一言で表せば「隔靴掻痒」。
セピア色の、しかもピントのずれた写真を見ているよう。
原因その1。
テーマである「里見甫(はじめ)」の実像に迫れていない。
魅力ある人物であるからといって、ノンフィクション作家まで、その魅力に捕らえられてしまってはいけません。
以下は、それが矛盾として現われた1例。
里見の火葬の際、「頭蓋骨が淡いピンク色に染まって」いたという事実(阿片常習者の特徴だという)のリアリティーと、彼の戦前の生活とのリアリティーとの間に、佐野は、どのような関係を見出しているのか。
阿片を商品として扱うことが、結局は阿片常習という罠に陥ることになったということなのか。
それにしては、
原因その2。
前半の「里見甫」の部分と、それを取り巻く女たちの部分が、十分に融合していない。
確かに「梅村うた」「梅村淳」と破天荒な人生を送った人物たちが、里見の周辺を彩っているが、それはあくまでも傍役に過ぎない。
それを忘れて、その副筋を半分近くの分量をとって扱うのは如何なものか。
しかも、記述の大部分が、必ずしも里見の人物に迫るためのものではなく、そこで完結してしまっているのだから。
以上、2点がノンフィクション作品としての大きな破綻。
その他に、文章作品としては、奇矯な表現や奇怪至極な言い回しが、あまりにも多過ぎるのではないか。
1例としては、
うーむ、これはいささかお勧めしずらい本であります。
小生、佐野真一の『巨怪伝』(正力松太郎)や『カリスマ』(中内功)は買うが、これは2書より出来がよろしくないのではないのか(対象へののめり込み度に、自制が働いているかどうかに原因あり)。
佐野真一
『阿片王 満州の夜と霧』
新潮社
定価:本体1,890円(税込)
ISBN4104369039
セピア色の、しかもピントのずれた写真を見ているよう。
原因その1。
テーマである「里見甫(はじめ)」の実像に迫れていない。
魅力ある人物であるからといって、ノンフィクション作家まで、その魅力に捕らえられてしまってはいけません。
以下は、それが矛盾として現われた1例。
里見の火葬の際、「頭蓋骨が淡いピンク色に染まって」いたという事実(阿片常習者の特徴だという)のリアリティーと、彼の戦前の生活とのリアリティーとの間に、佐野は、どのような関係を見出しているのか。
阿片を商品として扱うことが、結局は阿片常習という罠に陥ることになったということなのか。
それにしては、
「うなるような札束に囲まれながら、里見はそれで私服を肥やすようなことはまったくなかった。酒は一滴も飲まず、贅沢といえば、英米製の高級シガレットを絶え間なく吸うくらいにものだった。/誰いうとなくつけられた『阿片王』という、殺伐としておどろおどろしいニックネームを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。」という表現との整合性が、あまりにもないエピソードである。
原因その2。
前半の「里見甫」の部分と、それを取り巻く女たちの部分が、十分に融合していない。
確かに「梅村うた」「梅村淳」と破天荒な人生を送った人物たちが、里見の周辺を彩っているが、それはあくまでも傍役に過ぎない。
それを忘れて、その副筋を半分近くの分量をとって扱うのは如何なものか。
しかも、記述の大部分が、必ずしも里見の人物に迫るためのものではなく、そこで完結してしまっているのだから。
以上、2点がノンフィクション作品としての大きな破綻。
その他に、文章作品としては、奇矯な表現や奇怪至極な言い回しが、あまりにも多過ぎるのではないか。
1例としては、
「これ(梅村母子の家系図)を手に入れたとき、梅村淳と梅村うた親子、そして里見甫の三人が、満州帝国皇帝に祭りあげられたラストエンペラーの宣統帝溥儀を連結器として、満州の夜と霧を切り裂いて疾走する長い夜汽車のように、静寂(しじま)を破って繋がったという妄想に似た思いにかられた。」一読して、意味が分かる方はいらっしゃるのだろうか。
うーむ、これはいささかお勧めしずらい本であります。
小生、佐野真一の『巨怪伝』(正力松太郎)や『カリスマ』(中内功)は買うが、これは2書より出来がよろしくないのではないのか(対象へののめり込み度に、自制が働いているかどうかに原因あり)。
佐野真一
『阿片王 満州の夜と霧』
新潮社
定価:本体1,890円(税込)
ISBN4104369039
今月末の〆切が1件ありまして、
ご返事が遅れて申し訳ありません。
さて、
>佐野眞一ノンフィクションには2つの流れがあると思っていて
とのご意見、なるほどなあと思いました。
どうも小生、
>沢木耕太郎のナイーブさがなくてえぐい
のは苦手なようです。
いろいろなことに気づくことができました。
今後ともよろしくお願いします。
なお、3月30日付き本ブログで、
「男装の麗人」について書きましたので、
こちらもご意見いただければ幸いです。
では、また。
>佐野真一の『巨怪伝』(正力松太郎)や『カリスマ』(中内功)は買うが、これは2書より出来がよろしくないのではないのか(対象へののめり込み度に、自制が働いているかどうかに原因あり)。
<
これはありますね、確実に。
のめりこみすぎ。
ただ私は、佐野眞一ノンフィクションには2つの流れがあると思っていて、そのどちらをおもしろいと思うか、または両方おもしろいと思うかで評価が分かれるんじゃないかと考えます。
一つは『カリスマ』的、正統派ジャーナリズム作品。
丁寧に調べ、対象からできるだけ距離を置こうとしている。
もう一つが『東電OL殺人事件』に代表される、沢木耕太郎的「私ノンフィクション」。
事件に参加し、その中での感情を表現していく。
そしてこれは、後者の流れだと思っています。
私は後者は後者でおもしろい(沢木耕太郎のナイーブさがなくてえぐいのが、いい味になっている)と思うので、この作品もおもしろく読めました。
ただ、歴史物でこれをやるのはいかがなものかという思いはあります。
なんかこの突っ走り具合は、歴史検証も間違えているんじゃないかと疑っちゃったり。
この部分をきちんと検証できない自分が悔しいのですが。