以下、小生なりの想像を続ける。
この石河という男、どの職場にも、少なくとも1人や2人はいるタイプにも思える。
まず、さほど能力があるわけではないけれど、一つのことを継続して、倦まず弛まず行なう粘り強さがある。悪く言えば、粘着質、恨みに思ったら一生忘れない方だろう。
また、思考には一種の固さとか狭さがあり、柔軟性には欠けている。
転向などを容易くする男ではないが、他の意見を取り入れるほどの度量もない。
だから、組織のトップやその参謀役には不向き。営業職などの第一線の現場でもなく、後方支援部隊、たとえば経理や総務をつつがなく勤めるというタイプだろう。
そのような男が、なぜか新聞社の、しかも論説畑に就いたというのだから、世の中は分らない。しかも、結果的には、明治18(1885)年から大正11(1922)年までの37年の長きにわたって「一貫して『時事新報』の編集や論説作成にかかわっていた」(『福沢諭吉の真実』)のだから、一層のことである。
それでは、「上司」である福沢の石河評価はどうか。
少なくとも、論説記者に必要な文章力については、さほど評価されていない。
「新聞の社説とて出来るものは甚少し。中上川(彦次郎)の外には水戸の渡辺(治)高橋(義雄)又時としては矢田績が執筆、其他は何の役にも立不申(たちもうさず)、不文千万なることなり」(1884年2月2日付福沢書簡)
「石河はあまりつまらず、先づ翻訳位のものなり」(1888年8月27日付福沢書簡)
福沢自体は、『福翁自伝』を見ても分るように、自負心の強い人物。
このような人は、得てして、頭が自分と同じようにキビキビ働かないことを嫌う傾向がある。つまり、才人は才人を好むというわけですな。
だから、高橋義雄のように「思想の方向性とでもいうべきものが近似してい」(『福沢諭吉の真実』)る人物などは、高い評価を受ける。
一方、石河のように、頭の切れが好い方でもなく、文章が巧いわけでもない人物、しかも、「思想の方向性」が違っている人物は、せいぜい「有能な実務者としての扱いしか」(『福沢諭吉の真実』)されないのである。
しかし、石河は石河なりの自負心も、福沢とは異なる自己評価もある。
その食違いが、福沢と石河との不幸な関係を生みだすことになる……。
*写真は『佐竹本三十六歌仙絵巻』より「源順」。数寄者としても知られた高橋義雄(箒庵)は、大正時代、あまりの高価さゆえに切断されて売られた『三十六歌仙絵巻』の内、この絵を手に入れた。
この石河という男、どの職場にも、少なくとも1人や2人はいるタイプにも思える。
まず、さほど能力があるわけではないけれど、一つのことを継続して、倦まず弛まず行なう粘り強さがある。悪く言えば、粘着質、恨みに思ったら一生忘れない方だろう。
また、思考には一種の固さとか狭さがあり、柔軟性には欠けている。
転向などを容易くする男ではないが、他の意見を取り入れるほどの度量もない。
だから、組織のトップやその参謀役には不向き。営業職などの第一線の現場でもなく、後方支援部隊、たとえば経理や総務をつつがなく勤めるというタイプだろう。
そのような男が、なぜか新聞社の、しかも論説畑に就いたというのだから、世の中は分らない。しかも、結果的には、明治18(1885)年から大正11(1922)年までの37年の長きにわたって「一貫して『時事新報』の編集や論説作成にかかわっていた」(『福沢諭吉の真実』)のだから、一層のことである。
それでは、「上司」である福沢の石河評価はどうか。
少なくとも、論説記者に必要な文章力については、さほど評価されていない。
「新聞の社説とて出来るものは甚少し。中上川(彦次郎)の外には水戸の渡辺(治)高橋(義雄)又時としては矢田績が執筆、其他は何の役にも立不申(たちもうさず)、不文千万なることなり」(1884年2月2日付福沢書簡)
「石河はあまりつまらず、先づ翻訳位のものなり」(1888年8月27日付福沢書簡)
福沢自体は、『福翁自伝』を見ても分るように、自負心の強い人物。
このような人は、得てして、頭が自分と同じようにキビキビ働かないことを嫌う傾向がある。つまり、才人は才人を好むというわけですな。
だから、高橋義雄のように「思想の方向性とでもいうべきものが近似してい」(『福沢諭吉の真実』)る人物などは、高い評価を受ける。
一方、石河のように、頭の切れが好い方でもなく、文章が巧いわけでもない人物、しかも、「思想の方向性」が違っている人物は、せいぜい「有能な実務者としての扱いしか」(『福沢諭吉の真実』)されないのである。
しかし、石河は石河なりの自負心も、福沢とは異なる自己評価もある。
その食違いが、福沢と石河との不幸な関係を生みだすことになる……。
*写真は『佐竹本三十六歌仙絵巻』より「源順」。数寄者としても知られた高橋義雄(箒庵)は、大正時代、あまりの高価さゆえに切断されて売られた『三十六歌仙絵巻』の内、この絵を手に入れた。
ご存知だったかもしれませんが、念のため。
なお、私の石河評価については、近代日本ジャーナリズム史全体からみて、不当に辛すぎる、という批判が出ております。
福澤本人と比べれば、誰でも二流に感じられてしまうのは当然で、福澤を除いた新聞人の中では、「言うべきことは言う」一流のジャーナリストであった、というのです。
ご教示ありがとうございました。
早速、お教えいただいたブログ拝見しました。
正直なところ、小生のような素人では
歯の立たない水準の高さに、いささか怖気を振るっているというのが正直なところ。
小生、物書きの端くれですが、小説も書いておりますので、
やはり、福沢と石河との人間関係に
どうしても興味がひかれます。
ということで、無責任にも勝手な想像を
書き付けることにした次第です。
小説作品になる題材だと思っておりますので、
今回のブログは、そのためのエスキースの
つもりでいるのですが……。
フィクションにまとめるにせよ、
あまりにも見当外れになるのは
まずいとは思っております。
そのような点、ございましたら
ご指摘いただければ幸甚に存じます。
これからもよろしくお願いいたします。
では、また。