連載小説 失われた言葉の断片 3
仕事場の雰囲気がどこか違う。社員が真剣な表情で話し合っている。いつもなら仕事が順調に動き出す、午前十時前。私はKさんが出社していないのに気づいていた。
「どないしたん」
側を通りがかった新入社員に聞いた。
「Kさんが来たはらしませんねん」
「また、寝過ごしてんのちやうの」
以前にもそんなことがあったから、私は言った。
「携帯にも出はらへんし」
断片的に情報が入ってくる。
昼頃同期の社員さんがアパートに行った。鍵はかかっていて、呼び鈴を押しても応答がなかった。管理会社に鍵を開けてもらうようにかけ合うが、断られた。アパートの借り主が、父親になっていて、その立ち会いでしか開けられないとのことだ。警察に行ったが事件性がないと開けられないということでダメだった。
「そんなん、中で死んでるかもしれへんやん」
日頃から、思ったことを直ぐに口に出す女が言った。とにかく父親が来るまで待つしかないらしい。Kさんはどこへ行ったのだろう。昨日は何も変わったことがなかった。いつものように喋り、笑っていた。でも、なぜ私に会いに来たのだろう。何か用事があったのか。用事……。彼はそれを私に告げなかった。いや言っていたかも知れない。私は頭の中で昨日のビデオテープを回した。時々スローにした。でも、何も見つからなかった。全て世間話だった。
外線電話が鳴った。同期の社員さんからだろう。お局が電話を取った。
「お父さんの電話番号が分かるの? 多分会社だろうから、そっちにかけるわ。携帯もお願い」
「お父さんって何処」
「広島やて」
ひそひそ話が聞こえる。
横で部長がうろついている。誰も相手にしない。孤独なオランウータン。
そのうち昼になった。私は昨日のことを言わなかった。急に会社が嫌になったのだろう。そんなことは誰にでもあることだ。昼ご飯はみんなのテーブルで食べた。なぜか群れたかった。
「メールを送ってるんやけどね」
「お父さんは昼過ぎの新幹線で来はるらしい」
事件なんて滅多に起こらない職場で事件が起こった。みんな興奮している。
「私も携帯にかけてみようかなあ」
私は何気なく言った。意外だという感じで、みんなが私に注目した。
「私au。Kさんの番号を送って」
「私もau」派遣の子が言って、赤外線通信でKさんの携帯の番号をもらった。
早速かけてみる。出て欲しいと願った。すぐに、乾いたメッセージになった。電源が切られているらしい。
「あかんわ」
箸を止めて待っていた同僚は、機械的に箸を動かし始めた。ネットで検索してる人もいるらしいが、琵琶湖でメダカを探すようなもんだろう。
帰社の時間になっても、行方は分からなかった。午後六時に、メールを送った。『心配しています。連絡を下さい。村瀬』。ちょっと、考えたが名前も書いた。村瀬玲(れい)。
Kさんの部屋は空っぽだった。空き巣に入られたのかと思うほど乱雑だった。その疑いは直ぐに消えた。男の一人住まいって、そんなもんだよと誰かが言った。分厚い野球の入場の半券がゴムバンドで縛ってあった。父親が、「異常だ」と言った。父親はとても快活だった。とても。
妹も一緒だという。
帰りの廊下ですれ違った。S主任とお局、年配の男と若い女性。父親と妹なんだろう。妹を私はちらっと見た。美人だ。スタイルもいい。とてもKさんと兄妹とは思えなかった。
何処にも寄らずにマンションに帰った。寄り道をする気にもなれなかった。買い置きの日清のどん兵衛を食べた。三分間待つ間、何回も携帯を見たが、誰からも入っていなかった。今日は早く寝よう。とにかく明日だ。全てを時間が解決する。だが何でこんなに気になるのだろう。他人に無関心なはずの私が。明日照れ笑いを浮かべながら、出社してくるKさんを想像した。多分、部長は欠勤だと怒るだろう。だが、こうも考えた。どこか違う場所で生きている。だが、Kさんは私の想像が及ばないことをしていた。私が考えることを避けていたとも言える。
携帯電話が鳴った。メールだった。午前二時。こんな時間に。
『大分東署の森田と申します。こんな時間にすみません。お知らせしたいことがあります。次まで電話をして下さい (097)533-××××』
大分東署に電話した。太い声の男が出て私が森田さんの名を言うと、電話口に森田さんが直ぐに出た。この声も大きい。
「村瀬です」
「村瀬玲さんですね」
「はい」
「あなたが午後六時にメールを送った人についてお伺いしたいんですが」
「Kさんです」
「フルネームは?」
「……」
思い出せなかった。
「会社の同僚です。Kさんがどうかしたのですか」
一瞬の間があった。
「亡くなられました」
「亡くなった……」
「多分自殺だと思いますが、調査中です。携帯にあなたのメールがありました。それまでのメールは消去されています。だから、一番親しかった方かと」
一瞬思考が停止した。悪い夢かと思った。夢ではない。私のワンルームは、殆ど物がないし、室生寺のカレンダーには何の予定も書いていない。実家の猫の写真が一枚。なんと殺伐とした部屋だろう。
「もし、もし」
相手が言った。やっと、思考が動き始めた。お局が、家に帰って電話をしてみると言っていた。あいつ、名前なんだっけ。
「電話が入ってませんか?」
「Tさん、Sさん、色々入ってますね」
「TさんはKさんの上司です。そちらで家族の方と連絡が取れると思います」
「今頃電話しても大丈夫でしょうか」
意外と頼りない奴だ。
「心配されてましたから」
暫く間があって、「ありがとうございました」と相手が言って電話が切れた。
電話を置いて、水を一杯飲んだ。トイレに行った。物音一つしない。テレビをつけた。音を小さくした。何が映っているのか、何を喋っているのか分からなかった。でも、何かに繋がっていたかった。
ウィスキーをストレートで飲んだ。でも、眠れなかった。膝小僧を抱いてじっとしていた。新聞配達のバイクが停まった。ひかりが一筋、畳に洩れた。何の音かは分からないけれど、生活の音が聞こえてくる。人が動き出す。一日が始まる。死ぬのは怖い。でも、生きているのも怖い。
To be continued
仕事場の雰囲気がどこか違う。社員が真剣な表情で話し合っている。いつもなら仕事が順調に動き出す、午前十時前。私はKさんが出社していないのに気づいていた。
「どないしたん」
側を通りがかった新入社員に聞いた。
「Kさんが来たはらしませんねん」
「また、寝過ごしてんのちやうの」
以前にもそんなことがあったから、私は言った。
「携帯にも出はらへんし」
断片的に情報が入ってくる。
昼頃同期の社員さんがアパートに行った。鍵はかかっていて、呼び鈴を押しても応答がなかった。管理会社に鍵を開けてもらうようにかけ合うが、断られた。アパートの借り主が、父親になっていて、その立ち会いでしか開けられないとのことだ。警察に行ったが事件性がないと開けられないということでダメだった。
「そんなん、中で死んでるかもしれへんやん」
日頃から、思ったことを直ぐに口に出す女が言った。とにかく父親が来るまで待つしかないらしい。Kさんはどこへ行ったのだろう。昨日は何も変わったことがなかった。いつものように喋り、笑っていた。でも、なぜ私に会いに来たのだろう。何か用事があったのか。用事……。彼はそれを私に告げなかった。いや言っていたかも知れない。私は頭の中で昨日のビデオテープを回した。時々スローにした。でも、何も見つからなかった。全て世間話だった。
外線電話が鳴った。同期の社員さんからだろう。お局が電話を取った。
「お父さんの電話番号が分かるの? 多分会社だろうから、そっちにかけるわ。携帯もお願い」
「お父さんって何処」
「広島やて」
ひそひそ話が聞こえる。
横で部長がうろついている。誰も相手にしない。孤独なオランウータン。
そのうち昼になった。私は昨日のことを言わなかった。急に会社が嫌になったのだろう。そんなことは誰にでもあることだ。昼ご飯はみんなのテーブルで食べた。なぜか群れたかった。
「メールを送ってるんやけどね」
「お父さんは昼過ぎの新幹線で来はるらしい」
事件なんて滅多に起こらない職場で事件が起こった。みんな興奮している。
「私も携帯にかけてみようかなあ」
私は何気なく言った。意外だという感じで、みんなが私に注目した。
「私au。Kさんの番号を送って」
「私もau」派遣の子が言って、赤外線通信でKさんの携帯の番号をもらった。
早速かけてみる。出て欲しいと願った。すぐに、乾いたメッセージになった。電源が切られているらしい。
「あかんわ」
箸を止めて待っていた同僚は、機械的に箸を動かし始めた。ネットで検索してる人もいるらしいが、琵琶湖でメダカを探すようなもんだろう。
帰社の時間になっても、行方は分からなかった。午後六時に、メールを送った。『心配しています。連絡を下さい。村瀬』。ちょっと、考えたが名前も書いた。村瀬玲(れい)。
Kさんの部屋は空っぽだった。空き巣に入られたのかと思うほど乱雑だった。その疑いは直ぐに消えた。男の一人住まいって、そんなもんだよと誰かが言った。分厚い野球の入場の半券がゴムバンドで縛ってあった。父親が、「異常だ」と言った。父親はとても快活だった。とても。
妹も一緒だという。
帰りの廊下ですれ違った。S主任とお局、年配の男と若い女性。父親と妹なんだろう。妹を私はちらっと見た。美人だ。スタイルもいい。とてもKさんと兄妹とは思えなかった。
何処にも寄らずにマンションに帰った。寄り道をする気にもなれなかった。買い置きの日清のどん兵衛を食べた。三分間待つ間、何回も携帯を見たが、誰からも入っていなかった。今日は早く寝よう。とにかく明日だ。全てを時間が解決する。だが何でこんなに気になるのだろう。他人に無関心なはずの私が。明日照れ笑いを浮かべながら、出社してくるKさんを想像した。多分、部長は欠勤だと怒るだろう。だが、こうも考えた。どこか違う場所で生きている。だが、Kさんは私の想像が及ばないことをしていた。私が考えることを避けていたとも言える。
携帯電話が鳴った。メールだった。午前二時。こんな時間に。
『大分東署の森田と申します。こんな時間にすみません。お知らせしたいことがあります。次まで電話をして下さい (097)533-××××』
大分東署に電話した。太い声の男が出て私が森田さんの名を言うと、電話口に森田さんが直ぐに出た。この声も大きい。
「村瀬です」
「村瀬玲さんですね」
「はい」
「あなたが午後六時にメールを送った人についてお伺いしたいんですが」
「Kさんです」
「フルネームは?」
「……」
思い出せなかった。
「会社の同僚です。Kさんがどうかしたのですか」
一瞬の間があった。
「亡くなられました」
「亡くなった……」
「多分自殺だと思いますが、調査中です。携帯にあなたのメールがありました。それまでのメールは消去されています。だから、一番親しかった方かと」
一瞬思考が停止した。悪い夢かと思った。夢ではない。私のワンルームは、殆ど物がないし、室生寺のカレンダーには何の予定も書いていない。実家の猫の写真が一枚。なんと殺伐とした部屋だろう。
「もし、もし」
相手が言った。やっと、思考が動き始めた。お局が、家に帰って電話をしてみると言っていた。あいつ、名前なんだっけ。
「電話が入ってませんか?」
「Tさん、Sさん、色々入ってますね」
「TさんはKさんの上司です。そちらで家族の方と連絡が取れると思います」
「今頃電話しても大丈夫でしょうか」
意外と頼りない奴だ。
「心配されてましたから」
暫く間があって、「ありがとうございました」と相手が言って電話が切れた。
電話を置いて、水を一杯飲んだ。トイレに行った。物音一つしない。テレビをつけた。音を小さくした。何が映っているのか、何を喋っているのか分からなかった。でも、何かに繋がっていたかった。
ウィスキーをストレートで飲んだ。でも、眠れなかった。膝小僧を抱いてじっとしていた。新聞配達のバイクが停まった。ひかりが一筋、畳に洩れた。何の音かは分からないけれど、生活の音が聞こえてくる。人が動き出す。一日が始まる。死ぬのは怖い。でも、生きているのも怖い。
To be continued