“穀雨”ー春の雨が農作物を盛んに成長させます。▼ 暦どおりに雨の一日降り続きました。夕刻、西方の空合が、薄紅色に裂けて、雨雲が去りました。
松ヶ枝に 春の朧(おぼろ)の 月かかる 笛吹童子が 出て来るような ー夢蔡ー
~“ひゃら~り ひゃらり~こ ひゃり~こ ひゃられ~ろ 誰が吹くのか 不思議な笛よ~・・#” 昭和28年、NHKラジオ放送、新諸国物語「笛吹童子」の主題歌の冒頭であります。午後6時からの放送で、子供達は、外遊びをやめラジオの前に座って、手に汗して聞き入ったものです。*- 歌詞をみて、メロデーが頭をよぎる人は、もうそれなりの年齢になりました。~ (←「笛吹童子」のあらすじはネットでどうぞ)
▼ 戦争が終わってから、8年たったころです。「たずね人」なんて番組もありました。敗戦後の混乱で、離散した家族・知り合い・大陸からの引揚者の消息の情報提供を求めておりました。▼ “♪~国を出から幾月ぞ~ 共に死ぬ気でこの馬と~ 攻めて進んだ 山や川 とった手綱に 血が通う”(軍歌 「愛馬進軍歌) 農家の兄ちゃんが、歌いながら牛車を牽いて畑仕事にでかけました。戦争を充分ひずっておりました。
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ー 「もはや戦後ではない」ー昭和31年(1956年)「経済白書」ー今日ならば、間違いなく「流行語大賞}
1960年代、米ソの核競争も激しく、時代は“大戦後”の主導権争いの影響で、騒然としておりました。▼ 「所得倍増計画」、新幹線戦、東京オリンピックなどで、時代は明るく演出されました。学生生活を始めました頃、夜の山手線の窓から見る東京タワーの赤い光りが印象的でありました。
ー寺山修司 「あゝ、荒野」 昭和46年(1966年)初版 *新宿西口をの、ガード下には、狭い路地を挟んで、安い食い物屋が、数十件並んでおりました。ラーメンが30円で食え、「天丼」は、かき揚げを大鍋で温められているタレにサッと浸しカウンターに置かれました。
呆け居る 灯火の下(もと)を 椿象(かめむし)は 寺山修司の 荒野を歩く ー夢蔡ー
▲ カメムシ 【椿象 亀虫】 口は完全な吸い形で植物の汁を吸う。農作物の害虫。触ると猛烈な悪臭を出す。別名はヘッピリムシ・へコキムシ。で・嫌われ者にふさわしい蔑称、最近では、農薬の普及もあって、「絶滅危惧種」指定とか。
ー 寺山修司 「あゝ、荒野」 1960年代の新宿ーー。吃音と赤面対人恐怖症のバリカンこと健次、少年院出の新次。裏通りのさびれたボクシング・ジムで、もがきながらボクサーの道をすすむ2人と、彼ら取り巻くわけありな人々の人間模様。(角川文庫 平成21年版の裏表紙より。ちなみにカメムシが這っているのは、カバー写真のモデルの顔の一部)
ー 小説は、15章から成っている。各章の冒頭には、修司の独創的世界観が現れている短歌が掲載されている。いくつかを引用します。
“マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや”
“すこし血の にじみし壁の アジア地図も われもゆ揺らる 汽車通るたび”
“麻薬中毒 重婚浮浪 不法所持 サイコロ賭博 われのブルース”
“音立てて 墓穴ふかく きみの棺 下ろされし時 きみは目覚めずや”
1960年代、新宿東口を出て、高野フルーツパアラー脇を曲がって、本通りの裏手に入り、少し歩くと、深夜喫茶「どん底」がありました。むき出しのレンガ壁で装飾され薄暗く、いかにもその名のとおりの茶店でありました。一杯のコーヒーで、稚拙な議論をして、山手線始発を待ったものです。
ー 「歴史は繰り返さない。歴史学者がお互いの学説を繰り返しているだけである。」(「マーフィーの法則」 <歴史の基本則>) (←注:歴史学者の部分を為政者と置き換えてみるのはいかがでしょうか)
▼ 問題なのは、どのような「事実」を積んで、ある<歴史>を語ったか、ではない。どのような「事実」にフタをして言わなかったかである。(←山本七平氏が、どこかで言っておりました。)ーー
ーーーーー<了>-----
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