■ビール「営業王」 社長たちの戦い/前野雅弥 2017.10.2
4人の奇しき軌跡
アサヒビール社長 平野伸一
キリンビール社長 布施孝之
サントリー酒類社長 小島孝
サッポロビール社長 尾賀真城
『ビール「営業王」 社長たちの戦い』 は、ビール業界、4人の社長の奮闘記です。
面白かった。
ぼくには、「ビール業界、波乱の30年」の歴史、ビール各社の山あり谷ありが面白い。
本書を読んでみて、「勝ちにいくには何が必要か」、よく分かりました。
最近、尾賀はつくづく思う。酒類の業界は「10年単位で動く」と。顧客の嗜好は1日では変わらない。しかし、10年たてば、確実に変わる。実際、清酒の製成数量のピークが1973年、その10年後にウィスキーのピーク、さらに10年後にビールのピークがきた。
ぼくの小さい頃は、ビールと言えばキリン。キリンの「ラガービール」。
「ビール類のシェアが63%に達し、国会で独占禁止法の疑いありと議論された時代が嘘のようだ。」
業界のガリバーキリンが、ビール売上高首位の座を蹴落とされる日が来るとは。
それをもたらした、樋口広太郎と「アサヒスーパードライ」のすごさを知りました。
村井が社長に就任した1982年、アサヒのビール系飲料のシェアは9.7%。最低限とされてきた10%をついに割り込んだ。「本当に来るところまで来た」感じがあったと平野は振り返る。
そして1985年、アサヒは100年近く続いた「波に朝日」を捨てる決断をする。代わりに「Asahi」を新しいコーポレートマークとして採用し、同じ年の10月8日には「CI(コーポレート・アイデンティティー)導入宣言」を打ち出した。企業イメージを統一することで、全社員が同じ方向をめざそうとしたのだ。
1987年3月ビール業界に地殻変動を起こすほどの大ヒット商品が登場した。アサヒビールの「スーパードライ」である。倒産間際と言われ続けたアサヒは、これを機にトップメーカーにのぼりつめる。業界に激震が走った。
当時、社内で次期社長として噂に出ていた名前は、中條高徳(のちに副社長)だった。平野も中條が社長になるものだと思っていた。陸軍士官学校出身のサムライで、「すごい風格。中條ならついていける」と。
中條が社長になることはなかった。代わりに銀行からやってきたのが樋口広太郎だった。
中條が「風格」なら、樋口は「暴風を巻き起こす台風」だ。
1986年3月の社長就任を待たずに経営の最前線に立ち、陣頭指揮を執り始めたのだった。
アサヒの社員は戦々恐々だ。とにかく樋口はよく怒る。ついたあだ名が「瞬間湯沸かし器」。
相手が平社員だろうが役員だろうが容赦なかった。
樋口は社章をしない社員を許さなかった。胸元に何もない社員を見つけると片っ端から叱りつけた。
ある時など、本社で社章をしていない男性に詰め寄り、その胸ぐらをつかんだ。
「おまえ、それでもアサヒの社員か。プライドはないのか。あとで社長室に来い!」
当時、平野は東京支店の営業推進課で現場にいた。樋口が下した決定を聞いた時、「身震いがした」。百貨店やスパーなどにある「ゴールド」の在庫で、製造後3カ月を過ぎたものは全部処分しろという指令を出したのだった。信じられなかった。
樋口は、ビールはずぶの素人。「それなら」と、当時はキリンビールの会長で、京都大学の先輩でもある小西秀次を訪ね、聞いたのだという。
「どうしたらキリンのようにうまくいくのか?」
この真っ直ぐな質問に、小西も真っ正面から応じた。
「アサヒのビールは古いよ。売れないから店先で古くなっている。それでまた売れない」
小西はビールビジネスの要諦を樋口に教えたのだった。
1985年のキリンのシェアが61.4%だったのに対して、アサヒはたったの9.6%。アサヒはそもそもキリンの敵ではなかった。
30年前、1987年1月のあの日、「沈んだ夕日が朝日となって昇り始めた」と平野は言う
アサヒのビール系飲料市場でのシェアは、1987年時点で12.7%、これが1988年には20.1%まで大きく伸び、2位のサッポロビールを抜いた。そして1990年には23.9%にまで上昇していく。
「敬虔なクリスチャンと聞いたけれど……あれが優しさだったのかなあ」
平野は今でも時々首をかしげてしまう。社長である樋口のことだ。
住友銀行時代に磯田一郎と激しく対立した樋口は、アサヒの社長になっても「暴れん坊」のままだった。「スーパードライ」が順調に滑り出し、経営が一息ついたあとも、樋口は暴れまくっていた。
そのスパイクでドアを蹴破れ
有名な「ドア蹴破り事件」の内容は、本書でご確認下さい。
樋口の口癖は「未来は神様にお任せするしかない」。人事は尽くす。そのうえで天命を待つ。樋口らしい言葉だ。
しかし平野は、「神様は樋口に未来を与えた」と考えることがある。「スーパードライ」との出合いがそれだ。このビールが誕生しなければ、今のアサヒの隆盛はなかった。
「『スーパードライ』というビールは、敬虔なクリスチャンである樋口が神様からたまわったものでないか」
それはこういうことだ。銀行マンだった樋口はビール雑誌など一度も読んだことがなかった。しかし、ある休日ビール雑誌を手にとった。「ドイツのビール雑誌をあとにも先にも1冊だけ読んだ」のだった。
後日、会社の技術者に尋ねた。
「このアルファ酸って何や?」
「アルファ酸とは苦みをつくるもので、その数値が下がってきたというのは、消費者の味覚が変わり始めていることを意味します」
この瞬間、樋口は人々がビールに求めるものが、世界的に変わっている事実に気づいたのだった。「これこそ天恵だった」と平野は思う。
この一件があったからこそ、樋口は「重くて苦いビール」からの決別を決断できた。キレが看板の「スーパードライ」へ舵を切れたのだった。
もしあの時、「アサヒ生ビール」の成功に安住したままだったら、「スーパードライ」は生まれなかった。だから、今もつねに挑戦する。
「挑戦をやめたら人生の意味がなくなる」
ここからは、サントリーの話です。
最終面接では、何人かの学生がふるい落とされた。佐冶(サントリーの2代目社長の佐治敬三)の猛禽類のような目でにらまれて、学生たちはみんな震え上がった。緊張のあまり気が動転し、退出する際にもご丁寧にドアをノックしてから外に出た者までいた。
その年、「プレモル」の健闘でサントリーのビール事業は絶好調だった。もう11月だ。サントリーは12月決算なので、あと2カ月ほどがんばれば、43年続いたビール事業の赤字に終止符を打ち黒字にすることができる。ゴールは見えていた。
「せっかくプレミアムビールで市場をつくっていく時期やないか。社長がどんどん金を使えと言っておるのに使わんとは、どういうこっちゃ」
黒字化を達成するために投資を削って、市場拡大のチャンスを逃すことがあってはならない。そう佐冶は説いたのだった。そこにはビール事業を収益の柱にする、そのためにはサントリーが圧倒的な強さを持つプレミアムビールの市場をまず形成することだという佐冶信忠の読みがあった。
結局、残り2カ月でサントリーは「どんどん金を使って」広告を打った。売り上げ高は伸びた。しかし、そのせいで経費もかさみ、2006年度は黒字化を逃してしまった。
とはいえ、2年遅れて2008年度、ビール事業は黒字化を達成する。同時にビール系飲料市場で万年最下位の定位置を脱した。
もし2006年度に経費を抑え、広告や販促策も打たずに黒字化させていたら、「プレモル」は失速していたかもしれない。
「売れるときにがんばって売って勢いをつける。長い目で見て強い商品をつくれ。市場をつくれ」
佐冶信忠の目は、きちんと先を見通していた。
二つほど知ったことがあった。
ゴルフ場のレストランは、とにかくビールの消費量が大きい。ちょっとした居酒屋の大型店舗ではかなわないほどのボリュームがある。
これは知らなかった。
「さっぽろ大通りビアガーデン」
札幌の短い夏の風物詩でもある。
こんなビール祭りがあるなんて知らなかった。
機会があれば、札幌に是非行ってみたいです。
『 ビール「業界王」 社長たちの戦い」/4人の奇しき軌跡
/前野雅弥/日本経済新聞出版社 』
4人の奇しき軌跡
アサヒビール社長 平野伸一
キリンビール社長 布施孝之
サントリー酒類社長 小島孝
サッポロビール社長 尾賀真城
『ビール「営業王」 社長たちの戦い』 は、ビール業界、4人の社長の奮闘記です。
面白かった。
ぼくには、「ビール業界、波乱の30年」の歴史、ビール各社の山あり谷ありが面白い。
本書を読んでみて、「勝ちにいくには何が必要か」、よく分かりました。
最近、尾賀はつくづく思う。酒類の業界は「10年単位で動く」と。顧客の嗜好は1日では変わらない。しかし、10年たてば、確実に変わる。実際、清酒の製成数量のピークが1973年、その10年後にウィスキーのピーク、さらに10年後にビールのピークがきた。
ぼくの小さい頃は、ビールと言えばキリン。キリンの「ラガービール」。
「ビール類のシェアが63%に達し、国会で独占禁止法の疑いありと議論された時代が嘘のようだ。」
業界のガリバーキリンが、ビール売上高首位の座を蹴落とされる日が来るとは。
それをもたらした、樋口広太郎と「アサヒスーパードライ」のすごさを知りました。
村井が社長に就任した1982年、アサヒのビール系飲料のシェアは9.7%。最低限とされてきた10%をついに割り込んだ。「本当に来るところまで来た」感じがあったと平野は振り返る。
そして1985年、アサヒは100年近く続いた「波に朝日」を捨てる決断をする。代わりに「Asahi」を新しいコーポレートマークとして採用し、同じ年の10月8日には「CI(コーポレート・アイデンティティー)導入宣言」を打ち出した。企業イメージを統一することで、全社員が同じ方向をめざそうとしたのだ。
1987年3月ビール業界に地殻変動を起こすほどの大ヒット商品が登場した。アサヒビールの「スーパードライ」である。倒産間際と言われ続けたアサヒは、これを機にトップメーカーにのぼりつめる。業界に激震が走った。
当時、社内で次期社長として噂に出ていた名前は、中條高徳(のちに副社長)だった。平野も中條が社長になるものだと思っていた。陸軍士官学校出身のサムライで、「すごい風格。中條ならついていける」と。
中條が社長になることはなかった。代わりに銀行からやってきたのが樋口広太郎だった。
中條が「風格」なら、樋口は「暴風を巻き起こす台風」だ。
1986年3月の社長就任を待たずに経営の最前線に立ち、陣頭指揮を執り始めたのだった。
アサヒの社員は戦々恐々だ。とにかく樋口はよく怒る。ついたあだ名が「瞬間湯沸かし器」。
相手が平社員だろうが役員だろうが容赦なかった。
樋口は社章をしない社員を許さなかった。胸元に何もない社員を見つけると片っ端から叱りつけた。
ある時など、本社で社章をしていない男性に詰め寄り、その胸ぐらをつかんだ。
「おまえ、それでもアサヒの社員か。プライドはないのか。あとで社長室に来い!」
当時、平野は東京支店の営業推進課で現場にいた。樋口が下した決定を聞いた時、「身震いがした」。百貨店やスパーなどにある「ゴールド」の在庫で、製造後3カ月を過ぎたものは全部処分しろという指令を出したのだった。信じられなかった。
樋口は、ビールはずぶの素人。「それなら」と、当時はキリンビールの会長で、京都大学の先輩でもある小西秀次を訪ね、聞いたのだという。
「どうしたらキリンのようにうまくいくのか?」
この真っ直ぐな質問に、小西も真っ正面から応じた。
「アサヒのビールは古いよ。売れないから店先で古くなっている。それでまた売れない」
小西はビールビジネスの要諦を樋口に教えたのだった。
1985年のキリンのシェアが61.4%だったのに対して、アサヒはたったの9.6%。アサヒはそもそもキリンの敵ではなかった。
30年前、1987年1月のあの日、「沈んだ夕日が朝日となって昇り始めた」と平野は言う
アサヒのビール系飲料市場でのシェアは、1987年時点で12.7%、これが1988年には20.1%まで大きく伸び、2位のサッポロビールを抜いた。そして1990年には23.9%にまで上昇していく。
「敬虔なクリスチャンと聞いたけれど……あれが優しさだったのかなあ」
平野は今でも時々首をかしげてしまう。社長である樋口のことだ。
住友銀行時代に磯田一郎と激しく対立した樋口は、アサヒの社長になっても「暴れん坊」のままだった。「スーパードライ」が順調に滑り出し、経営が一息ついたあとも、樋口は暴れまくっていた。
そのスパイクでドアを蹴破れ
有名な「ドア蹴破り事件」の内容は、本書でご確認下さい。
樋口の口癖は「未来は神様にお任せするしかない」。人事は尽くす。そのうえで天命を待つ。樋口らしい言葉だ。
しかし平野は、「神様は樋口に未来を与えた」と考えることがある。「スーパードライ」との出合いがそれだ。このビールが誕生しなければ、今のアサヒの隆盛はなかった。
「『スーパードライ』というビールは、敬虔なクリスチャンである樋口が神様からたまわったものでないか」
それはこういうことだ。銀行マンだった樋口はビール雑誌など一度も読んだことがなかった。しかし、ある休日ビール雑誌を手にとった。「ドイツのビール雑誌をあとにも先にも1冊だけ読んだ」のだった。
後日、会社の技術者に尋ねた。
「このアルファ酸って何や?」
「アルファ酸とは苦みをつくるもので、その数値が下がってきたというのは、消費者の味覚が変わり始めていることを意味します」
この瞬間、樋口は人々がビールに求めるものが、世界的に変わっている事実に気づいたのだった。「これこそ天恵だった」と平野は思う。
この一件があったからこそ、樋口は「重くて苦いビール」からの決別を決断できた。キレが看板の「スーパードライ」へ舵を切れたのだった。
もしあの時、「アサヒ生ビール」の成功に安住したままだったら、「スーパードライ」は生まれなかった。だから、今もつねに挑戦する。
「挑戦をやめたら人生の意味がなくなる」
ここからは、サントリーの話です。
最終面接では、何人かの学生がふるい落とされた。佐冶(サントリーの2代目社長の佐治敬三)の猛禽類のような目でにらまれて、学生たちはみんな震え上がった。緊張のあまり気が動転し、退出する際にもご丁寧にドアをノックしてから外に出た者までいた。
その年、「プレモル」の健闘でサントリーのビール事業は絶好調だった。もう11月だ。サントリーは12月決算なので、あと2カ月ほどがんばれば、43年続いたビール事業の赤字に終止符を打ち黒字にすることができる。ゴールは見えていた。
「せっかくプレミアムビールで市場をつくっていく時期やないか。社長がどんどん金を使えと言っておるのに使わんとは、どういうこっちゃ」
黒字化を達成するために投資を削って、市場拡大のチャンスを逃すことがあってはならない。そう佐冶は説いたのだった。そこにはビール事業を収益の柱にする、そのためにはサントリーが圧倒的な強さを持つプレミアムビールの市場をまず形成することだという佐冶信忠の読みがあった。
結局、残り2カ月でサントリーは「どんどん金を使って」広告を打った。売り上げ高は伸びた。しかし、そのせいで経費もかさみ、2006年度は黒字化を逃してしまった。
とはいえ、2年遅れて2008年度、ビール事業は黒字化を達成する。同時にビール系飲料市場で万年最下位の定位置を脱した。
もし2006年度に経費を抑え、広告や販促策も打たずに黒字化させていたら、「プレモル」は失速していたかもしれない。
「売れるときにがんばって売って勢いをつける。長い目で見て強い商品をつくれ。市場をつくれ」
佐冶信忠の目は、きちんと先を見通していた。
二つほど知ったことがあった。
ゴルフ場のレストランは、とにかくビールの消費量が大きい。ちょっとした居酒屋の大型店舗ではかなわないほどのボリュームがある。
これは知らなかった。
「さっぽろ大通りビアガーデン」
札幌の短い夏の風物詩でもある。
こんなビール祭りがあるなんて知らなかった。
機会があれば、札幌に是非行ってみたいです。
『 ビール「業界王」 社長たちの戦い」/4人の奇しき軌跡
/前野雅弥/日本経済新聞出版社 』