瑠璃廠
第二節 北京の経済(続き)
手工業 官営から民営へ
元末の農民蜂起以降、元々ずっとモンゴルの支配者の官営の手工業部門で働いていた職人たちも、一定程度は解放された。明朝の支配層は手工業の職人を引き続き使役するため、職人を交替制の当番(輪班)と家住み(住坐)の二種類に分けた。職人たちは定期的に皇室のために使役される以外に、いくらかの自由時間でちょっとした手仕事で生計を立てた(営生)が、このことは明代の手工業発展にとりたいへん有利であった。
永楽の遷都で、明朝朝廷は18万戸を交替制当番の職人とし、定期的にグループ毎に北京へ来て使役に就くよう規定した。三年或いは四年毎に一回当番(輪班)に当り、各戸から職人を一人出すので、推計で毎年北京に来て使役に就く職人は4万5千人余り、季節毎だと1万1千人余りであった。この他、更に2万7千戸の家住み(住坐)の職人を南京から引っ越しさせ、彼らは以後大興、宛平両県の戸籍に附き、長期間北京に留まった(顧炎武『天下郡国利病書』14江南応天府の条。『宣徳実録』巻64)
全国各地の職人が北京に集まり、全国の様々な手工業技術もそれにつれて北京にもたらされた。手工業の職人がここで多くの精巧な手工芸品を作り出し、その他の軍人、庶民と共に気迫溢れる北京城を打ち立てた。明初の北京の官営の手工業は、鉄の製錬、銅の鋳造、紡織、或いは武器、火薬の製造の技巧で、何れも前代を超越した。織染局では、藍染(藍靛)工場で働く職人には32種の職種があり、糸打ち(打線)から巻き付け(絡絲)、クロスステッチ(挑花)、紡織、漂白(洗白)から染色まで、織りと染めの工程を含み、細かく分業されていた。兵仗局で使役されている職人は34種の職種があり、その中には弓職人、火薬職人、神箭(衛矛)職人などのように、皆特殊な制作技能を持っていて、彼らと軍器局の工匠が共同で生産した火器は58種の多さに達した。内府に服務する工匠の制作の漆器、香炉、景泰藍(七宝)瓶、鏤金 (彫刻し金メッキした)器物、宮扇(うちわ)などの工芸品は皆たいへん精巧で緻密で、雕漆(漆を塗り重ねて浮彫にした漆器)と 景泰藍は既に全国に名をはせた珍品となっていた。
雕漆
北京城郊外の各地で、官府(官庁、役所)の管理下で石を穿ち、焼き物を焼き、鉄の製錬に従事したかまどや炉の職人たちが、専ら北京城の石垣、宮殿、寺院やそれらの居室の修築のため原料を供給し、その中でもかまど職人が焼いた光輝く瑠璃瓦は猶更独特の風格を備えていた。手工業の職人たちが北京の面影を変化させたが、彼らが官府から受けた搾取はたいへんひどいもので、生活は苦しく、逃亡した者は「首枷や鎖をつながれ仕事をした」。
当初、北京の手工業の工場や工房は、大部分が官営であった。明朝朝廷は一切の造営、制作の作業を内府と工部で分担管理し、その下に更に若干の局、廠、窯、作が設けられた。局、廠は手工業或いは建築を管理する機構で、著名な五大廠が含まれていた。すなわち木廠、大木廠、瑠璃廠、黒窯廠、台基廠である。(朱一新『京師坊巷志稿』から高道素『明水軒日記』を引用)
北京の五大廠
窯、作は生産に従事する基礎組織で、例えば内官監の土、木、石、漆などの十作である。(劉若愚『酌中志余』巻下に附された天啓宮詞)内府に属する手工作坊は、生産品は専ら皇家の消費に供していた。工部に属する手工作坊は、生産品は国の大プロジェクトや軍需に供応された。各々の作坊は原料から職人まで全国各地から無理やり集めて来られ、作った製品は主に販売のためではなく、市場とは何の関係も無かった。
しかし明朝中後期になると、官営の手工業はもう衰退の趨勢に向かい、手工業の職人たちは絶えず「冒籍」(戸籍のごまかし)、「脱籍」(氏名を官職名簿から削除する)、「失班」(勤務拒否)、消極的怠工(サボタージュ)や逃亡といったやり方で、激しい闘争を展開し、その結果官営作坊の職人は日増しに減少し、製品は日増しに品質が劣化していった。また商品貨幣経済が日増しに発展した影響下、統治者も労役制の職人を使うのは却って金で雇った労働者を使う方が有利であるのに及ばないと感じた。1485年(憲宗の成化21年)の統計では、内織染局には職人が10人しかおらず、針工局38人、銀作局23人、巾帽局はやっと5人で、このことは明朝朝廷をして工匠制度を少々改めざるを得なくなり、前後二回宣告し、全国の職人を交替で北京へ賦役に来させる方法を改め、銀で徴収することとし、一部の住み込みの職人はそれを改め朝廷雇用の短期工とした。(万暦『明会典』巻189『工匠』2)そして故郷に戻るにせよ北京に留まるにせよ、職人たちが大量に民間に流れ、「巷間で様々な仕事をし、衣食の糧とする者がとりわけ多い」という現象が出現した。(張瀚『松窓夢語』巻4『百工紀』)朝廷は次第に雇い人を使って生産するようになっただけでなく、必要な物に至っては、日増しに拡大する商品市場にも頼らざるを得なくなり、随時民間に行って買い付けた。
北京城の郊外にはまた一部分私営の手工作坊と礦場(鉱石の採掘場)があった。手工作坊は例えば磨坊、酒坊、機坊、染坊、銅作坊、鉄作坊等々であった。嘉靖年間に、いくつかの胡同では、例えば馬絲胡同、包頭張家胡同、石染家胡同、唐刀儿胡同、沈篦子胡同、唐洗白街(張爵『京師五城坊巷胡同集』)は、私たちの推測では、これはおそらくここに住んでいた手工業者にちなんで名付けられたのだろう。これらの手工業者は正に彼らが際立って優れた技能と優秀な製品を以て北京の人々の称賛を得たのである。多くの作坊は店舗とつながり、前面が店舗で後方に小作坊(工房。工場)が設けられていた。そのうち隆慶、万暦年間に最も有名であったのは、制帽業では王府街の紗帽、金箔胡同の紗帽、双塔寺の李家冠帽。制鞋業では、東江米巷の党家靴。大柵欄の宋家鞋。制香業では本司院の劉鶴家香、前門外の李家線香。生薬舗では西鶴年堂の丸薬、帝王廟街刁家の丸薬。布店では勾欄胡同の何闉門家布があった。以上の作坊、店舗は主に封建貴族のために服務していた。それゆえ万暦年間に張瀚は全国、及び北京地区で大量の百工(様々な職人)を擁して様々な仕事をする(雑作)のを論述する時、すぐ続けてこう指摘した。「元勲、国戚(皇帝の親戚、外戚)、世胄(名門の子弟)、貂珰(宦官)で、贅沢が尽きることの無い(靡窮)のは、これでその欲望をかなえるに非ざる也」。(張爵『京師五城坊巷胡同集』『百工紀』)そうではあるけれども、彼らは市場と直接関わっていて、生産の目的は販売するためであり、これと官営の手工作坊とは既に明らかに異なっていた。
北京の酒醸造業は比較的突出していて、北京城郊外の各地には酒店と酒醸造の作坊があった。酒の品種はたいへん多く、北京の名産には、玉蘭酒、臘白酒、珍珠酒、刁家酒、麻姑双料酒、奇味薏米(ハト麦)酒があり、最も流行したのは高粱を醸造した白酒であった。皇帝が飲んだ「御酒」の多くは御前作坊で醸造された。皇宮の北安門東の「廊下家」では、「凡そ宮廷内で同意し、長らく追随している者は皆、こうした酒の醸造で、金銭的な利益(射利)を得ていた。」その酒は黒っぽい赤色(殷紅)を呈し、「内酒」と呼ばれた。
北京の印刷業は明朝中後期にも発展がみられた。「金台岳相」家が印刷した小説、戯曲は挿絵が精巧で美しいことで有名であった。また国子監と都察院が印刷した本は、市場へ行って販売し、民営の版木印刷の書物印刷業と利益を争った。この他、打磨廠と西河沿にも版木印刷の書物印刷の作坊があった。1638年(思宗の崇禎11年)、元々写本(抄写)で伝わって(傳递)いた『邸報』も北京で活字板を用いて組版印刷(排印)を開始した。
北京郊外には更に採炭場(煤窑)、石窑、灰窑があった。採炭場を例にすると、成化、弘治年間、門頭溝などの地には既に多くの私営の採炭場があった。この後、この土地の 潘闌廟、孟家胡同一帯の住民は、多くが石炭売買で生計を立てた。(朱彝尊『日下旧聞』巻24宋慶明『長安可游記』の引用)石炭の販売市場は比較的大きく、故に邱浚はとっくにこう指摘した。「今京師の軍民百万の家は、皆石炭を以て給与に代えた。」(『明経世文編』73邱浚『守辺議』)1603年(神宗の万暦31年)、順天府尹の許弘綱は上疏してこう言った。西山等の地の石炭採掘業は、「官窯は一、二ヶ所しかなく、それ以外は悉く民窯に属し」(『万暦実録』巻381)、官営の鉱山の衰退と私営の鉱山がこれに代わり勃興したことを反映していた。
民窯の多くは合資経営で、雇われ工員が採掘して運営された。雇われ工員の生活は貧困にあえいでいた。ここでは、広大な商品市場の基礎の元に、既に資本主義の萌芽が出現する可能性があった。しかし別の面で、明朝の人がまた盧溝橋以西の窯を開いた家を記載し、しばしば住民の子女に甘い言葉をかけて騙して炭鉱に入れて労働をさせ、逃げ出した者には問答無用で殺害し(『弘治実録』巻93)、民窯の中でも、その野蛮で遅れた工奴制の痕跡があることがまだ保たれていた。
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