今年も早くも!12月になってしまった。
何もなかったような、大きな変化があったような、一言で言えば、やっぱり、「うぁ!っという間の一年」であったという事か。変化といえば、人間関係か。人間関係地図が変化すると、自ずと、日々の暮らしの風景が変わる。良くも悪くも、人間同士というのは、かくのごとく、刺激し合っているのだろう。
人の風景も変わり、私自身の人との係わり合い方も、大きく変化したような気がする。
友人が少ない分、数少ない友人には思い入れが激しいのか、「Let`s it go!」が出来なかった私。「こうした方がいいよ!」という、一見、親切心から発するように見えるアドバイスだけど、私の場合、「私の言うことは正しいのだ!黙って、私の言うことを聞け!」という、エゴが心の根底に横たわっていた事は否定できない。
おそらく、自分の周りの人間を、本当に信頼し、その関係が、愛に基づいた関係ならば、その人々が、どんなんであろうと、判断しない、ってか、判断の必要も無いし、判断しないから、そのまま、受け止める事ができるのであろう。
判断。これはこれでクセ者(笑) 判断力が優れていれば、「的確な状況判断」で難局を乗り切る事が、可能である。 うーん。ちょっと違うな。英語でいう「ジャッジ」を日本語に訳して「判断」。ちょっと違うな、この場合。
何だろう。ジャッジメントは、日本語で言う所の、「思い込み」「決め付け」に近いような気がするなあ。 まあ、適訳が何であれ、私は「ジャッジ」することに徹底していたし、そのジャッジは、ある意味、ヒジョーに的確であり(笑)、だからこそ、さらにジャッジするというスパイラムにはまり込んでいた気がする。いや、今でも、はまっているかもだ。
的確なジャッジ。それは相手の意志をも、的確に「読み取る」事を可能にし、それを踏まえて行動を起こしたりしていた。自分の中でシュミレーションをせっせと行い、「ああすればこうなって、こうなったら、ああいうふうにして・・・。」と言った感じで。 人を操作するのとは、ちょっと違う。 対象となる人を「観察」して、行動パターンを読み取る、根底に流れるコンセプトなんかを推定し、それに沿ってプランする、というか。そんな感じかな。
こういうことを、無意識に日常的に繰り返していた。そういうキャラクターが出来ていた。迷わず、そういう「習慣」を続けていた。これは、後年変わるかもしれないが、こういう性癖ってのは、後天的なものではないかと思う。
なぜなら、それを繰り返す事によって、そういう性癖を持つことによって、自分自身は、とーーーってもくたびれたから。(爆)好きでしてたんだけど、疲れの原因になるよね、こういう性癖。
今年は、そういう「性癖」がある事を認識し、観察する(笑)事が出来たような気がする。 一昔前の自分に較べたら、やっぱり、丸くなって、ジャッジしなくなったし、したとしても、厳しさが減った(笑)。。。。。要するに年取った、って事だよな。
ジャッジメントにしても、信じる事でも、許す事でも、ありのまま受け止める事、でも何でも、こういった「視点」を変える事は、まずは自分自身にしてみる。
徹底的にしてみる。これでもか、これでもか、と自分を許す。
何が起きても、絶対的に、自分を信じる。
途方もないような繰り返しの果て、やがて、カチリと「腑に落ちる」瞬間に達する。
その時点で、自分という宇宙Mapがクリアーになるのである。
自分自身の内側に、許す心、信じる心を発見できると、あら、不思議。周りを見渡し、そこに存在する人々に対し、なんか慈悲深いキモチが沸いてくる。
イヤなヤツ!って感じても、その根底になにか共鳴できるものを感じる、よーな気がするのだ。
例えば、一般的に貧乏とか不幸な人を見て、「かわいそう」と思うのも、多分、上品なジャッジメント(笑)である。
人はそれぞれの宿命を背負い、それに沿って現世を過ごしている。現世という視点で見れば、苦労の多い人生かも知れないが、宇宙的長さ(笑)で見れば、最終的に、多分、ツジツマが合うように計画されているのだ。
だから、カワイソウ、って事は無いのよね、多分。
チャリティは、カワイソウな人を助けるというより、「与える」事を学ぶレッスンではないかと思うのだ。
という事で、12月。
今年も、何もなかったような、いろいろあったような。
実際、良くわからない(笑)
何もなかったような、大きな変化があったような、一言で言えば、やっぱり、「うぁ!っという間の一年」であったという事か。変化といえば、人間関係か。人間関係地図が変化すると、自ずと、日々の暮らしの風景が変わる。良くも悪くも、人間同士というのは、かくのごとく、刺激し合っているのだろう。
人の風景も変わり、私自身の人との係わり合い方も、大きく変化したような気がする。
友人が少ない分、数少ない友人には思い入れが激しいのか、「Let`s it go!」が出来なかった私。「こうした方がいいよ!」という、一見、親切心から発するように見えるアドバイスだけど、私の場合、「私の言うことは正しいのだ!黙って、私の言うことを聞け!」という、エゴが心の根底に横たわっていた事は否定できない。
おそらく、自分の周りの人間を、本当に信頼し、その関係が、愛に基づいた関係ならば、その人々が、どんなんであろうと、判断しない、ってか、判断の必要も無いし、判断しないから、そのまま、受け止める事ができるのであろう。
判断。これはこれでクセ者(笑) 判断力が優れていれば、「的確な状況判断」で難局を乗り切る事が、可能である。 うーん。ちょっと違うな。英語でいう「ジャッジ」を日本語に訳して「判断」。ちょっと違うな、この場合。
何だろう。ジャッジメントは、日本語で言う所の、「思い込み」「決め付け」に近いような気がするなあ。 まあ、適訳が何であれ、私は「ジャッジ」することに徹底していたし、そのジャッジは、ある意味、ヒジョーに的確であり(笑)、だからこそ、さらにジャッジするというスパイラムにはまり込んでいた気がする。いや、今でも、はまっているかもだ。
的確なジャッジ。それは相手の意志をも、的確に「読み取る」事を可能にし、それを踏まえて行動を起こしたりしていた。自分の中でシュミレーションをせっせと行い、「ああすればこうなって、こうなったら、ああいうふうにして・・・。」と言った感じで。 人を操作するのとは、ちょっと違う。 対象となる人を「観察」して、行動パターンを読み取る、根底に流れるコンセプトなんかを推定し、それに沿ってプランする、というか。そんな感じかな。
こういうことを、無意識に日常的に繰り返していた。そういうキャラクターが出来ていた。迷わず、そういう「習慣」を続けていた。これは、後年変わるかもしれないが、こういう性癖ってのは、後天的なものではないかと思う。
なぜなら、それを繰り返す事によって、そういう性癖を持つことによって、自分自身は、とーーーってもくたびれたから。(爆)好きでしてたんだけど、疲れの原因になるよね、こういう性癖。
今年は、そういう「性癖」がある事を認識し、観察する(笑)事が出来たような気がする。 一昔前の自分に較べたら、やっぱり、丸くなって、ジャッジしなくなったし、したとしても、厳しさが減った(笑)。。。。。要するに年取った、って事だよな。
ジャッジメントにしても、信じる事でも、許す事でも、ありのまま受け止める事、でも何でも、こういった「視点」を変える事は、まずは自分自身にしてみる。
徹底的にしてみる。これでもか、これでもか、と自分を許す。
何が起きても、絶対的に、自分を信じる。
途方もないような繰り返しの果て、やがて、カチリと「腑に落ちる」瞬間に達する。
その時点で、自分という宇宙Mapがクリアーになるのである。
自分自身の内側に、許す心、信じる心を発見できると、あら、不思議。周りを見渡し、そこに存在する人々に対し、なんか慈悲深いキモチが沸いてくる。
イヤなヤツ!って感じても、その根底になにか共鳴できるものを感じる、よーな気がするのだ。
例えば、一般的に貧乏とか不幸な人を見て、「かわいそう」と思うのも、多分、上品なジャッジメント(笑)である。
人はそれぞれの宿命を背負い、それに沿って現世を過ごしている。現世という視点で見れば、苦労の多い人生かも知れないが、宇宙的長さ(笑)で見れば、最終的に、多分、ツジツマが合うように計画されているのだ。
だから、カワイソウ、って事は無いのよね、多分。
チャリティは、カワイソウな人を助けるというより、「与える」事を学ぶレッスンではないかと思うのだ。
という事で、12月。
今年も、何もなかったような、いろいろあったような。
実際、良くわからない(笑)
モノの存在って大きいよね。
というか、
自分が意識しないでいても、アイルランドの畑には小さな石ころがある(微笑)。
意識しないモノは無いってんじゃぁ、ちいとおかしい?
これが分からずに、解けずにいる。
真っ暗闇を歩いたとき、道を意識できなくても、つまずいた石に転ぶってことがあるのは?
なんでだろう?
つまりは、意識しようとして無かろうと、そこに群衆が許可した物質世界があって、自分が意識無意識関係なく「激しく同意」しているときには、その物質は本当に存在するようにみえるってことかな?
なんだろう?
般若心経に答えがありそうなんだよ。
うんうん。
あはははは。
私の現状の課題は、「自分と一つになる」なんですが、これが達成できたら、生きてる楽しみが無くなる(笑)つうか、違う世界が必要になるのかな。
とかウダウダ考えてますが、とりあえず!今、自分が立ってる足元を掘り起こしてみます!
まあ、砂地だから掘り起こすの簡単!でも、あっさりと、土砂崩れも起きたりして!(笑)
今年も宜しくざます!
あぁ、あたしなんかも「よくわかんないんだよ」。
自分と一体になる=神と一体になる。
かなぁ?
自分=エゴではなく、神我。
つまり、真我。
自己の中に内蔵されている純粋エネルギー。
コレと一体になっても、物質世界の現状は何一つ変わらないと思う。
でも、自分の認識と行動が変わってくるだけなんだよって、いまは感じてる。
自分の行動が変われば、結局は、世界が変わってくんじゃないかなぁ。
あははは。