8時半起床。育休最終日だが、育児の対象は家にいないという皮肉。今日は家から出ないと決めている。
朝食は、マクドナルドのデリバリー。久しぶりに食べたマックグリドルは、やっぱり良い具合にジャンキーで美味しい。ただ、デリバリーで注文した際に無料でアップルパイがついてくるキャンペーンは一体いつまでやるのだろうか。アップルパイは好きではないのだが、届けられたらもったいないので無理にでも食べてしまうのだが。
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昼食は、ケンタッキーのデリバリー。クリスマスにケンタッキーが食べたくなったのをずっと我慢していて、ついに今日食べることが出来た。ただ、2連続で脂っこいものを食べたので、胃がもたれている。
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昼前から19時前までぶっ通しで、これまで撮り溜めていた「相棒」シリーズを元旦スペシャルまで一気に観る。
夕食はお茶漬けで済ませる。朝と昼のジャンクフード攻めで胃が悲鳴を上げそうだ。
夜、今度はこれまた撮り溜めていた「科捜研の女」シリーズを観る。やっぱり面白い。残りは今日放送のお正月スペシャルを含めて3話。
冒頭でも書いたが、今日で4月14日からスタートした育児休業が終了となる。せっかくなので、ここで少し振り返ってみたい。まず、育児休業に入る時の意気込みを、当時の日記(昨年4月13日)に私はこう書いている。
今、育休を取るという体験を貴重なものと考えている、という言い方をしたが、私が育休を取得する一番の動機はそこにあるのかもしれないと思う。娘のため、妻の負担を減らすため(脱ワンオペ育児!)、というのももちろんあるが、根本的には、育休の取得も含め、自分が「育児」というものをしっかりと体験してみたいのだ。先人たちの話を聞く限り、それはおそらくめちゃくちゃ大変で、でもめちゃくちゃ幸せな体験なのだろうと予想される。そして、自分のこれまでの常識とか、ルールとか、価値観とか、そういったものが揺らぐのではないかという期待もある。子育てという経験を通して1年後の自分がどうなっているのか、更にはその後もどう変わっていくのか、おそらく良いことばかりではないだろうが、ひとつひとつに向き合って、感じていきたいと思う。
今、わずかばかりではあるが世間一般のお父さんよりは濃密な0歳時育児経験をしたであろう私としては、当時考えていたことの方向性は概ね間違っていなかったと感じている。育児は大変であり、幸せな体験だった。そして、自分の持っていた常識とか、ルールとか、価値観というものが揺らぐ、というか、そういったものを一旦横に置いておかなければならないことが連続する体験だった。赤ちゃんは今を生きることに必死で、とてつもなくか弱い。一方で、自分が生きるべき存在、生かされるべき存在であることを疑わない。もしかすると、人間の生命力が一番強いのは赤ちゃんの頃なのではないかと思えてくる。そんな、絶対的弱者でもあり絶対的強者でもある赤ちゃんという存在と過ごす時間は、本当に特別なものだった。
私たちは基本的にツーオペ育児だったので、ワンオペ育児をしている世間一般のお母さん、お父さんの大変さに比べたら遥かに楽な時間を過ごしたと思う。過去の日記を読んでくださっている方はご存じの通り、1人で出掛けることも自由にできた。特に私は自由な時間をたくさんもらい、謳歌した。私に比べれば少ないが、妻もそうだっただろう。これは本当にありがたいことだった。愛する娘とはいえ、毎日24時間一緒にいなければならないというのは、間違いなく苦しいことだ。更に言えば、夫婦とはいえ、妻と毎日24時間一緒にいるのも苦しいことだ。育児を離れる時間、家族と離れる時間、1人になる時間を持つことは本当に大切だし、それを容易に得られる状況であったことは大きかった。その点については、私より少ない自由時間だったにも関わらず、それほど文句も言わず(多少は言われたが)私を放し飼いにしてくれた妻に感謝したい。
育休中は、基本的に家族以外と接点を持つ機会は少ない。意識しなければ、ほぼゼロにすることだって可能だ。しかし、社会との接点を持ち続けることは絶対に必要だと私は思う。具体的に言えば、家の外に出て人とコミュニケーションを取ることが重要だ。人と話をするということに限らず、道で向こうから歩いてきた人とうまくすれちがうとか、行列に並ぶとか、電車に乗るといった本当に些細なこと、一般的にはコミュニケーションとは言えないようなことでも構わない。とにかく、積極的に外へ出て、知らない人たちと同じ空間で過ごすということが必要なのだ。
働いている人に関しては、会社(勤務先)との接点を失わないことも重要だ。私の場合、これは本当にありがたいことなのだが、会社の皆さんがかなり気遣ってくれて、総務の先輩は月刊の会社報を送ってくれる際に毎回ちょっとしたお手紙を添えてくれる(私はそれに社内のグループウェアで返信する)し、上司も、先輩も、後輩も、良い意味で遠慮なくイベントや飲み会に誘ってくれる。おかげで、復帰するにあたって「居場所はあるんだろうか」的な不安は全くない。これは、本当にありがたいことだと思う。育休取得を応援、フォローしてくださった職場の皆さんには、心から感謝している。
価値観の変容という視点でいくと、ひとつ大きく考えが変わったことがある。私は大学でフェミニズムを学び、フェミニストを自称していながら、心のどこかで専業主婦を馬鹿にしてきた自覚がある。経済的に他人に依存して、その相手なしには生きられないなんてリスキーな生き方はすべきでない。経済的な依存は支配されることに等しい。自覚しようがしまいが、両者の間に圧倒的な権力差が生まれる。相手のことが嫌いになっても、相手とは目指す未来が異なることに気付いても、万が一DVを受けるようなことになったって、簡単には逃げられない。家庭が地獄と化すなんてよくあることなんだから、と。
正直なところ、今でもそう思っている。妻にも「いつでも俺を捨てられるように、(今の仕事に限らず)何かしら自分で自分を食べさせられるだけの仕事は確保しておいたほうがいい」とお願いしているし、娘にもそういう教育をするだろう。しかし、このわずかばかりの子育て経験を通して、専業主婦を馬鹿にする気持ちは消えた。むしろ尊敬するようになった。家族全員分のご飯を作り、洗濯をして、掃除をして、買い物にも行かなければならない。小さい子どもがいれば目が離せないし、突発的なイベント、トラブルも出てくる。しかも、どのミッションも、自分がやりたいようにはやれない。料理ひとつ取ったって、家族それぞれの嗜好や健康状態、必要な栄養素、前後数日のメニューとのバランスに、調理時間や予算の問題もある。身体を動かすだけでなく、考えなければならないことがたくさんあるのだ。とんでもない仕事量である。これが無償奉仕だなんて。大学で勉強した「不払い労働」という概念が、その言葉を生み出した女性たちの怒りが、今になってようやく理解できた。専業主婦はのほほんとお気楽に家事・育児をこなしているのではない。日々歯を食いしばって立ち向かっているのだ。
振り返ってみると、妻と2人での育休というのは、今更ながらとてつもなく恵まれていた、楽をさせてもらった、と思う。しかしそれでも、育休中の生活に比べたら会社に行って仕事をしているほうがよっぽど楽だった。仕事のやり方、時間の使い方を自分でコントロールできるのだから。以前、育休明けの先輩が「トイレすら自由に行けないとは思わなかった」と帰還兵のような表情をしていたのも、今ではよくわかる。ほぼツーオペの私ですらそう思うのだから、ワンオペ育児は相当な激務だっただろう。
最後に、つくづく子育てというのは高貴な娯楽だと思う。それなりのお金とかなりの時間に体力まで揃っていないと続かない。しかも、少なくとも20年は続く娯楽だ。いや、子育ては一生続くという人もいるから(確かに、独り立ちしても親にとって子どもは子どもだろう)、一生ものの娯楽なのかもしれない。それでいて、育てた我が子が幸せな人生を送れるかはわからないという壮大なギャンブルでもある。馬券は外しても笑えるが、こっちで大きく外したら本当に笑えない。まあ子育ての場合、何が当たり(成功)で何が外れ(失敗)かを定めることさえ難しいわけだが。
こんな具合に頭に浮かんだことを羅列させてみた。まとまりはないし、言いたいことの一部しか言えていないような気もするが、とりあえず長くなり過ぎたのでこれくらいにしておこう。
さて、明日からは仕事だ。心機一転、今度はお父さんサラリーマンとしての新しい生活が始まる。何となくだが、これもまた刺激的な体験になりそうな気がする。