■完璧な秘書はささやく 2023.5.1
ルネ・ナイトの作品、『 夏の沈黙 』に続き、『 完璧な秘書はささやく 』を読みました。
派手なアクションや殺人事件が起こる訳でもない地味なミステリですが、最後まで倦かずに読み進めることが出来ました。
これも著者の力量です。
わたしは以前、「機械のなかの、小さいながらきわめて重要な歯車」と言われたことがある。まさにそのとおり。わたしはいつも小さなことがらの面倒を見てきた。
彼女がコピー機の前に立ち、ぶつくさ言っているのが聞こえてきた。見ると、苛立たしげにあちこちボタンを押していた。わたしが新しい紙の包みをあけてトレイに補充し、空になったインクカートリッジを取り替えてコピー機が作動するようにすると、ようやく彼女は振り向いてこちらを見た。
「何部お入り用ですか?」わたしは訊いた。
「二部よ」彼女が見守るなか、わたしはコピーしてページの順番をそろえ、ホッチキスで留めた。無地の茶封筒に入れて持っていきたいんじゃないか----本能的にそう察し、封筒を一枚見つけて書類を入れてやった。
「あなた、見たことない顔ね?」
「派遣で来ているだけですから」口ではそう言いながら、自分ではそう思っていなかった。わたしはその部でいちばん頼りになる誠実な事務員だった。
「ようこそ、わが家ヘ! 気が向いたらご自由にお入りください!」そう言わんばかりの建物はトランシルヴァニアではなくノッティングヒル・ゲートにあり、ドラキュラ伯爵の館ならぬマイナ・アプルトンの家だったけど、いま知っていることをあのころ知っていたら、わたしはあんなに気軽に彼女の家の敷居をまたぎはしなかっただろう。
ジェニーはコーヒーをかき混ぜた。ジャケットの襟についている小さな模造ダイヤのブローチが、髪の銀色を映していることにわたしは気づいた。
「アプルトン卿の好き嫌いについて知る必要のあることはすべて教えてあげられるけど、マイナについてはさほど知らないの。そっちはあなたが自分で学ばなくちゃ。でもその点についてひとつアドバイスをしてあげられる。どんなに親しいように感じても、どれだけ秘密を打ち明けてもらっても、あなたは彼女の友達ではないの、それは肝に銘じておきなさい。友達だと思うなんて愚かなこと。ふたりの関係がうまくいくようにするには、それを忘れずにいることが肝心なの。憶えていれば、あなたは品格を失わずにすむ。重要なことよ。品格があれば、彼女はあなたを尊敬する。彼女に尊敬してもらって、おたがいに尊敬するようでなくちゃ。でもあなたは彼女の友達じゃないし、彼女はあなたの友達じゃない。それを忘れちゃだめよ」
「『クリスティーンーブッチャーのような人がこの世にもっといればいいのですが。彼女は慎みのある女性でたんに自分の仕事をしていただけなのに、気がつくと非難や濡れ衣の嵐のまっただ中におりました』わたしをあんなに祭り上げるなんて、あなたはじつにフェアじゃなかった。わたしの忠誠心を食い物にしたのよ」
じっと見つめられて、彼女は唇を湿らす。口が乾いているのだ。こちらが言いたいことを洗いざらいぶちまけるのを待っている。でもわたし、沈黙のパワーを憶えている。彼女はよくそのパワーを使って他人を----わたしも含めて----いたたまれなくさせ、ぺちゃくちゃとしゃべり散らさせ、馬鹿なまねをさせて、自分は坐って見守っていたものだった。わたしは何も言わず、かわりに彼女をじろじろと、彼女が今朝わたしをはじめて見たときのように、上から下まで見る。たぶん彼女はまだ怖がってはいないだろう、でもいずれにせよ落ち着きは失っている。
ふたりとも時計の針が進む音、何秒も何分も、静寂をカウントダウンする音に耳をすます。彼女は顔をめぐらせ、時間を調べる。そしてそのとき、見える。彼女の恐怖が。前にも彼女が怖がるのを見たことがあるけれど、こんなふうではなかった。そばへ行って身をかがめれば、息に恐怖のにおいがするんじゃないか。前に嗅いだのとおなじ、あの饐えた刺激臭が。
たぶん、わたしが時計の文字盤にしたのとおなじことを自分の顔にされるのが怖いんだろう。
カバーをかけ、テープでとめられるのが。その手もあるな、と思う。
『 完璧な秘書はささやく/ルネ・ナイト/古賀弥生訳/創元推理文庫 』
ルネ・ナイトの作品、『 夏の沈黙 』に続き、『 完璧な秘書はささやく 』を読みました。
派手なアクションや殺人事件が起こる訳でもない地味なミステリですが、最後まで倦かずに読み進めることが出来ました。
これも著者の力量です。
わたしは以前、「機械のなかの、小さいながらきわめて重要な歯車」と言われたことがある。まさにそのとおり。わたしはいつも小さなことがらの面倒を見てきた。
彼女がコピー機の前に立ち、ぶつくさ言っているのが聞こえてきた。見ると、苛立たしげにあちこちボタンを押していた。わたしが新しい紙の包みをあけてトレイに補充し、空になったインクカートリッジを取り替えてコピー機が作動するようにすると、ようやく彼女は振り向いてこちらを見た。
「何部お入り用ですか?」わたしは訊いた。
「二部よ」彼女が見守るなか、わたしはコピーしてページの順番をそろえ、ホッチキスで留めた。無地の茶封筒に入れて持っていきたいんじゃないか----本能的にそう察し、封筒を一枚見つけて書類を入れてやった。
「あなた、見たことない顔ね?」
「派遣で来ているだけですから」口ではそう言いながら、自分ではそう思っていなかった。わたしはその部でいちばん頼りになる誠実な事務員だった。
「ようこそ、わが家ヘ! 気が向いたらご自由にお入りください!」そう言わんばかりの建物はトランシルヴァニアではなくノッティングヒル・ゲートにあり、ドラキュラ伯爵の館ならぬマイナ・アプルトンの家だったけど、いま知っていることをあのころ知っていたら、わたしはあんなに気軽に彼女の家の敷居をまたぎはしなかっただろう。
ジェニーはコーヒーをかき混ぜた。ジャケットの襟についている小さな模造ダイヤのブローチが、髪の銀色を映していることにわたしは気づいた。
「アプルトン卿の好き嫌いについて知る必要のあることはすべて教えてあげられるけど、マイナについてはさほど知らないの。そっちはあなたが自分で学ばなくちゃ。でもその点についてひとつアドバイスをしてあげられる。どんなに親しいように感じても、どれだけ秘密を打ち明けてもらっても、あなたは彼女の友達ではないの、それは肝に銘じておきなさい。友達だと思うなんて愚かなこと。ふたりの関係がうまくいくようにするには、それを忘れずにいることが肝心なの。憶えていれば、あなたは品格を失わずにすむ。重要なことよ。品格があれば、彼女はあなたを尊敬する。彼女に尊敬してもらって、おたがいに尊敬するようでなくちゃ。でもあなたは彼女の友達じゃないし、彼女はあなたの友達じゃない。それを忘れちゃだめよ」
「『クリスティーンーブッチャーのような人がこの世にもっといればいいのですが。彼女は慎みのある女性でたんに自分の仕事をしていただけなのに、気がつくと非難や濡れ衣の嵐のまっただ中におりました』わたしをあんなに祭り上げるなんて、あなたはじつにフェアじゃなかった。わたしの忠誠心を食い物にしたのよ」
じっと見つめられて、彼女は唇を湿らす。口が乾いているのだ。こちらが言いたいことを洗いざらいぶちまけるのを待っている。でもわたし、沈黙のパワーを憶えている。彼女はよくそのパワーを使って他人を----わたしも含めて----いたたまれなくさせ、ぺちゃくちゃとしゃべり散らさせ、馬鹿なまねをさせて、自分は坐って見守っていたものだった。わたしは何も言わず、かわりに彼女をじろじろと、彼女が今朝わたしをはじめて見たときのように、上から下まで見る。たぶん彼女はまだ怖がってはいないだろう、でもいずれにせよ落ち着きは失っている。
ふたりとも時計の針が進む音、何秒も何分も、静寂をカウントダウンする音に耳をすます。彼女は顔をめぐらせ、時間を調べる。そしてそのとき、見える。彼女の恐怖が。前にも彼女が怖がるのを見たことがあるけれど、こんなふうではなかった。そばへ行って身をかがめれば、息に恐怖のにおいがするんじゃないか。前に嗅いだのとおなじ、あの饐えた刺激臭が。
たぶん、わたしが時計の文字盤にしたのとおなじことを自分の顔にされるのが怖いんだろう。
カバーをかけ、テープでとめられるのが。その手もあるな、と思う。
『 完璧な秘書はささやく/ルネ・ナイト/古賀弥生訳/創元推理文庫 』