中国語学習者のブログ

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中国語で読む成語のお話Vol.20「玩物喪志」

2020年07月19日 | 中国語成語

 今回のお話は、「玩物丧志」wán wù sàng zhìです。これは、『春秋左氏伝』に出てくる話です。

 

 春秋时期,卫国的君主懿公,是一个很讲究吃喝玩乐的人。他有个特别的嗜好,就是喜欢玩仙鹤。他养的仙鹤,吃得好,住得好。他还给仙鹤封官晋爵。那些被封了官的仙鹤外出时,坐在“轩”(古时候大夫坐的有装饰的车子)上招摇过市。懿公一心沉迷在这些玩艺之中,把国家大事、人民生活等等,全都置之脑后。

Chūnqiū shíqī,wèi guó de jūnzhǔ yì gōng,shì yī ge hěn jiǎngjiū chī hē wán lè de rén。Tā yǒu ge tèbié de shìhào,jiù shì xǐhuān wán xiānhè。Tā yǎng de xiānhè,chī de hǎo,zhù de hǎo。Tā hái gěi xiānhè fēng guān jìn jué。Nà xiē bèi fēng le guān de xiānhè wài chū shí,zuò zài “xuān”(gǔ shíhou dàfū zuò de yǒu zhuāngshì de chēzi)shàng zhāo yáo guò shì。yì gōng yīxīn chénmí zài zhè xiē wányì zhī zhōng,bǎ guójiā dàshì,rénmín shēnghuó děngděng,quán dōu zhì zhī nǎo hòu。

 春秋時代、衛の君主である懿公(いこう)は、飲食遊興にたいへん凝った人だった。彼には特別な道楽があり、それはタンチョウヅルと戯れるのが好きなことだった。彼が飼っていたタンチョウヅルは、与えられる餌も住まいもすばらしいものだった。彼はまたタンチョウヅルに官位を授け、昇進もさせた。そうした官位を与えられたタンチョウヅルは外出する時、「軒」(昔、大夫が乗った装飾のある車)に乗り、威張って町を闊歩した。懿公はこうした行いに熱中する余り、国家の重要事項や人々の生活のことなどは、すべて全く気にもとめなかった。

 

 衛は周の諸侯国のひとつで、領土としては、現在の河南省北部から河北省南部一帯にありました。周の武王は弟の康叔を商(殷)の都、朝歌(今の河南省淇県)に封じ、朝歌は春秋時代の紀元前659年まで衛の都でした。ところがこの年、北方の遊牧民族の狄(てき)が朝歌に攻め入り、衛は敗れます。斉の桓公が兵を出し、衛を助けましたが、朝歌は見る影も無く破壊されたので、都を楚丘(今の河南省濮陽)に移しました。懿公の時代は、正に狄が朝歌に攻め入ろうとする時でした。

 「仙鹤」は「丹顶鹤」の別称です。鶴は長寿、不死のシンボルとされ、仙人のような鳥ということで、「仙鹤」という呼称ができました。特に、鶴の中でも大型で美しいタンチョウヅルが、「仙鹤」と呼ばれることが多いようです。

 

 

 邻近有一个叫“狄”的,看见懿公这样昏庸无道,就出兵进攻卫国。卫懿公这才从玩乐中醒过来,连忙派军队去抵抗敌人。但是,人民对他的不满终于爆发了,那些领到盔甲的战士气愤地说:“让懿公派那些仙鹤去抵抗狄人吧!它们领受着国君丰厚的俸禄,养尊处优,除了它们,还有谁能打败狄人呢!”卫懿公没有办法,只好亲自带兵出征。

Línjìn yǒu yī ge jiào “dí” de bùluò,kàn jiàn yì gōng zhè yàng hūnyōng wú dào,jiù chū bīng jìngōng wèi guó。Wèi yì gōng zhè cái cóng wánlè zhōng xǐng guòlái,liánmáng pài jūnduì qù dǐkàng dírén。Dànshì,rénmín duì tā de bùmǎn zhōngyú bàofā le,nà xiē lǐng dào kuījiǎ de zhànshì qìfèn de shuō:“ràng yì gōng pài nà xiē xiānhè qù dǐkàng dí rén ba!tāmen lǐngshòu zhe guó jūn fēnghòu de fènglù,yǎng zūn chǔ yōu,chú le tāmen,hái yǒu shuí néng dǎbài dí rén ne!”wèi yì gōng méiyǒu bànfǎ,zhǐhǎo qīnzì dài bīng chūzhēng。

 付近に「狄」(てき)と呼ばれるがあり、懿公がこのように愚かで非道であることが分かると、出兵して衛に進撃した。衛の懿公はここでようやく遊びに夢中な中から目覚め、急いで軍隊を派遣して敵に対抗しようとした。けれども、人々の懿公に対する不満は遂に爆発し、甲冑を拝領している戦士たちは憤慨して、「懿公にあのタンチョウヅルを派遣して、狄に対抗させよう。タンチョウヅルたちはわが国の主君から手厚い俸禄を受けて、ぜいたくな生活をしている。彼らの他に、誰が狄を破ることができるだろう。」と言った。衛の懿公は仕方なく、自ら兵を率いて出征した。

 不久,懿公率领的卫军与狄人在荧泽地方决战。由于卫国的士兵怨恨懿公,根本不愿替他拼命。于是,两军一交锋,卫军便立刻四散奔逃。卫懿公被狄人杀死,最后落得个兵败身亡的下场,成为后人笑骂的对象。

Bù jiǔ,yì gōng shuàilǐng de wèi jūn yǔ dí rén zài yíngzé dìfang juézhàn。Yóuyú wèi guó de shìbīng yuànhèn yì gōng,gēnběn bù yuàn tì tā pīnmìng。Yúshì,liǎng jūn yī jiāo fēng,wèi jūn biàn lìkè sì sàn bēntáo。Wèi yì gōng bèi dí rén shāsǐ,zuìhòu luò de ge bīng bài shēn wáng de xià chǎng,chéng wéi hòurén xiàomà de duìxiàng。

 程なくして、懿公が率いる衛軍は狄と熒澤(けいたく)という場所で決戦を行った。衛の兵士たちは懿公を恨んでいて、本心では懿公のために命を懸けるつもりはなかった。それで、両軍が鋒を交えるや、衛軍はすぐに散り散りに逃げていった。衛の懿公は狄に殺され、最後は兵敗れ身を亡ぼす結末となり、後代の人にあざけり、ののしられる対象となってしまった。

 

 熒澤(けいたく)は黄河北岸にありましたが、現在のどこに当たるかは不明のようです。戦いは紀元前660年に起こり、狄は戦勝の勢いに乗り、衛の都、朝歌に攻め入りました。

 

 

 「玩物丧志」の出典としては、この『春秋左氏伝』の話が有名ですが、これ以前の『尚書・旅獒』にも似たような話があり、周の武王が商(殷)の紂王を討って商を滅ぼして後、西方の蛮夷が朝貢し、大きな猟犬(獒犬)を献上しました。この猟犬はこれまで中原では見たこともないほど大きくりっぱで、人と格闘することもできました。召公奭は、武王がこのために政治を蔑ろにすることを恐れ、「玩人丧德,玩物丧志」と言って戒めました。意味は、人々の人格を尊重せずに人をからかったりすると、君子の徳を示せなくなり、自分の好きなことばかりしていると、そこから抜け出せなくなり、志を遂げることができなくなる、という意味です。

 

 後に人々は「玩物丧志」を、道楽に深入りして、本職に励む気がなくなるという意味の成語として使うようになりました。