ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.140レポート

2020-10-19 17:29:10 | Weblog
今年は新型コロナウイルス感染拡大のためにジネンカフェも変則的な開催になっているが、またもや二ヶ月ぶりの開催である。8/1に開催する予定になっていたVOL.140を、今月10/3に行った。ゲストは、身内も身内、NPO法人まちの縁側育くみ隊の事務局・金森菜月さん。金森さんは昨年の11月から事務局に入ったフレッシュな方である。こういう若い方がNPO業界に入っていただけるのは極めて貴重なことであろう。しかし、この金森さん、実はこれまでまちの縁側育くみ隊と全く縁がなかった訳ではないのだ。そこら辺は追々と明らかにして行こう。タイトルは『デザインと市民活動とわたし』

【戦場カメラマンに憧れて…】
金森菜月さんは名古屋学芸大学の出身。大学ではデザインではなく、写真や映像関係を学んでいた。それというのも金森さんはカメラマンの長倉洋海さんに憧れて、戦場カメラマンになって世界の紛争地を飛び回りたかったのだという。長倉洋海さんは紛争地帯の子どもたちの写真を撮られていて、写真集なども何冊か出版されておられる。しかし、それをお母様に話したら「そんなことはやめてくれ」と泣かれてしまったそうだ。それはそうだろう。戦場カメラマンは紛争地に出向いて、そこで起きていることをカメラに収め、真実の姿を世界に発信してゆくのだ。絶えず危険が付きまとう。ましてや金森さんは女性だから、親としては二重の意味で気が気ではなかったであろう。小さな頃から身体が弱く、心配をかけたお母さんに泣かれしまった金森さんは、そこまでして戦場カメラマンになろうとは思わず、かといってこの先写真で生きてゆくにはどこかのフォトスタジオに入らなければ食べてゆけない現実もあった。

【トリエンナーレ、まちの縁側育くみ隊との出会い】
そんな折も折、名古屋の中心部・錦二丁目エリアが街まるごと『あいちトリエンナーレ2013』の会場になることが発表され、NPO法人まちの縁側育くみ隊もそのアートの祭典を盛り上げるため、あいちトリエンナーレ2013まちなか展開拡充事業共同事業体の事務局として協力することになったのである。幾つかのコースを選定して期間中まち歩きをしたり、百人の参加者さんが各自お気に入りの名古屋の風景を使い切りカメラで撮って、それをコンテスト形式で発表する名古屋百人百景を行った。その共同事業体「まちトリ」のスタッフとして、当時大学を卒業したばかりだった金森さんも応募して働いてくれていたのである。まち歩きの案内人はもちろん、様々なチラシやパンフレット、記録集の編集・作成に関わってくれていたのだ。

【フォトスタジオかNPOの事務局か】
時は経ち、2019年のこと。NPO法人まちの縁側育くみ隊の新代表になった名畑恵氏から「事務局としてNPOに関わってくれないか?」という打診があった。まちの縁側育みく隊の事務局になるということは、即ち錦二丁目エリアマネジメント株式会社のスタッフも兼ねるということだ。NPOだけではとても真っ当な人件費も出せないからである。しかもNPO法人の事務局の仕事は多岐に渡っており、雑多な仕事をこなさなければならない。〈わたしに務まるのか?〉〈名畑さんはなぜわたしに声をかけてくれたのだろう?〉〈けれども、あのトリエンナーレ以来、まちづくりに興味を持ち始めているのも確か…〉そんないろいろな想いが錯綜していたが、金森さんには「声をかけられ、頼られた以上、最善を尽くそう!」というモットーがあり、まちの縁側育くみ隊の事務局に入局したのであった。

【彼女の感性はどこから来ているのか?】
入局してからもうすぐ一年になるが、目覚ましい活躍ぶりである。デザインの仕事だけでまちの縁側育くみ隊の収入の5〜6割程度は稼いでくれているのではないだろうか? 今年2月に催したジネンカフェ拡大版のチラシも、彼女の手になるものである。デザインが全く出来ない私が言うのもなんだが、金森さんのデザインにはストーリ性を感じられるのだ。もっとわかりやすく表現すると、どうしてこういうデザインにしたのか、なぜここにこのようなアイテムを置いたのか、その意図がわかりやすいのだ。もちろんそれはクライアントの意図を汲んでそうしているわけで、想いやテキストをデザインとして表現できる感性は身びいきではなく実に凄いことだと思う。金森さんのこのような感性はどこから来ているのだろう?

【一日中でも図書館にいられるほどの本好き】
金森さんの両親は共働きで、幼い頃から近くに住む祖父・祖母の家に預けられることが多かったという。その祖父・祖母の家にはそれはそれは大きなスライド式の本棚があり、そこにいろいろな本がギッシリと並べられていた。その本たちを一冊一冊本棚から抜き出しては表紙を眺めたり、本の匂いを嗅いだり、ページをパラパラ捲ったりして遊ぶことが少女の頃の金森さんの日課であった。もちろん字が読める年頃になると、そこにどんなことが綴られているのか興味津々で読み耽ったことだろう。そうして金森さんはいつしか本好きになり、いまでは一日中図書館にいても平気な大人になった。テキストからクライアントの想いや意図を読み取る能力、それは幼い頃からのこうした読書体験から来ているのではないだろうか。それに加えて写真の構図を学んだこと、〈まちトリ〉での経験、それらが糧となって現在の金森さんのデザイン力を育んでいるのではないだろうか? そう、人生には無駄な経験などひとつもないのだ。

【本が好き過ぎて…】
私自身が本好きだから解るのだが、本好きにも二種類のタイプがいるように思う。本という存在、そこに綴られている物語や文体を読むことが好きで、読書することが食事をするとか、飲み物を飲むとか呼吸をするとかと同じになっているようなタイプの人間と、とにもかくにも装丁を含めた本という存在が愛しくてたまらない人間。前者はそれが別に本という形でなく、最近流行の電子書籍みたいなものでも読めれば構わないと思うだろうし、後者は断然紙の本に拘りを感じているだろう。金森さんは後者なのだ。そして本が好き過ぎるあまりに自分で装丁して本を作ってしまったという。その本の装丁は鉛シートで設えた箱の中に写真と文章とでコラージュされたカードを30〜40枚程組み込んだ作品で、中身の本の内容は「記憶をテーマに構成した、誰かの日記やモノローグのようなもの」だそうだ。『the last thing』と題されたその本は、《日本ブックデザイン賞2017》コンペに応募し、ブックデザイン・セルフパブリッシング部門で入選を果たしたという。
http://apm-nagaoka.com/bookdesign/jbd2017/
授賞式の前後に作品の展示会があり、金森さんも自分の作品を観に行かれたのだが、それ以来ご無沙汰をしているそうだ。

【機会があれば今後も装丁の仕事に関わりたい】
金森さんはNPOまちの縁側育くみ隊事務局や錦二丁目エリアマネジメント株式会社の事務局スタッフの仕事もこなしながら、機会があればまた本の装丁に関わりたいという。長年懸案になっているジネンカフェ本、まだ出版出来るのか定かではないのだが、もし出版されることが決まれば彼女に装丁をお願いしても良いかと思っている。
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ジネンカフェVOL.138レポート

2020-07-17 10:13:08 | Weblog
7月4日(土)、再開後二度目のジネンカフェである。梅雨の真っ只中だが、この日は薄曇ってはいるものの、何とか持ちこたえている感じの空模様。この日のゲストは本来なら4月4日にご登壇下さる筈で、新型コロナウイルスのせいでこの日になってしまった、一般社団法人oneness理事の石井計義さんである。不可抗力とはいえ、本当にお待たせしてしまって申し訳ありません。石井さんとは知りあいになって以来、何度かジネンカフェに参加者としてご参加いただいているし、ゲストさんを紹介してもらったりといろいろとお世話になっている。本当にありがたい。石井さんは私よりも10歳年長者だが、様々な団体に入られて活動されている。失礼ながらそんな歳でよく活動されているものだと頭が下がるが、ご本人は至って自然体で飄々としておられる。不思議なお人である。お話のタイトルは『「ふくし」と「ぼうさい」をテーマに! まちづくりにも繋がる諸活動』

【石井計義さんってこんな人】
石井計義さんは1949年に愛知県知多市に生まれた。愛知工業大学名電高校(イチローや現ソフトバンクの工藤監督の母校でもある)電気科を卒業後、42年間大手ビルメンテナンス会社に勤続。ビルの管理業務・営業などを担当されていた。新規事業開発担当として中・大病院の院内感染対策関連業務を3年間ほど経験し、1995年には阪神淡路大震災時企業ボランティアとしての活動も経験されている。2011年6月に定年退職。大阪勤務通算9年、それ以外は名古屋勤務⇒定年後同会社で3年間アルバイト勤務されていた。会社を完全にリタイヤされて後、東日本大震災災害ボランティア同士として知りあった磯部和美さんと 2016年2月、一般社団法人onenesss設立され、監事を経て現在は理事を務められておられる。知多市在住。軽度の認知症の妻と大手介護福祉事業会社の名古屋市緑区デイサービス 事業所の責任者の仕事をされている長男(45歳で独身)との3人で暮らされている。また、2007年頃から「ふくしとぼうさい」をテーマに、これをライフワークとして知多半島を中心に福祉・防災ボランティア等の諸活動をされておられる。

【石井さんが関わる活動―ふくし編】
石井さんが関わっておられる活動は、主に福祉分野と防災分野に分けられるが、先ずは福祉分野から
一般社団法人oneness理事
・知多市南粕谷コミュニティ総務部会(広報誌編集委員)
・知多市南粕谷小学校 学校評議員
・内海・山海まちづくり協議会「きずなの会」 会員
 (防災、防犯・交通安全、福祉、環境、広報、ふれあい部会があり、防災部会に所属)
・知多市高齢者いきいきサロン「南粕谷元気会」副会長
 (平成30年度 知多市・愛知県の功労賞受賞団体)
・知多市福祉救援ボランティア「こだま」 幹事
 (平成29年度 知多市・愛知県の功労賞受賞団体)
・知多市国際交流協会(CIA) 副会長
・知多市ボランティア連絡協議会 理事
・知多市身体障害者福祉協議会 会員
・知多市のNPO法人びすた~り 会員
 (障がい者福祉事業、自然栽培農業、自然環境講座)
・知多市環境を良くする市民の会 会員
・財団法人日本野鳥の会 会員
・愛・地球博ボランティアセンター 会員
・知多市の日比野徳男代表の回想法を取り入れた講座を行う知多市総合ボランティアセンタ―登録団体の「ひびのきおく」の活動に参加
・同じく日比野さんらが主催している「ちたざっく」(お招きした講師のお話の後、テーマに添ってざっくばらんに意見交換を行う会)の定例メンバーとして参加
「ちたざっく」では知多市大興寺の「大日竹灯籠祭り」にも作品を製作し、ベテランの山法師の会、一寸法師の会、幼稚園の園児、小・中学校の生徒たちの作品に混じって竹灯籠作品展示参加をしている

【石井さんが関わる活動―防災編】
・日本防災士機構認定防災士
・あいち防災リーダー会 会員
・内海・山海まちづくり協議会きずなの会  防災部会 会員
・美浜・南知多防災の会  会員
・愛知工業大学地域防災研究センター「あいぼう会 」 副運営委員長
 (平成27年度  防災まちづくり大賞・消防庁長官賞受賞団体、
  平成29年度 内閣総理大臣賞受賞団体)
・認定NPO法人レスキューストックヤード 会員
・福祉救援ボランティア「こだま」 幹事
 (平成27年度 知多市・愛知県の功労賞受賞団体)
・知多市内の中学校ほかにて社会福祉協議会と連携し、防災講師、DIG(図上訓練)、HUG(避難所運営ゲーム)、CRG(クロスロードゲーム)等の指導
・知多市内の地域自主防災会での防災・減災講師、DIG、HUG、CRG等の指導及び災害ボランティアコーディネーターの立上げ運営訓練の指導など多数。
・知多市消防本部登録の八幡出張所内市民防災コーナーでのガイドサポータとして地震体験、煙体験装置の操作及び指導を実施(知多市内の各小学校、幼稚園、看護学校、企業が毎年多数体験)

【石井さんの活動の原点】
このように数々の活動に関わっておられる石井さんだが、その原点は少年の頃に経験し
た災害の恐ろしさや不安であるという。石井少年が10歳の秋、昭和34年9月26日、
紀伊半島は潮岬に上陸した台風15号(国際名、ヴェラ)は、紀伊半島から東海地方を中
心にほぼ全国的に被害をもたらした。殊に東海地方の被害は甚大で、死者・行方不明者含めて5,000人の犠牲者を出した。石井少年の父親は鉄道員であり、こういう災害時にはいつも家にいなかった。頼りになる父親の不在、荒れ狂う風と雨の中、石井少年は母や兄弟と家が倒れないように泣きながら、喚きながら玄関の戸を押さえていたそうだ。夜の台風だったから、真っ暗な中、停電もし、蝋燭の灯りだけが頼りの家庭にあって、仕事とはいえ父親の不在は一家を不安にしたのだろう。知多半島や名古屋市南区・港区・中川区など伊勢湾岸の地域は、壊滅的な被害だった。その最中、台風の目に入ったその一瞬、吹き飛ばされた藁葺き屋根の一部、その僅かな隙間から垣間見えた明るい月や星が妙に印象的だったという。現在も暮らしている石井家は標高20mの高台で伊勢湾から約2,5㎞のところにあり、水害は問題なかったですが、海の近くでは軒下まで高潮の海水で浸水して屋根にあがって助けを求めていたところもあった。幸いなことに、当時の愛知県知多郡知多町(現・知多市)は被害が比較的少なかったが、名古屋市南区や港区、飛島村などは大変な被害で愛知県内のみで3,000名余の死者-不明者という大災害となってしまった。 その時、全国の皆さんから救援物資や募金ほか多くの手助けをいただいたことがとてもありがたかった。それが石井さんが「ふくしとぼうさい」をライフワークに活動するようになった原点なのだという。

【一般社団法人onenessを立ち上げる】
こうして防災・災害支援ボランティアとして活躍していた石井さんは、東日本大震災災害支援ボランティアとして、同じ知多半島で障がい者のための就労支援事業所を立ち上げようと模索していた磯部和美理事長と出会うことになる。磯部マジックの効果覿面で石井さんも磯部さんに協力して一般社団法人onenessを設立し、監事として手腕を振るうことになった。そして現在は理事を務めている。

【ふたつの「海空」】
一般社団法人onenessの主な事業として、ふたつの「海空」がある。ひとつは多機能型就労継続支援B型「海空(うらら)」と、放課後等ディサービス「海空(みそら)」だ。漢字は同じだが、読みが違う。どなたが名付けられたのかは知らないけれど、こういったネーミングのセンスは巧いと思う。多機能型就労継続支援B型「海空(うらら)」は、民宿だった建物を借りて使っており、1階にカフェ・厨房・多目的室を備えている。定員が当初の10名から20名に増え、サービス管理責任者1名、職業指導及び生活支援員4名、目標工賃達成指導員1名の配置になっている。放課後等ディサービス「海空(みそら)」は、
定員が10名、児童発達支援管理責任者1名、指導員2名の配置になっている。どちらも
海岸線に面しており、ロケーション的にも素晴らしい。

【事業所でも、地域でも、避難訓練を実施】
地球温暖化の影響なのか、このところ毎年のように豪雨がもたらす水害や、地域的な地震が起きている。それでなくても日本は火山国だから、古来度々大地震に見舞われて来た。記憶に新しい阪神淡路、新潟中越、東日本、熊本…。そして現在、南海トラフ地震が30年の内には必ず来るだろうと推定されている。それを想定して日本各地の自治体や地域で避難訓練等が行われてはいるが、一般社団法人onenessが運営する事業所や、内海山海防災連絡協議会でも避難訓練を行っているという。先ずは石井さんが過去の内海での津波災害の歴史や、今後起こりうる南海トラフ巨大地震の被害の想定ならびに津波避難における注意事項の説明をし、実施した。それに対応する障がい者福祉事業所の防災マニュアル、BCP策定を模索中であるという。「参加者」としては防災リーダー:石井さんに、事業所スタッフ、b型事業所利用者ほかが参加されたそうだ。また、地域の防災訓練にも参加の予定がある。毎年7月の海の日に民間主導で行われている内海海岸大規模津波避難訓練(過去7回実施)並び地区自主防災会の訓練である。(こちらはきずなの会防災部会活動)中京テレビほかの報道にも時々登場し、紹介されていたが、2020年度の訓練は新型コロナで中止が決定している。

【石井さんと他者との繋がり】
前述したように、石井さんと一般社団法人onenessの代表理事の磯部和美氏とは、2011年の東日本大震災復興支援の活動などで知りあい、繋がった。(石井さんが2012年5月から愛工大の地域防災センターと連携して前述の内海山海まちづくり協議会「きずなの会」防災部会の活動に参加していたのが大きい)磯部さんは「社会生活に何らかの困難を抱えた若者や子どもたち」への真の支援をするための事業所開設に特に熱い心を持ち、3年間ほど場所の選定や体制づくりに試行錯誤されるなど大変苦慮し、悩んでいたところだったのだ。その話を聴いた石井さんの仲間の中で、磯部和美氏の考えに共感し、それをサポートしたいという方が出て来た。それが推進力となり、事業所の立ち上げは急進展することになる。そして2016年2月、事業所運営のため、一般社団法人onenessを設立。 
幾多の困難をも乗り越え、同年5月、南知多町内海の千鳥ケ浜沿の景観の良い場所に「多機能型事業所うらら(海空)」を開設されたのであった。うららの誕生から現在5年目を迎え、多くの人の輪も拡がり、磯部代表理事は今後さらに事業所の将来構想を計画・推進し、幾多の困難を乗り越えつつも、ご利用者の真の自立支援のため、明るく、前向きに活動し、努力を重ねている。南知多町社協を定年退職後事業所へ来ていただいた知識・経験豊富な澤田忍氏との信頼関係も良く、今年の1月から新職員の山本和弘氏を迎え、規律のある明るい職場環境の整備がはかられる様になったことが特に大きいという。同じく今年の9月にかねてから課題となっていた新職員採用も確定に至り、さらに充実した体制での運営が期待できる様になってきているそうだ。事業所運営に熱い想いを持った磯部代表理事の周りには信頼できる素敵な人が繋がって、集まってきている。「磯部マジック」と呼称される所以だろう。
【新型コロナの影響―withコロナを生きる】 
2020年2月28日(金) 内閣総理大臣の要請で、新型コロナウイルス感染症対策のため小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校等における一斉臨時休校が発表された。事業所では3月2日(月)~急遽受け入れのニーズを調査し、急遽体制を整備・調整。マスク着用、手洗いの順守、室内換気等新たな感染防止対策を検討して、当事業所の障がい児者支援の「放課後等デイサービス」(ミソラ)での児童・生徒の受け入れをすることになった。福祉事業所は社会に不可欠な障がい者福祉事業所で、石井さんや磯部さん始め、職員は利用者と共に感染リスクを背負っても働かなければならない「エッセンシャルワーカー」のお仲間であることを認識させられた出来事であったという。就労継続支援b型事業所うららでは、新型コロナほか経済情勢の変化により従来あった業務(牛乳パックのリサイクル、旅館等の清掃ほか)が急に激減するとともに新型コロナの感染防止対策としての時短運営により、利用者への工賃アップが極めて困難な状況となっていたそうだ。新型コロナとの共生社会(Withコロナ)として新しい生活様式を取り入れ、利用者の特性を考え合わせながら「農福連携」の外部就労作業や自社製品製作などを模索しつつ、皆で力を合わせ逞しく、楽しい仕事環境の整備をはかることに努力して行こうと、石井さんらは心を新たにしている。

【海空の事業のあれこれ】
その就労継続支援b型事業所「海空(うらら)」では、実に様々な事業を行っている。ギャラリー&カフェ、ここでは南知多産の有機栽培のニンジンを使った100%ニンジンジュースも限定販売されている。自然のニンジンの甘みが感じられて、とても美味しい。PCの分解・材料分別作業は、細かく神経を使う仕事だ。製菓会社の仕事も食品衛生的に神経を使うが、利用者さんはきっちりとこなしているという。また、自社製品の「笑い地蔵」や「貝殻アート」も只今模索中だとか…。自社農園でみんなで農園作業をする時もある。外部就労として「チッタナポリ」や「城下公園」などの公共広場の整備や、農作業や旅館の清掃なども請け負っている。それにより人手不足の農家や旅館などは助かるし、利用者さんの工賃を工面するのに汲々としている作業所が多い中で、更にこのコロナ渦である。減収して立ち行かなくなっている施設が多く出て来ている中で、地域連携を掲げて事業を次々に手がけてゆく手腕は、正に「磯部マジック」のなせる技だろうが、それを支えている石井さんを始め、スタッフの皆さんの努力の賜でもあるだろうと甚く感心している。その他にも地域貢献活動として、「おたから博」と称してビーチの清掃活動や、利用者・スタッフ全員で手作りマスクをつくったり、全員が一丸となって楽しもうとされておられるのが窺えてほのぼのとしたものも感じられる。今後とも一般社団法人onenessは、一丸となって血の通った福祉を目指されてゆくのだろう。onenessの掲げる理念通り、誰もがそれぞれの色で輝くために…。

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ジネンカフェVOL.139レポート

2020-06-23 20:10:57 | Weblog
令和2年6月6日、久しぶりのジネンカフェである。2月に行った拡大版以来だから、3ヶ月ぶりということになる。しかも今回は非常事態宣言明けということで、本来なら4月に予定していたゲストさんにお話いただくところ、様々な事情で6月のゲストさんをそのままお迎えすることになった。4月に予定していた石井計義さんは7月にご登壇いただくことになっている。だから今回がVOL.139で、7月がVOL.138になるのだ。この方がいかにも緊急事態感があってよいだろう。緊張感の中でもこういう遊び心を失わずにいることは、とても大切だと思う。そこで今回のゲストは、一般社団法人南知多ビーチユニバーサルビーチプロジェクト代表理事の入山淳さん。入山さんが代表をされている法人は、南知多の豊富な観光資源でもある海や浜辺を車いすユーザー、お年寄りや小さな子供のいる家族連れなどみんなが利用できる遊びを作ることにより遊びを通して「地域共生社会の実現」につながると思い取り組まれていらっしゃる。お話のタイトルもズバリ、『車椅子でも、暮らしに楽しみを広げる ~海・外遊びの支援~』

【入山淳さんとはこんなひと】
入山淳さんは1973年、愛知県常滑市に生まれ。幼少期は、知多郡東浦町立緒川小学校にて子どもの興味・関心を大切にした学習指導を受け、常滑市に戻り、海の見える小、中学校で育ち将来は飲食業界に進むことを決め、名古屋の高校及び調理師専門学校と進まれた。株式会社 なだ万で修行したのち、イデックス株式会社、豊田産業株式会社などの業態開発や商品開発、管理業務を経験。そんなある時、福祉旅館のプロデュースを依頼されることになった。これが福祉と向きあう初めての経験で、右も左も解らなかった入山さんは、さる高齢者施設に見学へ行くことになった。しかし、そこで長年飲食業界に関わってきた入山さんには衝撃的な光景を目撃することになる。高齢者になるとどうしても固形物が食べられなくなり、固形物をミキサーで粉砕した上とろみ剤などでドロドロにして、施設によりけりだが、そのドロドロにしたものを一緒にして食べさせていたのだ。施設側にしてみれば食事タイムも時間との闘いだし、どうせお腹に入れば一緒になるのだから…と職員さんは言われるのだが、入山さんは思わず「美味しくないよなあ〜」と思ったという。こういう経験を経て高齢社会における飲食業の先細りを感じた入山さんはキッパリと見切りを付け、一般社団法人南知多ビーチユニバーサルビーチプロジェクトを立ち上げられたのだという。

【ユニバーサルビーチプロジェクトとは?】
ユニバーサルデザインとは、文化や国籍の違いなどに関わらず、だれもが利用することのできるデザインのことを指す用語だが、南知多の豊富な観光資源でもある海や浜辺を使って、これまで車いす利用の障がい者や高齢者や小さな子どもさんをお持ちのご家族などが「できなかった」ことを、みんなの力で「出来ること」に変えてゆくプロジェクトである。そのメニューはユニバーサルビーチに、ユニバーサルファーム、ユニバーサルイベントの三本柱に成っている。

【ユニバーサルビーチ】
ユニバーサルビーチの中には海水浴や、サーフィン、SUP、魚のつかみ取り、地曳き網、BBQなどが入っているが、要するに車いすに乗っていると海辺には行くことはあっても、それらのレジャーを楽しむことは難しいのだ。大体自走式・電動車いすでは、砂浜を進んでゆくことは不可能だ。でも、そのバリアとなっている砂浜にビーチマットを敷けば、車いすでも散策が出来る。そして水陸両用の車いすを使えば、海にも入れるという取り組みなのだ。

【ユニバーサルファーム】
これは文字通りの農作業である。田植えや芋掘りや収穫体験、土いじり、BBQなど。車いすでは当然これらの農作業は不可能だ。でも、ビーチマットを畑の中に敷くことによって車いすでも畑に入って行け、マットの上に座ることにより農作業体験が行える。今年は新型コロナの影響で出来なかったのだが、田んぼに入りみんなで泥んこになって遊んじゃおうという取り組みで、来年は絶対にやろうと思っているそうだ。

【ユニバーサルイベント】
地域にはたくさんユニバーサルなイベントがあって、去年体験したのは気球に乗りに行ったという。ハイキングに行ったりとか、出来ないと思っていたことが、実は皆のちょっとした手助けがあれば車いすの方でも、高齢者の方でも、どんな障がいを持っていようが、いなかろうが誰もが楽しめるイベントはたくさんあるので、それに行ってみんなで楽しむという取り組みだ。

【ユニバーサルビーチプロジェクトを立ち上げた背景】
冒頭にも書いたように、入山さんは四半世紀全国のいろいろな飲食店のプロデュースをされてきた。和食、洋食、スパゲッティ、カフェ、天ぷら屋、蕎麦屋、うどん屋などなど…。しかし、いまや高齢化社会真っ只中の日本にあって、高齢者になるとあまり食事を摂らなくなってくる。一日三食食べていた人が二食とか一食でよくなったりするのだ。その中で飲食業はもう先細りで、店舗数が徐々に下がってゆく可能性がある。今回のコロナウィルス過にあってもかなり厳しい状況になっている。そんな時に観光と福祉とを繋ぐ福祉旅館のプロデュースの話が舞い込んできたのだ。2018年4月20日オープンに向けて、せっかくだから障がいのある人も働く場にしてしまおうというコンセプトのもと完成させたという。その施設自体は障がいのある人だけではなく、高齢者も使い易く、宿泊も、観光も、食事も出来て、もちろん刻み食やミキサー食にも対応出来て、お風呂も貸し切りのお風呂にリフト浴も可能なジャグジーもつけた。ミキサー食もマグロならマグロ、イカならイカ、ひとつひとつをミキサーにかけて、ひとつひとつの素材を味わっていただけるような料理を出すような旅館をプロデュースしたという。その旅館を立ち上げるに際して、福祉に関わるのが全く初めてだった入山さんは、高齢者のグループホームや住宅型老人ホームの食事風景を見学に行かせて貰ったのだが、そこで衝撃的な光景を目の当たりにする。ご飯と味噌汁と肉じゃがを一緒にミキサーにかけ、グリーンみたいな色になったものを皆さんが召し上がっていたのである。それを食べさせていた人に「それ、美味しくないんじゃないですか?」と尋ねたところ、「いや、時間がないんです」「お腹に入ったら栄養は一緒なので…」と言いながら食べさせていた。そんな馬鹿な…と入山さんは思ったという。こんな「食」に対して裕福な日本で、高齢者になったら美味しさを味わうという行為が不可能になるのか…と、現実を目の当たりにして哀しくなった。が、長年飲食店に携わってきた入山さんは、〈そんなことは許されない! 旅行に来た時ぐらいその土地の美味しいものを味わっていただきたい!〉そんな想いで時間はかかるけれどひとつひとつの素材をミキサーにかけて、見た目にもキレイだし、素材の味をひとつひとつ確認してもらえる。それが薫りだったり、記憶にもなってゆくのだ。そして認知症を患った方でも、またあそこに行きたいと思って貰えるような旅館をつくったのだ。

【福祉旅館は完成したのだが…】
こうして福祉旅館は出来たのだが、その旅館のアンケートに答えて下さった《車いすユーザーを兄弟にもつ方》のコメントによれば、「小さな頃は海に行きたいなんていえなかった」とか、「海に連れて行ってあげられずにごめんねと謝る両親の姿を見たくなかった」《車いすユーザーを子どもにもつ親》のコメントにも「兄弟を海に連れて行ってあげたかった」「車いすでも海水浴を経験させたい」「車いすの子どもと、兄弟の遊び方が異なり、親だけで外出は大変」という声が寄せられている。また、《親が車いすユーザーになったお子さん》からの「海が好きだった親を連れて行きたい」とか「昔、釣りが趣味だったから、釣りに連れて行ってあげたい」というコメントもあり、お客さんに気軽に海遊びをしてもらうにはどうしたらよいのか? 海水浴に行くためには何が必要なのかを調べたところ、鎌倉にお住まいでアダクティブサーフィンの日本代表・内田さんと繋がり、その内田さんから須磨のユニバーサルビーチプロジェクトが必要なものをレンタルしていることを教えて下さったという。連絡をすると須磨ユニバーサルビーチプロジェクトの代表の方が南知多に来て下さり、実際に砂浜にビーチマットを敷いて、須磨の代表は車いすユーザーの方なのでビーチマットの上をどれぐらいの力で押せば良いのか体験させてもらったそうだ。須磨の代表の方も南知多のビーチを「こんないいところはない。ぜひこのビーチで《ユニバーサルビーチ》をやらせてほしい」と言って下さり、昨年第一回の南知多ユニバーサルビーチをやってみた。

【ユニバーサルビーチに必要なもの】
その時(ユニバーサルビーチ)に必要なものは、ビーチマット・ヒッポキャンプ(水陸両用車いす)・インストラクターの3点なのだが、インストラクターの人たちは、須磨ユニバーサルビーチプロジェクトの方々から、障がいのある人や高齢者がどういう状態なのか? 何が嬉しくて、何が嫌いなのか、そういうことを事前アンケートで解った上一緒に海に入ってゆくことを、また補聴器を使用している人への対応等々、細かい講習を受けたという。そしてそういうインストラクター制度や活動をされているところが愛知県にはなかったのでこれを形にしようと思い、一般社団法人を立ち上げ、福祉旅館からはコンサルタント期間も終わったので身を引いたのだそうだ。

【南知多ビーチユニバーサルビーチプロジェクトが目指すもの】
入山さんがその法人で目指しているものは、ただ単に「楽しく遊べればよい」ということではない。これによって知多半島が〈誰にでもやさしい観光地〉として全国的に有名になるのではないか? 誰でも気軽に遊びに来られるビーチがある、山がある、ファームがある…という地域になって行けば、車いすユーザーにやさしく遊びやすいということは、障がいのある人や高齢者のみならず、誰にでもやさしく遊びやすいところになるのではないか?  また、日本福祉大学が美浜にあるので、連携して学生の頃から生きた経験をしてもらえればいいなあ〜と思っている。そうすることにより、障がいがあっても不便が少なくなり、外出への意欲に繋がるし、兄弟に障がいのある子がいても、日本福祉大学の学生さんもいるので、分け隔てがない遊び方が出来るのだ。知多半島、特に南知多は企業が少なく、若者は都会に出て行きがちだけれど、そういうことを仕事として出来るようになれば知多半島の若者にとってやり甲斐のある仕事の基盤になるのではないか? 障がい者同士のコミュニティの場が出来、外に出るきっかけが生まれるのではないか? 高齢者にとってもアウトレジャーや、諦めていた体験が出来るようになる。つまりユニバーサルビーチが開催されると、そこにいままで海に来られなかった車いすユーザーやその家族や高齢者が遊びにくるようになり、その人たちと福祉を学ぶ学生さんやボランティアに来る地域の人たちとが出会い、関わりが生まれる。それによって知多半島での観光業(宿泊・飲食・土産)が潤い、いろいろな人たちが観光に訪れることによってまちのバリアフリー化が進んで、ひとにやさしい南知多、知多半島が再開発される…。つまりは南知多ビーチユニバーサルビーチプロジェクト、入山さんが目指されているものは「まちづくり」であり、「地域再生」なのであろう。




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ジネンカフェVOL.137レポート その5

2020-03-15 13:40:25 | Weblog
【今日の優生思想】
優生保護法は既に廃止され過去の事にみえるが、今も続いている問題である。法律はなくなっても「社会にとって障害のある人はいない方がいい」という考え方はそのまま根強く残っている。 「障害・疾病がない方がいい」は容易に「障害・疾病のある人はいない方がいい」に転換されやすい。再び繰り返さないためには、強制不妊手術の被害について歴史の闇に消えさせず、なぜ起きたか過去を検証する必要がある。そして市民、特に医療・福祉・教育専門職が過去の歴史を学ぶ機会を設けることが必要である。優生思想=ナチスの専売特許ではない。 

*優生思想の理想
 「人間の淘汰を出生前に完了させることを目ざしてきた」(2019,市野川容孝)
  NIPT(新型出生前診断)、PGD(着床前診断) などの技術で実現されようとしている。命を選んでよいのか?
*「すでに生まれている障害者の人権・尊厳は守ろう。だが、これから生まれてくることは防ぐ。この二つはぶつからず、両立できる」というダブル・スタンダードは本当に成り立つのか?


【障害の社会モデル】
ポール・ハント 筋ジス 施設入所者
 障害者にとっての真の問題は、身体ではなく社会から隔離されていることだ!
マイケル・オリバー 障害の社会モデルを提唱
障害の個人モデル(個人的悲劇モデル)では、障害を「個人の心身機能の制約」
 →解決方法としては個人の身体への介入。
「障害者」が、悲劇の犠牲者にも、スーパーヒーローにもならない道を追求するものとして、障害の社会モデルを提唱した。
障害の社会モデルとは、「あるグループの人々(=障害者とされる人)に制約を強いている物理的・社会的な環境」→解決方法としては社会的環境の改善 
身体的差異・機能障害(=インペアメント)と障害(=ディスアビリティ)を認識論的に切り離す。
障害=不幸を否定し、障害者の生を全肯定。個人のインペアメントではなく社会のディスアビリティの解決に焦点をあてる。 

【参考文献】
・大橋由香子「〈証言〉優生保護法によって傷ついた女たちの経験から」『世界』2018年4月号(岩波書店)

・科研費研究『障害女性の障害女性をめぐる差別構造への「交差性」概念を用いたアプローチ』http://www.nabe-labo.jp/wwd/index.html
・M..オリバー&B.サーペイ著 野中猛監訳 河口尚子訳『障害学にもとづくソーシャルワーク 障害の社会モデル』 2010年(金剛出版)
DPI日本会議、DPI女性障害者ネットワーク編『障害のある女性の生活の困難 複合差別実態調査 報告書』2012年3月 

・名古屋市市民局 『障害を持つ女性の生活実態調査』昭和57年3月
・新里宏二 「〈なぜ訴えたのか〉不妊手術強制 万感の怒りこめた提訴』『世界』2018年4月号(岩波書店)
樋口恵子 「引揚女性の「不法妊娠」と戦後日本の「中絶の自由」」2018年『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店)所収。
・毎日新聞取材班『強制不妊-旧優生保護法を問う』2019年3月(毎日新聞出版)
・優生手術に対する謝罪を求める会編 『増補新装版 優生保護法が犯した罪』2018年2月(現代書館)

・優生思想を問うネットワーク制作 DVD『忘れてほしゅうない~隠されてきた強制不妊手術』2004年制作
ハンセン病回復者支援センター制作・著作DVD『ハンセン病療養所で受けた私の被害 断種・堕胎』2019年制作・ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 2005年3月
https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/4a.html

• 雑誌
「特集 旧優生保護法と現代」,『精神医療』2019,No.93 (批評社)
「特集やまゆり事件から3年のいま 優生思想の源流をたどる」 『精神保健福祉ジャーナル 響き合う街で』 2019年7月号(やどかり出版)
・「特集 優生保護法と女たち」戦後の女性記録継承プロジェクト・福岡女性史研究会編 『福岡 女たちの戦後』第4号2019年8月


• 国連報告書
• OHCHR, UN Women, UNAIDS, UNDP, UNFPA, UNICEF, WHO, 2014“Eliminating forced coercive and otherwise involuntary sterilization”
    Special Reporter of the Rights of Persons with Disabilities(Catalina Devandas  Aguilar) 2017,“Sexual and reproductive health and rights of girls and young women with disabilities   

・ その他      ・レーベンスボルン計画については、 『ヒトラーの子どもたち』(フランス    
2017年制作、母親一人で育てられたフランス人男性が老年になって自らがレーベンス
ボルン計画でドイツ兵との間に生まれたことを知るドキュメンタリーがNHK BS世界のド
キュメンタリーでも紹介。
デンマークのミステリー作家ユッシ・エーズラ・オールスンは『特捜部Q―カルテ番号64』 
(2010年作。翻訳は2014年ハヤカワ・ミステリ文庫上・下巻) で断種を題材にし、あと 
がきで1929年から1967年までに、およそ1万1千人(主に女性)が不妊手術を受け、
その半数が強制と推測、と記している(2019年映画化)
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ジネンカフェVOL.137レポート その4

2020-03-15 13:32:39 | Weblog
【なぜいま裁判なのか? 1】
2018年1月30日に優生手術の被害者の佐藤由美さん(仮名)が提訴し、それが、大きく報道され一般に知られるようになったのだが、実は1997年9月には「強制不妊手術に対する謝罪を求める会(以下「求める会」)が発足し、国に対して強制不妊手術の実態解明と被害者に対する謝罪と公的補償を求める活動を行ってきた。また飯塚淳子さん(仮名)、佐々木千津子さん(故人)等の被害当事者が粘り強く声をあげてきたことが、提訴の実現の背景にある。

理由1.記録の散逸による証明の困難/実態解明の困難
行政に資料が保存されていない。国に報告された不妊手術の件数のうち個人名が特定されたのは3割(2019年3月1日厚労省の発表では、5400名)。医療機関においても記録の保管期間(5年間)が過ぎて廃棄されている場合が多い。公文書の保管・保存の問題性。記録の廃棄⇒法に訴える上で大きな障壁になったため。

理由2.差別への恐怖で声をあげられず
 強制不妊手術を推進した当時の資料には、障害があることに恐怖を感じさせるような差別的表現が見受けられる。
 被害を知られると、さらなる差別にさらされる(結婚などに支障が出る)ために配偶者に話していない人も。
 また差別は本人のみならず家族・親族にもおよぶため、被害を訴えられなかった。
理由3.自ら訴えることのできない人たちが被害者に
被害者の多くは、本人が自らは訴えることが困難な重度の知的障害、精神障害、身体障害のある人であった。本人を権利擁護する人の不在。(なんら説明を受けておらず被害を認識していない人たちも存在)
  
【提訴までの経過1】
• 1996年6月『母体保護法』が議員立法で成立。謝罪も補償も国会で議論されず。
• 1997年8月 スウェーデンの強制不妊手術、被害者に補償が検討されていることが報道
• 1997年9月「強制不妊手術に対する謝罪を求める会(以下「求める会」)設立。強制不妊手術の実態解明と被害者に対する謝罪と公的補償をもとめる要望書を厚生省に提出。
• 厚生省の回答は、「当時は合法で、既に法改正もなされた。もし法にそぐわない事例があれば具体的に示してほしい」だった。
• 1997年11月「求める会」は強制不妊手術被害者ホットラインを実施。それでつながったのが飯塚淳子さん(仮名)。
• 1997年12月 飯塚淳子さんは宮城県に対して自らの優生手術についての個人情報の開示請求。宮城県からの「不存在通知」に対して異議申し立てを行ったが、飯塚さんの書類が含まれると考えられる昭和37年度分のみ処分した、として、異議申し立ては1999年3月に棄却された。
• 1999年に「優生手術に対する謝罪を求める会」に変更。

【提訴までの経過2】
・ 1998年 国連の人権規約委員会へ日本政府が提出した第4回政府報告書に対するカウンターレポートをDPI日本会議が提出。強制不妊手術の問題を盛り込む。
・ 2003 年9月『優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言』(現代書館)を発行(2018年2月に追加資料も加えて増補新装版を発行)。
・ 2003年12月8日、飯塚淳子さん、佐々木千津子さんと求める会メンバーが国会議員に要望書の内容を伝える。
・ 2004年 優生思想を問うネットワーク制作 DVD『忘れてほしゅうない~隠されてきた強制不妊手術』

【提訴までの経過3】
2016年2月CEDAW(女性差別撤廃委員会)へのロビー活動
• DPI女性障害者ネットワーク:1986年障害女性の自立促進と優生保護法撤廃を目指して活動開始。優生保護法が母体保護法に改正された後、一時活動を休止。2007年DPI世界会議韓国大会を機に再始動。肢体不自由、聴覚、視覚、精神などの障害女性が集まり、障害者差別と女性差別を重複する複合差別解消の課題に取り組む。      
• SOSHIREN:1982年中絶の条件から「経済的理由」を削除する動きを阻止するため発足。現在は刑法・堕胎罪の撤廃をめざして活動している。
2016年3月 CEDAW(女性差別撤廃委員会)より勧告→ 国会で厚労大臣が「被害者ご本人から職員が事情を聞く」と答弁。厚労省と被害者・「優生手術に対する謝罪を求める会」との面談が実現。だが「当時は合法だった。調査も謝罪も補償もしない」という見解は変わらず。

【提訴までの経過4】
・ 2013年 飯塚淳子さん(仮名)が新里弁護士と出会う。
・ 2015年6月 飯塚さんが日本弁護士連合会に人権救済申立(新里弁護士の支援による) → 日弁連が申立を受けて意見書を発表2017年2月16日
 日弁連ホームぺージ https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/2017/170216_7.html 
 
・ 2017年2月 日弁連の意見書についてのTV報道で被害者家族の佐藤路子さん(仮名)が新里先生にコンタクト。被害者の佐藤由美さん(仮名)について情報公開請求で不妊手術を受けた記録となる行政資料が出てきた。
・ 2018年1月30日、佐藤由美さん(仮名)が国損害賠償を求める仙台地裁に提訴へ。被害者として初めて。 

【提訴後の動き】
・ 2018年3月:国会で自民党の尾辻秀久議員を会長とする、「優生保護法下における強制不妊手術について考える議員連盟」(超党派議連)が発足。同時に自民党の田村憲久議員を座長とする自民・公明両党の与党ワーキングチームが発足。
・ 厚労省 母子保健課より 都道府県に資料の保全・調査を依頼する通知。県の行政機関(公文書館、保健所、児童相談所、更生相談所など)。医療機関、福祉施設(障害者施設、児童福祉施設、婦人保護施設、保護施設など)。
・ 2019年4月24日:一時金支払いについての法案が成立。(国の責任はあいまいなまま。ハンセンのように地方自治体の実態調査を行う委員会の設置もなし)。320万(←交通事故等で生殖機能を失った場合1000万基準。裁判は1100万~3380万)。中絶の被害は対象外。

【優生保護法被害裁判について】
佐藤さんの提訴後、全国(仙台、札幌、東京、静岡、大阪、神戸、福岡、熊本)で相次いで提訴、現在原告が24人に。
 くわしくは優生保護法被害弁護団ホームページ
      http://yuseibengo.wpblog.jp/
2019年5月28日 仙台地裁 判決
 優生手術が憲法違反であることは認める。
被害者が国家賠償法に訴えるのが困難だったのは認める。
• しかし
除斥期間(20年)を過ぎているとして、被害への賠償は却下。
      国の立法不作為も認めず(リプロダクティブ権についての国会・司法の議論が不十分だったとして)
高裁へ控訴

【リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖の健康と権利)とは?】
• 1994年 国際人口開発会議「カイロ行動計画」で提唱。性と生殖の健康を、子どもを産む機能だけに限らず、女性の生涯にわたる健康に関する権利としている。産むことだけを評価するのでなく、産むことも産まないことも同等に保障するとしている。人間の生殖の過程すべてで、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあること。安全で満ち足りた性生活を営み、子どもを産む可能性をもち、子どもをいつ何人産むか産まないかを決める自由をもつ。自ら選択した安全な避妊に関する情報、手段を得る権利、安全に妊娠出産できる権利を含む。すべてのカップルと個人がリプロダクティブ・ヘルスを享受する権利をいう。差別、強制、暴力を受けることなく生殖に関して決定する権利であり、女性には性と生殖に関することがらを、健康という視点から、生涯にわたり保障される権利。

【障害×女性(ジェンダー)差別の複合化】
・ 日本では「堕胎罪」で人工妊娠中絶を禁止。その上で「優生保護法(母体保護法)」が例外規定として中絶が可能な条件を規定。この2つの法律を使って産まれてくる生命を統制する形。現在の母体保護法でも判断するのは医師であって、女性本人の意思にもとづく、という文言はない。
・ 強制不妊手術の被害者約7割が女性。
・ 優生保護法の制定時は「障害のある人が障害のある子どもを産む」、「障害=不幸」と考えられていたが、現在では「どの人にも障害のある子どもが生まれる可能性がある」、「障害のあるなしと幸・不幸は直接の関係はない」、と認識が変わってきている部分もある。にもかかわらず、女性に対する「障害のない子を産んで育てるべき」という規範はいまだ強固である。女性の身体が「産む機械」としてモノ化され、胎児の障害の有無により産むか産まないか選択を迫られる状況は変わっていない。子どもに障害があってもなくても子育てに支援が得られる社会が望まれている。

【国連人権機関による強制不妊手術の報告】
• 障害者の権利にかんする特別報告者 カタリナ・デヴァンダス 
• 2017年7月「障害のある女性と少女のセクシャルおよびリプロダクティブ・ヘルス/ライツに関する報告書」
• “障害のある少女や若い女性は、優生思想・月経の管理・妊娠を防ぐなどの様々な理由から、他に比べて著しく強制的・非自主的な不妊手術の被害にさらされている。” 。
• “調査によると、障害のある女性や少女の不妊手術は、一般の人々に比べると3倍もの高い割合が続いていることを示している”
•  国連は、障害のある人々への強制不妊手術が“拷問”であると認識している。にもかかわらず、多くの国々の法律のシステムは裁判官、ヘルスケアの専門職、家族、後見人などが、障害のある人々の“本人の利益のために”ということで不妊手術の手続きに同意することを許している。
• 親や後見人は、障害者が性的被害にあいやすいことから、望まない妊娠を防ごうと考える。しかしながら不妊手術は、性的被害を防ぐものではない、そのような性的被害から守る義務をなくすものでもない。
• 知的障がいのある人に将来生まれるであろう子どもを育てるための必要な支援を提供するかわりに、不妊手術が、知的障がいのある人の子どもがうまれて生じるだろうケアの負担を防ぐ方法として、提案されている。
• 不妊手術に関して、法や政策の適用が自己決定の代行から支援つき自己決定にとって代わること、そして個人の自律(オートノミー)、希望、指向を尊重することを促している。

【国連人権機関から日本への勧告】
1998年11月<自由権規約委員会による勧告> 
「障害を持つ女性の強制不妊の廃止を認識する一方、法律が強制不妊の対象となった人達の補償を受ける権利を規定していないことを遺憾に思い、必要な法的措置がとられることを勧告する。」
2014年  1998年勧告を実施すべきという勧告
2016年3月<女性差別撤廃委員会による勧告> 
「締約国が優生保護法の下での女性の強制不妊手術という形態での過去の侵害の程度に関する調査研究を行ない、加害者を起訴し、有罪となった場合には適切に処罰するよう勧告する。委員会はさらに、締約国が強制不妊手術のすべての被害者に対し、法的救済措置へのアクセスの支援を提供する具体的措置をとり、賠償およびリハビリテーションのサービスを提供するよう勧告する」
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ジネンカフェVOL.137レポート その3

2020-03-15 13:28:19 | Weblog
【旧優生保護法下での強制不妊手術】
旧優生保護法下での強制不妊手術は3つに分類できる(利光惠子氏による)
1. 本人の同意を要さない不妊手術
2. 本人の同意によるとされたが実質的に強制だった不妊手術
3. 法が認める範囲をこえた本人の意志によらない不妊手術


1の本人の同意を要さない不妊手術とは、優生保護法の第4条遺伝性疾患とされた人を対象に、「公益上必要と認めるとき」、医師が申請し、優生保護審査会が認めれば、本人(や保護者)の同意がなくとも強制的に不妊手術を行うことを合法化した。。、第12条:遺伝性でない精神病や知的障害のある人を対象に、保護者の同意と優生保護審査会の決定によって実施した。

2の本人の同意によるとされたが実質的に強制だった不妊手術は、第3条:遺伝性とされた疾患や障害の他、ハンセン病の患者に適用され、本人と配偶者の同意により実施されている。また、ハンセン病の療養所では、結婚(夫婦部屋への入居)の条件として不妊手術が提示された。隔離政策の維持の目的で患者同士の結婚を認め、女性の性・ケア役割を利用するも、「ハンセン病の根絶=ハンセン病回復者に子どもを作らせない」政策であった。
このハンセン病回復者の隔離政策は1996年「らい予防法」が廃止されるまで続いた。

3の法が認める範囲をこえた本人の意志によらない不妊手術は、対象者について、法が認める範囲をこえ“不良な子孫”とみなされた人たちに広く適用され、被害が拡大した。法が認めた方法(=精管・卵管の結紮)以外の方法、子宮・卵巣・睾丸の摘出や、違法とされた放射線照射も行われた。ずさんな手術による後遺症も報告されている。ハンセン療養所では医師資格のない者による男性の不妊手術や、臨月に近い時期での中絶(実質的には嬰児殺し)が行われていた。

<身体障がい者が施設入所の条件として>
身体障がい者が施設入所をする場合に、職員や介護スタッフが生理の世話をするのが大変ということで、生理をなくすために子宮摘出等の手術が行われた。さらに禁止された卵巣への放射線照射が実施された例も(故佐々木千津子さん)あった。しかし、これは婦人科手術という名目で実施され、優生保護法下の優生手術として報告されていない事例もある。

<精神障がい者が退院や結婚の条件として>

精神科病院に入院中、妊娠しても育てられないということで中絶、また退院の条件として不妊手術の提示をしていた。(法の廃止後も起きている)

<知的障がい者の地域生活や結婚の条件として>
知的障害の女性が性的被害で妊娠することを防ぐため。社会として知的障害女性を性的被害から防ぐ対策を取るよりも、個人の身体に介入する方向で対処がはかられた。また施設から退所する男性に対しても実施していた。

<聴覚障がい者の結婚の条件として>
全日本ろうあ連盟の調査(2018年3月25日~12月31日)によれば、136名が被害。『障害を持つ女性の生活実態調査』昭和57年3月 名古屋市市民局(p35)より抜粋。「結婚には直接反対はされなかったものの子どもを産まないという条件つきで結婚した聴覚障害者は5人にのぼる。」

【社会的養護の子ども】
貧困や家庭環境等により学校を長期欠席したり、非行傾向のある子どもが、“精神薄弱・精神疾患”とみなされ、不妊手術を受けさせられたこともあった。


【被害が広がった背景】
恣意的な医学的認定
優生保護法には「遺伝性」の医学的認定を適切に行う仕組みがなく、医師一人の判断で可能。医師の専門知識(遺伝等の知識)は問われず。恣意的な認定になってしまった。

2術式の拡張の容認
28条「何人も、この法律の規定による場合の他、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない」→学術研究は「故なく」ではない、つまり正当な理由があると解釈。学術研究の名の下に違法な放射線照射が行われた可能性が高い。

3法務府によるお墨付き
1949年9月 厚生省から法務府への問い合わせ
 →1949年10月法務府からの回答
「真にやむをえない限度において、身体を拘束したり麻酔薬を用いたり、だましたり(欺罔)してもよい」との回答。不妊手術の強制は基本的人権の制限を伴うが、「不良の子孫の出生防止」という公益上の目的のためには、憲法の精神に背かない、との通知が出された。(1953年厚生省事務次官通知、1949年10月11日法務府 法制意見 第一局長回答)

4国策としての学校教育
教師から「障害者は子どもを持つべきではない」といわれた人もいた。
愛知県で使われていた1961(昭和36)年の『保健体育』の教科書にも優生思想を肯定し、遺伝性疾患とされた人との結婚を忌避すべきとの記述がある。


【全国の優生手術報告件数】
優生手術の報告件数は本人の同意なしの第4条・12条の約1万6500件と第3条の約8500件を合わせると約2万5000件。人工妊娠中絶は、遺伝性約5万1276件、ハンセン病7696件で合わせると約5万9000件。優生手術、人工妊娠中絶の報告件数を全て合わせると約8万4000件にも及んでいる。

【愛知県の状況】
そんな中で愛知県の状況は、愛知県の衛生年報によれば4条201件、12条54件、 3条440件(遺伝性362件、ハンセン病78件)となってはいるが、半数の記録(氏名)が残っている宮城県に比べて愛知県の場合、記録がほとんど廃棄されている。残されているのは1966(昭和41)年から 1971(昭和46)年までの6年間8回分の優生保護審査会の資料のみ、これにより60名(女52男8)の氏名が判明した。20歳未満の未成年が20人。知的障害の少女に対して「性的風俗異常行動が認められる。生理の手当ができない」「男子労務者の往来が多く誘惑される」「性的に無知無関心であるため、将来が非常に危険」などの言葉があり、少女を性被害から守るという名目で、少女の身体に介入する形での対処がとられた。

【優生保護法から母体保護法へ】
1972年になって「優生保護法の一部を改正する法律案」が出されるものの、ふたつの反対運動に遭い廃案になった。その改正案は中絶の条件から「経済的理由」を削除しようとするものだったが、中絶の99%が経済的理由で、実質的に中絶を不可能にするものだとして女性運動からの反対に遭い、胎児に障害がある場合の中絶「胎児条項」の導入も障害者運動が起こり、廃案になったのだ。障害者運動の中心は〈青い芝の会〉だったが、こんな声明を出している。

 「障害者」は殺されるのが当然か!
「障害者の生き方の「幸」「不幸」は、およそ他人の言及すべき性質のものではない筈です。まして「不良な子孫」と言う名で胎内から抹殺し、しかもそれに「障害者の幸せ」なる大義名分を付ける健全者のエゴイズムは断じて許せないのです。(・・・中略・・・)私達は「障害児」を胎内から抹殺し、「障害者」の存在を根本から否定する思想の上に成り立つ「優生保護法改正案」に断固反対します。」

女性運動と障害者運動、この二つの運動は互いに対峙する中で、「産める社会!産みたい社会を!」障害児だって産みたいと思ったら産んで育てられる社会であればいい。という見解を示す。1994年カイロで開催された国連の国際人口・開発会議では、性に関しても産む・産まないについても特に産む当事者の女性には自分で決める権利がある、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と自己決定権)を人権として提示されるように決議。障害者のピアカウンセラーの安積遊歩さんが優生保護法の実態(障害者の存在を否定するものであること 現在でも強制不妊手術が行われていること)を世界にアピール。これに対して国際的な批判が巻き起こった。1996年に優生保護法は廃止され母体保護法へ移行した。

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ジネンカフェVOL.137レポート その2

2020-03-15 13:23:07 | Weblog
【優生思想の浸透―アメリカ】
自由の国と言われているアメリカでも、1907年(明治40年)にインディアナ州で世界初の断種法が制定され、それが全米32州に広がってゆく。そして隣国カナダ(アルバータ州)でも制定され、1970年代までに施設の精神障害者など全米で6万3千人以上が断種手術を受けさせられたという。また、1920年代から60年代の公民権運動の頃まで、異人種間婚姻禁止法や、北欧・西ヨーロッパ以外からの移民を制限する法律が存在した。  

【優生思想の浸透―ヨーロッパ】
優生思想といえばナチスドイツを思い浮かべるが、ヨーロッパにおいてドイツだけが優生思想を信奉していたわけではない。ドイツだけではなく、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、エストニア、アイスランドなどでも断種法を制定させている。加えてヒューストン・S・チェンバレンが『19世紀の基礎』(1899)で、ゲルマン人の優越性と人種反ユダヤ主義を唱え、全ヨーロッパ民族を「アーリア人種」と呼び、西洋文明をユダヤ人種の手から救ったのはアーリア人の指導的存在だったチュートン人(ドイツ系民族)とした。それはどこにも根拠のない非科学的な説明であったが、それを信奉したのがヒトラーだった。

【ナチスの優生政策】
優生学を信奉したヒトラーは「ドイツ民族、即ちアーリア系を世界で最優秀な民族にするため」に「支障となるユダヤ人」の絶滅を企て、600万人以上おユダヤ人が犠牲になったことは詳しく知られている。それが強制収容所等でのホロコーストだが、一方で1935年に開始された「レーベンスボルン(命の泉)計画」では、アーリア人(金髪碧眼)の未婚の若い女性をSSナチス親衛隊員と強制的に結婚させ、「ドイツ民族の品種改良」を試みた。また、1980年代になって、ホロコーストの前の‘リハーサル’として、20万人以上の障害のあるドイツ人らが殺害されたこと、それに医療従事者もかかわっていたことが、知られるようになった。

【ナチスの障害者への断種・強制的安楽死政策】
ナチスは1933年に「遺伝子病子孫予防法」を制定し、遺伝病患者が存在することによって国家予算が消費されていくことを訴えるキャンペーンが行われ、精神的または肉体的に「不適格」と判断された30万人以上に対して強制断種を行った。そして1939年には「T4作戦」を開始している。病院や施設に収容されていた人々をガス室等で強制的に安楽死(殺害)させたのだ。これに対して1941年になってフォン・ガーレン司教がナチスの安楽死政策を非難し、政府より中止命令が出された。しかし、中止命令後も、終戦まで障害者の強制的安楽死政策は続き、20万人以上が殺害されたという。

【日本への優生思想の導入】
優生思想が日本に導入されたのは、1930(昭和5)日本民族衛生学会の創設が契機であろう。1940(昭和15)に『国民優生法』が制定され、遺伝性とされた疾患のある者の断種(優生手術)を規定した。実施されたのは5年間で454件であった。戦時下の「産めよ増やせよ」政策では、中絶は施術者と女性(相手の男性は不問)は刑法堕胎罪に問われるだけでなく、非国民な行為とされた。日本において優生政策にもとづいて強制不妊手術が実施されたのは、むしろ戦後の1948年(昭和23年)に成立した優生保護法の施行の後である。

【優生保護法】
1948(昭和23)年に制定された「優生保護法」には、2つの目的があった。一つ目は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」優生手術(優生上の理由にもとづく不妊手術)であり、二つ目が「母性の生命健康を保護すること」人工妊娠中絶について規定であった。1949年に中絶の適応に「経済的理由」が導入され、実質的な中絶の合法化(1955年には1年間で117万件中絶)がなされることになる。1952年に、4条(遺伝性の疾患)に加え、12条(遺伝性以外の精神病や知的障害)の強制不妊手術も新設されて、戦前の国民優生法よりも対象者を広げ、優生政策は強化されていった。1996(平成)8年になって廃止され、優生的文言を削除し『母体保護法』へと名称が変更になった。

【中絶が合法化された時代背景】
世界に先駆けて日本で中絶が合法化されたが、20年後の欧米の女性運動のように「産む・産まない自由」を求める運動があったわけではない。堕胎罪はそのままで条件付きでの中絶が合法化されたのである。その時代背景は、戦地からの復員・引揚者(約600万人)による人口増加と食糧難があり、、ヤミ中絶で命を落とす女性が多かったのだ。それに加えて表立っては議論されていないが、戦時性暴力、引揚女性の性被害による「不法妊娠」がある。

【戦時性暴力と引揚女性の性被害による「不法妊娠」】
戦時性暴力、引揚女性への性被害に対する「不法妊娠」は後を絶たず、優生保護法が成立する前の昭和20年8月厚生省は国立大学医学部責任者を召集し中絶実施の密命を出していた。九州大学グループの国立福岡療養所と国立佐賀療養所、二日市保養所(京城帝国大学系の医師らによって自主的に設立。泉靖一。皇族が訪問)九州大学グループと二日市保養所で1000件以上(正確な数字は不明)の中絶手術が行われた。

この引揚女性の性被害に対する関心が、戦後初の女性国会議員の一人で福岡県の産科医の福田昌子氏を動かし、加藤シヅエ氏、谷口彌三郎氏とともに優生保護法の提案することにつながっていった。。

【厚生省からの指示】
当時の厚生労働省(当時の厚生省)の指示に、「異民族の血に汚された児の出産のみならず家庭の崩壊を考えると(中略)これを厳しくチェックして、水際で食い止める必要がある」「極秘裏に中絶すべし」という文言があったという。
性的暴行を受け妊娠してしまった女性を救うというより「民族の純粋性を保つ」という優生的な目的が重視されたのではないか。


【優生政策の強化】
戦後の日本では、こうして中絶の合法化と同時に優生政策の強化が図られた。熊本医専の産婦人科教授で自民党参議院議員の谷口彌三郎氏は、「産児制限を進めれば、優良な人々は社会状況を理解し家族計画により子どもの数を制限しようとするが、不良な人々は欲望のままに子どもをつくり続け逆淘汰が起きる」という民族の逆淘汰論を主張した。
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ジネンカフェVOL.137レポート その1

2020-03-15 13:10:09 | Weblog
ジネンカフェVOL.137は、異例尽くしの拡大版になった。先ずテーマが『多様性の時代に生命はなぜ優劣を求められる〜私たちの内なる優生思想を越えて』という、ジネンカフェ史上一番重いテーマを取り上げたこと。加えてゲストに立命館大学生存学研究所客員研究員の河口尚子先生をお招きして、優生思想の歴史や本質、日本での導入の経緯や問題点などお話いただいたアカデミックな回になったこと。そして新型コロナウイルス感染拡大への懸念から、行政がらみのこうした集会が次月と中止や延期になる、まるで厳戒態勢の中で行ったこと。また、そのせいか史上初の参加者の少なさだったことも挙げられよう。しかし、その数少ない参加者の分、ひとりひとりの中に大切なものを届けることが出来たのではないかと自負している。それはワークショップの雰囲気や、ジネンカフェの開始前に暗い表情で会場へ入って来た参加者の人が、終了時には憑きものが落ちたように朗らかな表情になって帰って行かれたことを見ても明らかだろう。

【河口尚子先生のプロフィール】
河口尚子先生は社会福祉士でもあり、精神障害者社会復帰施設、民間病院、作業
所等に勤務後、スウェーデン・イギリスに留学。
2006年リーズ大学大学院障害学(Disability Studies)専攻修了。訳書に『障害学に
もとづくソーシャルワーク:障害の社会モデル』(2010年,金剛出版)。専門は障害学・社会福祉学。現在は、障害/女性のどちらの分野からも中心課題とされず後まわしにされがちな障害のある女性のかかえる課題/生きづらさや、戦後1996年まで存在した優生保護法の下での強制不妊手術の問題に取り組んでおられる。

【優生思想とは?】
「優生思想はいろんな言い方があるでしょうが、他人にとっての損得・価値によって、時に人を生まれないようにし、時に死んでもらおうという考えです。そして単に考えでなく、実践がある」社会学者で生存学者の立岩真也さんは、毎日新聞2019年12月18日インタビューでそう答えている。「単に考えではなく実践がある」ということだが、今日は過去にどのような事がなされてきたのか、をふりかえりたい。

【優生思想の源流】
優生思想はもともと『優生学』から来ている。その優生学(eugenics)とは 1883年(明治16年)フランシス・ゴルトン(イギリス、ダーウィンのいとこ)が提唱した。天才は後天的な努力ではなく遺伝による。人間の遺伝素因を重視して、遺伝子のうち優良とされているものを増加させて劣等とされるものを減少させようとする。ダーウィンの進化論・自然選択説を、人間社会においてもあてはめて、生物淘汰による進歩を促すべき…という考えで、当初は社会を改善しようとする進歩派の人が支持しした。植民地支配を背景に“人種”主義とも結びついていた(人間には進化の進んだ人種と、進化の遅れた劣等人種がいるとして生物学的な優劣をつけた。)またドイツではアルフレート・プレッツが1895(明治28)年に「個人ではなく、集団・民族全体として優良な形質を後の世代に引き継ぐこと」に主眼をおいた『民族衛生学の基本指針』を出版、提唱した。この民族衛生学と優生学とはほぼ同義である。20世紀初頭にはアメリカ、ヨーロッパ、北欧などに浸透し、優生思想は大きな支持をえることになった。
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ジネンカフェVOL.136レポート

2019-12-23 18:58:52 | Weblog
12月に入り、風が冷たくなってきた。もう今年も師走である。この時期、私は体調を崩しやすい。1年間の疲れがドッと押し寄せるのか、毎年この時期になると風邪を引き、咳が止まらなかったり、頬にヘルペスが出来たりする。要注意の季節である。さて、今月12月7日に行ったジネンカフェVOL.136のゲストは、プロの和太鼓奏者の青木崇晃さん。青木さんとの出逢いは今年の夏に遡る。一般社団法人oneness理事長・磯部和美さんをゲストにお迎えするにあたり、onenessが運営している南知多のカフェ海空に打ちあわせに行った際にお目にかかり、磯部さんから紹介されたのだ。和太鼓の演奏はプロだが、今後独立されてひとりでやって行くにはトークの勉強もしなければいけないということで、では一度ジネンカフェで肩慣らしならず、口慣らしは如何ですか…いう流れになった。お話のタイトルは『和太鼓を演奏する中で学んできたこと』

【青木崇晃さんとはどんな人?】
青木崇晃さんは愛知県豊田市出身。小学校5年生の時から和太鼓を演奏しているそうだ。青木さんが5年生の時、地元の太鼓集団と、後に所属することになるプロ和太鼓演奏集団・志多らとのコラボ公演がフォレストヒルズのプールの水上舞台であり、それをたまたま両親と観に行った青木少年はその演奏に魅せられたのだという。自分も演奏してみたいと思った青木さんは、先ずは地元の『松平和太鼓』というチームに入った。それまで習い事はピアノと水泳と習字を習っていたのだが、現在から思えば続けていればよかったと後悔しているものの、いずれも自分から習いたいと言い出したわけではなかったので、小学生でやめてしまった。しかし、太鼓は初めて自分から習いたいと思ったものだった。弟さんと共に高校生まで習っていたという。

【安定感のある道か、不安定な道か】
プロになるという意識はあまりなかったのだが、青木さんには太鼓を習い始めた頃から演奏者としての理想像のようなものがあった。青木さんがプロを目指そうと思ったのは高校卒業前のことだ。地元の大企業に就職すれば給料もそれなりにもらえて、食べるには困らないだろう。ても、自分の好きな和太鼓が続けられなくなるかも知れない…。不安定だけれど自分の好きな道に進むか、安定感抜群の将来を取るかで迷ったのだ。そうして青木さんは、不安定だけど自分のやりたい演奏者の道を選んだ。不安定な道は不安定だが、挫折するなら自分の好きなことをやって挫折した方が後悔がない。安定の道はそれから探しても遅くはないかな…そんな想いからだった。

【和太鼓プロ集団志多らへ】
和太鼓のプロ集団というのは、全国的にいくつかある。佐渡鹿島の鼓動、九州のドラム太鳳、地元の志多ら…。青木さんは幾つか見てきた中でも、やはり自分には志多らがよいなと思い、門戸を叩いたのであった。これは青木さんにしか解らないインスピレーションのようなもので、どこもプロ集団としてはそれぞれのカラーがあるのだが、青木さんから観た志多らは、土臭いけれどパフォーマンスでここまで表現力があるチームはないなと感じたという。技術が凄いというよりも聴いている人々の体に伝わって来るものがあり、耳で聴く、目で観る、そういう次元を越えて体で感じる…そういうところがより強いチームなのかなと思ったのだ。それほど複雑なことをしているのではないけれど、そのチーム自体のエネルギーが凄く伝わって来る。青木さんはそこに惹かれて志多らに所属することにしたのだという。

【地元愛と自分の夢との狭間で揺れ惑う】
青木さんは、実は高校を受験するとき、公立では地元の『松平高校』を、私立では『日本福祉大学付属高校』を受験しているのだが、どちらとも合格している。しかし結果的には小学校5年生から所属している『松平和太鼓』から離れたくなくて『松平高校』に進学したのだ。『日本福祉大付属高校』の和太鼓部も太鼓業界では有名で、高校の全国大会に行けるほどの強豪校である。青木さんはしかし、全国大会に行けるところに所属して太鼓を叩くのは自分の目指しているものではないと思えたのだ。地元が好きだったということもある。だから高校を卒業して『志多ら』に所属する時も、地元愛との狭間でこころが揺れたという。しかし、最終的には『志多ら』に入って演奏をし、太鼓の技術を向上させたい…という、自分の夢の方が勝った。

【志多らと寮生活】
プロの和太鼓集団はどこでもそうなのだが、『志多ら』も寮生活が基本だという。『志多ら』は独自の練習場を持っていて、その上と下の階にそれぞれ男子寮と女子寮がある。寮の生活は朝10キロのランニングから始まり、朝ご飯、掃除。午前中に筋力トレーニングをして、午後から太鼓の練習。それが夕方17:00まで続き、夕食後は自由に太鼓の練習…。こんなふうに太鼓漬けの日々なのだ。太鼓の演奏者には恵まれた環境で、太鼓に打ち込める環境にあった。青木さんは12年間『志多ら』に所属していたのだが、この寮に10年間暮らしていたという。

【30/750の志多ら舞い】
『志多ら』というチームは、プロ集団の中でも特徴的で愛知県東栄町を拠点にしているのだが、その東栄町の「花祭り」は750年前から伝わっていて、国の無形民族重要文化財に指定されている。その「花祭り」に『志多ら』のメンバーも住民の一員として参加させてもらうのだ。メンバーは東栄町に住民票を移動させているので、文字通りの住民として太鼓を叩き、舞いを踊るのである。750年も続いている「花祭り」に対して、『志多ら』は結成されてから30年にしかならない。それにも関わらず、一連の「花祭り」の演目の中に『志多ら舞い』が組み込んで貰えているのは大変なことで、そこで太鼓を演奏したり、舞えることが出来ていることを感謝しながら、青木さんは舞わせてもらったり、奉納させて貰っていたという。

【『志多ら』からの独立】
青木さんは、その地域に住まわせてもらって演奏していることを忘れてはいけないと日頃から思っている。『志多ら』には仲間もいたし、太鼓も必ずあったし、練習する場所もあった。太鼓を演奏する青木さんにとっては、この上もない環境で『志多ら』という団体は良い場所でもあった。しかし、それが当たり前になってはいけないなとも感じていた。独立してからはそれをしみじみと痛感しているという。呼んで来て貰わなければ仲間もいないし、太鼓も借りて来なければない…。でも、それは独立する前から解っていたことで、何もない状態が自分を育ててくれると思って、青木さんは今年の4月に『志多ら』から独立したのであった。

【独立して8ヶ月、これから基盤を整えてゆく感じ】
『志多ら』から独立して8ヶ月、太鼓を演奏する機会は4回。これだけでは食べていけないので、いろいろな手伝いをさせてもらって何とか生活して行けている。これから基盤を整えて行って、プロの和太鼓奏者として出発して行く感じだという。

【舞台に立って学んだこと】
青木さんは大太鼓をメインで演奏されているのだが、大太鼓という楽器は舞台上にひとつだけ置かれて、それにひとりで向かってゆくのだ。それでお客さんにどれだけ拍手が貰えるかと、いつも試されているような感じで舞台に立っているという。お客さんには背中を向けて最後に振り向くぐらいで顔は一切見せない。しかし、『志多ら』に所属して以来独立した現在まで十数年そういうことをしていると、背中を向けていてもお客さんがどうみているか感じられるようになってきたという。ここで拍手が来るだろうとか、計算しているわけではないが、雰囲気でそれとなく解る。空気が伝わって来るのだ。がむしゃらに太鼓と向きあってきて30年近く経ち、現在ではがむしゃらに打つだけではなくお客さんの雰囲気とか視線とかを感じられるようになつてきた。また、青木さんは太鼓という楽器は打つ場所、打つ力、打つひとによっても音色が変わる楽器だなと感じているという。それというのは結局その太鼓を打つ人の人生がエネルギーとなって、パワーとなってお客さんに伝わるのではないかと思っているそうだ。

【自分が成長してゆくためになにを磨いていけばよいのだろう?】
では、自分が成長してゆくためになにを磨いていけばよいのだろうと考えた時に、ただリズムワークを勉強するだけでよいのか? ただお客さんに黄色い声援を掛けられるような筋肉を付ければよいのか? リズムが打てればその人の人生がみえるのか? そうではないだろう。もちろん技術も必要だろうし、演奏者の姿勢もあるだろう。しかし青木さんは、根本的にはその演奏者がどんな人かというところに繋がって来るのではないかと思っているという。性格はひとりひとり違っていて、それのなにを磨けばよいのだろう? 太鼓だけを打っていればよいのかといえば、それも違うような気がしている。

【もっと広い世界を知り、いろいろな経験を重ねたい】
これが『志たら』から独立した理由なのだが、青木さんはもっと広い世界をみて、ひととしてもっと大きくなりたいと思ったのだ。いろいろな経験もしたい。今回のジネンカフェも青木さんの中では大きな経験なのだという。日頃から人前で話す機会なんてないに等しい。太鼓の公演には演奏の合間にMCが入ることもあるが、青木さんはMCを任されるタイプではなかったので、そういった経験ももっともっと重ねて行きたいそうだ。

【和太鼓は元々神の前で叩かれる楽器だった】
そうなのだ。青木さんが磨きたいのは、自分の人間性の部分なのだ。日本には世界に誇れる独自の文化がある。「花祭り」で『志多ら』が舞う神楽も「霜月神楽」と言い、11月から3月にかけて太陽の力が弱まった時期に大地のエネルギーを蘇らせる目的で舞われたものだが、そういう文化も現在廃れつつあるらしい。和太鼓も本来は神の前で叩かれる楽器で、「神様」という概念も世の中で薄くなってきている。目に見えない精神的な世界なので信じる、信じないは別にして、昔のひとがどんな想いで神楽を作り、舞ったりしたのか。それを想うと青木さんは現在の〈目に見えるものしか信じられない〉風潮がとても残念に思われるのだ。750年も前のことなので想像するしかないが、ゲームも野球もサッカーもラグビーも何もない時代に五穀豊穣や家内安全の祈りや、一年の感謝の気持ちを込めつつも娯楽として神楽が執り行われた。奇跡は人々のそういうエネルギーが集まって起きて来るのだろうと思うし、そんな文化が継承されてもっと膨らんで行けばよいと青木さんは思っているのだ。

【和太鼓とは大地のエネルギーを呼び起こす楽器】
青木さんは宮崎の高千穂の夜神楽にも参加されてきて、東栄町の「花祭り」によく似た精神性に触れて、大地や風土とかから恵みを受けつつ、それに対する感謝の想いをより強く感じる生活をされているのだなと感銘を受けたのだという。高千穂神楽は舞いが中心なのだが、太鼓も登場する。舞いは、大地のエネルギーを呼び起こし、そのバックに太鼓や笛が流れている。なので、やはり太鼓とはそのような楽器なのである。そんな和太鼓に立ち向かう自分も太鼓の音を通して、感謝の想いとか大地に漲るエネルギーを元気に変えて聴く人々に伝えられるとよいなあと思っていると青木さんはいう。
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ジネンカフェVOL.l35レポート

2019-12-12 14:32:11 | Weblog
新しい時代への期待に満ちた令和元年も、早いもので残すところあと一か月と二週間になった。時が過ぎて行くのは早い。私事ながら今年還暦を迎えた。しかし、60年も生きてきたという実感はない。誕生年からいって還暦なのは間違いがなく、体のあちらこちらにがたが来ている。それに周りの年長者がいなくなってゆくので、「ああ、本当に60年も生きてきたのだなあ〜」という感慨はある。還暦を迎えたし、私もいつどうなるか解ったものではない。そうなっても悔いを残さないように、精一杯生きて行こうと思い始めた今日この頃。さて、11月16日、ジネンカフェVOL.135のゲストさんは、株式会社The Futureの今井康宏さん。現在は某学習塾の教室長をされておられるのだが、もともとは子どもたちのために地域が出来ることを考えて実行したいと思われている方なので、学習塾の経営に本腰を入れているわけでもなさそうだ。お話のタイトルは『子どもたちのために、地域が出来ること〜教えて、聞かせて、話して〜』

【今井康宏さんってどんな人?】
今井康宏さんは、1969年、生まれも育ちも愛知県東海市。現在丁度50歳。中学生の時の部活動の顧問の先生が印象的で、その頃から将来は学校の教員を目指そうと思っていたという。高校・大学もそのための学校に入り、当時は勉強も出来て成績も優秀だったので、他の人たちを見下すような嫌なヤツだったとか。しかし大学生の時、同じ学部に二浪して入学した下級生の友人が出来た。話しているとその人が世の中のことを冷静に考えていて、〈自分とは違う世界をみている人がいるんだ〉と衝撃を受けたという。その後、いろいろな人たちと接して行く中で、大学4年生の時に教員採用試験を受けたのだが、もうその頃には世の中に問題があり過ぎることが解っていたので、教員になるのが怖くてわざと落ちたという。

【モラトリアム時代】
そうして今井さんは大学院に行くことになる。世の中に出てゆくには自分自身に足りないものがあると感じていて、それが不安だったのだ。今井さんたちは「入院」と呼んでいたそうだが、大学院には実にいろいろな人がいた。今井さんと同年代はふたりぐらいで、あとは年上の人たちが多かった。社会人になってから、もう一度学び直しに来ている人もいた。その人たちからいろいろな話を聞けてよかったという。基本的に昼間は大学には行かず、夕方から夜にかけてゾロゾロと大学に集まって来て、尾崎豊等の歌を聴きながら夜中喋っているという生活を送っていたそうだ。そうしたモラトリアムな二年間を経て、確固たるものを持って今井さんは社会へと出てゆくことになる。

【都市計画コンサル会社に就職】
今井さんが就職先に選んだのは、当時金山にあった都市計画コンサル会社であった。主に住民参加のまちづくりの手伝いをする会社だ。大学にいた時から子どもが健やかに育つには学校教育だけでは限界があると感じていて、地域で支えるなにがしかの仕組みが必要だなと思ったのだという。教育学的には子どもの教育には「家庭教育」「学校教育」「地域教育」という三つの柱があるが、今でもその傾向は強いが親御さんは結構「学校教育」に期待をされているところがあるそうだ。そういう風潮を変えられないかと今井さんなりに考えて、地域づくりに関わる中で子どもの成長を覧られないかなと思い、都市計画コンサル会社に就職したのだという。

【コンサルとしての自分の限界を感じて…】
今井さんが就職した当時、地域が子どもに関わる取り組みはあまり試みられてなく、10年〜15年ぐらい経ってチラホラと地域のまちづくりと教育がドッキングしたような事例が出て来たのだが、今井さん自身が自分に与えられた仕事で精一杯の状況で、そこまで手が届かなかった。それもあって自分の限界を感じていた今井さんは、有能な上司に申し訳ないという気持ちもあるが、そのコンサル会社を退職することにしたのだという。

【教員に近い学習塾の塾長に】
そうして今井さんは社会に出て20年目にして教師になろうと決意したのだが、教師という職業はなろうとしてなれるものではない。その年の教員採用試験を受けてそれに合格したとしても、教師として採用されるには次年度を待たなければならないのだ。つまり1年間の空白期間が空くことになる。それは家庭的に些かよろしくないので、教師に近い学習塾を運営する会社に転職し、学習塾の運営をするようになった。

【理想と現実との狭間で揺れて】
しかし、ここでも悩ましい現実が待っていた。俗に学習塾からイメージされるものとは何だろうか? 「学校では足りない学力を補い、受験に勝つための補習や模試をするところ」平たく言えばそれに尽きるだろう。なんとも殺伐とした印象があるが、今井さんが理想としている教育観とはかなりのズレがあるのだ。第一、地域との関わりが全くないと言っても良い。今井さんが思い描く学習塾のイメージとは、子どもたちはもちろん地域のお年寄りも気軽に立ち寄ってくれたり、自分の畑で採れた大根や人参などを届けてくれたりする、寺子屋のような学習塾なのだ。現実はそんなに牧歌的ではない。加えて残りの人生に思いをはせると、この先10年後も学習塾の教室長のままでいる自分とかは考えられなくて、揺れ惑っている最中だという。

【地域と子どもとを結び付けられないか?】
そんな矢先の2018年3月5日の新聞報道で〈名古屋市立小学校の部活動を全面的に2021年3月をもって廃止する〉ことを知った今井さんは、その報道を目にして閃いたという。これは学校が考えることではなくて、地域全体の課題として考えてゆく問題ではないか? 自分が地域に対して何か貢献出来ないだろうか? 地域と子どもたちとを結び付けられないかという、約30年前の想いがまた蘇って来たという。

【そうはいうものの…】
そうはいうものの日々の生活はして行かねばならない一方、学習塾は忙しいのでとても市民活動に関わったり、中心になって考えたりする余裕がないのだ。加えて今井さんは器用ではないので、関わるならばどちらかにどっぷりと浸かりたいタイプだという。学習塾をすっぱりと退職することも視野に入れてはいるが、まだ自分の中でどういう組織を作り、どういう活動をしてゆくのか五里霧中なのだそうだ。ご家族とも相談している最中だという。

【そもそもなぜ名古屋市は小学校の部活動が廃止にするのか?】
名古屋市が小学校の部活動を廃止するそもそもの要因に、教職員の激務がある。法律上では教員にとって部活動の顧問をすることは義務ではなく、好きな人が担当することになっている筈なのだが、実情は学校側から割り振られて担当をせざるを得ないところがあるそうだ。それに加えて2020年から小学校の履修科目が変わり、それに伴って教科書も大きく変わる。それに対応した指導要綱も作らなければならず、ただでさえ激務なところに持ってきて、更に教員への負担が増大することになるのだ。巷では『働き方改革』が言われている昨今なので、部活動は廃止にするという判断を名古屋市は下したのである。部活動を廃止するとはいっても、まるごと廃止にするわけでもない。外部指導員が確保出来るのであれば、現状通り続けても構わないという形なのだとか。但し、2018年時点で名古屋市の中学校261校の内、外部指導員を確保しているのは13校しかないということで、非常に難しいとの見方もある。これをどうクリアして行くのかが課題だと今井さんはいう。

【保護者側は部活の存続を望んでいる】
その一方、保護者からは「部活の存続」を望む声が多く、アンケートによるデータによれば9割の保護者が部活動の存続を望んでいるらしい。その背景にあるのは部活動の意義でもある〈教育格差の解消〉が挙げられるという。家庭には様々な事情があり、部活動が廃止になっても教育費をかけられる家庭は地域の体操クラブに入ったり、いろいろな稽古事もしたり出来るけれど、そんな余裕がない家庭の子どもたちは部活がなくなると、学校の勉強以外で取り組むことがなくなってしまう。〈コミュニケーション能力の醸成〉も部活動の意義であろう。部活というのは先輩や後輩がいて、何かひとつの目標に向かって部員同士が話しあいをして一丸となって取り組んでゆく。つまり部活動を通して社会生活の基礎が学べるのだが、それがなくなる弊害も懸念されているのだ。次に部活動というものは日頃のストレスや鬱憤などを解消していた側面もあり、それが廃止されてしまうと暇を持て余し、よからぬ方向に行ってしまうのではないか。〈非行防止〉の側面からの懸念である。また、教育格差の解消とは逆の意味で存続を望む声もある。勉強は出来なくてもスポーツが得意だったり、文才があったりするとそれなりに一目置かれる存在になれるからだ。現在プロスポーツで活躍しているアスリートたちも、小学生の頃に何気なく入った部活で開花したので、部活動は必要だと言っているとか。

【今井さんが現在考えていること】
そういう状況にありながらも、昨今の学校から帰宅後の子どもを取り巻く環境を今井さんなりに整理してみると、1.遊びや活動が出来る場。2.学習が出来る場。3.交流が出来る場。4.食事が出来る場。そして5.小学校の部活動へ指導員の派遣が必要になってくるのではないかという。今井さんは現在これらを網羅した組織が出来ないかと考え始めているところだ。ただ、それぞれに実施主体があり、遊びや活動が出来る場に関して言えば学童保育、トワイライトスクール、トワイライトルームなどがある。学習が出来る場に関しても学習塾、フリースクール等々がある。交流に関しては子ども会などの地域組織やNPOなどの活動団体が、食事は子ども食堂等が実施している。指導員派遣に関しても新たに名古屋市が作るらしい人材バンクや、任意団体、株式会社などがそこに参入してきているそうだ。それら既存で活動している団体と折り合いをつけて行うのか、どこかの組織に入るのか、それらとは関係なく、ひとつの組織を作ってしまうのか、それは検討課題でじっくりと考えてやって行きたいという
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