一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『昭和史発掘 4』を読む。その1

2005-06-27 00:17:34 | Book Review
1960年代に週刊誌連載の後、単行本化され、1970年代に文庫化されたものの新装版(新装版第4巻は、旧文庫第5巻の一部(「小林多喜二の死」)+旧文庫第6巻の一部(その他3編)。

第4巻は、
「小林多喜二の死」
「京都大学の墓碑銘」
「天皇機関説」
「陸軍士官学校事件」
の4編よりなる。

●「小林多喜二の死」
プロレタリア文学の興亡と、その末期に起った、警察権力の拷問による作家小林多喜二の惨殺を描く。

今日では想像できないが、プロレタリア文学は、一時、昭和文学界を席巻し、芥川の自死もそれに脅威を覚えたからとの説もある。
「芥川は、新しい時代がくるということをかたく信じていた。そして、自分の文学がはたしてよく来るべき新時代に耐えてゆけるかどうかという大きな不安のためにも苦しんだ。」
「『新時代』に対する芥川の理解と共感は、ある得体の知れぬ脅威と恐怖に裏付けられてもいたようである。」(平野謙『昭和文学史』)

そのような時代に、小林多喜二は作家として文壇に登場した。

多喜二の処女作『一九二八年三月十五日』は、彼の住んでいた小樽の治安維持法違反事件(もちろん日本共産党の弾圧事件「三・一五事件」の一環)をモデルにしたもので、労働者の群像を主人公にし、警察権力の暴力的な弾圧を告発している。
しかし、プロレタリア文学批評家の蔵原惟人からは、一応の評価を受けながらも、
「作者はその背景をなした大衆の運動をほとんど描いていない」
との指摘を受けた。

その批判を受けて、不徹底さを克服すべく書かれた『蟹工船』は、広く一般の文壇からも認められ、
「読売新聞紙上では、この作がその年の上半期の最大傑作であるという推薦が多くの文芸家から寄せられた。」
「多喜二の『一九二八年三月十五日』と『蟹工船』は、はじめてプロレタリア小説を一般文壇に強く認めさせたのである。」

多喜二は、文学活動の面だけではあきたらず、昭和7(1932)年から「非合法の党生活者にな」り、特高警察からの追及を受ける。
昭和8(1933)年二月二十日正午過ぎ、警察に捕まり、「残虐を極めた拷問は前後三時間以上もつづけられ、多喜二はついに無意識状態に陥った。」
「膝頭から上は、内股といわず太腿といわず一分の隙もなく一面に青黒く塗り潰したように変色している。寒いときなのに股引も猿股もはいていない。臀から下腹にかけては、まるで青インキを塗ったように陰惨な青黒色に覆われていた。」
「小林多喜二は築地署裏の前田病院に運ばれて、まもなく絶命した。午後七時四十五分だった。三十歳であった。」

拷問が当時の特高警察の常套手段とはいえ、小林多喜二に加えられた暴力は、明らかにリンチという色彩が濃い。
しかも、市川築地署長は、
「殴り殺したというような事実は全くない。当局としては出来るだけの手当てをした。長い間捜査中であった重要被疑者を死なしたことはまことに残念だ」
と白々しいコメントを発表したという。

警察は、プロレタリア文学者の多喜二だということを知っていて、リンチに処した。一種の見せしめである。また作品『一九二八年三月十五日』で警察の暴力を告発したことに対する復讐という面もあろう。
――昭和5(1930)年、共産党へのシンパ容疑で大阪中之島警察署に勾留された時、、「おまえが小林多喜二か。おまえは三月十五日とかいう小説の中で、よくも警察のことをあんなに悪う書きよったな。ようし、あの小説の中にある通りの拷問をしてやるからそう思え」
と刑事が言ったという事実を松本は紹介している。

「正義」を背負った権力の暴力(それは戦争だけではない)が、いかなる事態を生むかの端的な一例を、小林多喜二の惨殺は示しているといえるだろう。

この項、つづく。


松本清張
『昭和史発掘 4』
文春文庫
定価:本体829円+税
ISBN4167697033

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