第50代「桓武天皇」(すめらぎのみこと)は「律令政治」の再建をはかり、積極的な政治改革を行いました。
京都に遷都した、第50代「桓武天皇」
「国司」(こくし)に対する監督強化のため、「勘解由使」(かげゆし)を設置し、「雑徭」(ぞうよう・民衆の奉仕労働)を半減し、農民の負担を軽くしました。
また「蝦夷」(えみし・蝦夷のこと)の反乱を鎮圧するために、「蝦夷征伐」行いましたが、天下の「徳政相論」(租税の免除)により中止されました。
「桓武天皇」から、第51代「平城天皇」を経て即位した第52代「嵯峨天皇」は、令の規定にならい二つの官職(令外官)を設置しました。
第51代「平城天皇」の御陵(奈良県)楊梅御陵(やまもものみささぎ)
第52代「嵯峨天皇」(中国様式から日本様式に変節した、まさにこの絵像からよく解かります)
一つは天皇の機密文書を管理する「蔵人」(くらんど)で、「蔵人所」が設置されました。「藤原冬嗣」(ふゆつぐ)が「蔵人頭」に任命されました。もう一つは、「検非違使」(けびいし)の設置です。「律令制」政権がこれでほぼ完成されました。これ以降、1200年にわたる、京がこの平安京の始まりです。(だだし、前記のように、実際に政権を担ったのは、平安時代末期までで、平清盛から徳川政権をへて幕末まで、武士政権が始まりますが)
※ 「検非違使」とは京内の警察にあたり、裁判所の業務も司りました。
この「検非違使」は、京都の三代祭「葵祭」にて紹介しています。(平安時代・絵巻が凝縮された、お祭りです)http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120517
「葵祭」の詳細は、この記事をみればよく解かります。
※「すめらぎのみこと」は「天皇」のことを訓読みでいい、「すめらぎ」と言えば、連綿と続いた「天皇」のことです。