和田丸城
別名;栃川城
城主;鳥屋尾氏関係者
築城時期;天正年間
住所;三重県松阪市飯高町宮本
位置づけ;櫛田川の支流沿いに迫る急峻な山の裾にある平坦地
感想; 勢陽五鈴遺響にある栃川城を探しに行ったが見つけることが出来なかった。地元の人に聞いたが教えてくれたのはこの城である。
分からないことばかりなので勝手に推察してみることにした。
勢陽五鈴遺響にある説明では富永城の詰城に築くとあるがここは詰城にしては安易な場所である。造りも防御のことは考慮されてない。館の造りという方が納得がいく。栃川城はまた別のところにありここは日常の住まいとした館跡だと考える。
後世の住民が畑として活用したとも考えられる。(田んぼではない=畔が無い)
しかし、堀の説明が出来ない。畑を川の氾濫から守るには規模が大きすぎるし方法が違うと思われる。堀は道からの攻撃を避けるためのものだと考えられる。
地図;
一か月経って気になる記述を見つけた。三重の中世城館の森本城の説明の中に以下の文脈があった。
「森本飛騨守の子俊貞は三瀬入道滅亡後、飯高郡下栃川を知行し称念寺に引篭った。(伊勢国司記略)」とある。
三瀬入道が北畠具教のことだとすると天正4年(1576)に滅せられている。またここ栃川村を領有していた鳥屋尾氏は父満栄が1577年に死去しその子右近将監に家督が譲られているが消息は分からない。
仮説だが右近将監が死去して代わりに森本俊貞彦一朗が知行を安堵されたとしても不思議ではない。和田丸城を築城し、栃川村を知行し、国司を弔うために称念寺を建立し、50余年住まいした居館跡ではないだろうか。
PS
投稿から2年半経った。平成28年も暮れの頃、和田丸城=栃川城 という話をこの耳で聞いた。その場ではそれ以上のことは聞けなかったが新展開がありそうだ。じっくり考えていこう。
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