きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

喜ぶ人と共に、泣く人と共に。

2012年02月03日 | 羊、朝の一声
昨日はせっかくローマ12:15の御言葉をいただいたものの、非常に個人的な内容になってしまったこと、少し反省しています。この御言葉では、こんな個人的なことでなく、忘れられないメッセージがあるのです。ラルストン・ヤングさんのお証しです。今日はそれをシェアしたいと思います。


 まだ人種差別が色濃く残っていたその時代、貧しい家庭に生れ育ったラルストン・ヤングさんは、子供の頃から教会に通い、勉強熱心で、大学でも優秀な成績を修め、将来は牧師になりたいと願っていた。しかし、経済的な理由から、神学校へ行くことは出来ず、卒業後は、今迄の勉強の成果を生かした職業を捜し求めていた。書類審査で快い返事をもらって喜び勇んで面接に赴くと、どの担当者も彼を見た途端に態度を変え、慇懃に応対し、入社を認めてくれる会社は一つもなかった。彼が黒人だったからからである。結局、彼がようやく得ることのできた仕事は、ニューヨークのグランドセントラルステーションでのお客の荷物運び。そこで彼は『42番の赤帽』と呼ばれた。

 社会に一歩を踏み出した若きヤングさんは失望した。就いた仕事に、どうしても自分の生き甲斐を見い出すことが出来なかったのである。次第に仕事に対する態度も投げやりになり、苦々しい思いを抱きつつ、幾つかの季節を過ごした。そんなある日、彼は、一つの聖書の御言葉に目を留めた。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 (ローマ12:14-15)

 「自分が本当になりたかったのは牧師だった。牧師の仕事は、教会に来ている人たちを励ますことだ。でも自分は・・毎日々たくさんの人たちと会ってるじゃないか。今の生活でも、人を励ますことが出来るじゃないか。それこそ、自分が目指していた仕事じゃなかったのか・・・」そう思ったヤングさんは次の日から、会う人、会う人に励ましの言葉をかけ、心の中で彼らの祝福を祈るようになった。たとえ自分を奴隷のようにしか扱わないようなお客であっても。

 そんなある日、彼の前に一人の車椅子に乗った老婦人が現われた。ふと見ると、彼女は肩を落とし、何だか悲しみに打ちひしがれている様子だった。ヤングさんはいつものように彼女の祝福を心の中で祈り、何とかこの老婦人を励まそうと彼女に話しかけた。

 「今日はまた随分と素晴らしく綺麗なお召し物じゃないですか!とても素敵ですよ。よほど高価なものなのでしょうねぇ。それともどなたからの贈り物ですか。いやいや、美しい!」

 老婦人はいきなり見知らぬ黒人の赤帽に話しかけられ、当惑した様子だったが、彼は明るく声をかけ続け、祝福を祈りながら彼女を見送った。それから一年ほど経った頃、一人の40歳ぐらいのこざっぱりとした身なりの女性が、ニューヨークのセントラルステーションで働いている42番の赤帽さんは誰かと訪ねて来た。

 「あなたが42番の赤帽さんですか?」

 「はい、そうです!」

 「一年ほど前、あなたにご親切にしていただいた車椅子の老婦人のことを覚えていますか?」

 「え~~と、そうそう、あぁ、あの上品な車椅子のご夫人、覚えていますよ!」

 「あの人は私の母なんです。」

 「へぇ!そうだったんですか!?」

 「はい。実は母は先日、天に召されました。母はあの日ニューヨークから帰ってきてから亡くなるまでずっと、ニューヨークの駅で会った42番の赤帽さんに、とても親切にしてもらったことを、自分が会う人、会う人に、繰り返し語っていました。そして母は死ぬ少し前に、もしニューヨークに行くことがあったら、是非、あの赤帽さんにお礼を言っておくれ。と、私に言い残したのです。それで今日、私は母の代わりに、あなたにお礼を申し上げに来ました。母の最後の一年は、あなたのおかげで、とても幸せだったと思います。本当にありがとうございました。」

 ヤングさんは思いもかけぬ彼女からのお礼の言葉に驚き、神様の深い導きと恵みを知って心から感謝した。そして、いつしかこの話は広く人々に知れ渡るようになり、彼は多くの教会でこのセントラルステーションでの出会いを語るようになった。そして今日、時空を越えて、ロサンゼルスにあるこの日本人教会でも、ヤングさんの愛の証しは語られ続けている。愛は決して消えることはないのである。



 人を愛するということは、感情や理性ではできません。「あ、あの人ステキ!私、彼のこと愛している!!」というのは実は愛ではありません。感情に揺り動かされた自分の望み、嗜好性、あまりよい言葉ではありませんが、肉欲の一部です。人を愛すること、そしてその前に神様を愛することをを選び取る“意志”をもって、愛は始まり、育って行きます。だからこそ、私たちは、自分が生かされている神様の目的を知り、神様と人とを信じ愛し合うことを今日も、また今も再び決心します。真実の愛こそが福音の本質であり、人間が真に人間らしくある資質を磨き上げていくためのエネルギーの源なのですから。

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