食べに来る】
会社に入ってからというもの、高野さんは街中のどんな小さな喫茶店にも立ち寄るようにしているのだが、それは岡崎の住宅街の中にある喫茶店での出来事だったという。その店のモーニングタイムは10:30までで、高野さんはもう店内で座っていて、モーニングサービスを楽しんでいた。10:20分頃、常連と思わしきおばあちゃんが入って来て、コーヒーをオーダーした。当然のことに店の人が「モーニングはどうされますか?」と尋ねた。するとそのおばあちゃん、「わたし、モーニング二軒目だからパンは要らない」と断り、事もなげに衝撃的な一言を付け加えたのだそうだ。「わたしはモーニング要らないんだけど、このあと山田さんが来ると思うんだけれど、山田さんモーニングに間に合わないと思うから、わたしの分のモーニング、山田さんにつけてあげて…」その言葉を聞いて高野さんは、目が点になってしまった。「モーニング二軒目」という時点でただならぬものを感じていたが、「モーニングをあとから来る山田さんにつけて?」そんなことが出来るのか…? と。そんなシステムが岡崎では普通なのか? と。店に来た人が自然に相席してゆく。そうして「〇〇さん、まだ来てない」とか、「××さんこの前風邪だと言っていたけれど、まだ治ってないのかねえ~」などという会話が自然に出来て、お店の人も「山田さん」と言われて顔と名前が一致するから「わかりました。山田さんに取っておきますね」ということが出来るわけで、それは多分喫茶店でしか出来ないなと、高野さんは思っている。どうしてそんなことが可能なのかと考えると、昔ながらの喫茶店ってコーヒーチケットがあって、そのお客さんのコーヒーチケットをレジの壁に貼って留めてある店が多いのだが、コーヒーチケットは持ち歩くのではなくお店にストックしておくため、ボトルキープと同じ要領で名前をチケットに控えておくのだ。そう、お客さんの名前を憶える、名前を管理する方法が他の飲食店の中でも喫茶店は独特だから、いつもの席が用意出来たり、「いつもの」と言うだけでいつものメニューが出て来る。そういう特別な場所になって行ったのかなと、高野さんは思っているという。

【喫茶店は面白い②コーヒー×パン×おしぼり。パン屋の仕事は駐車場の誘導】
脱サラをした人が飲食店を開業する。よく聞く話だ。喫茶店の場合、サラリーマンを辞めてから一週間で開業する人が結構多いのだそうだ。サラリーマンを辞める前からそれなりに勉強はしていただろうが、いわば素人オーナーさんの喫茶店のオープンを手助けする人たちがいる。それがコーヒー屋(豆)さんとおしぼり屋さんとパン屋さんである。この三者がタッグを組んで開業する人の後押しをして、一人前のマスターに育ててゆく。そうしてまちの喫茶店をどんどん増やして行ったのだとか。一軒の喫茶店が開業すると、コーヒー屋さん、おしぼり屋さん、パン屋さんからひとりずつお店に派遣されて、何も知らないマスターにイチから教えてゆくのだ。大体コーヒー屋さんがメニュー関係の指導をして、おしぼり屋さんが接客のノウハウを伝授し、パン屋さんが駐車場で車の誘導をするというのがパターンであるとか。一週間ぐらいそうして営業マンが入って教育して、一週間経ったら「じゃあね。あとは任せたよ」という感じで、次のオーナーさんの喫茶店へと移ってゆく…。そんな時代もあったそうだ。現在では信じられないような話であるが、名古屋の喫茶店文化の陰にはそうしたコーヒー屋さんとおしぼり屋さんとパン屋さんのサポートもあったということだ。

【喫茶店は面白い③朝以外も油断が出来ない。とにかくいろいろついてくる】
いまや名古屋圏の喫茶店=モーニングサービスというのは全国的に知られているが、標準的なモーニングはコーヒーにトースト+ゆで卵+サラダというのが定番だろう。その店によってはゆで卵の代わりに茶碗蒸しが付いたり、ヤクルトが付いたり、おにぎりや味噌汁、締めに昆布茶が出て来るところもある。何れもどうしてそのようなチョイスなのか、よく解らない。高野さんも営業をしている時に、モーニングにいろいろなものが付いて来るというのは解っていたが、あるとき新規のお店に取引きのために電話をしたら「ウチはあまり高いパンは使えなくて…。モーニングサービスを一日中やっているから」と衝撃的な一言を言われたという。「モーニング」というのは、文字通り「朝」のサービスだから「モーニングサービス」と名付けられているのだろう。それを一日中しているとはどういうことなのだ。それはもう既に「モーニングサービス」の概念を通り越している。現在や高野さんの「モーニング」の概念も相当崩されているのだが、調べてみると一日中モーニングサービスを取り入れているお店は愛知県下に結構あるらしい。名駅にもあるし、聖地・尾張一宮にも当然あるという。

【モーニングの発祥の地は、一宮? 名古屋?】
「モーニングサービス」の発祥には、尾張一宮説と名古屋説とがあるようだ。どちらも繊維業が絡んでいる。一宮も名古屋市の長者町も一時期繊維業で栄えたまちで、機織り機がガチャンと音を立てれば、万単位で儲かったという〈ガチャマン時代〉に、繊維工場で働く人たちが朝早かったので、「頑張れ」という意味を込めてコーヒーに玉子とトーストを付けたという。それがモーニングサービスの始まりだと言われている。加えて繊維工場の機械の音がうるさくて、会社の中では商談や打ちあわせが出来ないため喫茶店に行く…という文化だったので、モーニングでいっぱいサービスして気に入って貰えたら、その人達が一日に二回も三回も来る。なので気に入って貰えるように、モーニングでいっぱいつけた。ランチにも来てね! 昼下がりの打ちあわせや商談にも来てね! そんなふうにして喫茶店文化も、モーニング文化も根付いて行ったという。
*ほかにも、岐阜・豊橋・広島などの説もあるそうです。

【喫茶店は面白い④お帰りの際はレジ横に注目。ママさんの想い】
よく喫茶店のレジ横にコーヒー豆やお菓子が売っていたりするが、高野さんが勤められている永楽堂もレジ横商品用にラスクとか塩飴とか、クリスマスシーズンになるとシュトーレンとか、春ならば桜のケーキとか、そういう商品も扱っていたりするそうなのだが、はじめて塩飴を商品にした時に、予想外に売れたのだという。一体何が起きているのだろうと調査したところ、年老いたママさんがひとりで切り盛りしていて、お客さんも常連さんが一日何人か来るぐらいで、いつ閉めてもよいんだけどね…ぐらいのお店のママさんが塩飴をレジの横に置いたところ、お客さんが「これ、なあに?」と尋ねて来る。その度に説明すると売れる。なにか楽しくなってきた。レジ横に「飴」というアイテムがあることで、お客さんともう少し会話が出来るようになる。「こんなの置き始めたんですよ」とか「お土産にどうですか?」とか。そうしているうちにお客さんとの会話も増えて、しかも売れるから楽しくなってきたというのだ。それでママさんがちょっとやる気を取り戻してくれたりとか、「お客さんとの会話も増え、繋がりが強くなりました」という声もいただくという。喫茶店のレジ横にはそんな想いが込められた商品や、パン屋さんが作ったケーキとか、そういう意外な商品が販売されているので、一度チェックしてみて下さいとのこと。そしてそれを機会にママさんやマスターとお喋りすると、喫茶店がもっと楽しい空間になるのかなと高野さんは思っている。

【会社に喫茶店を作ろう!】
永楽堂に入社してから喫茶店への営業やら商品開発をされてきた高野さんだったが、途中である重大なことに気がついたという。いろいろな喫茶店をみてきて、自分の作りたかったのは喫茶店だと思った背景には、喫茶店がまちにあると地域のひとが自然に集まって来て自然にコミュニケーションが生まれ、ひととひとがゆるく繋がる、幸せなまちになるのではないかと考えたからなのだが、ふと会社の中を見回してみて、気づいたのだ。社員がみんな疲れている。会話が少ない。人間関係もうまく行かないことが出て来た。ならば会社に喫茶店があれば、会社のひとたちが自然に集まって来て、コミュニケーションが生まれてひととひとが繋がる幸せな会社になるのではないかと。喫茶店を作って、幸せなまちを作るといっても、会社の空気を変えられなかったら〈喫茶店の力〉なんてそんな偉そうなことは言えないよなーと気づいたのだ。そこで〈会社に喫茶店を作ろう〉と活動を始めたのだという。

【社内カフェまでの遠い道程】
社内カフェを作る、言葉では簡単に言えることでも、実際ともなるとそれはなかなか難しい道程だった。永楽堂は100名ほどの社員を抱える会社なので、社内にはちょっとしたキッチンや給湯設備の整った〈食堂〉と呼ばれている広い休憩室がある。そこは単に会議机と椅子がズラズラと並んでいるだけの部屋なのだが、その休憩室の一角にテーブルとソファをL字型に置いたのだという。喫茶店と言えばソファは外せないし、対面型では1対1の関係性が強いのに比べ、L字型に配置すると人々がゆるやかに繋がれて、自然と相席するというイメージがあるという、高野さんのこだわりだ。しかし、「休憩室に喫茶店を作ります」と言っても、「はい、そうですか」と予算が下りるわけではない。高野さんも「場づくり」の必要性を伝えきれずに「会社にカフェをつくると、売上げが上がるの?」と言われる始末だった。まあ、当たり前の反応と言えば、それはそうだろう。

【次々と現れる協力者たちの力】
それでも高野さんは諦めなかった。何とか頼み込んでソファを一脚だけ会社の予算で買ってもらった。しかし、一脚だけではL字型にならない。仕方がないので、自分の家からソファを持って来てL字に置いたそうだ。想いというものは繰り返し言うことで、誰かに伝わるものである。そうするうちにひとりの社員さんが「ウチのソファ、買い換えるから古いのでもよければあげるよ」と言って、赤くて可愛いソファを持って来てくれたという。そうして徐々に備品が増えて行ったが、テーブルも手頃なものがなかったので会社の倉庫を漁っていたら古いテーブルが出て来た。ソファとは高さがあわなかったが、脚を切断して再び溶接して高さをあわせることが出来るかも知れないという人が出て来た。そしてある年度の新人研修で「社内カフェをつくる」という課題に取り組んでくれた新人が二人いて、その新人さんがトラックを運転して木材を調達してきてくれて、ソファを動かした関係で床とか壁とかむき出しになってしまったところに板を打ってくれたりして、そうして無事にカフェスペースが完成したそうだ。

【ソファがあるだけなのに…】
それでもさすがに毎日喫茶店として営業することは出来ないので、取りあえず先ずは「場を確保」するということ。「場を用意」することから始めたのだ。それだけでも嬉しい反応が起きたという。お昼休憩の時のおしゃべりが増えたというのだ。いままでは会議机が一列に並んでいるだけで、パン屋という職業柄早い人は夜中の3時から、遅い人は11時頃までシフト制で動いているので休憩時間もバラバラで、労働時間も長いのでお昼休憩はみんなイヤホンつけて机に突っ伏して寝ている人が多かったのだが、カフェスペースが出来ただけで若い人からひとり、またひとりとゆるゆる集まって来て、そこに座っておしゃべりしたり、カードゲームで遊んでくれるようになったのだという。この場のがきっかけになり、社員同士でBBQに行くとか、ドライブに行くとか、お家で飲み会しようとか、そういう話が生まれて行っている。ソファがあるだけで、いろいろなひととひとが社外に出ても繋がり、コミュニケーションが取れているということが嬉しいことだったという。

【会話がなくても時間は共有出来る】
普段からそれほど関わりの薄い社員同士だと、いきなりその場でおしゃべりという展開にはならないのだが、ソファがあって二人でL字に座っていて、喋らないけれどゆるく時間を共有しているという空間。そうしてふとした瞬間に「今日、暑いね」みたいな。まさに喫茶店で相席をした時のような、そんなゆるく自然な繋がりが少しずつではあるけれど、生まれて来ているという。最初は座ってくれなかった人が座ってくれるようになったり、お昼休憩以外でも打ちあわせで使ってくれていたりするそうだ。

【社内カフェは知的障害者の心も動かす?】
その中でも凄く嬉しかったのは、永楽堂では8名ほどの知的障がい者を雇用しているのだが、ひとり「席」に対するこだわりが強い方がいて、いつも決まった席にしか座らないし、他人が座っていると引っ張って降ろして自分が絶対にその席に座るという人なのだけれど、その人がみんなが座っているソファに移動してきてくれたというのだ。高野さんも「えっ、みんなと一緒に座るの?」と驚いたという。いまも自分のお気に入りの席に座っているが、他人が座っていると「座らせて」と言って、一緒に座ってくれているそうだ。

【ソファひとつで、インクルーシブ?】
そのひとに限らず、以前ならば社内に障害のある方が一緒に働いていても、お昼休憩の時に一緒におしゃべりする場なんてなかったのだが、ソファがあることによって普通にみんなでテーブルを囲んでお昼を食べて、おしゃべりをすることが出来るようになって、ソファがあるだけでこんなに変わるんだと、高野さんは思っている。

【想いは伝えよ、されば奇跡は起こるもの】
そんなことをしていたら、なんと奇跡が起きた。冷蔵庫がほしいと思っていたが、冷蔵庫は新品で買うと20万ぐらいはする。しかし、倉庫の中から冷蔵庫が見つかったのである。使えるのか解らなかったけれど、汚れを拭き取り、コンセントを挿してみたら正常に稼働したのでカフェスペースに運んで使っているとか。やはり想いを誰彼問わず話していると、奇跡は起こるものなのだなと高野さんは感じている。冷蔵庫も入ったそのカフェスペースを使って、現在では月に一度自社製品のパンを用いた社内カフェをオープンさせているそうだ。一日に30名ほどの利用客だが、高野さんはご自分の夢に向けて確実な手応えを感じていられるだろう。



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ジネンカフェVOL.124レポート

2018-07-13 10:43:30 | Weblog
今年の梅雨は例年に比べて期間が短かったのに、西日本では記録的な雨量となり、多くの地域で土砂崩れや川の氾濫などの被害が出ている。被害に遭われた方々、お見舞い申し上げます。またお亡くなりになられた方々、月並みな言葉しか出て来ませんが、お悔やみ申し上げます。被災されたまちや人々が平穏を取り戻し、再び何気ない日常生活を取り戻されますよう、衷心ながらお祈り致しております。さて、今年の2月、立春を待っていたかのように、当法人の代表・風のひと、延藤安弘氏が本当の風になってしまわれました。延藤安弘氏にはジネンカフェ100回を迎えるにあたり、お話を賜りました。飄々と、しかし熱情を込めて世界のまちの縁側の様子を語る姿は、未だに記憶に新しいところです。謹んでご冥福をお祈り致します。ということで、今年度から当法人も体制が新しくなります。ジネンカフェも100回を越えたことですので、今年度からゆったりとしたスパンで開催して行こうと思っています。よろしくお願いします。早速5月はお休みさせていただきました。6月16日に行ったジネンカフェVOL.124のゲストは、愛知県精神障害者家族会連合会事務局スタッフ、昭和区発達障害児親の会のびたくらぶ副代表の塚本由紀子さん。精神保健福祉では先進国と云われているイタリアへ二年前に娘さんと研修旅行に行かれた際のレポートです。タイトルもズバリ『イタリアを訪問して』

【親子でイタリア研修ツアーへ】
塚本由紀子さんは、お仕事で愛知県精神障害者家族会連合会事務局スタッフをされている傍ら、昭和区発達障害児親の会のびたくらぶ副代表や、名古屋市社会福祉協議会の権利擁護の関係の仕事をされておられる。というのも、娘さんに重度の知的障害と、精神障害・自閉症があるからだ。そういうお仕事や活動の関係もあって、一昨年東京のNPO法人ソテリアさんが企画されたイタリアのボローニャへの研修ツアーに親子で参加されたそうだ。娘さんは初めての海外旅行だったので、イタリアに行く前に簡単なイタリア語を憶えたのだが、主治医の先生に相談したところ「入国審査の時に英語でも構わないから自分の娘さんの障害を説明出来るといいよ」と塚本さんもアドバイスされたという。娘さんは小さな頃に睡眠障害やその他の症状が激しい時期があり、その頃にはまさか親子でイタリアに行けるなんて思ってなかったし、一般の旅行社が企画したツアーでは参加出来なかっただろうと思っているという。

【なぜイタリアなのか?】
イタリアという国は、冒頭にも述べたように精神保健福祉が最も進んだ先進国と云われていて、バザリア法という法律によってイタリア国内には公立の精神科病院がひとつもないという。それ自体が日本では考えられないことなのだが、塚本さんは実際にその現場をみてみたいと思ったそうで、東京ソテリアさんからこの企画の話を聞いた時、ぜひ参加したいなと思ったという。因みにバザリア法とは1978年に可決された精神医療・福祉に関する法律で、精神科病院廃絶を訴えた精神科医フランコ・バザーリアから来ている通称である。精神科病院の新設、すでにある精神科病院への新規入院、1980年末以降の再入院を禁止し、予防・医療・福祉は原則として地域精神保健サービス機関で行う。治療は患者の自由意志のもとで行われているという。

【親子で出かけた理由】
親子で研修旅行に出かけたのには、前向きな理由とそうではない理由とかあった。前向きな理由としては、娘さんに海外をみせたいという母としての想いである。ご自分が若い頃に海外へ行く経験があったら、その後の人生ももっと変わったものになったのではないかと思っていたからだ。もうひとつのあまり前向きではない理由として、娘さんの預け先がなかったためだった。当事者も参加を募っていたツアーだったので、思いきって親子で参加されたのだそうだ。

【ドイツ経由でイタリアへ】
企画したのは東京のNPO法人なのだが、中部国際空港セントレアからルフトハンザ機で、ドイツを経由してイタリアへと向かった。さすがにイタリア料理の本場だけあって食事はみんな美味しかったのだが、その量やサイズが半端ではなく、食べきれないほどだったという。

【精神保健局】
イタリアに入って最初に向かったのは、昔の病院だった建物を政府が使っている精神保健局であった。そこの代表やドクターとミーティングをして、精神保健局の中にある施設でラジオ番組に出演させてもらったという。番組はある単語から連想される言葉を挙げてゆくというもので、それを通訳さんがイタリア語に直して伝えて下さり、放送されるという番組だった。キーワードが〈ケア〉〈精神病院〉〈小川〉〈自由〉という言葉を連想して収録してもらい、イタリア全土に流れたとか。そのラジオ局も精神障害者の社会復帰のために運営されているところで、ボローニャ大学のメディア学を教えている先生がコーディネートをされているということだった。

【サポートファミリーの方たちとの交流】
イタリアでは一般の家庭の空いている一室を借りて、精神障害者の人たちが生活をするという制度があるそうだ。ニーズは多様にあり、若い精神障害者の方たちだと社会復帰へのステップアップの一環として利用する方もいるし、年齢が高い方だと終の住処として誰かと住んでみたいという、そういったニーズもあるとか。部屋を提供する側も、利用する当事者側も、いろいろな指向や希望があるので、それらを調整してマッチングしてゆく事務局が〈サポートファミリー〉である。マッチングだけではなく、事後の支援もされているとのことだ。

【イルファロ編集室、ロンディーネのディ・ケアセンターへの訪問】
『イルファール』は、精神障害当事者の方たちが自分たちで編集し、発行している雑誌である。その編集室の見学をさせてもらい、ロンディーネのディ・ケアセンターも訪問させてもらったそうだ。ディ・ケアセンターにはいろいろなプログラムがあるのだが、スポーツをしていたり、夏にはキャンプなどもしているとか。縫製などの仕事もしていて、ちょっとしたカバンが日本円に換算して2,000円程度で購入することも出来る。支援員の方は芸術なら芸術の、スポーツならスポーツの専門家が就いているそうだ。

【この日の昼食】
運営はボランティアがされていて、食事も基本的に無料。出せるひとが出せる金額を支払うというシステムになっているらしい。ここの食事も美味しかったのだが、やはり量が多すぎたそうだ。

【精神科病院をなくしたといっても…】
精神科病院をなくした国とはいっても、やはりそれに該当する施設はあり、塚本さんたちが訪問されたのは重度より少し軽い精神障害の方が入院している施設であった。主に統合失調症の方が多く、触法障害者の方も入所されているとのことだ。

【アルチペラゴ居住施設】
居住施設はひとつの建物の中に部屋が幾つもあり、日本で言えばグループホームのようにそこに住んでもらうという感じ。ただ、日本のグループホームと違うところは、夜間は職員が帰ってしまって入所者の方だけになるところで、これが大きな支援のポイントだということだった。それは塚本さんたちが宿泊された研修所のようなところでもそうだったという。因みに一般的なホテルはそんなことはないそうだ。

【やはりイタリアはワインの国?】
塚本さんがこのツアーで驚いたのは、頻繁にワインが出て来ることだった。昼食にもワインがついてきたし、おやつにもワインが出たという。さすがは美食とワインの国でもあるイタリア。

【アルコバレーノ協会】
イタリアは精神障害者の方たちの日中活動支援も盛んな国で、この協会でも印刷をしたり、陶芸やガラス細工などを製作していたという。また、レストランや宿泊事業もされているとのこと。塚本さんがこの研修旅行中、一番美味しいと感じたのはこのレストランのホワイトソースで肉が入った餃子のようなパスタだったそうだ。これらの施設はその昔動物を飼っていたところを改装して使っているということで、レストランや宿泊施設にもその名残の〈牛マーク〉が残っていたりするそうだ。イタリアの協会の方々とも交流をし、予定にはなかったが野鳥好きな方が突然来られて、急遽野鳥見学会が催されたりした。

【もちろん市内観光も】
そういう施設だけではなく、もちろんボローニャの市内観光にも出かけ、有名なポルチコや街の中央に聳える塔にも登ってきたという。

【一日だけの自由行動はベネチアに】
一日だけ自由行動日があったので、塚本さん親子は水の都ベネチアに行って来たそうだ。

【Dove(ドーベ) mia(ミア) figlia(フィッリヤ) 事件】
この研修旅行の主目的は10月10日の『精神保健ディ』に参加することがメインで、東京ソテリアさんが持って来た生け花やお抹茶などを披露したそうだ。塚本さんの担当がお抹茶だったので会場でお茶を点てていて、ふと気がついたら娘さんがいなくなっていた。驚いて会場中をイタリア語で「Dove mia figlia!」と叫びながら探したそうだ。娘さんは直ぐに見つかった。愛知県の長久手市からも〈ゆったり工房さん〉がさをり織りの織り機を持って来ていて実演していたのだが、そのブースで楽しそうにさをりを織り、籠を作っていたそうだ。異国の地で娘さんがいなくなり、焦って「Dove mia figlia!」と叫びつつ探しまわる塚本さんに対して、とうのご本人は少し離れているとはいえ、同じ会場内で楽しそうに籠を作っていたのである。塚本さんは、あとから自分は何をしていたのだろうと思ったという。

【イタリアの買い物カゴ】
塚本さん親子が宿泊した施設はイルビリーナ地区にあり、周辺には門のところには番犬がいて、その門と玄関との間の距離が離れているような豪邸が多くて、ドラマなどに出て来そうな地区だったという。買い物に行ったスーパーは普通のスーパーだったのだが、買い物カゴの形状や使い方が日本のそれとは異なり、カゴの持ち手の部分を延ばして、カゴを引きずるような形で使うものだったそうだ。

【また、イタリアに行ける日まで】
帰りはやはりドイツを経由して羽田に着き、名古屋へというルートを辿って戻ってきた。イタリアに行って、親子共々イタリア好きになってしまったという。イタリアに行く前は何にしても日本のものが一番だと思っていて、「メードイン〇〇」という余所の国のものを見るだけでもちょっと遠慮してしまうところもあったが、何か勿体ない人生を送ってきてしまったなあ~という後悔の想いがあるという。イタリアにはまた行きたいと思っているので、毎朝イタリア語のラジオ講座を聴いているそうだ。伝えることも喉元まで出ているのに何一つ伝えられないもどかしさが悔しかったし、哀しかったのだ。それが原動力となってイタリア語を習得しようと、毎朝聴いておられるそうだ。

【大事なのはひととの出会い、繋がり、想いである】
このツアーに参加させていただいて思ったのは、ひととひととの繋がりや、出会いや、想いが本当に温かく、大事だなと改めて思ったという。

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ジネンカフェVOL.125のご案内

2018-07-02 20:31:50 | Weblog
ジネンカフェVOL.125
日時:8月4日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:高野 仁美さん(【パンで幸せのお手伝い】株式会社永楽堂)
タイトル:「地域コミュニティの中心としての喫茶店の可能性」
参加費:500円

ゲストプロフィール:
 喫茶店のモーニングを食べて育った生粋の名古屋っ子。この喫茶店文化を守りたいと、喫茶店に向けた業務用パンの専門メーカーである永楽堂へ就職。現在は、喫茶店向けのパンやメニューの企画・開発をメインに担当。

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 家の離れに近所のお年寄りが集まり、ギターを片手にみんなで歌ったり、将棋をしたり、おしゃべりしたり。 時には小さい子どもを連れたお母さんが休憩に来たり、小学生がおばあちゃんたちに宿題を教えてもらいに来たり。そんな場所で、おいしいコーヒーを淹れていつでもみんなを出迎える…そんなおばあちゃんになることが私の将来の夢です。
 さて、昔ながらのまちの喫茶店には、そんな地域コミュニティの中心として活躍する可能性があるのではないでしょうか。会社のコミュニティの中心としてオープンした永楽堂社内カフェの例もご紹介しながらお話ししていきます。

お問い合わせ/お申し込み

TEL:052-733-5955(くれよんBOX)
E-mail:jinencafe@yahoo.co.jp
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ジネンカフェVOL.123レポート

2018-05-22 09:26:54 | Weblog
これまで10月を除いて毎月一度開催してきたジネンカフェだが、100回目を越えたことでもあるし、今後はのんびりと行ってゆくことにしました。のんびりとはいっても、毎月開催が隔月開催になる程度で、8~11月にかけては臨機応変で二ヶ月続く時もあるかも知れません。つまり4月22日のジネンカフェ、VOL.123は毎月開催してきたジネンカフェの最後でして、そのゲストに福祉ラッパーとして活躍中のLot Falconさんをお迎えし、トーク&LIVEを行いました。Falcon氏は以前もトークのみでご登壇願ったわけですが、当時と現在とでは彼を取り巻く環境も、彼自身の境遇も変化していました。当日はラップワークショップやLIVEも行われたのですが、ここではトークのみをお届けすることにします。

【Lot Falconが生まれた街】
Lot Falconさんは、1990年愛知県小牧市生まれの27歳。小牧市は名古屋市の北、濃尾平野の真ん中辺りに位置している。農業や工業が盛んで大手企業の工場も多く、ブラジルやペルーなどからの外国人労働者も多い。そのためかどうかは定かではないがHIP-HOPが根付いている街でもあり、AK69というビックネームなアーティストも輩出している。音楽とは関係ないところで言えば、小牧市は日本を代表するブランド鶏としても有名な名古屋コーチン発祥の地でもあり、歴史を紐解いても小牧山城は織田信長が美濃攻めに備えて築城した城で、信長の死後羽柴秀吉と徳川家康が激突した、小牧・長久手の戦いの際に徳川家康が着陣した城としても知られており、また名古屋城築城の折に石垣の石を小牧の岩崎山からも切り出して運んでいる。つまり歴史的にみても、産業的にみても、地味なのだが名古屋とは深い縁がある街なのだ。

【HIP-HOP文化】
そんな街で生まれ育ったLot Falconさんだが、もともとHIP-HOPという音楽には自分の生まれ故郷を象徴する特性があり、どれだけ地元を愛しているかを競う文化もあったりする。Falconさんも地元が大好きで、KOMAKIの歌まで作ったという。

【MC名の由来】
さて、Lot Falconというのは、本名ではない。MC名(芸名みたいなもの)なのだが、その由来はなんと夢からのお告げであるらしい。はじめてステージに立つと決まった日の夜、彼は夢を見た。何千人と入るホールのステージの上で彼はラップを歌っていた。国籍もバラバラ、障害をもつ人ももたない人もいた。その時の自分のMC名がLot Falconであったというのだ。なので本人としてはこのMC名に特に意味はないと言っていたが、夢は脳が実際の記憶や願望を自分に都合がよいように昇華させたり、再構築する作業なので、やはりFalconさんの願望だったり、実際に見たり聞いたりしたものが再構築されて示されたMC名だったのではないかと思う。

【ネオドーブポッブス】
Lot Falconさんの音楽はジャンル的にはHIP-HOPになるのだが、どちらかと言えばポップスに近いHIP-HOPなのだという。Falconさんの音楽を聴いた外国の方が「Oh! ネオドープポップス!」と叫んだこともあり、近頃ではその「ネオドーブポップス」を押しながら音楽活動をされているそうだ。

【趣味は本屋巡り】
Falconさんの趣味は、本屋巡りだという。お薦めの本は特にないのだが、本屋を巡って、本を眺めることによって、読むことによって、インスピレーションが湧いて来る。それをリリック(歌詞)に活かしているという。

【なぜラッパーになろうと思ったのか?】
冒頭にも述べたようにFalconさんには以前にもゲストとしてお越しいただいている。その折のトークのまとめもこの「ジネンカフェだより」にUPされているので、そちらもお読みいただければと思う。Falconさんがラッパーを志すのは19歳の時なのだが、10代の頃のFalconさんは地元で仲間たちとかなりやんちゃなことをしていたらしく、ある時その仲間たちが一斉に逮捕されてしまったという。ひとりになったFalconさんは呆然自失の状態で「これからどうして行こうか…」考えたそうだ。やがて「やりたいことをして行こう」という結論が導き出され、その時に一番しっくり来ていたのがHIP-HOPだったのだ。

【残りの人生どうして行こう?】
それに加えて「残りの人生如何していこう?」と考えたという。これまでやんちゃして周囲の人や地元に迷惑をかけた分、社会の役に立つにはどうすればよいのか思いを巡らした。
その時に思い出したのが幼少期の頃の記憶だ。Falconさんの実家のすぐ前に公園があり、そこが幼い頃の遊び場だったのだ。そこには近隣の子どもたちはもちろん、近くの障がい者施設の利用者さんが余暇活動で使っていたのである。直接的に関わることはなかったものの、ひとつの公園をそんなふうに施設の利用者さんと共有していたわけだ。その時にFalconさんは不思議に思っていたという。その人達は大人なのに真剣にブランコを漕いでいたりしていたからだ。お母さんにそんな話をしたのだろう。お母さんは障害者という人たちのこと、障害はあるけれど、自分たちと何ら変わらない人間なのだということを教えてくれたという。立派なお母さんだと思う。子どもに障害者のことを尋ねられて、そんなふうに教えられる親はそれほど多くはないだろう。子どもは素直だ。Falconさんも「僕たちと変わらないのかあ~。僕が大人になったら一緒に何か出来るといいな」と思ったという。そのことを思い出し、これだと思ったという。

【NPO法人ポパイ】
そんな時、たまたま名古屋市北区の障害者生活介護事業所NPO法人ポパイの求人広告が目に止まった。「おっ、これはいいじゃないか」ということで面接を受け、はじめて障害者施設に勤めることになったのだ。しかし、それまで障害のある方と関わったことのなかったFalconさんは全く無知で、右も左も解らない状態だったという。それが丁度20代が始まる頃のことだった。

【限られた人生の中で何が出来るのか?】
そうして日々、障害をもつ利用者さんと接するにつれ、それまで自分が漠然と抱いてきた障害者像が思い込みに過ぎず、幼い頃にお母さんに教えられた「自分たちと変わらない人たち」なんだということが身をもって感じられたのである。その施設は生活支援をされているところで、日中利用して夕方に各家々に帰ってゆくという。そういうルーティンで日々が過ぎて行くのだが、Falconさんは毎日このルーティンの繰り返しで利用者さんは楽しいのだろうか? と思ってしまった。いま思うとその繰り返しの生活が落ち着く人もいるだろうし、いろいろなタイプの方もいるので一概に「同じことの繰り返しで楽しいのか?」と決めつけるのは早計だったのだが、もう少し世界を広げて行っても面白いのではと思ったり、いろいろ考えて「この人生の中で何が出来るんだろうな」と思って、『Limited Life』という曲を書き上げたという。

【福祉ラッパーの誕生】
福祉の世界で働きはじめ、いろいろな影響を受けながら『Limited Life』という曲を書き上げ、MVを撮影してYouTubeにUPした時にメディアの方達が結構観て連絡をくれたりして、ぜひ取材させてほしい…という流れになって、地元の中日新聞の取材を終えて「小さな記事ですが載せますので」と言われたのだが、見てみたらなんと〈福祉ラッパー〉という冠を付けられて夕刊のトップ記事になっていた。それを見て「ああ、俺って福祉ラッパーなんだ…」と思ったのだという。つまり自分から〈福祉ラッパー〉と名乗ったわけではなく、中日新聞の記者さんがそうネーミングしたのであった。それまでのFalconさんは自分のことをただのラッパーだと思っていたのだが、そんな冠が付けられるともうただのラッパーには戻れないなあ~。自分はそんなに福祉のことは歌詞に入れ込んでないのに…。どうしようかなあ~と思っていたのだが、もうただのラッパーに戻れないのなら福祉ラッパーとしてやっていこうかなと思い始めたという。しかし、その新聞記事のおかげで〈福祉ラッパー〉という名称がひとり歩きをしていて、〈福祉ラッパー〉はFalconさんしかいないので、よい広告効果になって全国をまわることが出来ているそうだ。今年は更に大きなプロジェクトにも関わることになっており、来年からはもっと違う展開になるのだろうなと思っているという。


【福祉発信レーベル立ち上げ】
Falconさんは独特の人生哲学をお持ちで、もともとNPO法人ポパイという職場は25歳で辞めようと思っていたので、25歳の時本当に退職し、〈福祉発信レーベル(Webメディア)〉を立ち上げた。文字通り福祉の情報やご自分の情報などを発信してゆくホームページの運営を始めたのである。しかし、それだけでは食べては行けない。どうしようかと思っていたところ、タイミングよくチーズ味のスナック菓子〈ドリトス〉で知られたジャパンフリトリーという菓子メーカーがスポンサー契約を申し出てくれたのだ。

【高齢者福祉の現場へ】
そうして何とか福祉ラッパーとして活動していられるFalconさんだが、25歳で障害者施設を辞めた時に、次は高齢者福祉の現場を経験したいと思っていて、現在は高齢者施設に勤めているそうだ。これも3年勤めたら辞めようと決めていて、もうすぐその3年になる。音楽活動をしながらも時々高齢者施設の夜勤に入って、自分の個人事業の方の仕事もされているそうだ。そんな中から感じたことを音楽にして、LIVEをされているという。

【アルバムリリース】
25歳の時にファーストアルバムを全国リリースしたのを皮切りに、毎年一枚ずつコンスタントにアルバムをリリースされている。それも毎回12月9日に発売されていて、今年も4枚目アルバムをこの日にリリースする予定たという。12月9日は、「障害者の日」でもある。どうして12月9日が「障害者の日」になったのかと言うと、1975年の第30回国連総会において「障害者は、その障害の原因、特質及び程度にかかわらず、市民と同等の基本的権利を有する」という障害者の権利に関する決議(障害者の権利宣言(Declaration on the Rights of Disabled Persons)、国連総会決議3447)が採択された日であり、1981年11月28日に、国際障害者年を記念して厚生省(現在の厚生労働省)国際障害者年推進本部が決定したのである。2003年12月3日公布された障害者基本法においても12月9日を障害者の日とすることが法律上定められたが、2004年の同法改正により、国際障害者デー(12月3日)から12月9日までの1週間を障害者週間とすることが法定されたため、現行の障害者基本法には「障害者の日」の名称は残されていないそうだ。そういう国の方針とは関係なく、Falconさんは少しでも障害者のことを知って貰いたくて、敢えてこの日にこだわってリリースしているという。

【Falconさんが目指しているもの】
Falconさんが目指しているものとは、多様性な社会。誰もが社会の一員として参加・参画出来る社会なのだ。それは音楽、ラップでなくてもよいのだが、そういう環境を若者たちから作って行きたいということで活動をされているのである。福祉に携わりながらラッパーとしても活動をしているということで、当然どちらからも色眼鏡で見られたり、ディスって来る人たちもいるが、もしFalconさんが福祉に携わってなくて〈福祉ラッパー〉と名乗っていたら、それはそれでディスられることになるだろう。どちらにしてもディスられるのならば…と、それを逆手にとって活動されているという。アンチも確かに存在するが、こういうことをしているんだとアピールすることで応援してくれる人も増えて行く…。アンチの中で活動してゆくということも意味のあることなのだと思って活動しているそうだ。そうして多様性な社会を目指しながら、将来自分のLIVEにいろいろな人が来てくれたらよいなあ~と思っているという。


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ジネンカフェVOL.124ご案内

2018-04-26 13:33:32 | Weblog
ジネンカフェVOL.124
日時:6月16日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:塚本由紀子さん
タイトル:イタリアを訪問して

ゲストプロフィール
愛知県精神障害者家族会連合会事務局スタッフ
昭和区発達障害児親の会のびたくらぶ副代表

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精神保健福祉の先進国と言われるイタリアの現場を見たいとの思いから一昨年10月親子でボローニャへの研修旅行に参加。重度の知的障害と自閉症を持つ娘は海外旅行はもちろん飛行機も初めて。不安の方が大きかったのですが…この旅行で分かった事はすべての経験は必ず生きる力になるという事。イタリアの魅力、見学した施設の事みな様にお伝えしたいと思います。
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ジネンカフェVOL.122レポート

2018-04-15 10:11:51 | Weblog
毎年3月のジネンカフェは、2月の拡大版の余波を受けて、参加者があまり振るわない傾向にある。暦の上ではもう春だが、まだ寒いということもあるだろう。3月3日は雛まつりである。あとでご紹介するが、祭りとまちづくりとは親和性があり、切っても切り離せない関係にある。ということで、ジネンカフェVOL.122のゲストは、名古屋都市センター調査課職員の濱内洋孝さんと、元名古屋都市センター調査課職員の小林広樹さんだ。名古屋市内で市民活動をされていない方々には、名古屋都市センターといってもそれがどういうところで、どういうことをしているのか、わからないところだろう。名古屋市民にもそんな名称は聞いたことも見たこともないと言われる方おられるだろう。そこでお二人のお話のタイトルも『名古屋都市センターって何をしているところ?』と、直球である。

【名古屋都市センターって?】
名古屋市の金山総合駅の西口(アルナル金山とは反対側)を出て、右側に見えるボストン美術館が入っている金山南ビルの13階に、名古屋都市センターの事務室がある。沿革を記すならば、平成3年7月に財団法人名古屋都市センターを設立。平成11年3月に現在の金山南ビルに移って来た。時を経て平成22年4月に財団法人名古屋都市整備公社と合併し、平成24年4月に名称を、現在の公益財団法人名古屋まちづくり公社へと変更した。行政ではないけれど、名古屋市の外郭団体である。

【都市センターって、なにをしているの?】
その都市センターの事業として、主に三つがあげられる。①まちづくりに関する調査・研究。②まちづくりに関する情報収集・提供。③まちづくりに関わる人材育成・交流である。つまり名古屋市内におけるまちづくりの支援をされているのだ。

【まちづくりってなに?】
それでは、その肝心要の、「まちづくり」とはなんであろう? どんなことが、まちづくりだと言えるのだろうか? 濱内さんは某国の鬼城(誰も住む人のいないか、住む人の少ない高層マンション群)を引きあいに出して、建物などハード面がいくら立派でも、そこに人が住んでいなかったら、生活の匂いが感じられなかったら、そこは「まち」とは言えないのではないか? という。そうなのだ。まちは、人々が集い、生活をするからまちになるのだ。例え立派なハードがあろうとも、そこに誰も住んでなかったら、そこはまちとは言えないのである。そしてまちづくりとは、そこに暮らす人々が心を通わせ、住みやすい地域にして行こうとすることを言うのだ。しかもそこには分野はない。歴史や文化や教育、環境に福祉…。人の営み全てがまちづくりと言えるのだ。そしてそれを硬い言葉で表現すれば都市計画と言ったりもする。また、こんなことを言う人もいる。行政が主導する都市計画を街づくりと言い、市民主導で行うのがまちづくりなのだと。因みに「まちづくり」という言葉には、ふたつのキーワードが隠れている。「ちく」「まつり」である。つまり「祭り」がある「地区」にはコミュニティがあり、まちづくりも盛んだとされるのだという。

【都市センターのまちづくり支援】
それではその都市センターのまちづくり支援とは、具体的にどんなことをしているのかと言えば、〈まちづくり団体の活動の支援〉をしたり、「まちづくり講座」を開いて〈まちづくりをしたい人〉を応援しているのだ。「まちづくり講座」は毎年定期的に開催されているし、まちづくり団体の活動も助成金という形で支援されているのだ。ヒト・オモイ・イノチを大切にし、育んでゆくのには、モノ・カネ・セイドが必要だったりするのである。実際、ジネンカフェも24年度に名古屋都市センターの《地域“魅力”アップ部門》の助成を受けているし、まちの縁側育くみ隊本隊も《まち“夢”工事部門》での助成を受けている。来年度も助成金募集をするそうだ。今後は活動初期の団体に力を入れるため、地域“魅力”アップ部門は廃止されて、1回限りであった《はじめの一歩部門》がリニューアルし、《スタートアップ部門》となり、30年度限定の予定で、《まち”夢”工事部門》を募集するとのこと。締切終了は5月22日。申請にあたっての条件など、詳しくは、名古屋都市センターのHPに記載の情報を見ていただき、お問い合わせ下さい。とのこと。

【まちづくり活動を考えるワークショップ】
そうした助成金情報とあわせて、参加者のみなさんにそれぞれにしたいまちづくり活動をろ考えて貰おうと、濱内さん考案のワークショップを行った。当日の参加者のひとりひとりに、縦横二本の線で4升に区切ったA4のシートを配布する。シートの4つの升には「いつ、どこで」「どんなことを」「何のために」「どのように」と記してあり、真ん中の円形には「誰に」という言葉が記されており、その5つのマス目をそれぞれに埋めて行くという作業であり、書けた人から発表して行った。くれよんさんのお庭に車いすでも移動可能なウッドデッキを造って、地域の人たちも気軽にカフェに来てもらえるようにしたいという方。地元の地域に高齢者のためにいつでも、どんな時でも、気兼ねなく使える憩いと交流の場が欲しいという方。小規模な音楽施設、ライブハウスなどはバリアフルなところが多いので、バリアフリーなライブハウスが欲しい…という方。みなさん、様々な想いを発表された。目的は違えど、それぞれの想いの底流にあるものは、他者とのつながりだったり、交流や憩いだったりするのが興味深かった。そのうちのひとつでも実現するとよいなあ~と思う。






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