前回述べた松本清張の文章には、フィクションの要素は入っていません。
何らかの史料の裏づけがある(例えば、徳富蘇峰『公爵山県有朋伝』などにも書かれている)。それらの史料をモンタージュした結果が、このような表現になっています。
ただ、細部へのこだわりがあるため、手触りのあるリアルなものになっているのです。
しかし、これとても、視点がミクロなだけ(いわば「クローズ・アップ」)で、第三人称の純客観体(=歴史書の文体)であることに変りはありません。
それでは、第三人称の純客観体の小説には、読み手に対してどのような効果を与えるのでしょうか。
まずは、そこに書かれている内容が、作り事ではないという印象を与えます(たとえ純粋なフィクションであろうが、読み手への印象としてはあたかも「実際に起ったこと」と思わせる)。
それと密接な関係がありますが、事実の記述の中にフィクションを入れ込むと、フィクションの部分も目立たなくなり、全体が事実であるかのような印象をも与えます。
それでは、司馬遼太郎の作品のような(典型的なものは『翔ぶが如く』)、事実の記述で押し通したものは、小説といえるのでしょうか。そうなったら、もはやノン・フィクションと読んだ方がいいのではないでしょうか。
しかし、そこには依然として、「物語」を語ろうとする書き手の意志が働いています。
その意志は、どのようなところに現われているのか。
次回は、その辺りのお話を。
何らかの史料の裏づけがある(例えば、徳富蘇峰『公爵山県有朋伝』などにも書かれている)。それらの史料をモンタージュした結果が、このような表現になっています。
ただ、細部へのこだわりがあるため、手触りのあるリアルなものになっているのです。
しかし、これとても、視点がミクロなだけ(いわば「クローズ・アップ」)で、第三人称の純客観体(=歴史書の文体)であることに変りはありません。
それでは、第三人称の純客観体の小説には、読み手に対してどのような効果を与えるのでしょうか。
まずは、そこに書かれている内容が、作り事ではないという印象を与えます(たとえ純粋なフィクションであろうが、読み手への印象としてはあたかも「実際に起ったこと」と思わせる)。
それと密接な関係がありますが、事実の記述の中にフィクションを入れ込むと、フィクションの部分も目立たなくなり、全体が事実であるかのような印象をも与えます。
それでは、司馬遼太郎の作品のような(典型的なものは『翔ぶが如く』)、事実の記述で押し通したものは、小説といえるのでしょうか。そうなったら、もはやノン・フィクションと読んだ方がいいのではないでしょうか。
しかし、そこには依然として、「物語」を語ろうとする書き手の意志が働いています。
その意志は、どのようなところに現われているのか。
次回は、その辺りのお話を。
http://w-master.net/se/7rImn/
http://tamotamo.net/mote/YRH-Q/
http://w-master.net/se/OyBE3/