諏訪部順一、「両面宿儺坐像」ほか、約160体の円空仏が大阪に大集合する『円空―旅して、彫って、祈って―』音声ガイドに決定
Spice より 240130
あべのハルカス美術館開館10周年記念『円空 ―旅して、彫って、祈って―』
2月2日(金)〜4月7日(日)の期間、
大阪・あべのハルカス美術館にて開催されるあべのハルカス美術館開館10周年記念『円空 ―旅して、彫って、祈って―』の見どころが公開され、音声ガイドのナビゲーターを諏訪部順一が務めると発表された。
生涯に12万体の仏像を彫ると誓ったといわれる江戸時代の僧.円空(えんくう,1632~95)。
江戸時代前期に美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、幼いころに出家したのち修験僧として日本各地の霊場を旅し、神仏を彫り、祈りを捧げた。現存する円空仏は5,000体を超える。
関西で20年ぶりの大規模な円空展として、同展には約160体の円空仏が大集合。
木端仏(木の破片を削って作った仏像)のような小さな彫刻から2mを超える大作まで大小様々な作品が展示される。
彫刻のみならず「円空さん」の生涯を伝える絵画や文書、書籍も一挙に紹介し、円空の足跡を全5章でたどる。展示構成は下記の通り。
●第1章 旅の始まり
壬申年(寛永9年(1632))美濃国で生まれた円空。寛政2年(1790)に出版され、約100人の有名無名の江戸時代の奇特な人物の逸話を伝えていた『近世畸人伝(きんせいきじんでん)』には、幼いころに出家し、23歳の時、寺を離れ富士山や白山に籠ったと記されている。
しかし、円空の同時代資料には、そのことを明らかにするものは残っていない。今日伝わる円空のもっとも古い作品は寛文3年(1663)、数え年32歳のときに彫ったものとされている。
同章では円空が神仏を彫り始めたごく初期に岐阜や三重でじっくり丁寧に作ったと思われる作品のほか、旅先である北海道での事績を伝える文献資料、円空の肖像画などを展示し、円空の人となりや初期の造仏活動を紹介する。
●第2章 修行の旅
「護法神像(荒神像)」 奈良県・栃尾観音堂
寛文11年(1671)、40歳の円空は奈良の法隆寺において法相宗の法系に連なる僧であると認められた。これにより釈迦からインドの無著(むじゃく)・世親(せしん)や中国の玄奘(げんじょう),奈良時代の名僧・行基(ぎょうき)らの法系に連なる僧となった。
さらに奈良の吉野大峰山・笙の窟(しょうのいわや)で越冬参籠(えっとうさんろう)も修め、修験の行者としての修行を積み重ねていく。その間に円空の彫刻の作風も、初期の表面がすべすべとした丁寧な作風から、よりごつごつとした大胆な作風へと変化する。
同章では法隆寺の大日如来坐像、愛知県・荒子観音寺の諸像など、この時期の作風の変化を辿ることができる作品とともに、円空が修理し、見返し絵を描いた大般若経などを紹介する。
●第3章 神の声を聴きながら
不動明王及び二童子立像 栃木県・清瀧寺
延宝7年(1679)、48歳の円空は「円空の彫る像は仏そのものである」という白山神の託宣を聴く。これ受け円空の造仏活動はますます盛んになっていった。
また、この年には滋賀県・園城寺において、園城寺を本山とする天台宗寺門派の密教の法を継ぐ僧であることを認められる。これにより毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)から印度の竜樹(りゅうじゅ)、中国の天台大師、平安初期の智証大師(円珍)らの法系にも連なることになった。
その後円空は、関東の修験の寺院や霊場を巡って修行の旅を続けながら作品を残していく。同章では園城寺の善女龍王立像や埼玉、栃木に残るものも含め、力のみなぎった50歳前後の円空の作品を紹介する。
●第4章 祈りの森
「金剛力士(仁王)立像(吽形)」 岐阜県・千光寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
前述の『近世畸人伝』には、円空と交友のあった飛騨の千光寺の住職・舜乗(しゅんじょう)の人となりも記されている。
人を疑うことを知らないと伝えられた舜乗と意気投合し、円空は貞享2年(1685)前後、しばし緑豊かな森に抱かれた千光寺に滞在し、彫刻に没頭したものと思われる。円空は、近代になると美術の歴史の中ではほとんど忘れられてしまっていたが、再び注目され、現在の評価に至るのは、彫刻家・橋本平八(1897-1935)が昭和6年(1931)に千光寺で円空仏を発見したことに端を発する。
同章では「両面宿儺(りょうめんすくな)坐像」や立木仏(地面に生えたままの立ち枯れた木を彫って作られた仏像)として彫られたと伝わる「金剛力士(仁王)立像」をはじめ、千光寺に伝わる円空仏の数々を紹介する。
●第5章 旅の終わり
「護法神立像(制吒迦童子立像)」・「善財童子立像(矜羯羅童子立像)」 岐阜県・神明神社(関市円空館寄託)
千光寺に滞在した前後から晩年の10年間、円空は飛騨や美濃を中心に、伊吹山、日光、木曽などを旅し、神仏を彫り、祈りを続けた。
元禄2年(1689)には、園城寺から、円空が再興した弥勒寺が天台宗寺門派の末寺に加わることを許された。翌年には岐阜県・桂峯寺の今上皇帝立像の背面に「當国万仏 十マ仏作也」と墨書銘を記した。
この銘文の意味するところについては意見が分かれるが、円空が10万体を彫り上げたという解釈もある。その後も円空は神仏を彫り続けるが、元禄5年(1692)、岐阜県・高賀神社での造仏以降は確かな作品は見られなくなる。
元禄8年(1695)、64歳の円空は弥勒寺を弟子に譲り、弥勒寺の傍らを流れる長良川の岸辺で亡くなったと伝えられる。同章では、晩年の約10年間に作られたと考えられる飛騨、美濃地方に残る多様な円空仏を紹介する。
「両面宿儺坐像」 岐阜県・千光寺 画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
上記5章で構成される同展は、あべのハルカス美術館1会場のみで開催。
音声ガイドは、『呪術廻戦』両面宿儺(りょうめんすくな)役や『テニスの王子様』跡部景吾役などで知られる、声優、ナレーター、ラジオパーソナリティの諏訪部順一が務める。収録後のコメントも到着した。
真実はさておき、生涯において約12万体の仏像を彫ったと言われている円空。その作風は、後期になればなるほどミニマルです。 元々の木の形を活かし、多くない手数で彫り上げられた仏像の数々は、その素朴な佇まいとは裏腹にとても雄弁。
そこに込められた円空の思いや願いが時を越えて伝わってくるようです。
個人的にはやはり、彼の代表作のひとつでもある「両面宿儺坐像」が気になりますね。そんな貴重な品々を、よりディープにご鑑賞いただくための音声ガイド。
今回、私が担当しております。ぜひともご活用いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
諏訪部注目の「両面宿儺坐像」が表紙両面にあしらわれた公式図録のほか、展覧会オリジナルグッズも多数用意。詳しくは美術館公式HPをチェックしよう。
チケットはイープラスほか、プレイガイドにて発売中。