確か、11月4日?父親の命日だった気がする。ぬあんと忘れてしまった(爆)
最後に日本に帰国したのは、父の葬儀への参列であった。
母はその2年前に死去したが、夏だったような気がするが、すっかり忘れてしまった。ウソみたい。
病床の父を見舞いに帰国した頃、私は熱心にスピリチュアル系のワークショップに参加していた。その影響で、死の床の父に面会に行く前、最後に「愛しているよ、ダディ!」と言っておこうと思い、帰国したのであった。
今になっては、病床の父が何を思っていたかは、確認のしようが無い。最後に見舞ったのは亡くなる3ヶ月前。食道ガンを患っていた父は、すでに流動食で徒歩困難な状態だった。
お盆の時期で、「家に帰りたい」という希望を聞いて、実家に連れ帰ったのだが、点滴で与える水と流動食をドッサリ病院から持ち帰った記憶がある。
おそらく兄は、病身の父の移動のために購入したであろうデカイ車を持っていた。車の後部座席で横になり、寒い寒いと言う父のため、エアコンなしで実家に向かった記憶がある。
私と姉、そして小学校1年生くらいの兄の息子での道中。兄に似ず、優しくて無邪気な息子をからかいながら家路に向かった。
実家に到着して間もなく、父のキョウダイ3名が横浜から電車で到着。みんな年寄りで、電車での長旅もこれが最後。父に会うのもこれが最後。父が実家に戻るのもこれが最後、とみんな思っていたと思う。
実家に戻るも、父は布団を敷いて寝ている。
私達は居間で何やかんやと雑談。翌日、雨が止んだので、雑草だらけの庭を掃除していた。父は障子を空けて、喧嘩しながら掃除をする私達を何も言わずに見ていた。
お盆行事の一つ、お墓参りの前のお墓掃除もしたが、当然、父は参加できずに、寝ていた。夏で暑いにもかかわらず、寒い寒いと電気毛布であった。
親しい親戚の人が遊びにきたりして、普通のお盆であった。違いは、当主の父が布団で寝ていただけであった。
兄も姉も酒を飲まないので、私は一人でビールを飲んでいた。
若い頃は、兄の前、父の前で酒を飲むなんて考えられない事であったが、私の飲酒は、当たり前のことのように、誰も何も言わなかった。
末っ子な私だが、大人になったんだなあ、と一人感慨にふけっていった。
「愛してるよ、お父様」という機会は、結局、全然なかった。
よく考えてみれば、そういう会話というか「愛」が話題になるような家庭ではなかった。みんな適当にワガママで勝手、それが当たり前であったのだ。
というか、昭和ひとけたの父の世代は、そういうことを言わない?のが普通だったんだろう。
何か記憶に残るような話も、もう死ぬのは時間も問題とか、そういう話題は一切無かった。
大昔のように、兄は勝手気ままでワガママで、姉はアチコチ気を配り、私は誰よりも自分勝手(爆)な存在であった。
私は、ハートに作用するローズクオーツと、癒しに効果のあると言われている水色のクリスタルを持参した。
が、そういう説明も出来ない?する必要の無い雰囲気だったが、とりあえず、父のベッドに置いてきた。多分、使ってないと思う。使用方法?教えてなかったから。
11月に、父が死去したというニュースを聞いて、最初の便で帰国した。
葬式が始まろうといういう矢先に、実家についた。
出棺の際に、姉から、「病院のベッドにあったよ。あんたでしょ、こんなもん置いてったの。」とローズクオーツと水色のクオーツを差し出された。
実家から出棺して葬儀場。
実家で読経があったが、そのお坊さんが、私の高校の美術部の先輩であった。立派なお坊さんになっていた(笑)
95年に他界した祖母が、先輩の父親のお坊さんのファンで、「こんな人にお経を読んで貰えるなんて幸せだわねえ。」と法事で先輩のお父さんが来るたびに言っていたのを思い出した。
先輩は、某国立大学の教育学部美術科を卒業して、美術教師になり将来を嘱望されていたらしいが、家業の寺を継ぐため、お父さんが亡くなる前に教職を辞職したそうだ。
最後のお別れで棺に横たわる父に献花、があった。私はその際に、花とクリスタルを納棺した。
出棺の際、姉と兄は泣きじゃくっていた。私は長いこと、日本から離れた場所で、精神世界系のワークショップで「人の魂は死なない」とかインプットされていたので(爆)死後2日経過している父の魂は、この亡骸にはいないよね、って感じで涙も出なかった。
実家は葬儀用の花輪で埋め尽くされていた。銀行員の兄関係が多かった。
当然、私のはゼロ。
葬儀後、受付?から葬列に参加してノシ袋?を持ってきた人の一覧が渡されたが、当然、私はゼロ(笑)
日本で普通に暮らしている兄や姉は、そのリストに沿って、後に参列御礼レターを出すのだそうだ。
葬式もイベントね。
その後、葬儀は葬儀場兼火葬場に場所が移る。
火葬は高温で焼くそうだ。で灰になるまでの時間、葬儀場にしつらえた葬儀場で儀式?があった。簡単な儀式のあと、酒と食べ物が参列者ふるまわれる。
私は久しぶりに会うイトコとか親戚と雑談していた。
ちょっと外に出てタバコを吸ってたら、兄嫁がやってきて、1本くれというので一緒に吸っていた。
空を見上げれば紺碧の青空。そこにモクモクと父の遺体を焼いてるであろう黒雲が漂っていた。
ヨメは私よりずっと若い。看護婦をしているので、父はヨメの勤務している病院に入院していた。ヨメはいろいろあったと思うが何も言わない。私も何も知らないので何も言わなかった。
一般的には、私の実家のように封建的な家柄だと、ヨメになんだかんだと、イチャモンをつけるらしいが、私の家族は一切それをしなかった。
全て「ああ、そうですか。」でおしまい。ヨメ自身の家庭での問題は聞いてるけど、なーーーにも言わなかったと思う。
隣近所のヨメがしてることを、彼女には一切押し付けなかった。
長男である兄がヨメの家族の面倒を見てるので、病の父が一人暮らし、にも誰も何も言わなかった。というか、ガンが発見されてから、ずっと病院暮らしだったけど。
退院すれば一人暮らしになる父に、病院はそれはできない、と言い、なんだかんだで入院していたのである。日本の法律?では同じ病気は永遠に入院できないそうだ。父の場、病院がその辺を取り計らってくれたそうだ。
葬儀場で、火葬が終わると、最初に一番近しい家族を呼んで、お箸で骨を渡して骨壷に入れる儀式、があった。
当然、子供である私と兄、姉、そして父のキョウダイが最初に呼ばれた。
焼いたお棺の蓋が開いた。
人の形を残した遺骨があった。熱々状態。係員が、「なんですかコレ?」と不審な顔をして差したのは、私がこっそり納棺したクリスタルであった(爆)
毎日、同じことをしてる係員でも、クリスタルの焼きガラは見たことなかったんであろうか。
灰になった父を見て、また兄と姉は号泣していた。
その後、場所を移して、料亭で精進落しと相成った。
私はまずご馳走を食べた後に、お酌に回った。お酌をするなんぞ、日本を離れて長いので非常に新鮮であった。
高校時代に遅刻しそうになって、SOSで高校に近い市役所に勤務してた兄ちゃんに、良く送ってもらっていた。
送ってもらったお礼に、彼の吸ってた「ピース」をおこずかいから買って献上していた。
兄の息子は、外国=アメリカ、で(爆)私はアメリカに住んでるおばちゃんだが、市役所勤務は私が住んでる都市を理解していた。
お葬式、は何年もあってない親戚が一堂に会するイベントであった。
あれから何年?
結局、「愛してる」とは言えなかったし(爆)、フツーより若干賢かったために、その後の人生で苦労が多かった(爆)ことに対して、なかなか納得がいかなかった。
が、そんな親は他界した。
同時に、妙な安心感があるのも事実。
正直、愛されてるとか、そういった事を感じたのは皆無。だが、周りを見てみると、家族に送金してるとか、そういう人、途上国でなくてもある。
子供が小さい友人を見てると、親が子供に与える影響が甚大なのが良くわかる。
私は大体において母親と親しい。母親は特定の自分の子供に対して、厳しかったりする。基本は、「扱いにくい」から。第三者の私は、そういう関係に無いので、「彼はとーーーーってもいい子ねえ。」と力説(爆) 母親は、「そーお?」と懐疑的であるが、第三者の目で説明すれば、だいたい、納得する。
私は、いかに、その子が素晴らしいであるか、しか言わないので(笑)
友人である母親を見てると、やっぱ人間ですから(爆)扱い易い子に重点を置きますね。複数に子供がいれば、かならず!扱いやすい子と、そうでない子で差別してます。
こんな何でもないことが、子供にはトラウマになって生涯、問題となったりしますねえ。
じゃあ、自分はどうかというと、複雑すぎて(爆)両親は理解してなかっただろう。
私は、日本で離婚した際に、苗字を変えなかった。ので、家族の墓に入れない(爆)
まあ、そんなことは枝葉かな、
お墓の心配する前に、お墓に入るまでの過程を大切にしたい。
そう。今日は父の命日。
愛してるとは言えなかったけど、気持ちは伝わってるよね???
最後に日本に帰国したのは、父の葬儀への参列であった。
母はその2年前に死去したが、夏だったような気がするが、すっかり忘れてしまった。ウソみたい。
病床の父を見舞いに帰国した頃、私は熱心にスピリチュアル系のワークショップに参加していた。その影響で、死の床の父に面会に行く前、最後に「愛しているよ、ダディ!」と言っておこうと思い、帰国したのであった。
今になっては、病床の父が何を思っていたかは、確認のしようが無い。最後に見舞ったのは亡くなる3ヶ月前。食道ガンを患っていた父は、すでに流動食で徒歩困難な状態だった。
お盆の時期で、「家に帰りたい」という希望を聞いて、実家に連れ帰ったのだが、点滴で与える水と流動食をドッサリ病院から持ち帰った記憶がある。
おそらく兄は、病身の父の移動のために購入したであろうデカイ車を持っていた。車の後部座席で横になり、寒い寒いと言う父のため、エアコンなしで実家に向かった記憶がある。
私と姉、そして小学校1年生くらいの兄の息子での道中。兄に似ず、優しくて無邪気な息子をからかいながら家路に向かった。
実家に到着して間もなく、父のキョウダイ3名が横浜から電車で到着。みんな年寄りで、電車での長旅もこれが最後。父に会うのもこれが最後。父が実家に戻るのもこれが最後、とみんな思っていたと思う。
実家に戻るも、父は布団を敷いて寝ている。
私達は居間で何やかんやと雑談。翌日、雨が止んだので、雑草だらけの庭を掃除していた。父は障子を空けて、喧嘩しながら掃除をする私達を何も言わずに見ていた。
お盆行事の一つ、お墓参りの前のお墓掃除もしたが、当然、父は参加できずに、寝ていた。夏で暑いにもかかわらず、寒い寒いと電気毛布であった。
親しい親戚の人が遊びにきたりして、普通のお盆であった。違いは、当主の父が布団で寝ていただけであった。
兄も姉も酒を飲まないので、私は一人でビールを飲んでいた。
若い頃は、兄の前、父の前で酒を飲むなんて考えられない事であったが、私の飲酒は、当たり前のことのように、誰も何も言わなかった。
末っ子な私だが、大人になったんだなあ、と一人感慨にふけっていった。
「愛してるよ、お父様」という機会は、結局、全然なかった。
よく考えてみれば、そういう会話というか「愛」が話題になるような家庭ではなかった。みんな適当にワガママで勝手、それが当たり前であったのだ。
というか、昭和ひとけたの父の世代は、そういうことを言わない?のが普通だったんだろう。
何か記憶に残るような話も、もう死ぬのは時間も問題とか、そういう話題は一切無かった。
大昔のように、兄は勝手気ままでワガママで、姉はアチコチ気を配り、私は誰よりも自分勝手(爆)な存在であった。
私は、ハートに作用するローズクオーツと、癒しに効果のあると言われている水色のクリスタルを持参した。
が、そういう説明も出来ない?する必要の無い雰囲気だったが、とりあえず、父のベッドに置いてきた。多分、使ってないと思う。使用方法?教えてなかったから。
11月に、父が死去したというニュースを聞いて、最初の便で帰国した。
葬式が始まろうといういう矢先に、実家についた。
出棺の際に、姉から、「病院のベッドにあったよ。あんたでしょ、こんなもん置いてったの。」とローズクオーツと水色のクオーツを差し出された。
実家から出棺して葬儀場。
実家で読経があったが、そのお坊さんが、私の高校の美術部の先輩であった。立派なお坊さんになっていた(笑)
95年に他界した祖母が、先輩の父親のお坊さんのファンで、「こんな人にお経を読んで貰えるなんて幸せだわねえ。」と法事で先輩のお父さんが来るたびに言っていたのを思い出した。
先輩は、某国立大学の教育学部美術科を卒業して、美術教師になり将来を嘱望されていたらしいが、家業の寺を継ぐため、お父さんが亡くなる前に教職を辞職したそうだ。
最後のお別れで棺に横たわる父に献花、があった。私はその際に、花とクリスタルを納棺した。
出棺の際、姉と兄は泣きじゃくっていた。私は長いこと、日本から離れた場所で、精神世界系のワークショップで「人の魂は死なない」とかインプットされていたので(爆)死後2日経過している父の魂は、この亡骸にはいないよね、って感じで涙も出なかった。
実家は葬儀用の花輪で埋め尽くされていた。銀行員の兄関係が多かった。
当然、私のはゼロ。
葬儀後、受付?から葬列に参加してノシ袋?を持ってきた人の一覧が渡されたが、当然、私はゼロ(笑)
日本で普通に暮らしている兄や姉は、そのリストに沿って、後に参列御礼レターを出すのだそうだ。
葬式もイベントね。
その後、葬儀は葬儀場兼火葬場に場所が移る。
火葬は高温で焼くそうだ。で灰になるまでの時間、葬儀場にしつらえた葬儀場で儀式?があった。簡単な儀式のあと、酒と食べ物が参列者ふるまわれる。
私は久しぶりに会うイトコとか親戚と雑談していた。
ちょっと外に出てタバコを吸ってたら、兄嫁がやってきて、1本くれというので一緒に吸っていた。
空を見上げれば紺碧の青空。そこにモクモクと父の遺体を焼いてるであろう黒雲が漂っていた。
ヨメは私よりずっと若い。看護婦をしているので、父はヨメの勤務している病院に入院していた。ヨメはいろいろあったと思うが何も言わない。私も何も知らないので何も言わなかった。
一般的には、私の実家のように封建的な家柄だと、ヨメになんだかんだと、イチャモンをつけるらしいが、私の家族は一切それをしなかった。
全て「ああ、そうですか。」でおしまい。ヨメ自身の家庭での問題は聞いてるけど、なーーーにも言わなかったと思う。
隣近所のヨメがしてることを、彼女には一切押し付けなかった。
長男である兄がヨメの家族の面倒を見てるので、病の父が一人暮らし、にも誰も何も言わなかった。というか、ガンが発見されてから、ずっと病院暮らしだったけど。
退院すれば一人暮らしになる父に、病院はそれはできない、と言い、なんだかんだで入院していたのである。日本の法律?では同じ病気は永遠に入院できないそうだ。父の場、病院がその辺を取り計らってくれたそうだ。
葬儀場で、火葬が終わると、最初に一番近しい家族を呼んで、お箸で骨を渡して骨壷に入れる儀式、があった。
当然、子供である私と兄、姉、そして父のキョウダイが最初に呼ばれた。
焼いたお棺の蓋が開いた。
人の形を残した遺骨があった。熱々状態。係員が、「なんですかコレ?」と不審な顔をして差したのは、私がこっそり納棺したクリスタルであった(爆)
毎日、同じことをしてる係員でも、クリスタルの焼きガラは見たことなかったんであろうか。
灰になった父を見て、また兄と姉は号泣していた。
その後、場所を移して、料亭で精進落しと相成った。
私はまずご馳走を食べた後に、お酌に回った。お酌をするなんぞ、日本を離れて長いので非常に新鮮であった。
高校時代に遅刻しそうになって、SOSで高校に近い市役所に勤務してた兄ちゃんに、良く送ってもらっていた。
送ってもらったお礼に、彼の吸ってた「ピース」をおこずかいから買って献上していた。
兄の息子は、外国=アメリカ、で(爆)私はアメリカに住んでるおばちゃんだが、市役所勤務は私が住んでる都市を理解していた。
お葬式、は何年もあってない親戚が一堂に会するイベントであった。
あれから何年?
結局、「愛してる」とは言えなかったし(爆)、フツーより若干賢かったために、その後の人生で苦労が多かった(爆)ことに対して、なかなか納得がいかなかった。
が、そんな親は他界した。
同時に、妙な安心感があるのも事実。
正直、愛されてるとか、そういった事を感じたのは皆無。だが、周りを見てみると、家族に送金してるとか、そういう人、途上国でなくてもある。
子供が小さい友人を見てると、親が子供に与える影響が甚大なのが良くわかる。
私は大体において母親と親しい。母親は特定の自分の子供に対して、厳しかったりする。基本は、「扱いにくい」から。第三者の私は、そういう関係に無いので、「彼はとーーーーってもいい子ねえ。」と力説(爆) 母親は、「そーお?」と懐疑的であるが、第三者の目で説明すれば、だいたい、納得する。
私は、いかに、その子が素晴らしいであるか、しか言わないので(笑)
友人である母親を見てると、やっぱ人間ですから(爆)扱い易い子に重点を置きますね。複数に子供がいれば、かならず!扱いやすい子と、そうでない子で差別してます。
こんな何でもないことが、子供にはトラウマになって生涯、問題となったりしますねえ。
じゃあ、自分はどうかというと、複雑すぎて(爆)両親は理解してなかっただろう。
私は、日本で離婚した際に、苗字を変えなかった。ので、家族の墓に入れない(爆)
まあ、そんなことは枝葉かな、
お墓の心配する前に、お墓に入るまでの過程を大切にしたい。
そう。今日は父の命日。
愛してるとは言えなかったけど、気持ちは伝わってるよね???