隊員NO.6ちーろで~す(^_^)v
橋立町の加佐ノ岬には、地元の方々がとても大切にしている貴重な史跡があります。
それは、1183(寿永2)年6月1日の篠原での源平合戦にかんするもので、
加佐ノ岬にある旧木曾街道の近くに、「篠原合戦戦死者埋葬地」と書かれた石碑が立っています。
1183(寿永2)年の春、平家は西日本の武士を総動員して、木曾義仲軍を討つために北陸に進行しました。
しかし、木曾義仲軍の勢力はすさまじく、越中の今の高岡市で平家の先陣を破り、倶利伽羅峠での夜襲に
成功し、加賀の安宅や篠原の戦いに圧勝しました。
平家一門の都落ちは篠原の戦いのわずか1ヶ月余り後のことでした。
篠原の戦いで一騎踏みとどまって手塚太郎光盛に討たれた老武者斎藤別当実盛が白髪を黒く染めていた
という物語は、武士の哀れを今に伝えています。
当時の加賀海岸は、今に比べてとっても海岸の浜が広かったといわれています。だから、木曾義仲軍を討とうと
平家が背水の陣をここでひいたのでしょう。しかし平家軍はすでに戦意が喪失し交戦能力がなく、
ほとんど無抵抗のまま大敗します。そしてここ加佐ノ岬には累々平家の戦死者の亡骸がならんだといわれています。
大正時代、ここ加佐ノ岬は、篠原の戦いの犠牲者がたくさん眠っているにもかかわらず、自然石が
積み上げられているだけの状態でした。
そこで、当時金沢にあった第九師団の神尾光臣(かみお みつおみ、1855~1927年)中将が発議し、
有志と謀って標石を建て、「篠原合戦戦死者埋葬地」という石碑を建てたのだそうです。
そこに刻まれた文字は今はとても読みづらくなっていました。
この神尾光臣中将は、中国語に堪能で中国問題の専門家であり、日清戦争では清国への降伏勧告書を作成した
といわれる人です。第1次大戦でドイツの租借地膠州湾を攻撃したときに最高司令官を務め、青島を陥落させました。
1915(大正4)年には大将に進み、男爵の位も受けています。娘の安子は作家の有島武郎の妻となっています。
今回の課題研究で、これまで知らなかった加佐ノ岬の歴史を新たに学ぶことができました。