探訪・日本の心と精神世界

日本文化とそのルーツ、精神世界を探る旅
深層心理学・精神世界・政治経済分野の書評
クイズで学ぶ歴史、英語の名言‥‥‥

あの世と日本人

2015-02-26 21:30:27 | 書評:日本人と日本文化
◆『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))

今でこそ、日本の文化の基層には、一万年以上続いた縄文文化が根づよく横たわっているという説は、ほぼ認められたといっていいが、このような説が受け入れられていく過程で著者・梅原猛の果たした役割は大きい。するどい直観と洞察力をもとにアイヌ語と沖縄古語の比較などにより、学問的な裏づけも行い、また考古学者など各分野の専門家との対話を通して、この説を説得力あるものにしていったのである。

著者は、日本人の「あの世」観は、縄文時代以来の「あの世」観が連綿と受け継がれているという。太陽や月、そして生きとし生けるものすべてが、この世からあの世、あの世からこの世へと、永遠の循環の旅を続けている。これが日本文化の根底をなす、縄文時代からの日本人の世界観であり、死生観であるという。

一般に、日本人の「あの世」観に深い影響を与えたのは仏教の一派・浄土教だといわれる。確かに浄土教は、日本の主流仏教となったが、浄土教が主流となったのはほぼ日本だけであり、なぜ日本で浄土教が主流となったのかという謎がのこる。著者は、仏教伝来以前から日本に存在した縄文的な世界観にその理由があるのではないかという。魂の不死とその永遠の循環という縄文時代以来の信仰が、無意識のうちの浄土教へと流れ込んでいったからこそ、浄土教が日本の主流仏教となったのである。

一万年以上も続いた土着の文化は、外来思想が入ってきたからといって、かんたんにどこかへ消えてしまうものではなく、少しずつ形を変えながらも文化の底流となって生き続けていく。個々の具体例を通して、そんなことが実感され、縄文時代人が急に身近に感じられたりする本だ。

日本語が世界を平和にするこれだけの理由

2015-02-26 21:27:12 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本語が世界を平和にするこれだけの理由

著者の金谷武洋氏は、カナダのモントリオール大学で長年、日本語を教えてきた人。この本は、その経験を随所に散りばめ、中学生でも興味をもって読めるように、やさしく書かれている。欧米語に比べ、日本語がいかに独自の素晴らしさをもっているか、英語を学び始めた若者たちにもそれを知ってもらいたいという、強い思いで書かれたようだ。ここでは、私の関心に重なる限りで、その内容の一部を紹介してみよう。

日本人なら富士山を見て「あ、富士山が見える」と言うだろうが、英語を母国語とする人なら、Oh, I see Mount Fuji. というだろう。この場合、日本語文の主人公は自然(富士山)だが、英語では「私」という人間である。日本人ならその場面の主人公は富士山であり、私のことなど念頭に浮かばない。

日本語の「ありがとう」には話し手も聞き手も、つまり人間が一人も出てこない。これに対し、Thank you は、元は I thank you であり、話し手と聞き手がしっかり登場する。英語は「(誰かが何かを)する言葉」、日本語は「(何らかの状況で)ある言葉」と言えるかもしれない。

日本語の「おはよう」は、「こんなに早いんですねぇ」と心を合わせ、二人で共感する言葉だと言えるが、英語の Good morning は、元々は I wish you good morning.であり、私があなたの朝が良いものであるよう祈るという積極的な「行為」を表現する。つまり「する言葉」なのだ。

両方とも、英語には人間が出てくるのに、日本語には出てこない。日本語の「おはよう」も「ありがとう」も、二人が同じ方向も向いて「視線を合わせ」ながら(「共視」しながら)、一緒に感動、共感しているだけで、文に人間が出てこない。日本語は、共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉であるとも言える。


日本語と、英語に代表される欧米語とは、様々な点でその「発想」が正反対である。たとえば地名についても、日本語では、ある有名人がそこの出身だからと言って、土地にその人の名前をつけるのは非常に珍しいが、英語では、人名が地名になるケースが多いのである(人名→地名)。では人名についてはどうだろうか。日本語は、地名(や地形など場所の特徴)が人名になる(地名→人名)が、英語の名前は、先祖の職業がなんだったかや父親は誰だったかなどによる場合が圧倒的に多い、つまり多くが人間に関係している。日本語の苗字は「先祖がどこに住んでいたか」に注目するが、英語では「先祖がどんな人だったか」が大切なのだ。ここにも、自然に立脚する日本人の発想と、人間に立脚する欧米人の発想との違いがありそうだ。

もし言葉を話す場を、劇の舞台にたとえるなら、英語はそれを演じる役者、「人間に注目」するのに、日本人は人間よりもその周りの舞台や背景、つまり「場所に注目」するのだとも言える。日本語の話者は、自分を強く打ち出すよりも、周りと強調し、「全体の中に自分を合わせていくこと」を目指すことが多い。「全体に溶け込む」ように努力するあまりに、聞き手を直視したり、大きな声で話すことを避けようとする。日本語という言葉そのものの中に「自己主張にブレーキがかかるような仕組み」が潜んでいるのかもしれない。

金谷氏には『日本語に主語はいらない』という本でも主張するように、日本語の基本文では、英仏語などと違い、述語があるだけでりっぱな文になるという。欧米語の発想からすると主語が省略されているように見えるが、実はそうではなく、もともとそれは述語に含まれているのだという。

欧米語、とくに英語は文の組立てに「主語」が不可欠だ。そのためか、英語の話者は聞き手と同じ地平に立たないどころか、自分を含めた状況から身を引き離して上空から見下ろしているようになってしまった。もともと欧米語も自然中心の言葉だったたが、少しずつ人間中心の言語に変化していき、その最先端に英語が位置すると著者はいう。

かつてこのブログで金谷氏の別の本、『日本語は亡びない (ちくま新書)』を紹介した。ここでも、日本語を、英語をモデルとした文法で理解しようとする愚かさが鋭く指摘されている。英語文法は、主語-述語を基本とした人間中心の構造をもつ。英語の話者は、他との関係で自分を捉えるのではなく、状況から独立した絶対的な私(主語)を中心に考える傾向が強くなる。それに対して、日本語文法は、自然や状況中心の文法であり、英文法モデルで分析するには無理がある。むしろ、混迷する世界の救える思想が日本語には含まれており、だからこそ日本語の脱英文法化が急がれなければならないという。日本語だけでなむ、日本文化全般への著者の愛情を感じさせる本だった。

では、日本語はなぜそのような特徴を持つのか。著者は、その理由を語っていない。しかし私には、その理由が、このブログで語、日本文化のユニークさ8項目のうち、とくに一番目に深く関係していると思われる。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。「縄文時代の環境に影響されているのではないか。

日本列島に生活した私たちの祖先は、定住段階に入ったにもかかわらず、狩猟・採集・漁撈を核とする生活を営み、森におおわれた大地と豊かな海との生態系に深く依存していた。新石器文化としては特異な、前農耕社会でありながら独自の土器を伴う質の高い生活形態を驚くほど長期にわたって保ち続けていたのだ。およそ1万年も続いたその生活スタイルの記憶や影響が現代の私たちに残っていないとする方が不自然であろう。しかもそういう環境の中で生まれたであろう縄文語が、おそらく現代日本語の基盤となって、私たちの発想法に影響を与えているのだ。

縄文人は、一定の植物栽培を行っていたとしても、それは周囲の自然を根本から大きく変えるものではなかった。森におおわれた豊かな自然そのものが彼らの生活を支えていた。周囲の自然を荒らさず大切に守り、そこから許されるだけの恵みを得ることで、自分たちの永続的な生存が保障される。それほど密接な関係にある周囲の自然を、限度を超えて勝手に荒らせば、自分たちの生存が脅かされることを縄文人はいやというほど知っていた。彼らは、木や草や川や森や様々な生き物を自分たちと同格の存在、あるいはそれ以上の神聖な存在と感じ、その怒りに触れることを恐れた。こうして彼らは、周囲の自然の背後に、一切の生あるものを生み出す地母神や様々な精霊を感じ、その恵みに抱かれて生きていることを実感し、感謝しただろう。だとすれば、命あるものを限りなく生み出す「母なる自然」への縄文人の祈りや信仰は、農耕民よりももっと強かったと考えるのが自然だ。

そのような縄文人の生き方からは「人間中心」の発想は出てくるはずがない。自然に依拠し、周囲の自然を敬いながら生きた縄文人の世界観は、おのずとその言語にも反映される。一万年以上の年月の中で形成されたであろう縄文語は、他の縄文文化と同様に次の時代へと引き継がれていった。その世界観が現代日本語にも反映されているのだ。

以上に関連する記事は下に示したが、とくに★日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)を読んでいただければ幸いである。

《関連記事》
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

古代日本のルーツ 長江文明の謎

2015-02-26 21:21:40 | 書評:日本人と日本文化
◆『古代日本のルーツ 長江文明の謎
◆『対論 文明の風土を問う―泥の文明・稲作漁撈文明が地球を救う
◆『対論 文明の原理を問う

中国の雲南省から長江流域、そして西日本には多くの文化的共通点があるという。たとえば納豆や餅などネバネバした食べ物が好きであったり、味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、鵜飼と同じような漁が行われることなどである。中尾佐助氏や佐々木高明氏は、この文化的要素が共通する地域の文化を「照葉樹林文化」と名付けた。そして雲南の高地を中心とした半月形の地域を稲作農耕の起源地とした。

しかしその後の研究から稲作の起源地は雲南ではなく長江中・下流域であることがわかってきたという。6300年前に誕生し長江文明は、4200年頃に起こった気候の寒冷化の影響を受ける。漢民族のルーツにつながる北方の畑作牧畜民が南下し、長江文明を発展させた稲作漁撈民は、雲南省や貴州省の山岳地帯に追われたのだ。同時に、長江流域を追われた人々の一部は海に逃れ、台湾や日本に流れ着いた。日本に流れ着いた人々の影響を受けて弥生時代が開かれえていったという。とすれば日本の源流は、長江文明の系譜を色濃く引いていることになる。

四大古代文明は、畑作農耕民と牧畜民の融合から生まれたが、湿潤地帯を流れる長江には、元来牧畜民はいない。長江文明では、牧畜民ではなく、狩猟民や漁撈民から動物や魚などのタンパク源を求め、そこから両者の融合が始まったのではないかという。そして長江文明は、他の古代文明とちがい森の文明である。森には生命の再生と循環が満ちている。その世界観は「再生と循環」なのである。

長江文明の人々は、何よりもまず太陽を崇拝した。そして重要なのは、その太陽が女神だったということだ。それは、日本のアマテラスが女神であることとどこかでつながるのかもしれない。漢民族の太陽神は炎帝という男神であり、ギリシャのアポロンも男神だ。長江流域の稲作漁撈民ははまた、山を崇拝した。山は、米作りのいちばん重要な水を生み出す。同時に、山は天地をつなぐ架け橋(梯)だった。稲作漁撈民にとっては、天地がつながり雨が降ることが最も重要だった。日本の会津磐梯山の「梯」もそのような意味が込められているのだろう。さらに柱も山と同じように天地を結合する豊饒のシンボルだった。こうしてみると、それらが日本の古代の信仰ときわめて近いことが分る。

縄文人にとっても山は、その下にあるすべての命を育む源として強烈な信仰の対象であっただろう。山は生命そのものであったが、その生命力においてしばしば重ね合わされたイメージがおそらく大蛇、オロチであった。ヤマタノオロチも、体表にヒノキや杉が茂るなど山のイメージと重ね合わせられる。オロチそのものが峰神の意味をもつという。蛇体信仰はやがて巨木信仰へと移行する。山という大生命体が一本の樹木へと凝縮される。山の巨木(オロチの化身)を切り、麓に突き立て、オロチの生命力を周囲に注ぐ。そのような巨木信仰を残すのが諏訪神社の御柱祭ではないか。稲作漁撈民もまた、蛇や蝶やセミを大切にした。これら脱皮する生きものは再生の象徴であった。

こうして比べると、縄文人と長江文明を担った人々の宗教世界はきわめて近い。もし日本に稲作を伝えた人々が長江流域から流れ着いた人々であったなら、縄文人はその信仰世界をほとんど抵抗なく受け入れることができ、それは日本列島にたどりついた人々にとっても同様だったろう。もちろん日本への稲作の流入は朝鮮半島からのルートも無視できない。しかしどちらにせよ、弥生文化は縄文文化の要素をかなり受け継いでおり、断絶と言うよりは影響し合いながらの融合という側面がかなり強いことが、近年の土器の変化の研究などでも明らかになりつつある。私たちが、一万年の縄文文化の記憶を断絶なく受け継いできたひとつの大きな理由は、日本列島に新たにたどりついた人々との世界観の近さがあったのかもしれない。

《関連記事》
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?

日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ

日本文化のユニークさ29:母性原理の意味

日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み

日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤

日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)

日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)

日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

日本文化のユニークさ35:寄生文明と共生文明(1)

日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理


《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人

2015-02-25 22:28:08 | 書評:日本人と日本文化
◆『 ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 (講談社+α新書)

最初にこの本の中の代表的な心理学実験を紹介する。画面上に5人の人物を示し、その中心にいるリーダー格の人物の表情(怒り、悲しみ、喜びなど)から、その人物が感じていると思う感情の強さを実験参加者に判断してもらうというものだ。ただしある画像では、中心人物が笑顔を見せ、他の4人も笑顔だが、他の画像では中心人物は笑顔なのに他の4人は怒っているという違いを作っておく。参加者には、あくまでも中心人物の表情からその感情を判断してもらうよう念を押した。

結果は、日本人の実験参加者は、背景の人々の表情に影響されて中心人物の感情を判断する度合いが強かったという。これに対してアメリカ人の参加者は、周辺人物の表情からの影響をまったく受けないで判断をしたという。さらに画像を見ているときの視線のパターンを測定したところ、日本人の場合は、周辺への注視が平均して15パーセントあったのに対し、日本在住の欧米人の場合は、周辺への注視はほとんどなかったという。総合的な結果を見ると、周辺の人物への注視度は、日本在住の日本人で一番大きく、続いて東アジアからカナダへの留学生、東アジア系カナダ人、そして最後にヨーロッパ系カナダ人とう順が確認されたという。

この実験結果をうまく使って出版社が作ったのが、『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人』というこの本のタイトルなのだろう。

この実験は「文化心理学」の立場から、その考え方を立証するために行われた実験のひとつである。文化心理学では、個々人の信念や考え方の差もあるだろうが、それを超えた文化による差も大きいと考える。日本をはじめとした東アジア文化圏と、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そして西欧など欧米系文化圏とに二分したときに、それぞれの文化圏に特徴的な考え方やものの見方が見いだせるのではないか、という予想のもとに研究がすすめられている。東アジアと欧米という二つの文化圏で主流の世界観が、私たちのものの見方に影響を及ぼす可能性を心理学実験により実証しようとしているのだ。そして過去十年の各国での継続的な研究から、「こころと文化の切っても切れない関係」を示す有力な証拠が、数多く積み上げられているという。

文化心理学では、東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」、欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義し、こうした思考様式の違いが私たちの物事のとらえ方に影響を及ぼしていると主張する。

分析的思考様式は、世の中のさまざまな事物はすべて最少の要素にまで分割することができ、その要素間の相互作用や因果関係を理解すれば、物事の本質を理解できるとする考え方だ。科学技術の基礎となっている機械論的な世界観といってもよい。男性原理の世界観だともいえる。

一方、包括的思考様式は、物事の本質を理解するためにはまずその全体を把握する必要があるとする考え方だ。これは東アジアで花開いた老荘的、大乗仏教的な世界観が反映されている。機械論的な世界観に対して生命論的世界観といってもよい。まず全体があって全体のなかで個々の部分も意味をもってくるというとらえ方だと思う。

この東西の世界観の違いは、双方の医学の考え方の違いで説明するとわかりやすい。西洋医学は、どちらかというと体を機械のようにとらえ、その部品をなおすことを主眼とするようなイメージだが、漢方などでは体全体のゆがみやバランスの崩れから各症状をとらえて、全体的視点からの治癒をめざすようだ。

この二つの世界観の違いは、「自己観」の違いとしても現れるようだ。欧米文化圏の人々は、「人とは他の人やまわりの物事とは区別されて独立に存在するもの」という「相互独立的自己観」をもつ傾向がある。一方、東アジア文化圏では、「人とは周囲の人々との役割や立場を介した関わりの中で成り立っているもの」という「相互協調的自己観」が多くの人々に受け入れられている。

そういう自己観の違いから、東アジア文化圏の人々に比べ欧米文化圏の人々は、自分を三人称的に(第三者の目で)見ることに慣れていないだろうという予測ができるが、実験結果はその通りであったという。理想の自分像と現実の自分像の間にどれほどずれがあるかを尋ねる実験では、日本人はそのズレを充分に認識していたのに、アメリカ人はズレを認識する度合いが低かったのである。つまり自分を第三者の目から客観的に見れない傾向が強いということだ。

他にも興味深い心理学実験がいくつも紹介されている。文化心理学の画期的なところは、昔から言われていた東西の世界観の違いを、実験心理学的に実証的に確認したことだろう。しかも、その違いが私たちの日常的な物事の認識の仕方や、対人関係の認識の仕方、自己理解の仕方にまで、影響を及ぼしていることを実証的に示したことであろう。

ただ、欧米文化圏、東アジア文化圏という分け方はかなり大雑把で、欧米でも地域差はあるだろうし、東アジアでも中国と韓国、日本とではかなりの違いがあるだろう。その辺の違いは、実証的に確認されているわけではない。農耕・牧畜的で民族間の紛争を繰り返した大陸の人々の世界観と、稲作農業中心で他民族による侵略のほとんどなかった日本人の世界観の違いという視点からの、実証的な差異はほとんど見えてこない。

しかし、こういう手法を用いて研究を重ねるならば、東アジア文化圏の中での地域差も実証的に明らかにされていくのではないか。

よみがえる縄文の女神

2015-02-25 21:27:31 | 書評:日本人と日本文化
私は、母性原理的な傾向の強い縄文文化が、現代日本の文化や社会にまで深い部分で影響をあたえていが、縄文文化が母性的な性格の強い文化であるとどうして言えるのかという点について、それほどしっかりとした論拠をもって語ってきたわけではない。縄文時代は文字が残っていないので、縄文人の心や信仰を探る材料は、土偶や土器などの遺物に頼るほかないからだ。

しかし最近、土器の精緻な分類だけにとどまらず、総合的な視野から縄文人の精神性に迫ろうとする考古学者の研究が見られるようになった。その一つが渡辺誠氏の『よみがえる縄文の女神』であり、大島直行氏の『月と蛇と縄文人―シンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観』である。今回は、前者を取り上げてみたい。

著者は「弥生時代の米づくり文化を築く土台となった縄文文化には、自然との共生で培った高度な技術と多様な生活様式、そしてそれらを支える輪廻の思想、死と再生の祈りやいのちを尊ぶ女神信仰が確かに存在した」という立場から、その精神文化のエッセンスが記紀神話へと引き継がれていったと主張する。

この主張は、著者自身の研究や先行する研究者たちの業績からたどりついたものであり、以下がその要点である。

1)貝塚は、ミ捨て場ではなく、人も動物も再生して豊かな恵みをもたらすことを祈る、魂(たま)送りの場である。
2)土偶は、女性の出産能力に象徴される女神の霊力を宿す。その多くはあらかじめ壊すことを目的につくられ、新たな生命の復活とムラの甦りのために、意図的にバラバラにして葬られた。
3)埋甕(うめがめ)は、甕に入れた死産児を竪穴住居の入口下に埋葬し、いつもそこをまたいで通る母親の胎内に再生することを願った風習である。
4)人面・土偶装飾付土器は、女神の顔または身体を口縁部にもち、土器の本体は女神の身体を意味する。つまり自身を焼いて生み出された食べ物が新しい命であり、日本神話のイザナミやオオゲツヒメの姿を連想させる。

最後の4)については写真を見てほしい。これは「顔面把手付土器」とよばれる深鉢だが、この土器で調理された食物は、女神像の内部からの贈り物を意味しただろう。とすればこの土器は、その体内から貴重な食物を無限に生み出し続ける地母、つまり「母なる自然」そのものであり、縄文人の地母信仰の端的な表現と見ることができる。

さて大地を母とし、農耕を生殖活動と同じとみなす世界観は、農耕民の原始宗教には広く見られる。世界に広く出土する土偶も、豊饒な母なる大地をあらわす地母神である。それは多産、肥沃、豊穣をもたらす生命の根源でもある。地母神への信仰は、アニミズム的、多神教的世界観と一体をなす。また地母神信仰は蛇信仰とも深く結びついている。

一般的に言って、豊かな森の恵みや大地の豊饒性に根ざす世界では女神が信仰されるといえよう。メソポタミアの各地でも、起源が同一とみられる一連の地母神(イシュタル、イナンナなど)が信仰された。エジプトでは豊かなナイルの土壌をあらわす女神イシスが最も広く信仰され、ギリシアでは、地母神であり、大地の象徴であり、世界と神々の母であるガイアが君臨した。

しかし、紀元前1200年頃の大きな気候変動があり、北緯35度以南のイスラエルやその周辺は乾燥化した。その結果、35度以北のアナトリア(トルコ半島)やギリシアでは多神教や蛇信仰が残ったが、イスラエルなどでは大地の豊饒性に陰りが現れ、多神教に変わって一神教が誕生する契機となったという。(安田喜憲『蛇と十字架』1994年、人文書院)

これは、大地の豊饒性の低下の中で、信仰の中心が大地から天へと移動し、宗教の性格も母性的なものから父性的なものへと転換したことを意味する。父性的な宗教の典型がヤーウェを唯一神として信仰するユダヤ教である。やがてユダヤ教からキリスト教が生まれてヨーロッパ世界に広がり、さらに遅れて、先行する二つの一神教に刺激されながら西アジアでイスラム教というもう一つの一神教が成立するのである。

ところで日本列島は、世界的な気候変動にもかかわらず大地の豊饒性はそれほど変化しなかった。降水量に恵まれた風土は、森林の成育にとって好条件となり、温帯地域としはめずらしい程の豊かな森に恵まれた環境が維持された。それは豊かな「森の列島」であった。この好条件ゆえ、狩猟・漁撈・採集を中心にした縄文文化を高度に発達させながら長く存続させることができた。この豊かな森の中で、その恩恵をたっぷりと受けて育まれたのが縄文文化であった。縄文人の宗教的な世界も、豊かな自然に根差した母性的な性格を失わなかった。いや、ある意味で縄文人の宗教世界は、農耕民以上に母性的な性格をもっていたのではないかと推測できる。農耕には、自然に働きかけて変えようとする強力な意志が含まれるが、縄文人はありのままの自然に依存する傾向がより強いからである。

こうしていのちの宝庫である豊かな森は、縄文人によって様々な遺物に表現され、母なる自然への彼らの信仰を現代に伝えてくれるのである。旧大陸のほとんどの地域が農耕社会にはいり、イスラエルとその周辺地域から父性原理的な一神教が広がっていくなか、日本列島に住む人々は1万年の長きに渡って、豊饒な大地と森の恵み、豊かな海の幸に依存する高度な自然採集社会を営んだ。その宗教生活は、「母なる自然」を信じ祈る、きわめて母性的な色彩の濃いものであった。その独特の生活形態と自然観、自然との関係の仕方は、農耕社会以降の日本の歴史の4倍から5倍も長く保たれ続けたため、その後の日本人にとっては消し難い「文化の祖形」となったのである。

《参考図書》
森のこころと文明 (NHKライブラリー)
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)

《関連記事》
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

月と蛇と縄文人

2015-02-25 10:53:42 | 書評:日本人と日本文化
◆『月と蛇と縄文人―シンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観

刊行されて間もない新鮮な論考。著者・大島直行氏は考古学者であるが、物質的・技術的研究しかしない従来の考古学の枠を飛び出して、縄文人の精神性に迫ろうとする。彼が取り入れた手法は、ユング心理学の「普遍的無意識と原型(グレートマザー)」、宗教学の「イメージとシンボル」、そして修辞学の「レトリック」などである。これら人文科学の成果を取り入れながら「神話的思考に基づく縄文世界」に分け入る試みが本書である。

著者はドイツ人の日本学者ナウマンにならって縄文人の象徴の中核に月があるという。縄文人にとって、満ち欠けを繰り返す月は幾多の死を超えてよみがえる再生の象徴であり、畏敬の対象だった。さらに脱皮を重ねる蛇も、土偶の身ごもる女性も「死と再生」の象徴であった。身ごもりが月からもたらされる「水」(精液)によることを世界中の神話が伝えている。日本の土偶にも「月の水」が涙や鼻水やよだれとして表現されているという。著者は、こうしたシンボリズムをさらに広げて、縄文土器や竪穴式住居やストーンサークルなど多くの遺物の特徴は、縄文人が「不死」「再生」への願いを表現したものとして説明できる主張する。

縄文人の円形の住居や墓、ストーンサークル、さらに貝塚も子宮のシンボライズであった。子宮は、縄文人にとっても、自分が生まれた場所であり、死から甦る再生の場所でもあった。また子宮をもつ女性の生理は、月の運行周期と同じであり、その月もまた「死と再生」を象徴していた。母なる子宮を象徴とする「死と再生」は、ユングのいうグレートマザーという元型と深く結びついており、それは人類の古層の記憶、普遍的無意識につらなるという。

縄文の遺物を、月・蛇・子宮などのシンボリズムで読み解く試みは従来の考古学にとってはかなり挑戦的だろう。しかしこれもまたこれまでなされてきた解釈のうちの一つであり、飛び抜けて説得力があるとは思えなかった。私にとっては、縄文文化を母性原理との関連でとらえるうえで、大いに参考になったのは確かだが。ひとつだけ気になるのは、縄文人の信仰を「死と再生」の観点だけからとらえるのは一面的ではないかということ。縄文人が豊かな恵みをもたらす母なる大地によって生かされ、それに感謝したという信仰の側面を無視することはできないのではないかということだ。

ケルトを巡る旅 -神話と伝説の地

2015-02-25 10:47:44 | 書評:日本人と日本文化
◆『ケルトを巡る旅 -神話と伝説の地 (講談社+α文庫)

かつてケルト文化は、ヨーロッパからアジアにいたる広大な領域に広がっていた。しかしキリスト教の拡大に伴いそのほとんどが消え去ってしまった。ただオーストリア、スイス、アイルランドなど一部の地域にはその遺跡などがわずかに残っている。とくにアイルランドはケルト文化が他地域に比べて色濃く残る。ローマ帝国の拡大とともにイングランドまではキリスト教が届いたものの、アイルランドに到達したのは遅れたからだ。

この本は河合隼雄が、そのアイルランドにケルト文化の遺産を探して歩いた旅の報告がベースになっている。なぜ今、日本人にとってケルト文化なのか。それはケルト文化が、私たちの深層に横たわる縄文的心性と深く響き合うものがあるからだ。

私たちは、知らず知らずのうちにキリスト教が生み出した、西洋近代の文化を規範にして思考しているが、他面ではそういう規範や思考法では割り切れない日本的なものを基盤にして思考し、生活を営んでいる。一方、ヨーロッパの人々も、日本人よりははるかに自覚しにくいかもしれないが、その深層にケルト的なものをもっているはずだ。

ケルトでは、渦巻き状の文様がよく用いられるが、これはアナザーワールドへの入り口を意味する。そして渦巻きが、古代において大いなる母の子宮の象徴であったことは、ほぼ世界に共通する事実なのだ。それは、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。また生まれ死に、さらに生まれ死ぬという輪廻の渦でもある。アイルランドに母性を象徴する渦巻き文様が多く見られることは、ケルト文化が母性原理に裏打ちされていたことと無縁ではない。父性原理の宗教であるキリスト教が拡大する以前のヨーロッパには、母性原理の森の文明が広範囲に息づいていたのだ。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。アイルランドに残る昔話は、西洋の昔話は違うパターンのものが多く、むしろ日本の昔話との共通性が多いのに驚く。浦島太郎に類似するオシンの昔話などがそれだ。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。それはかなり不思議なことでもあり、また重要な意味をもつかも知れない。ケルト文化と日本の古代文化を比較することは、多くの新しい発見をもたらすだろう。

いま、ヨーロッパの人々が、キリスト教を基盤とした近代文明の行きづまりを感じ、ケルト文化の中に自分たちがそのほとんどを失ってしまった、古い根っこを見出そうとしている。これは河合が言っていることではないが、日本のマンガ・アニメがこれだけ人気になるひとつの背景には、彼らがほとんど忘れかけてしまったキリスト教以前の森の文化を、どこかで思い出させる要素が隠されているからかも知れない。

神話と日本人の心(5)

2015-02-24 22:35:40 | 書評:日本人と日本文化
◆『神話と日本人の心

私は、この本を読み、日本神話の特徴が、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係するという点に注目し、そのいくつかを取上げて考えてきた。今回はまだ触れていなかった項目に簡単に触れたい。

②自国内よりも外国に基準を求める態度

古事記の成立は、712年。日本書紀は720年。この時代に日本人の国家意識が以前より強まり、大陸に対して日本という国の存在や基盤を示そうとする意図が強まった。国家の中心である天皇家の地位を明確にする意図も働いた。日本書紀の方が古事記よりそういう意図を強く打ち出しているのは確かだろう。そのためか日本書紀は、天地のはじめについても、最初から日本のこととして語るのではなく、中国の『三五歴紀』や『淮南子』の記述から借りた一般論から入り、「したがって」として日本のことを語り始めているという。

自国の神話さえも、他国のものを借りて一般論とし、それによって自国の話を強化しようとする姿勢は、神話としては珍しい発想だという。この事実は、国家成立の当初から自国の外に文明の規準を求めようとする姿勢があったということであり、日本人の辺境意識の根深さをうかがわせる。常に海外を意識しするこのパターンは現代の日本人にまで受け継がれているといえるが、一方で近年日本人にはそのような傾向から抜け出す動きも見える。これについては、

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が

以下で詳しく語ったので、下の《関連記事》を参照されたい。

④人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
⑤日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる

これらは互いに深く関連しているのでいっしょに見ていこう。

人間は、自然の一部であると同時に反自然の傾向をも強くもっている。この矛盾にどのように折り合いをつけるかという問いとそれへの答えが、各神話にも読み取れる。旧約聖書においては、アダムとイヴが禁断の木の実を食べる話にこの問題が反映されている。彼らは木の実を食べたあと、自分たちの自然のままの姿を恥じて、いちじくの葉をあてがった。つまり反自然へと一歩踏み出したのである。神はこれに対し、「原罪」を負わせて楽園から追放する。ここでは、神・人・自然の分離が明確に表現されている。

日本神話では、神が人に何かを禁じるのではなく、「禁止」が神々の間で行われる。黄泉の国でイザナミはイザナギに、自分の姿を見ないようにと禁じたが、禁を破ってイザナギが見たのは、死体のおぞましい姿であった。ホヲリ(山幸彦)は、妻トヨタマビメの協力もあり、兄ホデリ(海幸彦)を屈服させた。その時、トヨタマビメは既にみごもっていた。ここでも妻は、出産する自分の姿を見ることを禁じたが、ホヲリは禁を破って、妻が本来の鮫の姿にたちかえっているところを見てしまう。その姿を見られたことを恥じた妻は、子を残して故郷に去る。このどちらにも共通しているのは、人間が結局「自然の一部」であることを知ったということだと著者は指摘する。

ここで注目すべきは、女性の本当の姿を見たときの男性の態度である。イザナギの場合は「見畏(みかしこ)見て」、ホオリでは「見驚き畏みて」と表現されている。つまりそこでは、いずれも本来の姿に接したときの「畏敬の念」が表現されている。畏敬の念は、宗教体験の基礎となる感情であり、神・人・自然が深いところで一体のものとしてとらえられていることを示している。

ところでイザナミは、禁を犯したイザナギに対して怒りに近い恨みをもってあとを追いかける。一方、ホヲリに禁を犯されたとトヨタマビメの場合はどうか。恨みの感情を抱くが、それでも恋しい心に耐えられず、妹のタマヨリビメに託して歌を贈る。ホヲリも歌を返し、互いに慕う気持ちが表現される中で、恨みは消えていく。これは、恨みが美的な形のなかに解消されていく「葛藤の美的解決」という方式といえよう。

このとき美の背後には深い悲しみの感情が流れており、これらを全体として日本人は「もののあわれ」と呼んだ。神話の世界にすでに「「あわれ」の原型が存在していたのだ。著者は、このような根源的な悲しみを「源悲」と呼ぶことを提案する。ユダヤ・キリスト教文化の根源に「原罪」がある。一方、人間と自然のつながりを切ることのない文化の根源には「源悲」があるというのだ。人間が自然と異なることを強調するときには「原罪」の自覚が求められ、人間がその「本性」として自然に還っていく、自然との一体感が大切にされるときには「源悲」の感情が働くという。

ここで、これまでこのブログで何回か語った私の主張を付け加えよう。「源悲」の感情は、おそらくアニミズム的な宗教をもつ文化にかなり共通するだろうことは著者も指摘するところである。とすれば、ヨーロッパでもキリスト教以前にあったケルト文化などにも共通するかもしれない。現に、アイルランドの昔話は日本のものと類似性が高いという。現代の日本で生み出される小説やマンガやアニメはどうだろうか。それらも、多かれ少なかれアニミズム的な要素や「源悲」の感情を引きずっているのではないだろうか。つまり人類のきわめて古い記憶の層が、日本の文学やポップカルチャーにも受け継がれているのではないか。そして、人類の古い記憶の層を断ち切ってしまった文化から見ると、それが不思議であると同時にきわめて魅力的なものとして映じるのかもしれない。

《関連図書》
中空構造日本の深層 (中公文庫)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)

《関連記事》
『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

日本のポップカルチャーの魅力(1)
日本のポップカルチャーの魅力(2)
子供観の違いとアニメ
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
マンガ・アニメの発信力の理由01
マンガ・アニメの発信力の理由02
マンガ・アニメの発信力の理由03
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1) 
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1) 
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(1):「かわいい」
マンガ・アニメの発信力と日本文化(2)融合
日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力
マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

神話と日本人の心(4)

2015-02-24 22:32:54 | 書評:日本人と日本文化
◆『神話と日本人の心

今回は、日本神話の特徴で、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係すると思われる8つのポイントのうちで、⑦に関連するものを見ることにする。

⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」

古事記によれば、スサノオはアマテラスとの誓約に勝ったことを誇るあまり、大いに暴れまわる。その乱行を見たアマテラスは、岩屋に身を隠ししてしまう。その結果、世界は闇に包まれ、永遠に闇が続くかと思われた。多くの災いが起こり、こまった八百万神が対策を練るために集まった。そして、それぞれの神々が、問題解決のために様々なことを行う。

神々がこのように力を尽くしていたとき、もちろんアマテラスは岩屋のなかで何もしていない。スサノオとの対決ののちのスサノオの無茶な実力行使に対して、アマテラスは闇に身を隠すことでまったくの無為の状態にとどまるのである。他文化の多くの神話では、このようなとき主神が手勢を率いて悪に立ち向かい勝利するパターンが多いが、アマテラスは徹底的に受動的で、逆にそれが八百万の神々の活性化を促したとも言える。

しかも神々のめざましい活躍にもかかわらずそこにはリーダーが存在しない。中心になるリーダーなしに神々の相談はうまくまとまり、準備も整って、アメノウズメが登場する。そして例の裸踊りが始まる。日本と同じく多くの神々が活躍するギリシア神話では、主神ゼウスが調整役を務めることが多い。日本神話ではこのような危機的な場面でも明確なリーダー役が存在しない。それでもことがうまく運ばれていくのだ。

著者は、このように強力なリーダーなしにことが運ばれていく特徴は、「中空構造」という一種のバランス構造をもとにしているという。そして、古事記神話においてもっとも重要なのがこの中空構造であるという。

日本神話において重要な三つのトライアドも、やはり中空構造になっている。

1)タカムスヒ――アメノミナカヌシ――カミムスヒ
2)アマテラス(天)――ツクヨミ――スサノオ(地)
3)ホデリ(海)――ホスセリ――ホオリ(山)

第一のトライアドでは、それぞれ父性原理、母性原理を象徴する神を両側に配し、その中心はアメノミナカヌシである。第二のトライアドでは、天を示すアマテラス、地を示すスサノオを両側にして、その中心は無為の神・ツクヨミである。第三のトライアドでも、中心にやはり無為の神・ホスセリがおり、その両側にそれぞれ海と山を代表するホデリとホオリがいる。ちなみに二人はそれぞれ海幸彦と山幸彦とも呼ばれる。

このように日本神話は、相対する両極をもちながら、その中心を無為の存在が占め、全体としてのバランスをとるという「中空均衡構造」を大切にしている。確かにアマテラスは神々の中心のように見えるが、アマテラスとスサノオは互いに相手を相対化し、その中心には無為の神ツクヨミがいると見たほうが妥当だと著者はいう。

この構造は、たとえば『旧約聖書』のようにな、中心に唯一神をもちそれに敵対するサタンは徹底的に神に拒否されるという構造とは大きな違いである。このような日本神話の構造は、日本人の、あるいは日本人の集団のあり方と深く通じるものがあるのではないか。

かつて私はこのブログで、なぜ日本でキリスト教が広まらなかったのかをいくつかの面からまとめたことがある。もしこの「中空均衡構造」が日本人の心の深層に生きているとすれば、一神教的な構造が受け入れにくいのも不思議ではない。

キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01
最もキリスト教から遠い国:キリスト教が広まらない日本02

それを全面的に受け入れれば日本民族の特性が失われ、日本が日本でなくなると言ってよいほどの要素がキリスト教にあったからこそ、日本人はこの宗教を受け入れなかったのだろう。一神教は、日本文化の根底にある「中空均衡構造」と相容れなかったともいえよう。

最近、権威を嫌う知的な大衆:「日本的想像力」の可能性(3)というエントリーで、社会を営むためには権威や権力は尊重されるべきだと考えている人の割合が、日本人の場合は、世界と比較して極端に少ないというデータを紹介した。もしかしたらこの傾向は、神話の時代からあったのだろうか。

《関連記事》
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01

《参考図書》
中空構造日本の深層 (中公文庫)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)

神話と日本人の心(3)

2015-02-24 22:29:54 | 書評:日本人と日本文化
◆『神話と日本人の心

この本を読んで興味深かったことは、日本神話の特徴が、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係するということであった。それは、ざっと挙げると以下のようなものである。

①男性原理とのバランスを取りながらの女性原理
②自国内よりも外国に基準を求める態度
③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている
④人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
⑤日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる
⑥何らかの原理によって統一するよりも原理的対立が生じる前にバランスを保とうとする調和の感覚
⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」
⑧恥の感覚の重視

これまでに2回にわたって①について見てきた。③についてもかんたんに触れたが、少し付け加えたい。前回指摘したのは、男性原理が女性原理に取って代わるのではなく、両原理がバランスをとりながらも女性原理優位の状態を保っていくという連続性であった。河合隼雄自身は、もっと具体的な別の面から③の特徴を指摘している。それは、神々の連鎖という特徴である。

記紀においてイザナキ、イザナミは国造りの主神だが、それ以前に「神世七代」と称される神々の名が連鎖的に告げられる。なぜ国造りの前に多くの神々の名が告げられるのか。その意味は、フォン・フランツの『世界創造の神話』が見事に解き明かしているという。

彼女によれば、ポリネシアやニュージーランドなどで重要な位置を占める神・タンガロアの創造神話は、まさに神々の連鎖だという。この地域の神話の特徴は、神々の連鎖のなかでだんだんと神々の姿が明確になっていき、それが人間へつながっていくことだ。日本の神話も、人間に至るには長い間があるが、やがて人間の世界へとつながる。つまり日本神話は、ポリネシアなどと同様に「原始的な根」をもち、その根との連続性を保っているというのだ。日本は、現代において「先進国」と呼ばれる国々の一つだが、その中で唯一、古代から現代に至る不思議な連続性を保っている国なのである。他の先進国はすべてキリスト教文化圏に属し、強烈な唯一神を中心とする父性原理的な宗教の力によって、「原始的な根」からほとんど切り離されてしまったのである。

このブログで探求している日本文化のユニークさ8項目のうち、一番目と二番目は次のようなものであった。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

これまで見てきたところからも明らかなように、これらの特徴は、日本の神話、とくに古事記の中にはっきりと読み取れるのである。そして(1)と(2)は、相互に深く結びついている。

先進国の中で日本が唯一、文明の「原始的な根」から切り離されていないということについて、現代の日本人はほとんど自覚すらもっていないかもしれない。いや、近年日本人は日本の伝統の大切さに少しずつ気づき始めたかに見える。しかし、日本人が「原始の根」から切り離されていないことの意味は、私たちが考えるよるもはるかに重要なのかもしれない。

日本文化に出会うことで、忘れられていたヨーロッパ文化の古層を思い出していった人物の一例をあげておこう。トマス・インモースは、スイス出身だが日本に在住するカトリック司祭であり、日本ユングクラブ名誉会長でもある。彼はその著『深い泉の国「日本」―異文化との出会い (中公文庫)』で、「神道とヨーロッパの先史時代とは共通のものを分かち合っている」という。スイスは、ケルト文明のひとつの中心地であった。それで、縄文的な心性が現代に残る日本という土地で、少しずつスイスの過去に出会うようになった。日本という「深い泉」に触れることで、自分自身のルーツのより深い意味を見出していったというのだ。「日本という土地の上で、私は少しずつ、スイスの過去に出会うようになった。バラバラだったものがひとつにまとまり、私は自分自身の過去も知るようになった。自分を理解するようになった。」

私たちは、日本文化の最も重要なこのような特徴を失ってはならない。そのためにはまず、この特徴をしっかりと自覚することが大切なのである。

《関連記事》
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?

日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ

日本文化のユニークさ29:母性原理の意味

日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み

日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤

日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)

日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)

日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

日本文化のユニークさ35:寄生文明と共生文明(1)

日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理


《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

神話と日本人の心(2)

2015-02-22 17:30:18 | 書評:日本人と日本文化
◆『神話と日本人の心

この本を読んで印象深いのは、すでに日本神話の中に、その後に展開する日本文化や日本社会の特徴が色濃く現れているということであった。その一つが、「①男性原理とのバランスを取りながらの女性原理」であった。引き続きこの特徴を見ていこう。今回は、これと関係し「③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている」という特徴にも触れる。

イザナギは、死んだイザナミを追って黄泉の国へいったが、逆にイザナミに追われてこの世に逃げ帰る。イザナギは、禊(みそぎ)をして黄泉の国の穢れを払い、自ら三柱の神を産む。左目を洗った時にアマテラス、右目からはツクミヨ、鼻からはスサノオが産まれる。アマテラスとツクヨミは、父の命令のままに、それぞれ天井と夜の国を治めた。ところが、海を治めろと命じられたスサノオは、命に服さず泣き叫ぶ。

イザナギが理由を尋ねると、母に会いに根の堅洲の国に行きたいという。アマテラスが「父の娘」であるのに対し、スサノオは父から生まれたにもかかわらず「母の息子」である。イザナギは、怒ってスサノオを高天原から追放しようとする。スサノオは、それならと姉アマテラスのところへ挨拶に行くが、アマテラスはそれを自分の国を奪おうとして来たと誤解、武装して待ち構える。

スサノオは、来訪の真意を説明するが、アマテラスは信じない。つまり日本神話では、アマテラスは最高神でありながら間違いを犯すこともある神として描かれている。次の誓約の場面ではスサノオが勝つのだが、今度はスサノオが勝利に有頂天になりすぎて失敗する。つまり、日本神話では誰かが絶対的優位に立つことはできず、優位にあると思った間もなくすぐに転落する。では中心はないのかと言えば、実は何もせずにただそこにいるだけのツクヨミこそが真の中心なのである。これが前回挙げた「⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう『中空構造』」そのものであるが、詳しくは追って触れることになるだろう。

ところで、スサノオが勝利した誓約とは、スサノオの身の潔白を証明するため各々が子を産むという提案だった。スサノオはアマテラスの勾玉によって五柱の男神を産み、アマテラスはスサノオの剣によって三柱の女神を産んだ。アマテラスは、産まれた子はその材料の持ち主のものと判断し、スサノオは女神を産んだことを理由に潔白を宣言した。男女どちらを産んだら勝ちとあらかじめ決めていたわけではないので、女を産んだから潔癖だと宣言するのは、背景に女性優位の立場があるからだと著者はいう。

以上は古事記による物語だが、日本書紀ではこの話に多くのバリエーションがあるという。ただ日本書紀では、本文と付記されたバリエーションとのすべてで、古事記とは逆に男子を産んだことで清い心が証明されたとされている。その上で、互いの持ち物を交換し相手の所有物から子を産むという状況で、どちらをどちらの子にするかという判断が混淆する。

この日本書紀の記述に対する著者の結論は、母性原理と父性原理のどちらに優位を置くかに混乱ないし迷いがあったのだろうといことである。が、どちらかと言えば古事記は、母性原理優位でほぼ一貫しており、おそらくこれが古代日本の姿で、日本書紀は中国などへの対外的な意識から父性優位になっているが、父性原理だけで整合性を保つことにかなり難しさがあったということである。

この本で著者は、神話と歴史的な事実や背景との関係についてはほとんど全く触れていない。ユング派の心理療法家として、あくまでも神話と深層心理との関係という観点から論を深めている。著者は歴史家ではないから、それは当然の態度であろう。一方私としては、これまでのこのブログの流れからも、縄文文化と弥生文化との関係という視点から、母性原理・父性原理の問題に簡単に触れておきたい。

以前この問題については、日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)で論じたことがある。これをかんたんに振り返りながら進めよう。

紀元前1500年ごろから、シリア北西部で天候神バールの信仰が盛んになった。バール神は太陽の力をもち、嵐と雨の神、豊穣と多産の神でもあった。この天候神バールが、大地の女神のシンボルである蛇を殺す。シリアに残るバール神の彫刻は口ひげをはやした男神で、右手に斧を振り上げて、左手に握った蛇を殺そうとしている。

バール神は、ヘブライ人(ユダヤ人)の一部も信仰していた。やがてヤハウェのみを神とする一神教を確立するが、ヤハウェとバールはどちらも、これまでの蛇をシンボルとしする大地の豊穣の女神とは対決する性格をもつ男神であった。

日本の稲作技術は、気候の寒冷化をきっかけとして大陸からやってきた環境難民によって最初にもたらされ、弥生時代以降も、大陸から大量の人々が渡来した。こうして新たにやってきた人々は、蛇殺しの信仰をもっていた。こうした神話は、稲作と鉄器文化が結びついて伝播した可能性が高いというのが著者の推論だ。

日本神話でその蛇殺しの神話を代表するのがヤマタノオロチの伝説だ。スサノオが、オロチに酒を飲ませ、酔って寝込んだすきに、剣を抜いて一気にオロチの八つの首を切り落とする。この物語は、バール神が海竜ヤムを退治した物語によく似ている。スサノオノ命は荒れ狂う暴風の神であり、この点でもバール神を思い起こさせる。

バール神の蛇殺しもスサノオの蛇殺しも、ともに新たな武器であった鉄器の登場を物語っている。バール神がシリアで大発展した紀元前1200年頃は、鉄器の使用が広く普及した時代でもある。日本の弥生時代も鉄器が使用されはじめた頃だ。こうしてみると、蛇を殺す神々の登場の背景には、鉄器文化の誕生と拡散とが深く関わっており、殺される大蛇たちは、それ以前の文化のシンボルだったのだと著者はいう。

しかし、日本神話に関してはスサノオが大蛇を退治したから、それ以前の文化を葬り去った新時代の神だと言えるほど単純ではない。アマテラスが縄文以来の地母神を受継ぎ、スサノオが稲作と鉄器をもたらした新時代の神だとは割り切れないのが日本神話の興味深いところだ。スサノオは、女神を産んだことで身の潔白を宣言し、勝ち誇って大暴れをする。アマテラスの田の畔を壊したり、機織場の屋根を破って血だらけの馬を投げ入れ、驚いて逃げた機織女が、機織に御陰を刺して死んでしまう。

アマテラスが住まう稲作の地を破壊するのがスサノオなのだ。しかも大暴れをしたスサノオは、「根の国」に追放されてしまう。つまり男神が女神に敗北しているのだ。女神や蛇に象徴される古い文化が、鉄器をもった男神によって葬り去られるという単純な図式では整理できないのが、スサノオの物語だ。

ではどう考えればよいのか。母性原理と男性原理とのバランスが働く構造、アマテラスとスサノオのどちらが圧倒的な優位に立つわけではないという構造、そしてアマテラスは縄文時代以来の地母神を受け継ぐと見えながら一方で稲作に携わり、スサノオはアマテラスに追放されながら、大蛇を退治し新時代を代表するとも見える。
この単純に割り切れない構造をどのように理解すればよいのか。

私は、ここに日本人の原体験のひとつが反映していると考える。世界の多くの地域では農耕の広がりとともに農耕以前の文化は消えていく傾向にあった。男神による蛇殺しがそれを象徴した。おそらくそれは、古い文化を担う人々の抑圧や消滅を伴っていた。ヨーロッパでは、キリスト教が支配的になるとそれ以前のケルト文化はほとんど抹殺された。新しい文化が古い文化を完膚なきまでに葬り去ってしまうことが多いのだ。

西アジアの大草原で人類が農耕を開始したころ、東アジアの日本列島では、ブナやナラの落葉広葉樹の森で、狩猟・漁撈採集民としての生活を開始していた。日本列島の森の中は食べ物が豊富だったので、本格的な農耕を伴わない高度な新石器文化を形成し、一万年を超えて洗練することができた。そこへ大陸の人々が、稲作や鉄器を携えて渡来したとしても、一度に多人数が渡来できたわけではないから、人数の上でも縄文人を圧倒するほどの勢力にはなり得なかった。

つまり弥生人は、縄文人を一方的に追放したり、ましてや抹殺したりしたのではなく、せめぎ合いながらも、他方で和合したり協力したりして、縄文的な要素を大幅に取り入れながら最終的には溶け合っていったのである。その過程では様々な配慮や調整が必要な場面もあっただろう。異質なものを互いに受け入れ、配慮しあいながら融和していく。これが日本人の原体験になったのではないか。そして日本神話は、その原体験を反映する特質を持つに至ったのではないか。日本神話が、構造的に調和やバランスの感覚を大切にする(後に詳述)のも、この原体験に根ざしているといえよう。

以上からも、日本神話が「③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている」という特徴をもっていることも納得できるだろう。日本人の原体験は、「文明の原始的な根」を断ち切るところにあったのではなく、「原始的な根」と調和し、バランスを取り、受入れていくところにあったのだ。それは、「文明の原始的な根」に生き続ける母性原理を受け入れることでもあった。同時に、父性原理的な行為によって根を断ち切るのではなく、母性原理的な行為によってそれそれを受け入れることでもあった。

《関連記事》
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?

日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ

日本文化のユニークさ29:母性原理の意味

日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み

日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤

日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)

日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)

日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

日本文化のユニークさ35:寄生文明と共生文明(1)

日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理


《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

神話と日本人の心(1)

2015-02-22 17:26:36 | 書評:日本人と日本文化
◆『神話と日本人の心

著者・河合隼雄がユング派の心理療法家であり、その立場から多くの著作を残してきたことは周知の事実である。日本人の心の問題をユング派の立場から語る著作も多い。本書は、ユング派の立場から、古事記や日本書紀に代表される日本の神話を語る本である。長年、記紀を読み込み、世界の神話とも比較し、しかも心理療法家の立場から神話の深層をとらえようとする姿勢がみごとに生かされており、読み応えのある重厚な一冊であった。

これまで無数の日本人論や日本文化論が書かれてきたが、それらで指摘された日本文化の特徴の多くは、日本の神話の中にも何らかの形で表れているということが、この本を読んでよくわかった。その意味でもきわめて興味深い本であった。すでに日本神話の中に、その後に展開する日本文化の特徴がどのように現れているのか、そんな視点からこの本に触れてみたい。

著者が指摘する日本神話の特徴で、日本文化そのものの特徴にも深く関係すると思われるものをざっと挙げて見たのが以下である。

①男性原理とのバランスを取りながらの女性原理
②自国内よりも外国に基準を求める態度
③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている
④人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
⑤日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる
⑥何らかの原理によって統一するよりも原理的対立が生じる前にバランスを保とうとする調和の感覚
⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」
⑧恥の感覚の重視

もっと体系的に整理する必要があるかもしれないし、あとで他の項目を付け加えるかもしれないが、とりあえずこれらの項目のなかのいくつかを、本書に沿いつつ取り上げてみたい。お気づきと思うが、これらの中の、①、③、④、⑥は日本文化のユニークさ8項目のうち、それぞれ(2)(1)(6)(7)に対応している。なお上の⑦に出てくる「中空構造」については、かつて日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化でも紹介しているので参照されたい。

まずは、①「男性原理とのバランスを取りながらの女性原理」について。

数多くの日本神話の神々のなかで際立った地位を占めるのが、女神アマテラスである。古代日本人は、天空に輝く太陽に女性をイメージしたのだ。これは世界のほとんどの民族にとって太陽が男性神だという事実に比し、かなり特異なことだという。

しかし一方でアマテラスは、父親イザナギから生まれた、母を知らない女性であった。イザナミと死に別れたイザナギが、黄泉の国から帰って、身のけがれをおとそうと川でみそぎをしたときにアマテラスが生まれる。

神話においては「男-太陽、女-月」という結びつきと、「女-太陽、男-月」という結びつきがある。太陽の月に対する圧倒的な存在感を考えると、太陽-女性とするのが女性優位の文化であると理解するのが自然である。しかし、もしそうだとしても、なぜ日本神話ではその女性が父から生まれたと語られるのか。これはどこか、女性が男の骨からつくられたとする旧約聖書の話と似ている。これはつまり、女性優位といいながら、一方で男性原理とのバランスを取っているということではないか。

人間がすべて女性から生まれるのは自明であり、その厳粛な事実への「感動」からまずは神を女神、大母神とするのは自然であろう。実際、ヨーロッパでもキリスト教以前には地母神を中心とする宗教が広がっていたという。縄文時代の土偶にも地母神は多い。父性原理に立つユダヤ・キリスト教は、先に男性がつくられたとすることで母性優位を克服しようとするのである。

日本神話では、まず大母神イザナミが国土とその他ほとんどすべてのものを生み出したという。ところが、アマテラスを含む「三貴子」は父イザナギから生まれたと語り、極端な母性優位とのバランスをとる。つまり、「男性原理とのバランスを取りながらの女性原理」が、日本神話の特徴なのである。

現代の日本社会が、近代ヨーロッパ文明(父性原理の文明)を大幅に受け入れつつ、縄文時代以来の母性原理が連綿と受け継がれているという事実については、下の《関連記事》や、カテゴリー「母性社会日本」を参照されたい。

《関連記事》
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01

《参考図書》
中空構造日本の深層 (中公文庫)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)

日本人の心はなぜ強かったのか

2015-02-21 15:10:03 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

著者は、戦前に比べ日本人の心は格段に弱くなったと主張する。たとえば自殺者は、もう13年連続で3万人を超えている。その背景の一つには、心の肥大化があるのではないか。この本の副題は精神バランス論である。心の肥大化とは、心と精神と身体(習慣)のバランスが崩れて、心の働きが相対的に大きくなり過ぎたことをさす。

心と精神はまったく別物だ。心は個人的だが、精神は、共同体や集団によって共有される。民族の精神のような大きなものもあれば、会社や学校の精神もあり、多かれ少なかれその精神は、所属する個人に内面化される。

人間は、心と精神と身体(習慣)の三つにより成り立ち、それらがバランスよく伸びることで真っ直ぐに成長できる。

ところが昨今は、心の問題がバランスを欠いて大きくなり、思い悩んだり仕事が手に付かなくなったり、体調を崩してしまうことも多い。逆にいえば、それだけ日本人は、精神と身体が弱っているのだ。精神や身体もしっかり機能していれば、心だけが異様に大きくなって余計なことで思い悩むことは少なくなる。共同体に共有される精神や、身体に身に付いた習慣にまかせておける部分が大きいからだ。つまり心の土台がしっかりするからだ。

日本人の心が肥大化したのは、敗戦を境にして、かつての精神や身体の継承が途絶えたからだといわれる。「日本的なるもの」の多くが捨て去られ、以前は共同体によって共有されていた諸々の精神は失われ、個人的な心が肥大化した。頼るべき精神がなく、悩みやストレスばかりが大きくなるところに日本人の心の危機がある。

戦前の日本人の精神性を圧倒的に担っていたのは儒教だった。戦前の教育の柱とされた「教育勅語」にも「父母に孝に、兄弟に優に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」など、儒教的道徳観が盛り込まれていた。過度に神聖視され国家主義体制のために利用されたが、内容的には道徳心を説いた部分が多い。ところが戦後になると、過去の「忌わしい記憶」として全面的に排除され、これに限らず日本古来の「精神」はおしなべて国家主義と批判された。

しかし、言うまでもなく儒教的精神そのものが好戦的でナショナリズムに結びつくわけではない。儒教的道徳心が浸透していた江戸時代が軍国主義だったわけでもない。江戸時代の子どもたちは寺小屋で『論語』を素読し、その精神を感じ取っていた。が戦後は、素読自体が頭ごなしの非民主的な教育とされた。『論語』を中心とする儒教教育全体を捨てたことは、精神の半分以上を捨てたことになり、儒教教育の喪失は日本人にとってマイナス面の方が大きかったと齋藤はいう。

儒教や武術のように古来から精神の形成に一定の役割を果たしてきたものを禁じられると、その結果、個人の感情や気分が一気に肥大化する。共有できる精神を持たない民族は弱い。それが露わになったのが、経済成長が一段落した1970年以降だという。戦前の教育を知らない世代は、精神や身体といった土台が緩んでしまい、その分、心が膨らんでしまった。日本人は概しておとなしく、不安定な心を抱えるようになったというのである。

かつての日本人は、精神の領野と身体(習慣)の領野を切り離せないものとして発達させていた。禅の修行でも、座禅ばかりではなく、作務と呼ばれる日常の作業のなかで無心を学ぶことが大切だといわれる(日常工夫)。また、手作業が心を和らげることは、最近の研究でも実証されつつあるという。体内にあるセロトニン神経系が、リズムカルな運動によって活性化され、心を安定化させるというのだ。

職人の仕事もそれぞれに固有のリズムを持っている。職人気質で一つの仕事に徹する人生も、人の心に深い安定を与える。それが○○道として自覚されれば、禅的な求道の「精神」を生きることになり、心の安定はさらに深まる。職人がその「道」を究めようとする姿勢は、日本文化の深い「精神」に通じており、これも日本人の心の強さを形づくっていた重要な要素だ。

『論語』などの素読も、リズムカルに声を出す「作業」であると同時に、古典の「精神」を呼吸することにつながり、日本人の心を強くしていた大切な要因で、これはとくに齋藤が強調する方法だ。彼の本『声に出して読みたい日本語』はベストセラーになったから知る人も多いだろう。

このように、それぞれの「精神」を生きる手段を豊富にもっていた日本人は、もともと強い心を持っていた。だったらそれを取り戻せばよい。一昔前の日本人がふつうに実践していたことを復活させればよい。それだけで日本人は元通り強くなれると、著者はいう。

本の後半ではそのためのノウハウがいろいろ紹介されている。ただこの本は、コミュニケーション論など彼の他のの著作に比べると、具体的な方法の部分が少し魅力に乏しい感じがする。他の本では、これはと思えるような画期的なノウハウがいくつも紹介されているが、この本にはそれが少ないのだ。その点は少し残念だったが、今の日本人の心に何が欠けているのか、充分な説得力をもって語りかける本だ。

日本人はなぜ日本を愛せないのか

2015-02-21 14:47:14 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)

もちろんタイトルにあるように「日本人はなぜ日本を愛せないのか」を、その歴史や地理的な背景にも言及しながら、ていねいに考察している。しかし、それだけではなく、日本が無意識に陥ってしまっている西欧崇拝や西欧中心主義の視点はなぜ生まれたのか、日本が失わなかった伝統的な文化の特色がなぜ今世界に必要とされているのか等々、日本人として自覚しておくべき大切なメッセージが、著者の熱い思いとともに込められた本だ。編集部の質問に答えるという対話体で書かれている。実際の対話をもとにしたわけではなく、そういう形式をとって分かりやすく、しかし充分に考え抜かれた構成と内容で書かれた本だと思う。

著者は、日本が指導的大国として世界にアピールできる長所は何かと問いかける。多くの日本人は、それに即座に答えられないだろう。自分の国にそんな長所があるとは思えないのだ。しかし実際には、大いに自覚すべき長所がある。ひとつは、異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会という日本社会の特長だ。世界の多くは、宗教的な制約などで日本ほど自由に文化の取り入れができない。日本は、強調的、混合文化社会という自らの文化の価値を世界に積極的にアピールすべきだ。

ふたつめは、日本文化の深層にあるアニミズム的な生命観だ。一神教的な世界観は、神を最高位に置く人間中心主義が濃厚だが、日本人の場合は、生命のみならず山や森にさえ魂を感じ、人も動物もひと続きの循環構造のなかを巡っているという古代的な生命観が、心の深層に流れている。

今、世界の主導権を握っているのは、強烈な自己主張と他者への執拗な排除攻撃を続ける「動物原理」を基本とするユーラシア文明だろう。その中心が一神教文明だ。しかし、世界は今、行き詰っている。アメリカは、これまでのようなずば抜けた超大国としては破綻する兆しが見えてきた。その代わり中国が台頭してきているかに見えるが、実際は無理に無理を重ねて背伸びをし、中華帝国再興を目指して走り続けている。しかし、中国も突如として内部の山積した矛盾が噴出して大混乱に陥る可能性が高い。

その時、世界は壊滅的な大津波に襲われるかもしれない。その危機に面したとき、これまでのあまりに人間中心的だった西欧的世界観の反省にたって、人類と地球環境の共存を最重視する戦線縮小の時代が始まるだろう。日本人には、元来、人間ももろもろの生物の中の一員として、他の生き物たちの「お陰で」生かされているという生命観があった。そうした生命観を自覚的に捉えなおして、そこに、21世紀の危機を乗り越えるのに大いに貢献すべき大切な何かがあることに目覚める必要がある。それが著者の主張だ。

かんたんに要約してしまったが、このような結論にいたるまでに、本書はじつにていねいに様々な具体例を挙げながら考察する。一神教的で牧畜型のユーラシア文明の欠点や、そのような一神教的世界観に立った西欧世界が、どのような横暴によってアジア、アフリカ、南米などを植民地支配してきたか、日本人がそうした西欧文明の悪の部分にいかに無自覚で、お人よしで、西欧コンプレックスから脱しきれていないか等々、興味がつきない考察が、随所に散りばめられている。

縄文人に学ぶ

2015-02-21 14:46:22 | 書評:日本人と日本文化
◆『 縄文人に学ぶ (新潮新書)

★この本の著者・上田篤氏は、もともと「未来を設計する建築学徒」であるが、「日本人のすまい」に興味をもって研究するうちに、その謎を追って結局は縄文時代にたどり着いたという。「日本人のすまい」の謎とは、たとえばなぜ日本人は玄関で靴を脱ぐのか、なぜ家の中に神棚や仏壇を祭るのかといったものである。

著者はこのような謎に対してひとつの「試論」を持つに至ったという。それは、「日本の家は神さまのすまい」というものだ。やがて、その「神さまのすまい」という発想のルーツが、縄文時代の竪穴式住居にあるのではないかと考えるようになったという。

1万2千年ほど前(縄文早期)に日本列島はしだいに暖かくなったが、にもかかわらず北海道から沖縄まで北方住居を思わせる竪穴住居が一斉に作られた。温暖な沖縄までなぜ竪穴住居なのか。それは竪穴住居が人間のすまいというより、「火のためのすまい」だったからではないのか。つまり、気候の温暖化で生じた激しい風雨から火を守るための囲いという意味が強かったのではないか。

著者がこのような「発見」に至ったのは、沖縄の古い家を見たことによるという。沖縄の田舎の旧家では、ついこのあいだまでいちばん大切な神さまは家の奥の地炉のなかの「火の神」だったという。沖縄では稲作文明が流入したのが13世紀であった。すなわち、それまでは稲作以前の「縄文時代」が続いていたわけで、縄文時代をルーツとする文化が色濃く残っているということである。

とすれば、縄文時代の人々も竪穴式住居によって「火の神」を守ったのではないか。火を風雨から守ることは生活に欠かせないだけではなく、神さまを守ることでもあったのだ。縄文人は、神さまの家に住んで、神さまをまもっていたのだ。

そう考えると「日本の家の謎」も解ける。日本の家は「火という神さまを祭るすまい」だった。だからこそ玄関で靴を脱ぐという世界に類のない習慣がある。家の中に神棚や仏壇を設けるも「神さまのすまい」という縄文の記憶にルーツがあるのだろう。

縄文が火を神さまとしたのは、それが定住を保証したからだろう。旧石器人は大動物を求めてさ迷ったが、縄文人は「大自然」そのものを相手にする道を選んだ。彼らは、親族単位で海に近い尾根筋などに住み、女が火を焚き、男が火を絶やさないためのすまいを作った。その住まいを中心とした数キロのテリトリー内で、女たちが木の実や茎、根、小動物、魚介類を採集し、土器で煮炊きした。つまり大動物を追い求めるのではなく、周囲の自然の恵みそのものに依存して生活するようになった。火がそうした定住生活の中心にあった。

そうした縄文人の宗教心はその後の日本の歴史に受け継がれる。たとえば古くからの日本の庶民の家の中心は囲炉裏だった。板敷のリビングに囲炉裏が切られ、その部屋に神棚がおかれた。現代の都会の家でダイニングとキチンが一緒になっている場合が多いのは、リビングと囲炉裏が一体となった古い庶民の家の名残りかもしれないと著者はいう。

今でも日本料理には鍋料理が欠かせない。家族が火加減しながら鍋を囲んで食事をするというスタイルは、欧米料理にはあまり例がないという。鍋料理は、縄文人が炉を囲んで炉の火にかけられた土器から私食物をとって食べたであろう伝統を引き継いでいるのかもしれない。日本人が冬になると鍋料理が恋しくなるのは、私たちの中の縄文DNAのなせるわざなのだろうか。