実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

黒谷橋・「行脚のたのしみここにあり」

2012年10月18日 | 日記

隊員NO.1あさので~す(^_^)v/

1689(元禄2)年8月1日(新暦9月14日)、松尾芭蕉山中温泉に逗留して5日目。

この日芭蕉は、黒谷橋に出かけました。この黒谷山中温泉から山越えして、那谷寺に通じる

黒谷越え道にあり、当時は木造でした。

いまも美しい黒谷橋周辺の鶴仙渓の景色を芭蕉近くの平岩に座ってながめました。そして

目の当たりにこの絶景を見た芭蕉は、手をたたきながら、こう叫んだそうです。

「此川のくろ谷橋は絶景の地なり。行脚(あんぎゃ)のたのしみここにあり」

芭蕉堂

ですから、いまの黒谷橋の欄干には上のような陶板が飾られています。

1910(明治43)年10月、正風俳諧最後の俳人といわれる渡辺萎文(いぶん)は、全国の同士に呼びかけ、

ここ黒谷橋のたもとに芭蕉堂」を建てました。萎文は堂を建てるのなら芭蕉が「絶景なり」と叫んだ

ここ黒谷橋しかないと考えたようです。

 「芭蕉堂」の前には、石碑があり、次のように刻まれています。


芭蕉翁、正風を倡(となえ)、雲の流れに従い各地を遍歴した。

たぐいまれな足蹟を残して芭蕉翁が、かつて奥州からの帰途、北枝と曾良を伴ってやって来た。

山中の温泉に数日くつろぎ、山中問答を著す。黒谷の勝地にあり。奇岩層列にして、流れる水は渕に

たまり、その間に橋が架っている。ここを翁、徘徊賞心して、盤蛇石という坐りやすき石に坐して

きん然と拍手して曰く。「雲に遊ぶこの楽しみ、まさにここにあり」と。

山中の名は、翁によって有名となり、はや二百有余年になる。山河は当時のままであるが、人の世の

出来事だけが日々変っている。その中でただ正風のみが輝いている。凡(おおよそ)翁の足蹟や

堂宇樹石などは、永く滅びないことを乙い願うものであるが、この地に一つ欠けたものがあると思われる。

それであるから、萎文久しく全国の同志に呼びかけて、芭蕉堂を創建した。

これは実に明治43年10月の事である。のち、この堂で遊ぶ者は、芭蕉来遊の当時をしのび、

風流を聴き、渓を聴き、林恍(りんこう)を聴いて拍手し、世のわずらわしさに思いなげかず、

また文等を尊ぶ者の志を、長く伝えるべきである。

 明治43年10月                五香屋休哉嘉撰(ごこうやきゅうさいかせん)

                            渡辺萎文 謹著

                            

ちなみに渡辺萎文(いぶん)は、1841(天保12)年、金沢城下上材木町で10代続いた

酒造業・柄崎屋渡辺太兵衛の3男として生まれた人です。 大きな器量の持ち主で、外国貿易をこころざし、

2度アメリカに渡ったといいます。また仮名垣 魯文(かながき ろぶん)と共に「我楽多文庫」を発行し

情歌や戯曲も書きました。

いま、「芭蕉堂」は山中温泉を訪れる人々の多くが尋ねる観光スポットになっています。

 (ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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山中の情景・いさり火にかじかや波の下むせび

2012年10月18日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^_^;)/

←芭蕉堂

山中温泉はその名が示すとおり四方を山に囲まれたとても美しい山あいの温泉街です。

この山中温泉には、山中八景とよばれる名所があります。それは、「医王寺」・「富士写ヶ岳(ふじしゃがだけ)」

「こおろぎ橋」・「黒谷橋」・「道明淵(どうめいがふち)」・「高瀬」・「桂清水」・「采石巖(さいせきがん)」の8つです。

江戸時代の文政年間に山中に来た漢学者大窪詩仏(おおくぼしぶつ、1767~1837年)が撰しました。

松尾芭蕉は、山中逗留3・4日目の1689(元禄2)年7月29・30日(新暦9月12・13日)の2日にわたって、

山中八景の一つとなる「道明淵(どうめいがふち)」を訪れています。この淵は大聖寺川でもっとも深い淵と

いわれています。その昔、ここには大蛇がすみ、里人を困らせましたが、道明と名乗る者がこれを退治したという

伝説があります。芭蕉が来た頃には、ここに丸木面付きの三本並び投げ渡しで、長さ約4.5mの

橋があったそうです。

←昭和初期の山中温泉

芭蕉はこの頃、夜にこおろぎ橋の上流・「高瀬」付近にも出かけました。そして、近くの里人が漁り火で

魚を追っている光景に接し、一句よみました。

いさり火にかじかや波の下むせび

(清流の小石に身を伏せているかじかを漁り火で追っているのであろう。さやさやと聞こえてくる瀬の音は、

かじかがつかまるのを怖がって、川底でむせび鳴いている声であろうか。)

この句でよまれている「かじか」は、”むせび”という一字からみても、鮎やウナギではなく、小エビかゴリで

あっただろうといわれています。

たいまつの火で魚を追う里人、じっと川の底にかくれているかじか。当時はごくありふれた情景だったのか

もしれませんが、芭蕉が句にすると、美しい一場面として目の前にあらわれてきますよね。

 

(ブログ作成にあたっては、西島明正著『芭蕉と山中温泉』を参照させていただきました)

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