京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京」その543)完璧に唐の文化から独立した、「国風文化」その(3)

2013-07-22 00:01:43 | 京の話題

中国(唐)からの影響が、一切に亡くなると和の国、日本の独自の文化が花咲きました。(良かった、良かった)

日本独自の「ひらがな」が全国に広がり、「和歌」が「漢詩」と並んで公の場でもてはやされました。九世紀の後半には「六歌仙」と呼ばれる歌人がうまれました。

平安期の六歌仙

「僧喜撰」(きせん)

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「在原業平」

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「僧正遍照」

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「小野小町」

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「文屋秀康」

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「祇園祭・黒主山の祭神」の「大伴黒主」

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以上のような「六歌仙」が出ました。

前記、「紀貫之」らの編集による「勅撰和歌集」「古今和歌集」が作られました。「古今調」と呼ばれる繊細で技巧的な和風は長い間、和歌の模範とされました。これは、世界に例のない、独自の1「日本国風文化」です。

他にも漆器に金・銀をまきつける「蒔絵」や柔和な書道が発達し、「三蹟」(さんせき)と呼ばれる者が、出ました。

平安時代の「三蹟」(さんせき)

「小野道風」

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「藤原佐里」(すけまさ)

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「藤原行成」(こうせい)

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まさに、「平安時代・藤原時代」の全盛期でした。


京の話題(平安京その542)雅やかな、平安文化の開化(2)

2013-07-20 03:02:10 | 京の話題

平安期に中国(唐)との国交が断絶して、日本独自の文化が発展しました。もしかしたらこの事が無ければ現在でも日本独自の「ひらがな文化」は無かったかもしれません。

日本独自の「国風文化」の特徴の一つは「仮名文字」があります。九世紀頃から「表音文字」として仮名文字が使われるよおうになると、日本人特有の感情を生き生きと伝えることができました。

国文学が発達したし、十世紀には「紀貫之」が最初の仮名書き日記「土佐日記」を著しました。

「紀貫之」

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生き生きと著した「紀貫之」の「土佐日記」(絶対、中国では著わせられない、日本文化です)

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他の日記文字には、「藤原道綱」の母の「蜻蛉日記」(かげろう)、「紫式部」の「紫式部日記」、「和泉式部」の「和泉式部日記」

「和泉式部」

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その他「菅原孝標女」(たかすのむすめ)の「更科日記」があります。

随筆では「清少納言」が「枕草子」を書き、

「清少納言」

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物語では、「紫式部」の有名な「源氏物語」や「伊勢物語」「竹取物語」「宇津保物語」」「落窪物語」(おちくぼ)などが書かれました。

日本文学の、まさに花が開いた時代です。


京の話題(平安京その541)雅やかな、平安文化の開花(1)

2013-07-18 08:51:24 | 京の話題

平安前期(8世紀から9世紀後半)、「嵯峨天皇」「清和天皇」の頃に起こった文化を、それぞれの年号から「弘仁文化」「貞観文化」といいます。

中国の「唐文化」の影響を強くうけていること、「天台」「真言」の密教文化の影響も受けたことが、その特色でした。「遣唐使」の廃止もあって唐の影響が衰え、「国風文化」と呼ばれる文化が栄えました。

貴族の住まいは美しい庭園を取り入れた「神殿造」で造られ、日本の自然などを描いた「大和絵」が起こり、絵と物語から構成される「絵巻物」が作られるようになりました。

「寝殿造」

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平安四代絵巻

「源氏物語絵巻」

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「信貴山縁起山崎長者絵巻」

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「鳥獣人物画」

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「伴大納言絵詞」(ばんだいなごんえことば)

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かえって、中国(唐)の影響がなく、日本の文化が発達した為に、独自の日本文化が確立されました。(逆に、良かったです)


京の話題(平安京その540)いよいよ台頭する、藤原の、摂関政治(5)

2013-07-16 00:37:14 | 京の話題

安和(あんな)2年(969年)「源高明」(たかわきら)は、藤原氏の策謀により左遷されました。「太宰権師」(藤原氏による、他派排除、左大臣・源高明は失脚させられた事件)この事件を「安和の変」といいます。

こえあによって藤原氏は他氏排斥を完了しました。もう、「藤原氏」の天下です。

この結果、当時の関白「藤原実朝」以降、藤原北家から代々、「摂政」「関白」が任ぜられ、常置されrことになりなり、「摂関政治」の確立になりました。

十一世紀前半、「藤原道長」とその子「藤原頼道」の頃、全盛を極めました。

「藤原道長」

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その子「藤原頼道」

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藤原氏一族は朝廷の高い位をほとんど独占し、「荘園」の寄進も集中させました。藤原時代の繁栄が始まりました。


京の話題(平安京その539)平安遷都後の「藤原氏」の摂関政治の始まり(4)

2013-07-14 07:41:11 | 京の話題

九世紀の初め、「桓武天皇」や「嵯峨天皇」は「貴族」を抑え、国政を指導しましたが、その間に「藤原氏」、ときに「北家」が勢力を伸ばしました。前記の「嵯峨天皇」ん0お信任を得て、「蔵人頭」(くろうどのとう)となった「藤原冬嗣」は、皇室と姻戚関係を結び自らも「左大臣」となりました。「これが北家発展の因となりました。

藤原冬嗣、絵

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その子「藤原良房」は「清和天皇」の摂政となqり、「藤原良房」の「藤原基経」は「光孝天皇」の実質上の摂政になり、第59代「宇多天皇」が即位すると正式に「関白」になりました。

「藤原義経」 絵(決してすねてませんョ、昔の貴族はこのような姿が貴賓があるといわれています)

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さらにその子、あの「延喜式」の編纂に関わった「藤原時平」(このおっあさん、物凄いひとですョ)は「左大臣」となり、第59代「宇多天皇」が「藤原北家」を抑えれるために登用されんました。

悪名高い「藤原時平」、しかし第52代「醍醐天皇」に命じられ「延喜式帳」を編纂しました。(現在残っている貴重な神社の格式を残した、古文書です。但し、写本だけですが)「菅原道真」を、ある事無い事で「太宰府に流罪した張本人ですョ。

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「右大臣」の有名な「菅原道真」を延喜元年(901年)、参謀により、「太宰権師」(だざいのごんのそし)に左遷されました。

「藤原時平」の陰謀で大宰府に流罪された、学問の神様「菅原道真」絵

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これは「菅原道真」の建議によるもどであったとされています。(今も昔も、政治の世界は、魑魅魍魎です)

※「菅原道真」の肖像が間違っていました、訂正済み。