富永館
とみながやかた
城名 | 富永館(殿屋敷) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
住所 | 飯高町富永字殿林 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
築城年 | 天正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
落城年 | 天正5年(1577)春 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
築城者 | 鳥屋尾満栄(とやおみつひで)(とりやおみつひで)注2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
形式 | 居館 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺構 | 曲輪・石垣・堀切 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
規模 | 55×65m | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
城主 | 鳥屋尾満栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
標高 | 240m | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
比高 | 30m | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
歴史 | 北畠家四家老の筆頭家老。智勇兼備の名将で軍事会計などにも通じた。1569年、織田信長との戦では大河内城の兵糧攻めを予測しての糧食備蓄などを行った。伊勢国大湊の代官職を務めた。北畠家が織田信長に降伏すると、北畠具豊の家臣として付けられた。1574年「伊勢長島城の戦い」では織田信長勢に属して北畠家警固(海賊)衆を率いて戦った。北畠家には最後まで忠誠を尽くし、北畠家一族が田丸城に監禁されると井上味兵衛専正と共に北畠具房の室の鶴姫を救出し茂原城主吉田大悪才兵庫頭もとで保護した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
経緯 | 天正5年(1577)、織田家臣・日置大膳亮の攻撃を受け、鳥屋尾右近将監の守備するこの館は落ちている。(注1) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
書籍 | 三重の中世城館 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
環境 | 櫛田川と川俣の谷を眼下に、東向きの斜面の山裾に館はある。北1Km程のところに福本城があり有機的な関係があったと思われる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
一族 | (男子)鳥屋尾右近将監 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
感想 | 北畠家四家老の筆頭家老なので詰めの城が近くにあったと思われる。候補に近いのが福本城ではないだろうか。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
注1 |
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地図 |
注2 鳥屋尾満栄について
名将 | 鳥屋尾/鳥屋野尾 満栄(とりやお/とやのお みつひで) |
通称;石見の守 | |
生没年 | 永生5年(1508)-天正5年(1577) 69歳 |
一族 | 北畠氏の家臣 |
子は鳥屋尾右近将監 | |
富永城主 | |
経緯 | 7代・春具の頃より北畠氏に仕える。 |
筆頭格の重臣で家老職を務め知勇兼備の名将と言われた。「文武を得、知謀深し、万死を捨て人を立つる無双の執事也」などとも評され北畠軍の軍師格としても充分な働きをしている。人望が厚い人物のようであった。 | |
当時北畠家の重要拠点、港・伊勢国大湊の代官を歴任した。 | |
北畠具教の命により、武田信玄に同盟および、上洛・信長攻めの為の船団の準備提供を申し入れる使節団として向かうが、信玄死去により成功しなかった。しかし、この件は信長の調査により発覚してしまう。 | |
信長への新年賀詞に国司の名代として子・右近将監とともに挨拶に行っているが信長は挑発しまくって威嚇した。 命がけの挨拶旅行だった。。 | |
軍事会計などにも通じ、大河内城の戦いでは兵糧攻めを予測しての糧食備蓄などは有名で、これにより織田軍の兵糧攻めを失敗させている。 | |
大河内城の戦いで織田信長に屈した後は北畠具豊(後の織田信雄)の家臣となって働いた。 | |
その一つ、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めでは、北畠水軍を率いて戦った。 | |
しかし、北畠氏に忠義を尽くし謀略で一族が田丸城に監禁されると、同僚の井上専正とともに田丸城に潜入、北畠具房の妻・鶴姫を救出し桃ヶ原の吉田大悪才兵庫頭の屋敷(茂原城)にかくまって保護したという。 | |
この時、具房の子を身篭っていた鶴姫は1577年、その子(後の北畠昌教)を吉田家で出産する。 | |
当時、北畠家は滝川一益に攻められ、又、織田信長により北畠家撲殺が進められていたので、鳥屋尾石見守は井上、吉田らと共に昌教を養育する。結局、夏にはその場所は信長に知られたが、ついに鶴姫、昌教らは逃れた。 | |
具教の弟・北畠具親が伊勢で挙兵すると、それに従って具親の要請により吉田屋敷(茂原城)で鶴姫・昌教を養育していた井上・吉田に代わって芝山秀時・大宮吉守が守備を固めた。 | |
そして鳥屋尾石見守は井上専正に家老職を譲り自身は具親のもとで、北畠遺臣を糾合して挙兵することになる。 | |
壮絶な川俣の戦いで鳥屋尾満栄は討死した。(69歳) | |
北畠昌教はその後本願寺を頼り、津軽に赴いて津軽為信の客分となった。(伝承) |
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