創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

失われた言葉の断片 3

2016-10-22 07:35:02 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 3

 仕事場の雰囲気がどこか違う。社員が真剣な表情で話し合っている。いつもなら仕事が順調に動き出す、午前十時前。私はKさんが出社していないのに気づいていた。
「どないしたん」
 側を通りがかった新入社員に聞いた。
「Kさんが来たはらしませんねん」
「また、寝過ごしてんのちやうの」
 以前にもそんなことがあったから、私は言った。
「携帯にも出はらへんし」

 断片的に情報が入ってくる。

 昼頃同期の社員さんがアパートに行った。鍵はかかっていて、呼び鈴を押しても応答がなかった。管理会社に鍵を開けてもらうようにかけ合うが、断られた。アパートの借り主が、父親になっていて、その立ち会いでしか開けられないとのことだ。警察に行ったが事件性がないと開けられないということでダメだった。
「そんなん、中で死んでるかもしれへんやん」
 日頃から、思ったことを直ぐに口に出す女が言った。とにかく父親が来るまで待つしかないらしい。Kさんはどこへ行ったのだろう。昨日は何も変わったことがなかった。いつものように喋り、笑っていた。でも、なぜ私に会いに来たのだろう。何か用事があったのか。用事……。彼はそれを私に告げなかった。いや言っていたかも知れない。私は頭の中で昨日のビデオテープを回した。時々スローにした。でも、何も見つからなかった。全て世間話だった。

 外線電話が鳴った。同期の社員さんからだろう。お局が電話を取った。
「お父さんの電話番号が分かるの? 多分会社だろうから、そっちにかけるわ。携帯もお願い」
「お父さんって何処」
「広島やて」
 ひそひそ話が聞こえる。
 横で部長がうろついている。誰も相手にしない。孤独なオランウータン。

 そのうち昼になった。私は昨日のことを言わなかった。急に会社が嫌になったのだろう。そんなことは誰にでもあることだ。昼ご飯はみんなのテーブルで食べた。なぜか群れたかった。
「メールを送ってるんやけどね」
「お父さんは昼過ぎの新幹線で来はるらしい」
 事件なんて滅多に起こらない職場で事件が起こった。みんな興奮している。
「私も携帯にかけてみようかなあ」
 私は何気なく言った。意外だという感じで、みんなが私に注目した。
「私au。Kさんの番号を送って」
「私もau」派遣の子が言って、赤外線通信でKさんの携帯の番号をもらった。
 早速かけてみる。出て欲しいと願った。すぐに、乾いたメッセージになった。電源が切られているらしい。
「あかんわ」
 箸を止めて待っていた同僚は、機械的に箸を動かし始めた。ネットで検索してる人もいるらしいが、琵琶湖でメダカを探すようなもんだろう。

 帰社の時間になっても、行方は分からなかった。午後六時に、メールを送った。『心配しています。連絡を下さい。村瀬』。ちょっと、考えたが名前も書いた。村瀬玲(れい)。

 Kさんの部屋は空っぽだった。空き巣に入られたのかと思うほど乱雑だった。その疑いは直ぐに消えた。男の一人住まいって、そんなもんだよと誰かが言った。分厚い野球の入場の半券がゴムバンドで縛ってあった。父親が、「異常だ」と言った。父親はとても快活だった。とても。
 妹も一緒だという。

 帰りの廊下ですれ違った。S主任とお局、年配の男と若い女性。父親と妹なんだろう。妹を私はちらっと見た。美人だ。スタイルもいい。とてもKさんと兄妹とは思えなかった。

 何処にも寄らずにマンションに帰った。寄り道をする気にもなれなかった。買い置きの日清のどん兵衛を食べた。三分間待つ間、何回も携帯を見たが、誰からも入っていなかった。今日は早く寝よう。とにかく明日だ。全てを時間が解決する。だが何でこんなに気になるのだろう。他人に無関心なはずの私が。明日照れ笑いを浮かべながら、出社してくるKさんを想像した。多分、部長は欠勤だと怒るだろう。だが、こうも考えた。どこか違う場所で生きている。だが、Kさんは私の想像が及ばないことをしていた。私が考えることを避けていたとも言える。

 携帯電話が鳴った。メールだった。午前二時。こんな時間に。
『大分東署の森田と申します。こんな時間にすみません。お知らせしたいことがあります。次まで電話をして下さい (097)533-××××』
 大分東署に電話した。太い声の男が出て私が森田さんの名を言うと、電話口に森田さんが直ぐに出た。この声も大きい。
「村瀬です」
「村瀬玲さんですね」
「はい」
「あなたが午後六時にメールを送った人についてお伺いしたいんですが」
「Kさんです」
「フルネームは?」
「……」
 思い出せなかった。
「会社の同僚です。Kさんがどうかしたのですか」
 一瞬の間があった。
「亡くなられました」
「亡くなった……」
「多分自殺だと思いますが、調査中です。携帯にあなたのメールがありました。それまでのメールは消去されています。だから、一番親しかった方かと」
 一瞬思考が停止した。悪い夢かと思った。夢ではない。私のワンルームは、殆ど物がないし、室生寺のカレンダーには何の予定も書いていない。実家の猫の写真が一枚。なんと殺伐とした部屋だろう。
「もし、もし」
 相手が言った。やっと、思考が動き始めた。お局が、家に帰って電話をしてみると言っていた。あいつ、名前なんだっけ。
「電話が入ってませんか?」
「Tさん、Sさん、色々入ってますね」
「TさんはKさんの上司です。そちらで家族の方と連絡が取れると思います」
「今頃電話しても大丈夫でしょうか」
 意外と頼りない奴だ。
「心配されてましたから」
 暫く間があって、「ありがとうございました」と相手が言って電話が切れた。

 電話を置いて、水を一杯飲んだ。トイレに行った。物音一つしない。テレビをつけた。音を小さくした。何が映っているのか、何を喋っているのか分からなかった。でも、何かに繋がっていたかった。
 ウィスキーをストレートで飲んだ。でも、眠れなかった。膝小僧を抱いてじっとしていた。新聞配達のバイクが停まった。ひかりが一筋、畳に洩れた。何の音かは分からないけれど、生活の音が聞こえてくる。人が動き出す。一日が始まる。死ぬのは怖い。でも、生きているのも怖い。
To be continued 

失われた言葉の断片 2

2016-10-21 08:24:51 | 創作日記
 連載小説 失われた言葉の断片 2

 お誘いがあった。Aの送別会。女の派遣社員だ。こいつとは二ヶ月程組んだけれど、迷惑だった。期限が迫っているのに、定時にさっさと帰ってしまう。突然休みを取る。送別会を何とか断る理由を考えたが、それも面倒になった。いつも断っていれば、はじき出される。
 送別会は最悪だった。まず会場にカラオケがあった。音痴の私には歌えない。昔、歌うと、般若心経かと言われた。それから絶対歌わない。歌うもんか。誰も聞きたくないと思うけど。みんな上手いよ本当に。紋切り型の部長の乾杯で始まり、宴会は盛り上がってきた。私は酎ハイを結構飲んだ。他にすることがない。酒に酔ったことがない。S主任がいつものように酔っていく。「座布団、座布団」の声が飛ぶ。目がすわるから、座布団。あっ、お局の胸をガバッとつかんだ。つまらない駄洒落を飛ばすI主任は完全にまわっている。多分このあたりの記憶はないだろう。その点若い子は適量を心得ているから上手に飲む。この職場はみんな仲がよい。あまり利害関係がないからだ。出世争いなんて、ほんとうに二、三の人のことだ。派遣なんて、ひっくり返っても出世なんて関係がない。
「村瀬さん1曲」
 きた。とんでもないというふうに手を振る。でもしつこい。だが、嵐はいつか過ぎる。お調子もんが歌い始める。一次会が終わりに近づくと、私は社員のUさんにそっと言う。「ごめん、今日は帰る」。彼は自分が選ばれたのが嬉しい。「そう、また」。分かった、分かったという顔をする。そっと、集団から離れる。「村瀬さん帰ったの」。質問に彼は答えてくれる。「用事があるんだって」
 私は美人だ。だが、好かれる美人ではない。とことん嫌われる美人だ。多分ブスでもこんな美人になりたくないだろう。
 帰り道にKさんが歌った「ルビーの指輪」を口ずさむ。Kさんは本当に上手い。顔を頭に浮かべない方がいい。目を閉じて聞いたけど。
 私もあんなに歌えたら、人生変わっていたかも知れない。今頃はAの舌足らずな挨拶が始まっているだろう。
「短い期間でしたけれど、みんなに迷惑ばかりで、ありがとうございました」
 多分そこで嘘泣きをする。そして、気のあったもの同士が二次会に流れていく。きっと、明日は二日酔いの顔が並ぶ。
 夏が去っていく。残暑は厳しいけれど、夜になると秋の風がまじる。思い切り背伸びをする。
 一人は寂しいけれど自由だよ。



 二〇〇六年十月一日(日)。私はこの日を多分一生忘れないだろう。

 ひと月に一回か、ふた月に一回ぐらいの割合で休日出勤がある。締め切りが迫った時だ。もちろんない時もある。水曜日に「ごめんやけど、土日どっちか出てくれへんか」と、S主任から言われた。組んでいる子は多分断ったのだろう。「いいですよ。日曜日に出ます」と言った。Kさんと打ち合わせをしている時だった。たくさん引き受けると、日曜日なのに暇なんだなあと思われる。

 守衛さんに「おはようございます」と挨拶をして、鍵をもらい、カードを通して、ビルに入る。人気のない廊下を歩く。足音が響く。静かだ。違う会社に入ったようだ。
 朝から雨が降って、やっと秋めいてきた。昨日までは暑かった。「暑いざんしょ」と、アホなI主任が言っていた。でも、この部屋には残暑はない。一年中が同じ季節だ。誰もいない仕事場は奇異な気がする。何かが抜け落ちているような感じだ。人の影だけが、行き交っている。明日になれば、実体が動き出す。一日一日が同じ日を刻む日めくりのように過ぎていく。

 お昼はコンビニで買ってきた缶コーヒーとパンを食べた。意識していないのにいつもの休み時間に合わせている。そんな自分が嫌だ。
 コン、コンと部屋をノックする音が聞こえた。とても控えめな音だ。私は慌てて、食事を済ませた。食べている姿を人に見られるのが嫌いだった。だから、いつも職員食堂では一人で食べている。また、コン、コンと部屋をノックする音が聞こえた。パンの袋と、空き缶をバックに入れて立ち上がった。
「Kです」
 私はドアを開けた。照れくさそうにKさんが立っていた。
「近くに来たもんやから」
「雨、止んでた」
「まだ降ってる」
 窓からは雨が見えない。時々下を通る人の傘が開いている。
「仕事進んだ?」
「うん、もうちょっとやね」
「じゃまかあ」
「ううん、全然。私も休んでたし」
 缶コーヒーをKさんは差し出した。二本も飲んだら、おしっこが近くなるなあ、と頭の隅で考えた。
 Kさんは私の前にちょこんと腰掛けた。この人に男だという怖さはない。突然狼になる危険性はゼロ。安心なのだ。
 二人だけで話をしたのは初めてだった。トリック・劇場版2が話題になった。仲間由紀恵と阿部寛のコンビ。貧乳と巨根。超常現象とトリック。テレビの深夜枠から始まり、人気になった。私はビデオで見た。面白い。常識の枠を上手く外している。無意味なものの面白さ。それが、段々つまらなくなり、トリック・劇場版2で息絶えた。でも、Kさんはそうではなかったらしい。ガッツ石松虫についてのうんちくを喋っていた。トリック・劇場版2で出ていたかしら。とにかく私は一人で映画館で見たのだ。面白かったと私もKさんに合わせた。本当は途中から眠ってしまった。こちらが決めセリフを言う番だ。「全部お見通しだ!」
 話が途絶えると、部屋の静けさが増した。
「九月に神宮球場にヤクルト・広島を見にいってん」
「どっちが勝ったん」
「ヤクルト、8対5」
 また、話が途切れた。そういえば一日有休を取っていた。連休の前だから、旅行にでも行くのかと思った。
 実家は広島らしいから、カープ・ファンかも知れない。パリーグもよく見に行くから、特定の球団が好きだというのではないのかも知れない。話の内容からも、そんな感じがする。野球のファンなんだ。
「中日で決まりやね」
 私が言った。
「そうや。今日は雨で中止。チケットもってんのに。もう終わりやなあ。払い戻して帰りますわ」
 大きく伸びをして、言った。白いカッターシャツにブレザー、ノーネクタイ、いつもの服装だった。
「まだ、プレーオフや日本シリーズがあるやん」
「プレーオフはええわ。仕事もようけあるし」
 Kさんはいつものようにニコニコして言った。
「これサーティワンで買(こ)うてきてん」
「おおきに」
 私は、Kさんが帰った後、アイスクリームを一人で食べた。Kさんと一緒に食べてもよかったのに。Kさんは自分の分を多分持って帰った。どこで食べたのだろう。無神経な自分が嫌になった。
 Kさんが置いていったスポーツ新聞を足を組んで読んだ。まるっきりおっさんだ。
 仕事は午後三時頃一段落した。雨の御堂筋を梅田まで歩いた。なぜかその日は沢山歩きたかった。Kさんに対する無神経な自分を忘れたかった。結局、Kさんの気持ちを遊んでいたのだ。
 阪急百貨店で少し贅沢な総菜を買った。休日は、繁華街も少しゆったりとしている。いつの間にか雨は止んでいた。
To be continued 

石原慎太郎×斎藤環 「死」と睨み合って  2016年文学界10月号

2016-10-20 15:35:42 | 読書
石原さんは「水」を見ると心が落ち着くという。
1962年堀江謙一さんはヨットによる太平洋単独横断を成功させた。
周りが全て「水」の中で彼が感じたのは深い孤独ではなかったか?
死への恐れはなかった。
いや、「水」そのものが「死」ではなかったか?
自分が「在る」ことは「無い」と等しい。
「心が落ち着く」というのは一種の「死」との同化のように思えて仕方がない。

失われた言葉の断片 1

2016-10-20 08:41:42 | 創作日記
昔書いた小説を推敲しながら連載します。

失われた言葉の断片
 
 僕はずっと何かを思い出しかけていた。捉えがたい韻律、失われた言葉の断片。(中略)。思い出しかけていた物は意味のつてを失い、そのままどこかに消えてしまった。永遠に。 
 「グレート・ギャッビー」スコット・フィッツジェラルド・村上春樹訳
 
 1
 
 会社は朝の九時から始まる。八時四十五分に会社に入る。門の守衛室の前を通り、ビルの入り口でカードを通す。女子ロッカーで制服に着替える。いくつかの部屋を通って、商品開発部2に入る。「おはようございます」が飛び交う。席についてコンピューターの端末に電源を入れる。「カチリ」。小さく端末に「おはよう」と言う。端末が立ち上がるまでに、机の上を濡れティシュで拭く。終わるとティシュはゴミ箱に捨てる。IDとパスワードの入力画面になっている。素早く入力する。朝一番の決まり切った手順。
 商品開発部2は辞書課と関数電卓課に分かれている。部屋の区切りはない。机が固まっているだけだ。それぞれの課に主任がいる。関数電卓課にはS主任。辞書課にはお局(つぼね)。ただ一人の女性の主任だ。商品開発部1にも二人の主任がいる。四人の主任の上に部長がいる。たった一人の管理職だ。
 商品開発部2の仕事はバグ取り。すなわち、プログラムのチェックだ。プログラムそのものをチェックするのではない。そんな技能も私達にはない。関数電卓課はマニュアルに従って、関数電卓に実際の数式を入力し、答合わせをする。不正解を見つけたら、商品開発部1で修正する。辞書課の仕事は知らない。ただ、分厚い辞書を引いたりしている。以外とアナログなのだ。
 商品開発部1も2も社員は数名だ。商品開発部1のプログラマーも商品開発部2の私達(プログラミングは出来ない)もほとんどが派遣社員だ。
 私は関数電卓科に五年いる。古株だ。人の出入りが激しい。ほとんど二、三年で辞めていく。仕事を覚えるには時間がかかるから派遣先が変わる人は希だ。ここの会社でしか通用しない仕事だ。だからいくら仕事が出来ても、会社を変われない。一番古いのは山下さん。子供が二人いると聞いた。
 私は誰ともプライベートでは付き合わない。まあ、仕事場以外でも友達はいないけれど。仕事の愚痴。誰と誰とがつきあっているとか。人事の噂。芸能ゴシップ。ニュース。つまらない事ばかりだ。ニュースはNHKの夜の九時でまとめてみる。新聞はとっていない。安倍晋三内閣発足。私には関係がない。只、あの高い声が嫌いだ。孤独な管理職、部長とよく似ている。激すると、トーンが高くなる。声がうわずってくると、「ああ、こらあかんわ」だ。誰も引き時だと知っている。理由をつけて逃げ出す。
 処女も何年か前に、ゆきずりの男にあげてしまった。邪魔だったから。何にも感じなかった。避妊には細心の注意をした。ゆきずりの子供なんてしゃれにもならない。動物的な行為に、愛とか恋とか言うのが嫌だった。身体の上を男が過ぎ去っていった。ああ、こんなものかと思った。一種の儀式だった。男とは二度と会わない。顔も忘れた。
 仕事は嫌いでも好きでもない。一人でやることが多い仕事だから、私に向いていると思う。「やり甲斐」の面から見れば全くない。スパッと真空だ。時間を切り売りしている。昇級も出世も無縁だ。五年間で時給が五円上がった。不安定な仕事だ。明日から来なくてもいいよと言われれば、明日から失業する。京大出の人もいる。いや、いた。
 一つ仕事をあげれば一つ関数電卓が世の中に出る。誰が使っているのか全く分からない。それでもバグは出る。最悪、回収。それが重なれば首が飛ぶ。幸い私は頭がよいからそんな事態にはならない。本当かと自分で突っ込みを入れる。つまらない仕事でも食べるために働かなければならない。資格も才能もない私に仕事があることを感謝しなければならない。自分の結婚なんて他人事みたいだ。だけど、結婚はすごいことだと思う。特に子供ができるということがすごい。死は不思議ではないけれど、誕生は不思議だ。父母が寝て、私が生まれた。どこからが私なのだろう。元を辿れば精子と卵子だ。私は私の卵子をせっせと一月(ひとつき)に一回流している。男はいらないが子供は欲しいと言っていた社員がいたけど、分かる気がする。でも、今の私はどちらもいらない。

 Kさんと挨拶する。
「おはよう」
「おはよう。村瀬さん、三丁目の夕日見た」
「見てへん」
「絶対見た方がええ。ほんま泣いた」
「そう」と私。
 Kさんは社員さんだ。身長は百六十㎝ぐらい。私よりも低い。だけど部分、部分は大きい。頭も、手も、多分足も。体重は七十㎏はあると思う。身体が規格外なのだ。液晶生産工場の見学に行った時、どの手袋も入らなかったらしい。だから、硝子越しに外から見学した。宇宙服みたいな服を着て、外から見ていたって。宇宙遊泳でもやりそうだった。外からなら、普段着で見られたのにと、S主任が笑っていた。
 黒い縁の眼鏡をかけている。
 私はKさんの二年先輩だ。入社してきた頃、Kさんは社内いじめにあった。鈍くさいと男子社員は言い、女の派遣は体臭がすると言った。体臭を言ってきたのが口臭のきつい女だったので笑ってしまった。私には、鈍くさいと言うより、一つ一つを確実に重ねていく人のように思えた。気転とかは後についてくるタイプなのだ。その印象は当たっていた。
 四人の主任と部長が集まって一週間に一回会議を開く。残業はつかない。私達は「馬鹿ちょん」と呼んでいた。
「馬鹿ちょんでKさんの体臭が問題になったんやて」
 広報係が言ってきた。体臭を議題にする会議なんてなんだろう。残業がつかないのは当然だ。
「部長がS主任にKさんに話せと命令したんやて」
 部長の切り札は問答無用の命令だ。団塊はこれだから嫌われる。
 S主任は気の小さい人だし、部長は嫌なことを彼に押しつける。私は部長が嫌いだ。部長を好きなのは、お局(つぼね)だけだ。最年長の女性社員で、美人だ。部長のスパイでもある。彼女にはスパイだという意識がない。キャリアウーマンという意識しかない。アホな女が頭の切れるOLを演じているのだ。
 課の全員が部長を嫌っている。だが管理職がこの部署では彼一人というのも現実だ。特に派遣は彼の意向でやめさせられることもある。でも、ゴマをする派遣はいない。ゴマをすれば社員や、派遣から自分がはじき出される。そちらの方が辛い。
 S主任は、いつもの歯切れの悪い話し方で、「言いにくいことやけど、君のためでもあるし、裏でこそこそ言われるのも嫌やろ」と、長い沈黙の後、話し始める。
 Kさんは背の高いS主任の前に、上品に手を膝の上に置いてぽっんと腰掛けていたのだろう。
 次の日から、ロッカーで上半身裸になって、身体を拭き始めたという。当然私は見たことがないけれど。酒を飲むと、財布からなにから持っているものを手当たり次第なくしてしまうらしい。通勤のために買った高額な自転車も、鍵を失ってしまった。そんなことは仕事がうまくいくようになってから聞かないから、多分いじめが原因だったのだろう。私の知っているKさんは静かに、ニコニコしながらお酒を飲む人だ。
 Kさんは喜怒哀楽を表に出すことがほとんどない。でも無表情ではない。人と話す時はニコニコしている。あわてる時はあわてる。それ以外はボーとしている。とにかく寡黙な人だ。
 Kさんは多趣味だ。映画鑑賞。スーパー銭湯。うんちく。
「近鉄の南大阪線と他の近鉄線は線路の幅が違うんですよ。なぜなら、最初の目的が関西本線と提携して……。だから他の線に乗り入れが出来ない」
 なるほどと感心する。阿倍野橋から出る電車は吉野駅で行き止まりだ。大阪線や京都線から来る電車は八木駅や橿原神宮駅で乗り換える。「それがどうしたん」と突っ込みを入れない。「へぇ、ほんま」と感心する。Kさんの笑顔がとびっきりだからだ。
 中でも一番の趣味は野球観戦だ。甲子園のチケットを何枚も私に見せた。ちょっと得意げでもあった。甲子園に女の同僚と一緒に行くこともある。
 一人で福岡ドームに出かけたり、神宮球場に行くこともあるそうだ。
 今ではKさんは誰にでも好かれている。悪口を言う人はいない。

 今年の四月、芦屋川の堤防で偶然Kさんを見かけた。ふとその気になって、満開の桜を見に来たのだ。西宮の夙川は混むから、こちらに来た。桜が好きだ。この時期は出来るだけ沢山の桜を見て歩く。桜宮、大阪城、神戸、京都。同じ場所は行かない。桜の期間は短い。あっという間に過ぎる。
 その日も、ゆっくりと桜を見上げながら歩いた。もう少しすると散るだろう。だから、次の休みには桜はない。満開の桜が好きな私には、今年、最後の桜だった。
 Kさんは五、六人の男の人と河原でバーベキューを囲んでいた。私の知っている人は誰もいない。その人達は野卑な感じがした。笑い方も嫌だった。酔い方も下品だ。Kさんだけが上品で浮いているような気がした。いつものようにニコニコ笑っている。大声で「六甲おろし」を歌っている。Kさんは歌わない。野球観戦仲間なのだろう。なぜか、見てはいけないものを見てしまった気がした。声もかけずにそっとその場を離れた。しばらく肉のにおいが体から離れなかった。
 この日のことは誰にも言わなかった。Kさんにも言わなかった。忘れようと思った。だが、いつまでも心の隅に残っている小さな棘のように忘れることはなかった。
 Kさんは大勢の人に囲まれながら、親しそうに肩を叩かれながら、散っていく桜みたいにとても孤独なように思えた。
To be continued 

天才・石原慎太郎著&石原慎太郎×斎藤環 「死」と睨み合って

2016-10-17 16:31:44 | 読書
石原さんは田中角栄の何を天才というのだろうかと興味を持った。
図書館の待ち人数は10人を超えている。凄い人気だ。
石原さんか出版社か分からないが、売れる壷を心得ているのだろう。
二人の名前を並べれば間違いなく売れる。
「天才」というタイトルもうまい。
だが、内容は私には期待外れだった。
同じ時代に生きた私にとって知っていることばっかりだった。
むしろ若い世代には興味のある人物かも知れない。
石原さんを見つけて、自分で椅子を引っぱってくるエピソードは田中角栄らしい。
万事がこの調子だったのだろう。
だから、親しみをこめて「角さん」と呼ばれた。
とにかくロッキード事件は面白かった。
裏に隠れていた魑魅魍魎が続々と表舞台に引きずり出された。
石原さんは、角栄のどこに天才を見たのだろう。最後まで分からなかった。
同時に何故角栄を書いたのだろう。
これらの答えは、文学界10月号の斎藤環氏との対談の中にあるような気がする。
石原さんは大病をしている。「死」と直面している間は「死」は意外と遠くにある。
死の危険が遠ざかれば反対に「死」はほん間近に迫ってくる。
「死」の手触りを覚えているからだと思う。これは私も経験したことだ。
私も大病後一瞬先に死ぬかも知れないという恐怖がいつもある。
この対談で、石原さんが繰り返し言っているのは、「死ぬのが怖い」ということである。
これは人間の本質的な問題である。なんて正直な人だろうと思った。
いつも表舞台を歩いてきた人なのに、自分をさらけ出している。
それに対して、斎藤氏の答弁は平凡である。石原さんの率直な問いに戸惑っているのかも知れない。
そんな石原さんが書き残したい人物に田中角栄がいたように思えてならない。



今日の一句

2016-10-07 14:48:12 | 俳句
今日の一句
秋涼しビーフシチューの匂ひかな
切ないほどカレーライスが食べたくなったり、酢豚が恋しくなったり、卵かけご飯が欲しくなるというようなことはありませんか? 
ビーフシチューもその一つ。
今日は食べに行こうと決心していたのに、焼き肉弁当に負けました。
いろんなものが食べられるから、人間って幸せですね。
牛や馬なんて草ばっかり。ライオンは生肉ばっかり。
可哀想ですね。