一休さんは御小松天皇の皇子として生まれましたが、母親が藤原氏の南朝系であるため御所を追われます一休さんは応永元年(1394年)嵯峨あたりで生まれ、洛西の地蔵院で育ったと言われています。
六歳で安国寺で出家得度、天龍寺から建仁寺の墓哲のもとで漢詩を学び、十七歳で謙翁に参学します。二十一歳のときに師謙翁が死に、人生を悲観し琵琶湖に入水しますが、奇跡的に救われ、のちに堅田の祥瑞庵に隠処していた華叟宗曇(けそうそうどん)の弟子になり、一休の号を授けけられました。また、二十七歳の時に琵琶湖岸で座禅中、鴉の啼き声をきき大悟しました。
硬くなりましたので、ちょっとお庭を。
その後、あちらこちらを転々としましたが、六十二歳で自作の詩二百余首を「自戒集」として編みます。文明6年(1474年)勅使により大徳寺第四十七代住持となりました。荒廃していた、伽藍の再興に尽力しますが、大徳寺には赴かず偈頌(げじゅ)だけを送って、酬恩庵から離れませんでした。のち、八十八歳で同庵にて示寂しました。(これは余談、死因はマラリアだそうです)
昭堂の一休宗純像です。(特別の撮影です)
方丈は慶安3年(1650年)加賀藩主前田利常公により寄進・改築されたもので、華飾を排したもので、逆に、力強さが感じられます。
方丈の縁にそって東・北・南に庭園が造られ東庭は大小の石が十六羅漢になぞらえて配されています。
本堂は永享年間(1429年~)足利利教により建立されたものと伝えられています。
その他、鐘楼・東司(とうす)・唐門・浴室は東山の麓に有った一休の旧庵を移したものと言う事です。結論:残念ながら一休さんは大徳寺 には一度も訪れた事が無いと言う事です。大徳寺の一休さんあれは話の中だけ?
京田辺市薪里ノ内102
ごめん:一部誤字が有りました。