昨日は、少し勿体ぶりました。この「石庭」の全貌をどうぞご覧ください。
いかがですか。只の「石」と「白砂」だけのシンプルな庭です。普通、庭園といえば草木や小川が流れその中に石や砂が有るのが当然です。しかしこのシンプルな空間が日本人特有の研ぎ澄まされた感性を表し、宇宙を表現していると言われています。
この「石庭」は山海を表しているという説もあります。ここが一番の不思議な所です。石庭には15個の石が配置されています。しかしご覧のようにどの位置から見ても全ての石を何処かの石に隠れて見ることが出来ません。何故このような手の込んだ配置をしたのでしょう。
十五は十五夜(満月)に結びつきます。又完全という意味です。しかし、物事は完成した時点から崩壊が始まる、という思想が有り、十五の石を一つ足りない十四個の石しか見えないように配置したという説が有ります。(抹茶茶碗の高台の一か所を切り込んだものが有りますが、これに通じるかも?)
この「石庭」の造形の意味も作庭者や作庭年も不明です。もう一度別の所から、全貌を眺めましょう。
どうです。何か感じましたか?人それぞれ感じることが有ると思います。ゆっくりとご覧下さい。(人それぞれ感じ方が違えばいいのです)
その他、「知足の蹲踞(つくばい)」が有ります。これも石庭に関係します。これは「吾唯知足」(われ、ただ足を知る)の四文字が刻まれえいます。その意味から「石庭」の石が「一度に十四個しか見ることが出来ないこと」を「不満の気持を持たず、満足する気持ちを持つ」という戒めでも有ると言われ、又、水を溜めておく為の中央の四角い穴が「吾唯知足」の四つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として供有されているところが見どころです。
注:蹲踞(つくばい)一字で「蹲」とも書きます・茶室蔵六庵の路地に有る。茶室に入る前に手や口を清めるため手水を張っておく石の事。
注:高台とは茶碗の底の周囲の部分。
龍安寺をもう少し散策してから、あとの記事に移ります。意外な物がが待っています。
「蚕の社」を後にして、「龍安寺」に向かいます。嵐電で少し乗ると、途中で乗りかが必要です。
「帷子の辻駅」(かたびらのつじ)と言う優雅な名前の駅です。しかし、この名前は少し怖いいわれが有ります。平安時代嵯峨天皇の皇后であった「橘嘉智子」(たちばなのかちこ)は仏教の信仰が厚く、この世は無常・全ては死に移り変わる事を示して、自らの死骸を埋葬せずにこの辻にさらしました。死骸を野良犬やカラスなどがあさり、醜く無残な白骨の姿になり、帷子だけが残ったと言う事です。雅らかな名前でもこのような故事が有りました。他、諸説有りますが省略します。
「帷子の辻駅」で乗り換え、「龍安寺」で下車します。
この龍安寺は石庭で有名です。この石庭に秘密が隠されています。後にゆっくり石庭を見渡せるように動画で紹介します。
龍安寺の簡単な紹介は、創建年宝徳2年(1450年)・開基は細川勝元・山号は大雲山・宗派は臨済宗妙心寺派・本尊は釈迦如来です。もちろん、世界遺産に登録されています。
うんちくは抜きにして、山門を入ります。
鏡容池(きょうようち)が有ります。この池は、「石庭」同様ゆうめいな池で周囲は回遊式庭園になっています。また、オシドリの名所として「石庭」よりもむしろこの池の方が有名らしいです。
お待ちかねの「石庭」です。この何の変哲もない「石」と「砂」空間だけで不思議な世界が隠されていると言う事です。
超広角で撮影しました。
これでも、少し得分からないと思います。いっその事。一か所からあたりを見渡します。これは明日です。
この石庭をゆっくり鑑賞してください。ナニ、これだけでは良く分からないて。
その通りです。次回に動画にてこの不思議な「石庭」の全貌をお見せしましょう。お楽しみに。します。ちょっと勿体ぶりました。
不思議な三本足の鳥居が有ります!
前記の京福電鉄の「西院駅」(さいえき)から10分たらずの駅に「蚕の社駅」が有ります。そこから歩いて五分・けんけんで十分(又始まった)の所に「蚕の社」が有ります。
一般的には「木島神社」(このしまじんしゃ)と呼ばれていますが、正式名称は「木島坐天照御霊神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)と言う長たらしい名前です。祭神は「天之御中主神」(あまのみなかぬしのかみ)他です。
この地は「太秦」(うずまさ)といわれ、「続日本記」によると、 七世紀頃、渡米人の秦氏の根拠地 でした。又、秦氏は養蚕や酒造りの技術にも優れていました。よって一般的にこの神社を「蚕の社」と呼ぶようになりました。
この、神社には世にも不思議な三本足の鳥居が有ります。三方どこから見ても「鳥居」のかたちにの正面に見えます。(三柱鳥居)また、真上から見ると三角形に見える不思議な鳥居です。
中央の下には「元糺の池」が有ります。昔は湧水が有り「神の池」でしたが、現在は湧き出ていません。上に石を積み上げ御幣を立てて「神座」(かみくら)と言われ、宇宙の中心を表し三方より拝むことが出来ます。
三本足には諸説が有りますが、秦氏はシルクロードを通じて絹織物の交易をおこなっていたので、古代オリエントと通じていました。この古代オリエントで広まった景教の影響を受けていた秦氏は三本鳥居でキリスト教の三位一体を表した説。
また、秦氏は鳥居の三方が関わりの深い「稲荷山」「松尾山」「双が丘」(ならびがおか)の三方に有る遥拝所(ようはいしょ)に向かうように造ったという説もあります。冬至に稲荷山から昇る朝日と松尾山に落ちる夕日の二面から拝する事ができ、そしてもう一面から双が丘を正面に拝することが出来るようにするためです。
しかし、本当のことは審らかでは有りません。巨木が並び立つ薄暗い森の涼しげな空気の中で、この三本足の鳥居が不気味に立っています。
次回は、「蚕の社駅」から京福電鉄(嵐山線)に乗り15分位で行ける「龍安寺」の不思議な「石庭」を散策します。不思議な謎が隠されている石庭ですよ。
注:太秦(うずまさ)の地名のいわれは雄略天皇があちらこちらにいた秦氏を集めて租税としてカトリ(上質の絹)を朝廷に沢山積み上げたため、天皇はうず高く積み上げた絹の様子を見て「うつまさ」という姓を賜えたところから「太秦」とついたと言われている。
注:景教とはネストリウス教キリスト教
注:続日本記(しょくにほんぎ)平安期初期に編集された「日本書紀」に続く六国(りっこく)の第二に当り、菅原道真らが延暦16年(797年)に完成した。奈良時代の基本資料である。
京都は台風一過、今は関東地方を上陸しています。
しかし、今年の台風は少しおかしいです。上陸前に気圧がドーンと下がるなんて。(想定以外?)
もうお彼岸です。この連休は晴天が望めそうです。お彼岸と言えば彼岸花を連想します。今年の彼岸花は猛暑が続いたため、ちょっと咲きが悪いみたいです。
この彼岸花、正式には「マンジュシャゲ」と言います。しかし彼岸花は不思議なところが有ります。
一つ目は、必ずお彼岸に咲きます。二つ目は、必ず人里に咲きます。三つ目は、種は付けていません、しかしお彼岸にはシッカリ咲きます。この時期に我々に何かを教えてくれる花です。
前記にて紹介しました、京福鉄道(嵐電線)の天神川駅を降りて少し戻ったところに「猿田彦神社」が有ります。全国にこの名前の神社は数多く有ります。御祭神は「猿田彦大神」で京洛三庚申の一社に数えられます。この神社は「道ひらきの神」(人生道案内の神)として崇められています。
上の石碑は「猿」と言う字を使っていますが、昔は「申」という字を書き「さる」と呼びました。十二支では「申」と書きます。一寸余談ですが、若いころ「司馬遼太郎」の何かの本で思い出しました。豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に、朝鮮の有名な陶工を連れ帰りました。その名を「申」(しん)と言う名前でした。秀吉は彼を「さる」(昔、自分が信長から呼ばれていた名前です)といつもよんでいました。彼は、聞こえが悪いため、「申」のうえの突き出た所を削って「甲」(こう)と名前に変えたという事です。実際にこの名前が有ります。(宝塚の甲にしき)
何か災難が有った時、神も仏も無い、と言いますが、今は、寺院と神社は別のようですが、江戸時代迄は「大宝律令」からの「神仏習合」でした。神仏分離になったのは、明治新政府により神仏分離令が出された後の事です。
ここからは私の説です。「神」とは「申」が衣を着て「神」と書きます。「仏」は「人」が化けて「仏」という字になります。ですから、神も仏も、我々の心の中に宿しているものだと思います。ちょっと、屁理屈かな。
常にその気持ちを忘れずに手を合わせましょう。全ての神仏(イスラム・キリストも含め)のルーツは一つです。つまらない、宗教対立戦争などはやめて、全世界仲良くしましょう。今日は少しうんちくを。ひらめいただけです。
注:神仏分離令。正しくは神仏判然令、慶応4年/明治元年施行された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達の一連の通達の総称。勿論今の現行憲法下ではこのような法律は有りませんが。しかし今でも法律にこの太政官布告が有効な項目が有ります。