探訪・日本の心と精神世界

日本文化とそのルーツ、精神世界を探る旅
深層心理学・精神世界・政治経済分野の書評
クイズで学ぶ歴史、英語の名言‥‥‥

日本人の価値観

2015-02-18 19:06:30 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本人の価値観―「生命本位」の再発見』(立花均) 

著者は、日本人の価値観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たり、「日本」と「日本以外の世界」を対比できるユニークさを日本は持っていると主張する。それは、「人間-生物-無生物」の中でどこにいちばん大きな境界線を引くかという問題に集約される。

欧米人にとって人間は、被造物全体の中で特別に神の「息吹」を与えれたものとして、他の動物とは本質的に違う。神の似姿である人間は、他の動物より決定的に価値が高い。それは、人間の「理性」に根本的な価値を認め、そこに価値判断の基準を置くからだという。

ところが日本人は、「生命」に根本的な価値を認めるので、人間と動物は同じ「生命」として意識され、根本的な境界線は人間を含む「生命」と無生物との間に置かれるという。

この違いを示す面白い例として著者が挙げているのは、愛犬のためにお葬式をしてほしいと神父に頼む日本の老婦人の話である。イタリアから来たファナテリというその神父は、その依頼を受けて心底驚いた。イタリアでは、どんなに無学な人からもペットの葬式をして欲しいという発想は出てこないからだ。

欧米でも子供ならペットの葬式をすることはありうるだろう。しかし大人からはそういう発想は出てこないという。欧米では、大人と子供の世界は違っており、その間もはっきりとした境界線がある。そこにもやはり「理性」が育っているかいないかの価値判断が働いているらしい。

ところが日本では、大人と子供の世界が連続しており、しかも欧米で言えば子供の発想であるペットの葬式が当然のように大人の世界でも真面目に行なわれる。日本製アニメの世界的な流行の背景には、大人と子供の世界が連続しているという日本の文化的な特質が大きな要素としてあるかも知れない。大人が抵抗なくマンガ・アニメを見るのもそうだが、作り手の方も、欧米から見ると子供的な発想を保ったまま製作にかかわれるのだろう。(この本のレビュー続く)

ところで、「日本」と「日本以外の世界」という分け方に対しては、は少し乱暴なのではないかという見方もあるだろう。しかし、この本の主張のいちばん重要な部分が、「日本」と「非日本」とを対比し、日本人の生命観のユニークさを際立たせせることなのである。図式としては次のようになる。

非日本人  絶対的な価値をもつものの本体(神)≒人間 →→(隔絶)→→ 動物・物
日本人   絶対的な価値をもつものの本体 →→(隔絶)→→ 生命(人間・動物)∥物

日本人は、「絶対的な価値をもつものの本体」(形而上学的な原理)を打ち立てて、それとの関係で人間の価値を理解するような思考が苦手である。そうした思考法とは無縁に、人間も他の生き物や物と同じように、はかない存在ととらえる傾向がある。それに対して大陸の諸民族は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教教徒はもちろん、ブラフマン=アートマンの世界観を抱くインド人も、儒教中心の中国人も、多かれ少なかれ形而上学的な原理によって人間を価値付ける傾向があるという。儒教も、人間は自然界の頂点に立つ特別の選ばれた存在であるとみなすという。

著者は、日本人の価値観・生命観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たるユニークさをもつに到った理由を、明確に述べているわけではない。
しかし、もし日本人が、「日本以外の世界」と対比されるユニークさを持っていると言えるとすれば、つまり次の三つの理由によるのではないか。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

(1)については、土器を使いながら本格的な農耕・牧畜を伴わない豊かな新石器文化が長く続いたため、流入した大宗教(仏教)や儒教も、その基層文化を抹殺することなく、共存・融合した。大陸の多くの地域と違い、自然崇拝的、アニミズム的心性が色濃く残った。だから形而上学的な原理によって人間を価値付けようとする傾向も、本格的には取り入れられなかった。

(2)に関しては、『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見)』などで論じられている。

肉食が、直接的に、人間と他の生命を分離する価値観を生み出すのではない。しかし『日本人の価値観』の著者は、『肉食の思想』をそのように誤読している。実際は、「肉食」というよりも牧畜・遊牧という「生活形態」こそが、そのような価値観を生み出すのである。つまり多量の家畜をつねに育て、管理し、その交尾を日常的に目撃し、育てた家畜を解体して食べる、それが生活の重要な一部であればこそ、人間と家畜との徹底的な違いを強調せざるを得なかったのである。これに対し、牧畜・遊牧を本格的には導入しなかった日本の農耕文化というのが、かなりユニークでなのである。私は、これもまた日本人のアニミズム的心性を色濃く残したもう一つの大きな理由だと思う。


(3)についは、グレゴリー・クラーク 『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』などが、詳しく論じている。異民族との抗争や征服などが繰り返されると、自分たちの文化や宗教を正当化しようとするイデオロギー上の闘争も、必死なものとなる。宗教的な信念を理論化して、生残りを賭けた論争にも勝たなければならない。逆に言えば、日本人はその必要もなかったから、形而上学的な原理に無関心なのである。

山の霊力―日本人はそこに何を見たか

2015-02-18 18:58:31 | 書評:日本人と日本文化
◆『山の霊力―日本人はそこに何を見たか (講談社選書メチエ)』(町田 宗鳳)

「山の霊力」というタイトルからはやや分かりにくいが、山をめぐる著者独自の観点から原始から古代までの日本の精神史を論じた本だ。多方面からよく調べられ
、山が日本人の精神形成にいかに大きな役割を果たしていたかが、具体的に考察されており、読んで興味尽きなかった。個人的には、三内丸山遺跡や花巻など東北をめぐる旅の途上で読んだ本だったのでなおさら印象深かった。

縄文人にとって山は生き物であり、神であったということが、印象深く語られる。さらに山に重ねあわされた動物のイメージは、大蛇(おろち)ではなかったかという。大蛇信仰は、やがて巨木信仰へと移行する。三内丸山遺跡のやぐら(六本柱)も巨木信仰のルーツか。大蛇の化身である山の巨木を切り、ふもとにつき立て、おろちの生命力を住む場所に注入しようとしたのか。諏訪の御柱祭は、そのような巨木信仰を残すものかもしれない。蛇体、巨木への信仰は、縄ひも(蛇の変形)への信仰につながる。神社のしめ縄は、二匹の蛇がからむ姿そのものだ。さらに縄文土器の縄目模様も、山、大蛇、巨木‥‥と連なる信仰に関係するのか。

日本の縄文時代やその後の古代史について、きわめて情報量も多く、視点も新鮮で、目が開けるような想いで読んだ。

日本人はなぜ日本を愛せないのか

2015-02-18 17:15:45 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)

もちろんタイトルにあるように「日本人はなぜ日本を愛せないのか」を、その歴史や地理的な背景にも言及しながら、ていねいに考察している。しかし、それだけではなく、日本が無意識に陥ってしまっている西欧崇拝や西欧中心主義の視点はなぜ生まれたのか、日本が失わなかった伝統的な文化の特色がなぜ今世界に必要とされているのか等々、日本人として自覚しておくべき大切なメッセージが、著者の熱い思いとともに込められた本だ。編集部の質問に答えるという対話体で書かれている。実際は、そういう形式をとって分かりやすく、しかし充分に考え抜かれた構成と内容で書かれた本だと思う。

著者は、日本が指導的大国として世界にアピールできる長所は何かと問いかける。多くの日本人は、それに即座に答えられないだろう。自分の国にそんな長所があるとは思えないのだ。しかし実際には、大いに自覚すべき長所がある。ひとつは、異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会という日本社会の特長だ。世界の多くは、宗教的な制約などで日本ほど自由に文化の取り入れができない。日本は、強調的、混合文化社会という自らの文化の価値を世界に積極的にアピールすべきだ。

ふたつめは、日本文化の深層にあるアニミズム的な生命観だ。一神教的な世界観は、神を最高位に置く人間中心主義が濃厚だが、日本人の場合は、生命のみならず山や森にさえ魂を感じ、人も動物もひと続きの循環構造のなかを巡っているという古代的な生命観が、心の深層に流れている。

今、世界の主導権を握っているのは、強烈な自己主張と他者への執拗な排除攻撃を続ける「動物原理」を基本とするユーラシア文明だろう。その中心が一神教文明だ。しかし、世界は今、行き詰っている。アメリカは、これまでのようなずば抜けた超大国としては破綻する兆しが見えてきた。その代わり中国が台頭してきているかに見えるが、実際は無理に無理を重ねて背伸びをし、中華帝国再興を目指して走り続けている。しかし、中国も突如として内部の山積した矛盾が噴出して大混乱に陥る可能性が高い。

その時、世界は壊滅的な大津波に襲われるかもしれない。その危機に面したとき、これまでのあまりに人間中心的だった西欧的世界観の反省にたって、人類と地球環境の共存を最重視する戦線縮小の時代が始まるだろう。日本人には、元来、人間ももろもろの生物の中の一員として、他の生き物たちの「お陰で」生かされているという生命観があった。そうした生命観を自覚的に捉えなおして、そこに、21世紀の危機を乗り越えるのに大いに貢献すべき大切な何かがあることに目覚める必要がある。それが著者の主張だ。

かんたんに要約してしまったが、このような結論にいたるまでに、本書はじつにていねいに様々な具体例を挙げながら考察する。一神教的で牧畜型のユーラシア文明の欠点や、そのような一神教的世界観に立った西欧世界が、どのような横暴によってアジア、アフリカ、南米などを植民地支配してきたか、日本人がそうした西欧文明の悪の部分にいかに無自覚で、お人よしで、西欧コンプレックスから脱しきれていないか等々、興味がつきない考察が、随所に散りばめられている。

あの世と日本人

2015-02-18 16:54:40 | 書評:日本人と日本文化
◆『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))

今でこそ、日本の文化の基層には、一万年以上続いた縄文文化が根づよく横たわっているという説は、ほぼ認められたといっていいが、このような説が受け入れられていく過程で著者・梅原猛の果たした役割は大きい。するどい直観と洞察力をもとにアイヌ語と沖縄古語の比較などにより、学問的な裏づけも行い、また考古学者など各分野の専門家との対話を通して、この説を説得力あるものにしていったのである。

著者は、日本人の「あの世」観は、縄文時代以来の「あの世」観が連綿と受け継がれているという。太陽や月、そして生きとし生けるものすべてが、この世からあの世、あの世からこの世へと、永遠の循環の旅を続けている。これが日本文化の根底をなす、縄文時代からの日本人の世界観であり、死生観であるという。

一般に、日本人の「あの世」観に深い影響を与えたのは仏教の一派・浄土教だといわれる。確かに浄土教は、日本の主流仏教となったが、浄土教が主流となったのはほぼ日本だけであり、なぜ日本で浄土教が主流となったのかという謎がのこる。著者は、仏教伝来以前から日本に存在した縄文的な世界観にその理由があるのではないかという。魂の不死とその永遠の循環という縄文時代以来の信仰が、無意識のうちの浄土教へと流れ込んでいったからこそ、浄土教が日本の主流仏教となったのである。

一万年以上も続いた土着の文化は、外来思想が入ってきたからといって、かんたんにどこかへ消えてしまうものではなく、少しずつ形を変えながらも文化の底流となって生き続けていく。個々の具体例を通して、そんなことが実感され、縄文時代人が急に身近に感じられたりする本だ。

日本」という国―歴史と人間の再発見

2015-02-18 16:49:35 | 書評:日本人と日本文化
◆『 「日本」という国―歴史と人間の再発見

梅原猛の仏教関係の著作や縄文文化論に関する著作は、かなり読んできた。ただし、法隆寺論、柿本人麻呂論、聖徳太子論など「梅原古代学」にあたる本は、ほとんど読んでいない。

これは歴史学者との対談だが、縄文文化論も、古代学も含めて、日本古代史の専門家の意見とつき合わせながら、本人のこれまでの仕事を振り返っている。私自身は、縄文文化論に強い興味をもっているのだが、古事記、日本書紀論も、聖徳太子論も興味深く読むことができた。

最近私は、いわゆる弥生人の渡来と日本という国の成立との関係についてかなり強い関心をもっている。別の言い方をすれば、先住の縄文人と渡来した弥生人が、どのような軋轢や融和を繰り返しながら日本という国が成立していったかという問題である。その意味でも、この本でも振り返られている梅原の聖徳太子論にはかなり興味を引かれた。当時の大陸や半島との国際関係のなかで、それらと関連付けながら聖徳太子の生涯を捉えているからである。ただ彼の『聖徳太子』は全4巻もあるのでまだ読む気にはなれないが。それにしても私は、先住の縄文人と本格的な稲作技術ももって渡来した弥生人たちが、どのように抗争し、また混血しながら現代につらなる日本の原形ができていったのかという点につよい関心をもっている。

アニメ『もののけ姫』の冒頭でアシタカのの民たちは、自分たちを「えみし、大和朝廷に刃向かう東の民」と理解していた。このアニメの時代設定は室町時代と思われる。このころにもおそらく縄文系と弥生系の人々の対立が、何らかの仕方で残っていたのだと思われる。アイヌと琉球諸島の人々に縄文系の人々の血が色濃く残されているという説は、梅原によって主張され、その後のいくつかの縄文遺跡の発見や、DNAなどを使った人類学的な研究により、ほぼ定説になりつつある。えみしは最後には北海道でえぞとよばれるようになるのであろう。

縄文系の人々と弥生系の人々とは、弥生時代以来どのような関係をもったのか。大和朝廷が蝦夷を制圧していく過程で、どのような文化的な軋轢があったのか。また、大和朝廷が成立した過程で渡来系の人々はどのような役割を果たしたのか。あるいはこのような問いそのものがナンセンスなのか。そもそも渡来系の人々が大和朝廷を作ったのか。だとすればそのとき逆に縄文系の人々はそのような立場にあったのか。読んでいて興味は尽きない。

ブログ名を変更して出直します

2015-02-18 16:28:31 | 管理関係他
今日からこのブログのなまえを「探訪・日本の心と精神世界」と変更して、新たに出直しますのでよろしくお願いします。

これまで同様、日本史と世界史のクイズはそのままですが、それ以外の記事も投稿していきます。
これまで他のいくつかのブログで行ってきたことを、ここに集約していく予定です。
徐々にカテゴリーが増えていきますので、ご了承ください。