隊員NO.1あさので~す(^_^)v/
加賀市観光ボランティア大学で、講師の西島明正先生から教えていただいたことを、
先生の著書『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきながら、ご紹介しています。
1689(元禄2)年8月4日(新暦9月17日)、芭蕉が山中温泉を去る前日です。
前日の夜から降り続いた雨は、朝にはやみましたが、午前9時頃からふたたび雨模様になりました。
この頃、腹痛が激しくなった曽良は、芭蕉の足を引っ張るのを心配して、一足先に伊勢に旅立つ決意を
したようです。芭蕉はそのことを知り、立花北枝と三人で曽良への餞別として、歌仙を巻くことにしました。
この歌仙を収録した『やまなかしう』には、他にはあまり見られない芭蕉の評語や添削の跡が残されていて、
芭蕉を研究する上で、大変貴重なものになっているそうです。芭蕉の山中での足跡ってとっても大切なのですね。
さて、河合曽良(1649~1710年、蕉門十哲の一人)という人は、深川芭蕉庵の近くに住んでいて、
芭蕉のお気に入りの弟子だったようです。曽良は誠実で几帳面な性格だったようで、江戸にいる時から芭蕉の
身の回りの世話をしていました。そして「奥の細道」の旅における芭蕉の秘書的役割をこなしています。
「奥の細道」は紀行文といわれるもので、物語をスムーズに進めるために日にちが前後しているところがあったり、
現実にあったことをやや飛躍させるフィクションが書かれていたりします。
そこで、芭蕉を研究される方々は、曽良の綴った旅日記「奥の細道随行日記」と呼ばれる手控えを参考にし、
史実を明らかにするのだそうです。この日記が発見されたのは、意外と新しく昭和18年のことです。
この日記により、奥州行脚における実際の日付・天候・旅程・宿泊その他の芭蕉の動静がわかったり、
『おくのほそ道』と比較することによって、芭蕉の制作意識を探求することができます。
じつは、「奥の細道」と曽良の日記とでは、江戸深川をスタートした日にちから違っているそうです。
「奥の細道」では3月20日となっていますが、曽良の日記では3月27日になっています。
さて、どちらが本当なのでしょうか?