きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

愛を知っている人は、どこにいるのですか。

2012年02月08日 | 羊、朝の一声
今朝のリビングライフのエッセイがグサリと心にきました。

アフガニスタンで、教護団体所属の医師として働いている日本人女性がいました。彼女は献身的な愛をもって、子供たち、人々に仕えており、それを見たクリスチャンは彼女にぜひ福音を伝えたい、と声をかけました。クリスチャンも数ヶ月、祈りつつ、彼女が神様を知るその時を待ち望んだ末の伝道の時でした。しかし、福音を静かに聞いた後、その女性は言いました。

「聞きたいことがあります。ここにいる人たちは、地獄のような日々を過ごしているのに、天国に行くという人々は、今どこにいるんですか。私は、自分自身を危険にさらしてでも彼らを助けようと思います。でも、永遠のいのちを持っているという人々は、どうしてここには来ないんでしょう?ここで死ぬのが恐いのでしょうか。私みたいな人は、同情だけでここまで来て、いのちをかけて彼らを助けようとしているのに、全世界への愛を持っているという人々は、今どこで何をしているんでしょう。」



今週の英語礼拝で、田中牧師からも、神様の最も大切な命令として「GO OUT! 全世界に出て行きなさい。」ということを語れました。「神の愛を持っているというあなたは、今どこで何をしているんでしょう。」この問いかけを心で、霊で受け止めて動き出したいと思います。厳しい言葉で問いかけてくれた医師の方の真の救いのためにも、またこのことを直接聞いて心を痛め、でもしっかりと証として私たちを励ましてくださったクリスチャンの方の働きのためにも。





イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイ8:18-20)

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける (マルコ16:15-16)


後悔トップ5

2012年02月07日 | 羊、朝の一声
ウェブサイトに気になるニュースを見つけました。タイトルは、ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5


人生最後の時を過ごす患者たちの緩和ケアに数年携わった、オーストラリアの Bronnie Ware さん。彼女によると、死の間際に人間はしっかり人生を振り返るのだそうです。また、患者たちが語る後悔には同じものがとても多いということですが、特に死を間近に控えた人々が口にした後悔の中で多かったものトップ5は以下のようになるそうです。
 
1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
「他人に望まれるように」ではなく、「自分らしく生きれば良かった」という後悔。Ware さんによると、これがもっとも多いそうです。人生の終わりに、達成できなかった夢がたくさんあったことに患者たちは気づくのだそう。ああしておけばよかった、という気持ちを抱えたまま世を去らなければならないことに、人は強く無念を感じるようです。
 
2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
男性の多くがこの後悔をするとのこと。仕事に時間を費やしすぎず、もっと家族と一緒に過ごせば良かった、と感じるのだそうです。

3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
世間でうまくやっていくために感情を殺していた結果、可もなく不可もない存在で終わってしまった、という無念が最後に訪れるようです。
 
4. 「友人関係を続けていれば良かった」
人生最後の数週間に、人は友人の本当のありがたさに気がつくのだそうです。そして、連絡が途絶えてしまったかつての友達に想いを馳せるのだとか。もっと友達との関係を大切にしておくべきだった、という後悔を覚えるようです。
 
5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」
「幸福は自分で選ぶもの」だと気づいていない人がとても多い、と Ware さんは指摘します。旧習やパターンに絡めとられた人生を「快適」と思ってしまったこと。変化を無意識に恐れ「選択」を避けていた人生に気づき、悔いを抱えたまま世を去っていく人が多いようです。
 
以上、どれも重く響く内容でした。これを読んで、あなたは明日からどう過ごしますか。(文=阪井亮太)
参照元: the guardian (http://goo.gl/WDVAR)



で、終わっていてはいけないんです!誰しも後悔することはあるでしょう。上のどの後悔も、多かれ少なかれ、身につまされるものがあります。でも後悔で終わってしまっては、何も解決しません。そこに希望はありません。だからこそ、後悔ではなく、救いの希望へと導かれる「悔い改め」が必要なのです。

このトップ5は、すべて「どう生きるか」という問いに真摯に向き合わなかったことに端を発しているように思います。「どう生きるか。いかに生きるか。」この答えを最期の時まで保留にしているなら、「後悔」することは間違いありません。神様はあなたが「生きる」ことを今、心待ちにしていらっしゃるからです。その答えを今すぐ探し出してください。求めるものには、必ず与えられる、それが神様の約束の言葉です。


その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(Ⅰコリント5:15)


写真は、地獄の門と考える人。

あなたの人生と神様

2012年02月06日 | 羊、朝の一声
多くの人は、神様の存在を信じていない。それは、自分の人生に神の介在があることを信じていないからだ。


えんぢぇる牧師のメッセージ中にあった“名言”(by MU)です。あ、そうか、と思いました。同志社大学を創立した、新島襄は、聖書の最初の言葉、「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)で神様の存在を知ったそうです。その後、天地を創造された神が、自分と自分の人生をも創ってくださったことを知り、クリスチャンとなりました。

「神」と呼べるような絶対的なパワーや霊性は認めている人はいるでしょう。アミニズムから来る「○○の神様」はイヤだけど、目に見えない「力」は信じる。これは!先日、中川健一牧師がアミニズムの神について、こう仰っていました。「『○○の神様』って、つまり何かはできても何かはできない、ということ。できないことがあるものを神とすることは、僕には理解できなかった。神は全能な方であるはず。」というようなこと。その通りだと思います。

ただ、目に見えない「力」が自分やその人生にどう関わっているか、このあたりが曖昧になってしまうのが世の常。聖書の神様は、人格(正確には神格)を持ち、聖書の言葉から取り上げると「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブル4:15)方です。それは、「私」の弱さ、苦しみを知るためでした。他の誰かのためだけでなく、また曖昧な一般的な言い回しでもありません。「私」のためであり、ほかならない「あなた」のためです。

私もかつては、「人となってこの地上にいらした神」という部分にひっかかりを覚えていました。でも、それがほんとうかどうか、真理であるのかどうかを知りたいと思い、聖書を「私に宛てて書かれた神様からの言葉」として読み始めた時、神様を知りました。神様が私の人生をどれほど大切に思っていてくださるかを知りました。

神様はすべての人の人生に介在してくださっています。知ろうと知るまいと。えんぢぇる師が語ったように、「死んだらわかる」のです。でも、死んでからわかっても遅いのです。神様は間違いなく、あなたの人生に関わっています。そのことを確かめたい方、ぜひ教会へいらしてください。また、えんぢぇる田中のメッセージをお聞きください。質問はいつでも大歓迎です。


だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。




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インマヌエルの祝福

2012年02月05日 | 羊の声
今日は、渡米中の田中啓介牧師のメッセージでした。タイトルは「インマヌエルの祝福」。

キリスト者となった時(イエス様を主と信じた瞬間!)にいただける7つの祝福と、「イエスを主」とする聖霊様の力についてのメッセージでした。久々のアプリケーションタイムもあり、緊張しながらもすばらしい分かち合いの時となりました。主であるイエス様に感謝します。

まず7つの祝福は、
 神様の子、イエス様の共同相続人となる。
 聖霊様が内住し、永遠の命をいただく。
 天使の守りがある。
 悪(サタン)の支配から解放される。
 霊の目が開け、神様の知恵により真理、また自分の使命を知る。
 祈りが聞かれる。
 インマヌエルの祝福を受ける。


今日、心に響いたのはタイトルにもなっている第七の祝福について。

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(Ⅰコリント12:3)

これは、当時、人の命すら掌中に握るローマ帝国に対し、「私の主は、ローマ皇帝ではない!イエス・キリストこそが私の唯一の主だ。」と命の危険を冒して宣言する聖霊様の力のことを言っているそうです。時代はますます悪くなっています。今後、私たちも迫害や棄教の危険が皆無ではありません。その時、「イエスが主です!」と言い切ることができるでしょうか。

今日2月5日は、日本で26人の殉教者が十字架に付けられた日の記念です。(昨年の同日ブログ記事参照。)今日もそのお話も一部お証しされましたが、それは聖霊様の力をいただかないと、私自身の力では無理だと語られました。もちろん、そうです。では、今、私がすべきことは、「イエス様を主とする」こと。そしてインマヌエルの祝福に与ること。神様は私の人生を予め計画し、いつも私と共にいてくださる、そのことをはっきりと教えられたメッセージでした。それを今日も明日も、聖霊様の力に頼って、主と共に生きていこうと思っています。




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ほんとうの愛を見分けるテスト

2012年02月04日 | 羊、朝の一声
3日連続、同じ御言葉から教えられたことですが、今日はリビングライフのエッセイから。


だれかに対する自分の愛の深さを測ってみたいと思う時、次の質問を自分に投げかけてください。

「その人が失敗した時、あなたはどんな気持ちがしますか。心から悲しむことができますか。それとも、心の中で喜んでしまいますか。」

泣く者と一緒に泣き、喜ぶものといっしょに喜ぶなら、あなたの愛は真実です。



喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

喜ぶ人と共に、泣く人と共に。

2012年02月03日 | 羊、朝の一声
昨日はせっかくローマ12:15の御言葉をいただいたものの、非常に個人的な内容になってしまったこと、少し反省しています。この御言葉では、こんな個人的なことでなく、忘れられないメッセージがあるのです。ラルストン・ヤングさんのお証しです。今日はそれをシェアしたいと思います。


 まだ人種差別が色濃く残っていたその時代、貧しい家庭に生れ育ったラルストン・ヤングさんは、子供の頃から教会に通い、勉強熱心で、大学でも優秀な成績を修め、将来は牧師になりたいと願っていた。しかし、経済的な理由から、神学校へ行くことは出来ず、卒業後は、今迄の勉強の成果を生かした職業を捜し求めていた。書類審査で快い返事をもらって喜び勇んで面接に赴くと、どの担当者も彼を見た途端に態度を変え、慇懃に応対し、入社を認めてくれる会社は一つもなかった。彼が黒人だったからからである。結局、彼がようやく得ることのできた仕事は、ニューヨークのグランドセントラルステーションでのお客の荷物運び。そこで彼は『42番の赤帽』と呼ばれた。

 社会に一歩を踏み出した若きヤングさんは失望した。就いた仕事に、どうしても自分の生き甲斐を見い出すことが出来なかったのである。次第に仕事に対する態度も投げやりになり、苦々しい思いを抱きつつ、幾つかの季節を過ごした。そんなある日、彼は、一つの聖書の御言葉に目を留めた。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマ12:14-15)

 「自分が本当になりたかったのは牧師だった。牧師の仕事は、教会に来ている人たちを励ますことだ。でも自分は・・毎日々たくさんの人たちと会ってるじゃないか。今の生活でも、人を励ますことが出来るじゃないか。それこそ、自分が目指していた仕事じゃなかったのか・・・」そう思ったヤングさんは次の日から、会う人、会う人に励ましの言葉をかけ、心の中で彼らの祝福を祈るようになった。たとえ自分を奴隷のようにしか扱わないようなお客であっても。

 そんなある日、彼の前に一人の車椅子に乗った老婦人が現われた。ふと見ると、彼女は肩を落とし、何だか悲しみに打ちひしがれている様子だった。ヤングさんはいつものように彼女の祝福を心の中で祈り、何とかこの老婦人を励まそうと彼女に話しかけた。

 「今日はまた随分と素晴らしく綺麗なお召し物じゃないですか!とても素敵ですよ。よほど高価なものなのでしょうねぇ。それともどなたからの贈り物ですか。いやいや、美しい!」

 老婦人はいきなり見知らぬ黒人の赤帽に話しかけられ、当惑した様子だったが、彼は明るく声をかけ続け、祝福を祈りながら彼女を見送った。それから一年ほど経った頃、一人の40歳ぐらいのこざっぱりとした身なりの女性が、ニューヨークのセントラルステーションで働いている42番の赤帽さんは誰かと訪ねて来た。

 「あなたが42番の赤帽さんですか?」

 「はい、そうです!」

 「一年ほど前、あなたにご親切にしていただいた車椅子の老婦人のことを覚えていますか?」

 「え~~と、そうそう、あぁ、あの上品な車椅子のご夫人、覚えていますよ!」

 「あの人は私の母なんです。」

 「へぇ!そうだったんですか!?」

 「はい。実は母は先日、天に召されました。母はあの日ニューヨークから帰ってきてから亡くなるまでずっと、ニューヨークの駅で会った42番の赤帽さんに、とても親切にしてもらったことを、自分が会う人、会う人に、繰り返し語っていました。そして母は死ぬ少し前に、もしニューヨークに行くことがあったら、是非、あの赤帽さんにお礼を言っておくれ。と、私に言い残したのです。それで今日、私は母の代わりに、あなたにお礼を申し上げに来ました。母の最後の一年は、あなたのおかげで、とても幸せだったと思います。本当にありがとうございました。」

 ヤングさんは思いもかけぬ彼女からのお礼の言葉に驚き、神様の深い導きと恵みを知って心から感謝した。そして、いつしかこの話は広く人々に知れ渡るようになり、彼は多くの教会でこのセントラルステーションでの出会いを語るようになった。そして今日、時空を越えて、ロサンゼルスにあるこの日本人教会でも、ヤングさんの愛の証しは語られ続けている。愛は決して消えることはないのである。



 人を愛するということは、感情や理性ではできません。「あ、あの人ステキ!私、彼のこと愛している!!」というのは実は愛ではありません。感情に揺り動かされた自分の望み、嗜好性、あまりよい言葉ではありませんが、肉欲の一部です。人を愛すること、そしてその前に神様を愛することをを選び取る“意志”をもって、愛は始まり、育って行きます。だからこそ、私たちは、自分が生かされている神様の目的を知り、神様と人とを信じ愛し合うことを今日も、また今も再び決心します。真実の愛こそが福音の本質であり、人間が真に人間らしくある資質を磨き上げていくためのエネルギーの源なのですから。

ペンギンせっけん

2012年02月02日 | ペンギンコレクション
お風邪が治りません。。。お祈りお願いします。あー、もうブログも書けない!とヘロヘロになっているところへ、愛する姉妹からステキなプレゼントをいただきました!日本のものって、ほんとうに可愛い!!日本にいるペンギンファンさんは、ご存知かもしれませんが、何せ粗雑なアメリカ在住ですので、この感動をシェアしたい、と思う気持ちをお汲み取りください。

裏の説明書きのぺんぎんさんが、これまた乙なのですよ!ただ、こういうとってもかわいらしいものをいただいて困るのは、一生使えないこと。。。でも、天国へは持っていけないし、せめてこの感動を、数少ないけどこのブログを読んでくださる方々に差し上げたいと願います。そんなもの要らないよ!と言わずに、一緒に喜んでください。折りしも今日のリビングライフはローマ12章でした。




喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマ12:15)

イエスキリストの物語 3

2012年02月01日 | 羊、朝の一声




1ヶ月、毎日投稿できました!というお祝い気分の2月1日ですが、何とお風邪の引きかけです。明日からは、超ハードスケジュールが待っているので、今日はちょっと手抜きでごめんなさい。「ヤイロの娘の癒し」からです。明日はきちんと投稿できるよう、私の癒しもお祈りください。


主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。
 あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。
 あなたをこそ、わたしはたたえます。(エレミヤ17:14)