探訪・日本の心と精神世界

日本文化とそのルーツ、精神世界を探る旅
深層心理学・精神世界・政治経済分野の書評
クイズで学ぶ歴史、英語の名言‥‥‥

シュリーマン旅行記

2015-02-21 12:56:09 | 書評:日本人と日本文化
◆『シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))


『古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)』であまりに有名なシュリーマンが、トロイア発掘(1871年)以前に世界漫遊の旅に出て、幕末(1865年)の日本にも上陸し、旅行記を残していたのである。翻訳(石井和子)の素晴らしさもあってとても読みやすく、内容も興味尽きない。素直に偏見なく観察し、理解し、正確に記録しようとするシュリーマンの強烈な好奇心がにじみ出ており、こうした精神のしなやかさや探求心が、トロイア発掘につながっていくのだとうことが納得できる。

シュリーマンはいう、「これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激しきった面持で日本について語ってくれた。私はかねてから、この国のを訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。」当時、日本を訪れた外国人たちが、その印象をどのように語っていたかが分かる一文である。

シュリーマンは、横浜から江戸に行く。当時、尊王攘夷運動が活発で外国人にとって江戸はかなり危険だったが、江戸を見たいという思いの方が強いのである。

浅草寺を訪れ、あるお堂の仏像の傍らに「おいらん」の肖像が飾られている事実に驚愕し、呆然としている。「日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。」「それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた。」

仏像と「おいらん」を並べてしまう日本人のタブーのなさ、宗教的ないい加減さ、というかおおらかさは、シュリーマンにとっても理解を超えていたのだろう。しかし、以下の記述からもわかるように、短い滞在(約3ヶ月)にも関わらず日本人の宗教心について全体的に的確にとらえている。

「日本人の宗教心について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺の民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。」

ここで「真の宗教心」は、キリスト教を判断の基準としており、あとで紹介する彼の文章と合わせて考えると若干の偏見を感じるが、シュリーマンが観察した状況は、江戸時代も現代もほとんど変わっていないようだ。宗教儀式が娯楽と渾然一体となり、宗教なのか娯楽なのか習俗なのか分からないという状況も、今と変わらない。

シュリーマンは、将軍と大名の関係に触れ、大名が臣下として服従していながら将軍に対抗する姿勢ももつと言っている。そして日本の社会システムについて次のようにいう。

「これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕作された土地が見られる。」

ここで「労働者階級は無である」というのは、もちろん政治権力としては無であるという意味だろう。この本はフランス語でパリで出版されている。フランス革命時の「第三身分は無である」が意識された表現かもしれない。注目すべきは次の文章で、にもかかわらずどの階級でも、区別なく平和、満足感、秩序、勤勉さ(よく耕作された土地)が行き渡っているというのである。つまり、先に挙げた清潔さとともに「日本の長所」としてまとめた項目のいくつかが、シュリーマンの報告から浮き上がってくるのである。

最後に「日本文明論」という短い章で、シュリーマンは「日本の文明をどう見たか」をまとめている。

「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明圏以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だがもし文明という言葉が次のことを意味するならば、すなわち心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教――キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させるようなことを意味するならば、確かに本国民は少しも文明化されていないと言わざるを得ない。」

全体にシュリーマンは、当時の日本の姿を、ヨーロッパ人の偏見からきわめて自由に、好奇心と好意と尊敬に満ちた明晰な眼で観察している。しかし宗教的な観点では、やはりキリスト教の偏見から抜け切れていない。要するに彼は、宗教的な面以外では日本人は高度に文明化しており、教育はヨーロッパより普及しているが、われわれのようなキリスト教をもっていない以上、真の意味で文明化しているとは言いえない、と言っているのだ。

一瞬垣間見れるこのような限界は、にもかかわらず、この本の価値を少しも減じていない。彼が描き出す、当時の日本の現実のなまの姿が細部に渡って生き生きと輝いているからだ。




日本のポップパワー

2015-02-21 12:46:36 | 書評:マンガ・アニメ関連
◆『日本のポップパワー―世界を変えるコンテンツの実像


スタンフォード日本研究センター所長の中村知哉氏らが、「日本ポップカルチャー委員会」なる産学官コミュニティで4年にわたる議論をつみあげ、その成果に基づいて分担執筆したのがこの本である。日本のポップカルチャーの現状と影響力を非常に広い視野からとらえた貴重な本だと思う。今までジャーナリスティックにとりあげられたことはあても、この分野の本格的な研究は、はじまったばかりのようだ。まずは、現状をできるかぎり正確にとらえて、その意味を考える。そういう作業がようやくはじまったのである。

序章では、日本のポップカルチャーのパワーの源泉がどこにあるのかを分析している。一番目にあげられるのは、メディア融合という特徴である。日本のマンガ、アニメ、ゲームは、それぞれが独立した分野というよりも、マンガはアニメ、ゲームの素材となり、逆にアニメに基づいてマンガが描かれ、ゲームがつくられるというような相互依存的な関係をなしている。アニメやゲームはまたJPOPの人気と一体となっている。第二に、欧米ではこども文化であるマンガ、アニメ、ゲームが、日本では大人向けの領域としても確立している。また日本では、子供が自分で欲しいものを買うという形で、子供の需要がストレートに商品化される。第三の特徴は、第二の特徴と深く結びつく。子供と大人の領域が融合しているため、エロや暴力の表現が、子供の世界にまで入り込んでいるのだ。これがコンテンツの国際競争力の強さになっている現実もある。

ここでは、その一端を紹介することしかできないが、本書ではさらに、アメリカのポップカルチャーが世界に波及していったプロセスを、日本のポップカルチャーのこれからと重ねあわせて考察する章(第3章)や、中国、フランス、アメリカなどで日本のポップカルチャーがどう見られているかの現状報告(第4章)、日本の今後のポップカルチャー政策の展望(第6章)など、多方面から論じているのが特徴だ。

最後に、これはこの本を含めた関連するいくつかの本を読んでの感想だが、日本のポップカルチャーが世界に広がっていく流れは、私たちが自覚する以上に重要な意味をもっているのではないかということだ。もしかしたらそれは、日本人が庶民レベルでもっている世界観、人生観がポップカルチャーという媒体に乗って知らず知らずのうちに世界に広がっていく過程なのかも知れない。大宗教、大思想に強く縛り付けれた一神教的世界観から比較的自由なライフスタイルが世界に波及していく過程なのかも知れない。イデオロギー同士が深刻にぶつかり合って戦争を繰り返してきた歴史に対し、「武器よりもポップを!!」というメッセージを世界に広める意味をもっているのかも知れない。

ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人

2015-02-21 12:25:17 | 書評:日本人と日本文化
◆『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 (講談社プラスアルファ新書)

最初にこの本の中の代表的な心理学実験を紹介する。画面上に5人の人物を示し、その中心にいるリーダー格の人物の表情(怒り、悲しみ、喜びなど)から、その人物が感じていると思う感情の強さを実験参加者に判断してもらうというものだ。ただしある画像では、中心人物が笑顔を見せ、他の4人も笑顔だが、他の画像では中心人物は笑顔なのに他の4人は怒っているという違いを作っておく。参加者には、あくまでも中心人物の表情からその感情を判断してもらうよう念を押した。

結果は、日本人の実験参加者は、背景の人々の表情に影響されて中心人物の感情を判断する度合いが強かったという。これに対してアメリカ人の参加者は、周辺人物の表情からの影響をまったく受けないで判断をしたという。さらに画像を見ているときの視線のパターンを測定したところ、日本人の場合は、周辺への注視が平均して15パーセントあったのに対し、日本在住の欧米人の場合は、周辺への注視はほとんどなかったという。総合的な結果を見ると、周辺の人物への注視度は、日本在住の日本人で一番大きく、続いて東アジアからカナダへの留学生、東アジア系カナダ人、そして最後にヨーロッパ系カナダ人とう順が確認されたという。

この実験結果をうまく使って出版社が作ったのが、『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人』というこの本のタイトルなのだろう。

この実験は「文化心理学」の立場から、その考え方を立証するために行われた実験のひとつである。文化心理学では、個々人の信念や考え方の差もあるだろうが、それを超えた文化による差も大きいと考える。日本をはじめとした東アジア文化圏と、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そして西欧など欧米系文化圏とに二分したときに、それぞれの文化圏に特徴的な考え方やものの見方が見いだせるのではないか、という予想のもとに研究がすすめられている。東アジアと欧米という二つの文化圏で主流の世界観が、私たちのものの見方に影響を及ぼす可能性を心理学実験により実証しようとしているのだ。そして過去十年の各国での継続的な研究から、「こころと文化の切っても切れない関係」を示す有力な証拠が、数多く積み上げられているという。

文化心理学では、東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」、欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義し、こうした思考様式の違いが私たちの物事のとらえ方に影響を及ぼしていると主張する。

分析的思考様式は、世の中のさまざまな事物はすべて最少の要素にまで分割することができ、その要素間の相互作用や因果関係を理解すれば、物事の本質を理解できるとする考え方だ。科学技術の基礎となっている機械論的な世界観といってもよい。男性原理の世界観だともいえる。

一方、包括的思考様式は、物事の本質を理解するためにはまずその全体を把握する必要があるとする考え方だ。これは東アジアで花開いた老荘的、大乗仏教的な世界観が反映されている。機械論的な世界観に対して生命論的世界観といってもよい。まず全体があって全体のなかで個々の部分も意味をもってくるというとらえ方だと思う。

この東西の世界観の違いは、双方の医学の考え方の違いで説明するとわかりやすい。西洋医学は、どちらかというと体を機械のようにとらえ、その部品をなおすことを主眼とするようなイメージだが、漢方などでは体全体のゆがみやバランスの崩れから各症状をとらえて、全体的視点からの治癒をめざすようだ。

この二つの世界観の違いは、「自己観」の違いとしても現れるようだ。欧米文化圏の人々は、「人とは他の人やまわりの物事とは区別されて独立に存在するもの」という「相互独立的自己観」をもつ傾向がある。一方、東アジア文化圏では、「人とは周囲の人々との役割や立場を介した関わりの中で成り立っているもの」という「相互協調的自己観」が多くの人々に受け入れられている。

そういう自己観の違いから、東アジア文化圏の人々に比べ欧米文化圏の人々は、自分を三人称的に(第三者の目で)見ることに慣れていないだろうという予測ができるが、実験結果はその通りであったという。理想の自分像と現実の自分像の間にどれほどずれがあるかを尋ねる実験では、日本人はそのズレを充分に認識していたのに、アメリカ人はズレを認識する度合いが低かったのである。つまり自分を第三者の目から客観的に見れない傾向が強いということだ。

他にも興味深い心理学実験がいくつも紹介されている。文化心理学の画期的なところは、昔から言われていた東西の世界観の違いを、実験心理学的に実証的に確認したことだろう。しかも、その違いが私たちの日常的な物事の認識の仕方や、対人関係の認識の仕方、自己理解の仕方にまで、影響を及ぼしていることを実証的に示したことであろう。

ただ、欧米文化圏、東アジア文化圏という分け方はかなり大雑把で、欧米でも地域差はあるだろうし、東アジアでも中国と韓国、日本とではかなりの違いがあるだろう。その辺の違いは、実証的に確認されているわけではない。農耕・牧畜的で民族間の紛争を繰り返した大陸の人々の世界観と、稲作農業中心で他民族による侵略のほとんどなかった日本人の世界観の違いという視点からの、実証的な差異はほとんど見えてこない。

しかし、こういう手法を用いて研究を重ねるならば、東アジア文化圏の中での地域差も実証的に明らかにされていくのではないか。

中空構造日本の深層

2015-02-21 09:48:56 | 書評:日本人と日本文化
◆『中空構造日本の深層 (中公文庫)』(河合隼雄)

日本文化がもつ長所と短所、あるいは世界の文化の中で日本文化がどのような意味を持つかを考える上で、きわめて重要な洞察を含む本だと思う。

無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。

父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。

西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。

唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。

男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。

非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。

日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れて、これだけ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性をもっているということが、今後ますます重要な意味をもっていくような気がする。

誇り高き日本人でいたい(C.W.ニコル)

2015-02-21 09:37:00 | 書評:日本人と日本文化
◆『誇り高き日本人でいたい』(C.W.ニコル)

著者は、1940年、英国南ウェールズ生まれ。1962年、空手修行のために初来日。80年に長野県の黒姫に居を構える。95年に日本国籍を取得。作家として活躍する一方、環境問題にも積極的に発言し続けた。以上は、この本で紹介された略歴の要点。

彼は、ウェールズのケルト人だ。『ケルト巡り』で紹介したケルト人の子孫は、ウェールズにも多い。ケルト族は、サクソン族がやってくるはるか前からブリテン島に住んでいた。その後、残虐なノルマン族が大挙して島に押しよせ、西はウェールズ、北はスコットランドへケルト族を追い散らした。C.W.ニコルはそのケルト人の血を受けついでいる。それにかかわる印象的なエピソードがこの本の中に書かれている。

「もう何年も前のこと、1960年代の日本で、私は鬱蒼としたブナの森を歩いていた。樹木の霊気に包まれた私の胸に、かつて経験したことのない不思議な感動がこみあげてきた。私はその場に立ちつくしたまま、頬を伝う涙をぬぐうことも忘れていた。ここはエデンの園なのか。はるか昔のブリテン島で、ケルト人の心を熱くしたのはこの感動だったのだろうか。」

その後、彼は黒姫に居を定めたが、その地の環境破壊は進み、目を覆うばかりだったという。一方、生まれ故郷のウェールズは、炭鉱から出る粉塵にまみれ緑もまばらな荒れ果てた土地だったのが、人々の情熱によって森が再生されつつあった。日本企業の進出によってその地が経済的に潤ったという背景もあった。ウェールズでの体験は、彼の人生を大きく変えた。「環境破壊が進む日本に不平不満を言っているだけでは何ひとつ変らない。ウェールズの人たちがしたことを、私もに日本でやろう」。それから、黒姫で隣接した土地を次々に買収し、黒姫の森を生き返らせる必死の努力が始まるのだ。

この本は、彼が日本に来るまでのいきさつを少年時代のエピソードから順にたどることができる。といっても個々に独立したエッセイが元になっており、ユーモアもたっぷりで気軽に読むことができる。何人かの魅力的な日本人らとの交遊録も感動的だ。一方で、かつて彼がこよなく愛した日本人の良さが急速に失われていくことへの批判も手厳しい。その背後に日本を愛してやまない「誇り高き日本人」のすがすがしい生き方が見て取れる。

ユニークな日本人

2015-02-21 09:30:53 | 書評:日本人と日本文化
◆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』G・クラーク

本書は、G・クラークが竹村健一を聞き手として日本人のユニークさを語る対談の形をとっており、大変に読みやすい。1979年発行の古い本だが、その論点は重要だと思う。

著者はいう。日本人のユニークさは、たんにヨーロッパ人と比してだけではなく、インド人や中国人と比しても際立っている。要するに日本人と非日本人という対比がいちばん適切なほどにユニークである。そのユニークさは、日本以外の社会には共通しているが日本にはないものによってしか説明できない。それは外国との戦争である。

明治維新までの日本は、異民族に侵略され、征服され、虐殺されるというような悲惨な歴史がほとんどなかった。日本人同士の紛争は多く経験しているが、同じ民族同士の戦争なら価値観を変える必要はない。しかし相手が異民族であれば、自民族こそが正義であり、優秀であり、あるいは神に支持されているなどを立証しなければならない。「普遍的な価値観」によって戦いを合理化しなければならないのだ。

他民族との戦争を通して、部族の神は、自民族だけではなく世界を支配する正義の神となる。武力による戦いとともに、正義の神相互の殺し合い、押し付け合いが行なわれる。社会は、異民族との戦争によってこそイデオロギー的になる。

ところが日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、西洋的な意味での神も、イデオロギーも必要としなかった。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。西洋人にもそういうレベルはあるが、そこに留まるのではなく、宗教やイデオロギーのよう原理・原則の方が優れていると思っている。「イデオロギーを基盤にした社会こそが進んだ社会であり、そうしないと先進文化は創れない」とどこかで思っている。

ところが日本は強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築なしに、村的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大しくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。ここに日本のユニークさの源泉があるというのだ。

このような日本人の特質は、ヨーロッパだけではなくアジア大陸の国々、たとえは中国や韓国と比べても際立っているという。中国人や韓国人は、心理的には日本人より欧米人の方にはるかに近い。欧米風のユーモアをよく理解するし、何よりも非常に強く宗教やイデオロギーを求めている。中国人や韓国人は、思想の体系や原則を求めるが、日本人は求めない。

西欧だけではなく、アジアのほかの国々とも区別される日本人のユニークさは、自然条件だけでは説明できない。日本が稲作中心の文明であったことは重要だが、それが日本文化のユニークさを生んだ主因ではない。韓国も稲作中心だったが、著者がいう日本人のユニークさと共通のユニークさがあるわけではない。結局は、大陸の諸国に比べ、異民族との闘争が極端に少なかったという要因こそが、イデオロギーに拘泥しない日本人のユニークさを作り上げているというのである。

著者は、日本の社会の素晴らしさの一つとして平等主義を挙げている。日本人の態度のうえにもそれが見られ、その素晴らしさは世界一ではないかという。店に入っても、村に行っても、どこに行っても階級的な差がまったく感じられないというのだ。イデオロギー社会では、こういう平等性が成り立ちにくいという。

その理由を著者は明確にしているわけではないが、日本に、西欧に見られるような階級差が見られないのは、やはり異民族に征服された経験がないからだろう。その点は、同じ島国でありながらイギリスと好対照をなしている。イギリスの階級差は、明らかに征服民と被征服民の差を基盤としている。

さて、以上のように著者は、日本人のユニークさの要因を、異民族との闘争のなさだけに求めている。しかし、それも確かにひとつの大切な要因であるが、このひとつの理由だけで日本人のユニークさを論じるのはやはり無理があるだろう。私の考えでは要因は主に三点まとめられると思う。それは以下の通りである。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

これらの三つを主要因として総合的に考察することこそが必要なのである。すなわり縄文的な要素をたぶんに残た農耕文明、しかも牧畜を知らず、遊牧民との接触もなかった農耕文明のユニークさということである。そして、農耕文化が、縄文的な心性をたぶんに残しながら連綿と続くことができた条件が、大陸の異民族による征服などがなかったことなのである。

日本人の価値観

2015-02-18 19:06:30 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本人の価値観―「生命本位」の再発見』(立花均) 

著者は、日本人の価値観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たり、「日本」と「日本以外の世界」を対比できるユニークさを日本は持っていると主張する。それは、「人間-生物-無生物」の中でどこにいちばん大きな境界線を引くかという問題に集約される。

欧米人にとって人間は、被造物全体の中で特別に神の「息吹」を与えれたものとして、他の動物とは本質的に違う。神の似姿である人間は、他の動物より決定的に価値が高い。それは、人間の「理性」に根本的な価値を認め、そこに価値判断の基準を置くからだという。

ところが日本人は、「生命」に根本的な価値を認めるので、人間と動物は同じ「生命」として意識され、根本的な境界線は人間を含む「生命」と無生物との間に置かれるという。

この違いを示す面白い例として著者が挙げているのは、愛犬のためにお葬式をしてほしいと神父に頼む日本の老婦人の話である。イタリアから来たファナテリというその神父は、その依頼を受けて心底驚いた。イタリアでは、どんなに無学な人からもペットの葬式をして欲しいという発想は出てこないからだ。

欧米でも子供ならペットの葬式をすることはありうるだろう。しかし大人からはそういう発想は出てこないという。欧米では、大人と子供の世界は違っており、その間もはっきりとした境界線がある。そこにもやはり「理性」が育っているかいないかの価値判断が働いているらしい。

ところが日本では、大人と子供の世界が連続しており、しかも欧米で言えば子供の発想であるペットの葬式が当然のように大人の世界でも真面目に行なわれる。日本製アニメの世界的な流行の背景には、大人と子供の世界が連続しているという日本の文化的な特質が大きな要素としてあるかも知れない。大人が抵抗なくマンガ・アニメを見るのもそうだが、作り手の方も、欧米から見ると子供的な発想を保ったまま製作にかかわれるのだろう。(この本のレビュー続く)

ところで、「日本」と「日本以外の世界」という分け方に対しては、は少し乱暴なのではないかという見方もあるだろう。しかし、この本の主張のいちばん重要な部分が、「日本」と「非日本」とを対比し、日本人の生命観のユニークさを際立たせせることなのである。図式としては次のようになる。

非日本人  絶対的な価値をもつものの本体(神)≒人間 →→(隔絶)→→ 動物・物
日本人   絶対的な価値をもつものの本体 →→(隔絶)→→ 生命(人間・動物)∥物

日本人は、「絶対的な価値をもつものの本体」(形而上学的な原理)を打ち立てて、それとの関係で人間の価値を理解するような思考が苦手である。そうした思考法とは無縁に、人間も他の生き物や物と同じように、はかない存在ととらえる傾向がある。それに対して大陸の諸民族は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教教徒はもちろん、ブラフマン=アートマンの世界観を抱くインド人も、儒教中心の中国人も、多かれ少なかれ形而上学的な原理によって人間を価値付ける傾向があるという。儒教も、人間は自然界の頂点に立つ特別の選ばれた存在であるとみなすという。

著者は、日本人の価値観・生命観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たるユニークさをもつに到った理由を、明確に述べているわけではない。
しかし、もし日本人が、「日本以外の世界」と対比されるユニークさを持っていると言えるとすれば、つまり次の三つの理由によるのではないか。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

(1)については、土器を使いながら本格的な農耕・牧畜を伴わない豊かな新石器文化が長く続いたため、流入した大宗教(仏教)や儒教も、その基層文化を抹殺することなく、共存・融合した。大陸の多くの地域と違い、自然崇拝的、アニミズム的心性が色濃く残った。だから形而上学的な原理によって人間を価値付けようとする傾向も、本格的には取り入れられなかった。

(2)に関しては、『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見)』などで論じられている。

肉食が、直接的に、人間と他の生命を分離する価値観を生み出すのではない。しかし『日本人の価値観』の著者は、『肉食の思想』をそのように誤読している。実際は、「肉食」というよりも牧畜・遊牧という「生活形態」こそが、そのような価値観を生み出すのである。つまり多量の家畜をつねに育て、管理し、その交尾を日常的に目撃し、育てた家畜を解体して食べる、それが生活の重要な一部であればこそ、人間と家畜との徹底的な違いを強調せざるを得なかったのである。これに対し、牧畜・遊牧を本格的には導入しなかった日本の農耕文化というのが、かなりユニークでなのである。私は、これもまた日本人のアニミズム的心性を色濃く残したもう一つの大きな理由だと思う。


(3)についは、グレゴリー・クラーク 『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』などが、詳しく論じている。異民族との抗争や征服などが繰り返されると、自分たちの文化や宗教を正当化しようとするイデオロギー上の闘争も、必死なものとなる。宗教的な信念を理論化して、生残りを賭けた論争にも勝たなければならない。逆に言えば、日本人はその必要もなかったから、形而上学的な原理に無関心なのである。

山の霊力―日本人はそこに何を見たか

2015-02-18 18:58:31 | 書評:日本人と日本文化
◆『山の霊力―日本人はそこに何を見たか (講談社選書メチエ)』(町田 宗鳳)

「山の霊力」というタイトルからはやや分かりにくいが、山をめぐる著者独自の観点から原始から古代までの日本の精神史を論じた本だ。多方面からよく調べられ
、山が日本人の精神形成にいかに大きな役割を果たしていたかが、具体的に考察されており、読んで興味尽きなかった。個人的には、三内丸山遺跡や花巻など東北をめぐる旅の途上で読んだ本だったのでなおさら印象深かった。

縄文人にとって山は生き物であり、神であったということが、印象深く語られる。さらに山に重ねあわされた動物のイメージは、大蛇(おろち)ではなかったかという。大蛇信仰は、やがて巨木信仰へと移行する。三内丸山遺跡のやぐら(六本柱)も巨木信仰のルーツか。大蛇の化身である山の巨木を切り、ふもとにつき立て、おろちの生命力を住む場所に注入しようとしたのか。諏訪の御柱祭は、そのような巨木信仰を残すものかもしれない。蛇体、巨木への信仰は、縄ひも(蛇の変形)への信仰につながる。神社のしめ縄は、二匹の蛇がからむ姿そのものだ。さらに縄文土器の縄目模様も、山、大蛇、巨木‥‥と連なる信仰に関係するのか。

日本の縄文時代やその後の古代史について、きわめて情報量も多く、視点も新鮮で、目が開けるような想いで読んだ。

日本人はなぜ日本を愛せないのか

2015-02-18 17:15:45 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)

もちろんタイトルにあるように「日本人はなぜ日本を愛せないのか」を、その歴史や地理的な背景にも言及しながら、ていねいに考察している。しかし、それだけではなく、日本が無意識に陥ってしまっている西欧崇拝や西欧中心主義の視点はなぜ生まれたのか、日本が失わなかった伝統的な文化の特色がなぜ今世界に必要とされているのか等々、日本人として自覚しておくべき大切なメッセージが、著者の熱い思いとともに込められた本だ。編集部の質問に答えるという対話体で書かれている。実際は、そういう形式をとって分かりやすく、しかし充分に考え抜かれた構成と内容で書かれた本だと思う。

著者は、日本が指導的大国として世界にアピールできる長所は何かと問いかける。多くの日本人は、それに即座に答えられないだろう。自分の国にそんな長所があるとは思えないのだ。しかし実際には、大いに自覚すべき長所がある。ひとつは、異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会という日本社会の特長だ。世界の多くは、宗教的な制約などで日本ほど自由に文化の取り入れができない。日本は、強調的、混合文化社会という自らの文化の価値を世界に積極的にアピールすべきだ。

ふたつめは、日本文化の深層にあるアニミズム的な生命観だ。一神教的な世界観は、神を最高位に置く人間中心主義が濃厚だが、日本人の場合は、生命のみならず山や森にさえ魂を感じ、人も動物もひと続きの循環構造のなかを巡っているという古代的な生命観が、心の深層に流れている。

今、世界の主導権を握っているのは、強烈な自己主張と他者への執拗な排除攻撃を続ける「動物原理」を基本とするユーラシア文明だろう。その中心が一神教文明だ。しかし、世界は今、行き詰っている。アメリカは、これまでのようなずば抜けた超大国としては破綻する兆しが見えてきた。その代わり中国が台頭してきているかに見えるが、実際は無理に無理を重ねて背伸びをし、中華帝国再興を目指して走り続けている。しかし、中国も突如として内部の山積した矛盾が噴出して大混乱に陥る可能性が高い。

その時、世界は壊滅的な大津波に襲われるかもしれない。その危機に面したとき、これまでのあまりに人間中心的だった西欧的世界観の反省にたって、人類と地球環境の共存を最重視する戦線縮小の時代が始まるだろう。日本人には、元来、人間ももろもろの生物の中の一員として、他の生き物たちの「お陰で」生かされているという生命観があった。そうした生命観を自覚的に捉えなおして、そこに、21世紀の危機を乗り越えるのに大いに貢献すべき大切な何かがあることに目覚める必要がある。それが著者の主張だ。

かんたんに要約してしまったが、このような結論にいたるまでに、本書はじつにていねいに様々な具体例を挙げながら考察する。一神教的で牧畜型のユーラシア文明の欠点や、そのような一神教的世界観に立った西欧世界が、どのような横暴によってアジア、アフリカ、南米などを植民地支配してきたか、日本人がそうした西欧文明の悪の部分にいかに無自覚で、お人よしで、西欧コンプレックスから脱しきれていないか等々、興味がつきない考察が、随所に散りばめられている。

あの世と日本人

2015-02-18 16:54:40 | 書評:日本人と日本文化
◆『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))

今でこそ、日本の文化の基層には、一万年以上続いた縄文文化が根づよく横たわっているという説は、ほぼ認められたといっていいが、このような説が受け入れられていく過程で著者・梅原猛の果たした役割は大きい。するどい直観と洞察力をもとにアイヌ語と沖縄古語の比較などにより、学問的な裏づけも行い、また考古学者など各分野の専門家との対話を通して、この説を説得力あるものにしていったのである。

著者は、日本人の「あの世」観は、縄文時代以来の「あの世」観が連綿と受け継がれているという。太陽や月、そして生きとし生けるものすべてが、この世からあの世、あの世からこの世へと、永遠の循環の旅を続けている。これが日本文化の根底をなす、縄文時代からの日本人の世界観であり、死生観であるという。

一般に、日本人の「あの世」観に深い影響を与えたのは仏教の一派・浄土教だといわれる。確かに浄土教は、日本の主流仏教となったが、浄土教が主流となったのはほぼ日本だけであり、なぜ日本で浄土教が主流となったのかという謎がのこる。著者は、仏教伝来以前から日本に存在した縄文的な世界観にその理由があるのではないかという。魂の不死とその永遠の循環という縄文時代以来の信仰が、無意識のうちの浄土教へと流れ込んでいったからこそ、浄土教が日本の主流仏教となったのである。

一万年以上も続いた土着の文化は、外来思想が入ってきたからといって、かんたんにどこかへ消えてしまうものではなく、少しずつ形を変えながらも文化の底流となって生き続けていく。個々の具体例を通して、そんなことが実感され、縄文時代人が急に身近に感じられたりする本だ。

日本」という国―歴史と人間の再発見

2015-02-18 16:49:35 | 書評:日本人と日本文化
◆『 「日本」という国―歴史と人間の再発見

梅原猛の仏教関係の著作や縄文文化論に関する著作は、かなり読んできた。ただし、法隆寺論、柿本人麻呂論、聖徳太子論など「梅原古代学」にあたる本は、ほとんど読んでいない。

これは歴史学者との対談だが、縄文文化論も、古代学も含めて、日本古代史の専門家の意見とつき合わせながら、本人のこれまでの仕事を振り返っている。私自身は、縄文文化論に強い興味をもっているのだが、古事記、日本書紀論も、聖徳太子論も興味深く読むことができた。

最近私は、いわゆる弥生人の渡来と日本という国の成立との関係についてかなり強い関心をもっている。別の言い方をすれば、先住の縄文人と渡来した弥生人が、どのような軋轢や融和を繰り返しながら日本という国が成立していったかという問題である。その意味でも、この本でも振り返られている梅原の聖徳太子論にはかなり興味を引かれた。当時の大陸や半島との国際関係のなかで、それらと関連付けながら聖徳太子の生涯を捉えているからである。ただ彼の『聖徳太子』は全4巻もあるのでまだ読む気にはなれないが。それにしても私は、先住の縄文人と本格的な稲作技術ももって渡来した弥生人たちが、どのように抗争し、また混血しながら現代につらなる日本の原形ができていったのかという点につよい関心をもっている。

アニメ『もののけ姫』の冒頭でアシタカのの民たちは、自分たちを「えみし、大和朝廷に刃向かう東の民」と理解していた。このアニメの時代設定は室町時代と思われる。このころにもおそらく縄文系と弥生系の人々の対立が、何らかの仕方で残っていたのだと思われる。アイヌと琉球諸島の人々に縄文系の人々の血が色濃く残されているという説は、梅原によって主張され、その後のいくつかの縄文遺跡の発見や、DNAなどを使った人類学的な研究により、ほぼ定説になりつつある。えみしは最後には北海道でえぞとよばれるようになるのであろう。

縄文系の人々と弥生系の人々とは、弥生時代以来どのような関係をもったのか。大和朝廷が蝦夷を制圧していく過程で、どのような文化的な軋轢があったのか。また、大和朝廷が成立した過程で渡来系の人々はどのような役割を果たしたのか。あるいはこのような問いそのものがナンセンスなのか。そもそも渡来系の人々が大和朝廷を作ったのか。だとすればそのとき逆に縄文系の人々はそのような立場にあったのか。読んでいて興味は尽きない。

ブログ名を変更して出直します

2015-02-18 16:28:31 | 管理関係他
今日からこのブログのなまえを「探訪・日本の心と精神世界」と変更して、新たに出直しますのでよろしくお願いします。

これまで同様、日本史と世界史のクイズはそのままですが、それ以外の記事も投稿していきます。
これまで他のいくつかのブログで行ってきたことを、ここに集約していく予定です。
徐々にカテゴリーが増えていきますので、ご了承ください。