隊員NO.5あやかで~す(^_^;)/
加賀市観光ボランティア大学第13回講座 「『奥の細道』-芭蕉と山中温泉-」で、講師の西島明正先生
から教えていただいたことをご紹介します。
松尾芭蕉が山中温泉に到着したのは、1689(元禄2)年7月27日16時30分頃のことです。
小松で3泊4日を過ごし、多太神社で「むざんやな甲の下のきりぎりす」とよんだ芭蕉は、
この日、祭礼が行われていた小松の菟橋(うはし)神社を参詣した後、河合曽良、立花北枝と一緒に、
串茶屋→動橋→庄→山代→二天を通って、山中温泉にやってきたものと思われます。
『奥の細道』では、このとき那谷寺に立ち寄ったようになっていますが、実際は山中での滞在を終えた後、
那谷寺に行っています。現に串茶屋で、魚を焼いたにおいがするというような句も詠んでいます。
山中温泉では、湯ざや(共浴場)の周りに宿を構えていた湯本十二軒の一つ泉屋に逗留しました。
この当時、山中には湯ざやの周りに42軒もの宿舎がありました。
泉屋は、現在の北國銀行山中支店の前にありました。今、そこには「芭蕉逗留泉屋の跡」の石碑があります。
翌7月28日、朝からゆっくりと湯につかって疲れを癒した芭蕉は、夕方薬師堂(医王寺)や町辺を歩いています。
芭蕉はきっと医王寺下の楊弓場(ようきゅうじょう)や山中漆器の木地引き物を見物したことでしょう。
芭蕉は泉屋当主の久米之助に温泉頌(しょう)の懐紙を書き与え、山中温泉のすばらしさを讃えています。
北海の磯づたひして、加州やまなかの湧湯に浴ス。里人の曰、
このところは扶桑三の名湯の、其一なりと。
まことに浴することしばしばなれば、 皮肉うるほひ、筋骨に通りて、
心神ゆるく、偏に顔色をとどむるここちす。
彼桃源も舟をうしない、慈童が菊の枝折もしらず。
やまなかや 菊はたおをらじ ゆのにほひ はせを
(日本海の磯づたいに旅して、今やっと山中の湯に浴している。里の人が言うには、山中の湯は、
日本三名湯の一つであると。なるほど何度も浴していると、体の皮肉がうるおい、筋骨まで湯がしみ
わたって、心はゆったりとくつろぎ、顔の色もつやを保つ心地がする。極楽のような所であるから、
わざわざ桃源郷へ行くための船を仕立てるまでもなく、またこの湯に入っていると寿命も延びるようで、
中国の故事にある菊慈童は、菊を手折ってその花の露を飲んで、長寿延命を保ったというが、
その必要もあるまい。)
松尾芭蕉は、山中の湯を最大限の賛辞でたたえたのです。
(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)