隊員NO.1あさので~す(^_^)v/
1689(元禄2)年8月1日(新暦9月14日)、松尾芭蕉が山中温泉に逗留して5日目。
この日芭蕉は、黒谷橋に出かけました。この黒谷橋は山中温泉から山越えして、那谷寺に通じる
黒谷越え道にあり、当時は木造でした。
いまも美しい黒谷橋周辺の鶴仙渓の景色を、芭蕉は近くの平岩に座ってながめました。そして
目の当たりにこの絶景を見た芭蕉は、手をたたきながら、こう叫んだそうです。
「此川のくろ谷橋は絶景の地なり。行脚(あんぎゃ)のたのしみここにあり」
←芭蕉堂
ですから、いまの黒谷橋の欄干には上のような陶板が飾られています。
1910(明治43)年10月、正風俳諧最後の俳人といわれる渡辺萎文(いぶん)は、全国の同士に呼びかけ、
ここ黒谷橋のたもとに「芭蕉堂」を建てました。萎文は堂を建てるのなら芭蕉が「絶景なり」と叫んだ
ここ黒谷橋しかないと考えたようです。
「芭蕉堂」の前には、石碑があり、次のように刻まれています。
たぐいまれな足蹟を残して芭蕉翁が、かつて奥州からの帰途、北枝と曾良を伴ってやって来た。
山中の温泉に数日くつろぎ、山中問答を著す。黒谷の勝地にあり。奇岩層列にして、流れる水は渕に
たまり、その間に橋が架っている。ここを翁、徘徊賞心して、盤蛇石という坐りやすき石に坐して
きん然と拍手して曰く。「雲に遊ぶこの楽しみ、まさにここにあり」と。
山中の名は、翁によって有名となり、はや二百有余年になる。山河は当時のままであるが、人の世の
出来事だけが日々変っている。その中でただ正風のみが輝いている。凡(おおよそ)翁の足蹟や
堂宇樹石などは、永く滅びないことを乙い願うものであるが、この地に一つ欠けたものがあると思われる。
それであるから、萎文久しく全国の同志に呼びかけて、芭蕉堂を創建した。
これは実に明治43年10月の事である。のち、この堂で遊ぶ者は、芭蕉来遊の当時をしのび、
風流を聴き、渓を聴き、林恍(りんこう)を聴いて拍手し、世のわずらわしさに思いなげかず、
また萎文等を尊ぶ者の志を、長く伝えるべきである。
明治43年10月 五香屋休哉嘉撰(ごこうやきゅうさいかせん)
渡辺萎文 謹著
ちなみに渡辺萎文(いぶん)は、1841(天保12)年、金沢城下上材木町で10代続いた
酒造業・柄崎屋渡辺太兵衛の3男として生まれた人です。 大きな器量の持ち主で、外国貿易をこころざし、
2度アメリカに渡ったといいます。また仮名垣 魯文(かながき ろぶん)と共に「我楽多文庫」を発行し
情歌や戯曲も書きました。
いま、「芭蕉堂」は山中温泉を訪れる人々の多くが尋ねる観光スポットになっています。
(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)