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狩野派はハポネス・ルネサンスの殿堂か? 今年のドラフト会議

2017-10-31 23:40:38 | 日記
A.狩野派のこと再考
 アートは世俗社会の権力の中心にとっては、所詮お飾り、お遊びの道楽にすぎないが、それは政治家の虚栄心をくすぐる装飾であるだけでなく、自己の権力を維持する道具として利用価値はある。時代の流行に自分の影を投影するのは権力者の飽くなき夢であることは、古今東西いくらでも見本を見い出せる。日本の歴史においては、幾度かの乱世、政治秩序の擾乱時代があるが、16世紀の戦国時代は殺戮と憎悪の充満した過酷な下剋上の世界であると同時に、伝統的な名家・上流階級が牛耳る雲の上から、ただの野蛮な武力を組織した英雄的な人物が歴史の表舞台に登場して来たユニークな世紀だった。
 その16世紀に、中国の美術である宋元の水墨画に憧れ、それを模倣することで文化的存在価値を主張した室町禅僧の伝統を、革新的にリニューアルしようとしたのは狩野元信だったという気がしてきた。彼の野望が実現したのは、室町幕府が形骸化し名前だけで君臨した守護大名が各地の守護代実力武家によって、実験を奪われる事態が当たり前になったという背景が大きい。その頂点が、尾張の土豪の一族に過ぎない信長の天下布武プロジェクトだった。新しい情勢には新しいアートが必要だということを、覇者信長、秀吉、家康のビッグ3は強く意識していた。そこに取り入った狩野派の総帥元信は、イタリア・ルネサンスの工房によく似た職人集団を組織し、城郭建設ラッシュという表舞台に躍り出る準備を着々とすすめていた。

「日本の水墨画は、それがもともと実景の写生の中から生まれたものではなく、禅宗の隆盛により中国への憧憬と、その山水画に対する、中国への「ロマンチシズム」が根底にある以上、型としてそれが形式化することは十分推測出来ることである。また武家時代の権力の集中は当然時の権力と結びついた「アカデミズム」の画派を生み出す。その方向を推し進めたのが狩野派ということが出来る。
 「曾つて倭画を見ず」と『本朝画史』に書かれた狩野正信(1434~1530)は、やはり中国「ロマンティシズム」を持った狩野派の祖である。『蔭涼軒日録』には一四六三年一四六三年(寛正四年)に相国寺運頂院の壁画を描いた記録から始まり、仏画や肖像画を描いて室町幕府の御用絵師の役割を務めるようになった記事がある。そして将軍足利義政や義尚の肖像の記録が見られる。しかしその残っている作品は山水図であり、『山水図』(個人像)には屹立する奇山が聳え、それと前景の庵図の部分との距離関係は曖昧で、単なる前景と後景の組合せに過ぎない。そこには中国山水の平明な形式化が感じられる。『周茂叔愛蓮図』のような図のほうが、茶色の遠景の曖昧さと対照的であるものの、大きく描かれた近景の木と船が巧みである。蓮を愛でる宋の文人が、蓮よりも青い木の葉の音を聞いているように見える。にこにこ笑った『布袋図』も親しみ易く、このわかりやすさが狩野派が武家貴族に受け入れられる理由となったのであろう。
 狩野元信(1476~1559)はその画風をさらに発展させている。大徳寺大仙院客殿で相阿弥とともに『四季花鳥図』を描いているが、そこでは視野を比較的近くにとり、遠方の空間把握の弱さを露呈せずにすむ方法を用いている。これは『禅宗祖師図』(東京国立博物館)にも見られ低い位置から見ているために遠景を入れる必要がなくなっている。中国山水画の三遠法の展望を捨て、描き易い構図に向かったということが出来ると同時に、これは山水画の日本化ということが出来るであろう。また主題における和漢混用は元信が土佐派と接近したことによるもので、彼が宮廷絵所預職であった土佐家と婚姻したことは権力に仕える絵師としての狩野派を固めたということが出来る。
 元信が『四季花鳥図』で示したように、中国画のさまざまな描法、馬遠、夏珪様で花鳥を配し、霊雲院方丈で牧谿風のやわらかな筆法、玉澗の潑墨などを使って、技術的に「真、行、草」の画体を形式化した。『潚湘八景図』(東海庵)などもその柔らかな行体が示されているが、光線の配慮はあるものの山水そのものの形の不自然さは否めない。実景写生を基本におかず、手本の型を応用しているのである。それは絵画の装飾化の方向とも一致している。それは金屏風に顕著で、『四季花鳥図屏風』(白鶴美術館)のように金箔地に松、竹、桜、楓などを描き、孔雀、錦鶏や小禽など四季の景物が描かれている。この金箔地はそれが雲霧や土坡として、景物をすべて見せず効果的に配置するように使われているが、その平面性により画面を装飾的にしてしまうのである。元信はこうして宋元画と大和絵の華やかな色彩を結合し、狩野派の形式を確立したといってよい。『古画備考』によると三十余名の門弟を抱えていたことが記されているが、この工房制作を行ない「天下画工の長」となったことは、別の言葉で言えば、障壁画の需要に応える大量生産のシステムであったのである。
 それはひとつの「アカデミズム」と言ってよいものであり、例えばフランスのル・ブランがルイ王朝で宮廷画家となり、多くの画家を集め、美術「アカデミズム」を創設し、ヴェルサイユ、ルーヴルの宮殿装飾に寄与したのに似ている。むろん、「アカデミズム」とは若者の教育を行なう意味であるが、一つの型を学ばせ、多くの画家を輩出することを目指した点で似ている。十六世紀にイタリア、十七世紀にフランスでつくられている。
 元信の三男の松栄(1519~92)がその工房を受け継いだが、その子永徳(1543~90)が狩野派を発展させた。折りから桃山時代の幕開けであった。一五六六年、二十四歳の時、永徳は父とともに大徳寺聚光院の襖絵の制作を行ない、颯爽とした『花鳥図襖』を描き、一方で中国風の『琴棋書画図』に対し、他方は『花鳥図』で、こちらは父よりも闊達な筆使いにより、大きな梅を襖四面に描いた。ここには形式的な硬い中国風をふっきり、紅梅という樹を主人公にした颯爽とした構図がある。ただこの大和絵風の紅梅も決して写生に基づいているわけではなく、樹木の型を応用したものなのであり、さらに空間が単純で奥行きが曖昧で、決して新しい絵画の出現というわけにはいかないであろう。
  永徳は織田信長に用いられ安土城の天守閣や諸御殿に金碧障壁画を描いたし、秀吉の大阪城や聚楽第でも障壁画を描いた。まさに時の権力に常に用いられた「アカデミズム」の画家ということが出来る。しかしすべてそれは戦争の中で灰燼に帰してしまった。とくに安土城の天守閣の金壁を飾っていた画題は『信長公記』によれば儒教、道教、仏教、世俗と、それぞれの分野を描いており、すでに特定の宗教的な束縛もない、ある意味では「近代」的な「近代」的な時代であったことを示している。それらが信長という人物そのものを「荘厳」するものであったとすれば、なおさらである。『洛中洛外図屏風』(米沢市)は信長が上杉謙信に送ったとされる彼の三十歳頃の作であるが、京の街を見つめる視線は、鳥瞰図の中で神社仏閣宮城が商店街とともに同じようであり、当時の風俗を見る上でも興味深い。こうした注文に応えた狩野派はすでに「近代」化していたと言えるであろう。
 また天瑞寺の方丈に松、竹、桜、菊の花木花卉襖絵を描いたことは、宗教・道徳主題そのものではなく植物を主題にするという日本的図像を示している。あまり彼の作品は残されていないが、その中で巨大な『唐獅子図屏風』(宮内庁三の丸収蔵館)はいかにも、時の権力の威勢というものを感じさせるし、『檜図屏風』(東京国立博物館)は確かに大木が八曲の大画面を領している。しかしその屈曲した形も不自然で、晩年の精神の屈曲を示すものかもしれない。
 狩野山楽(1559~1635)は豊臣秀吉に仕えた戦国武将の家臣木村長光の息子で、永徳の養子になった。一五八八年(天正十六年)永徳が東福寺法堂の天井画の制作中に病に倒れるとその後を引き継いで大作を完成させたという話は、山楽がその後継者であることを示している。より繊細になったが画風もよく受け継ぎ、『鷙鳥図屏風』(個人像)に見られるように、鷲や隼などの猛禽が巧みに描かれ、筆も細かく草葉の表現も丁寧である。
 豊臣家との関係が強かったので、その滅亡(一六一五年〈元和元年〉)以後詮議を受けたが、やがて徳川家にも用いられた。秀忠の息女和子の入内に際して造営された御殿の障屏画(現在大徳寺宸殿)『紅梅図襖絵』や『牡丹図襖絵』などのように和風の様式を取り入れた。大和絵の系列の『車争図屏風』も描き、『源氏物語』葵の巻の車争いの場面を活写している。
 より装飾的になったという意味では、永徳の弟、狩野宗秀(1551~1601)や、嫡男の狩野光信(1561~1608)がいるが、大和絵の画風を進展させており、すでに知的な意味での中国「ロマンチシズム」を維持出来なくなっているようだ。永徳以後の狩野派が「ロココ」化するのは、時代的にも中国の山水画への憧憬が消え失せ始めていることを示していよう。「ロココ」様式とは十八世紀に、フランス宮廷の瀟洒な館、壮大だが華麗な宮殿にふさわしい装飾的な絵画様式である。これは江戸時代に入り宗達、光琳のような日本化した画家の世界に新しい空間が生まれる、その過渡期ということが出来よう。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.354-361.

 ミケランジェロ(1475~1564)が活躍したイタリア・ルネサンスは、たそがれたヨーロッパ中世カソリック社会を精神的にリニューアルし、美術を生々しく人間中心に向き直した。しかし、そのことが以後の美術シーンにとって功罪相半ばする結果を招いたのかもしれない。そういう意味では、戦国時代の日本において、伝統的な浄土信仰も、民衆の社会変革へのエネルギーも、美術表現に強く反映しているはずだと思い込んでいるぼくには、改めて狩野派の位置づけは微妙だと思う。



B.ドラフトの罠
 プロ野球選手になりたいと願って、中学・高校で野球部員として練習や試合に必死で励んでいる少年は、全国で何万人もいるだろうと思う。それでも甲子園のような檜舞台に立てる選手は、ごく一部の体力や技能に恵まれたエリートに限られる。その中から、ドラフト会議で一位、二位という指名をもらえる人は本当に選び抜かれたエリートの名に値するのだろう。しかし、そこまで到達したとしても、まだスタートラインに立ったに過ぎない。どんな分野でも、若くしてチャンスを与えられるには、ただ人一倍の努力や才能があればいいのではなく、それを超えたなにかが必要なのかもしれない。とくに、自分の肉体だけが結果を左右するスポーツの世界は実に厳しい、ということはぼくたちのような素人でも見ればわかる世界だともいえる。

「プロの厳しい世界へ:ドラフト指名選手 小川勝の直言タックル 
 今年のドラフト会議は、例年以上の注目度だった。日本ハムの一位指名となった清宮幸太郎選手、広島の一位指名となった中村奨成選手という高校野球のスター選手がいたため、日本シリーズに出場するプロのスター選手たちと肩を並べるほどの話題性があった。
 目のくらむようなスポットライトが、あちらこちらを照らしていると、私たちはつい、プロ野球の厳しさを忘れがちになる。
 過去三年間、二〇一四年から一六年のドラフト会議を振り返ってみると、一位指名で重複した選手は三人、四人、三人で合計十人だった。一位指名での重複だから、今年で言えば清宮、中村の両選手をはじめ、オリックス一位指名の田島大樹投手、ロッテ一位指名の安田尚憲選手ら、ひと際注目されていた有力選手たちということだ。
  だが過去三年間の一位指名重複選手、十人の中で、二人の投手は、今年の時点でまだ一軍で一勝も、一セーブも、一ホールも挙げることができていない。また一軍でプレーしている選手たちでも、なかなか納得のいく成績を収められずに、考え込んでいる選手もいる。
アマチュアでの実績がプロで通用しないこともある、という話だけではなく、実力はあっても、ちょっとした故障が災いして、本来の活躍ができないことも珍しくないのである。努力すればアマチュア時代の実績に比例した活躍が、間違いなくできるというわけではないのだ。
  一方、今年の日本シリーズに出場しているDeNAの宮崎敏郎選手は、セ・リーグで首位打者を獲得しているが、十二年のドラフトのときには六位指名にすぎなかった。一軍デビューから二試合連続で本塁打を放ち、日本シリーズでも出場の機会を得ている一年目の細川成也選手は、昨年のドラフトでは五位指名だった。またソフトバンクの第一戦で投げた千賀滉大選手は今年、十三勝四敗でパ・リーグの最高勝率だったが、ソフトバンクの一員になったのは一〇年、すぐには支配下登録されない育成ドラフトの四位指名だった選手である。いずれもプロ野球選手になったときは、華やかなスポットライトなどなかった選手たちだ。
ドラフトで指名を受けた選手たちに、才能があることは間違いないはずだ。周囲もそれをどうやって育てていくのか、選手たちの厳しい戦いは、これから始まるということだ。(スポ-ツライター)」東京新聞2017年10月30日朝刊23面特報欄。

  なるほど、結果だけがすべてともいえるプロ野球選手の最終の栄冠は、日本でスター選手になりアメリカ大リーグに行って全米に名を知られるまでになる成功を収めることだろうが、これは野茂が切り拓き、イチローが身をもって示し、松井が凱旋した歴史の上にこれからも築かれるのかもしれない。ぼくたちはそれに心から拍手を送る。それは彼らが、日本人であるということに拍手する人も多いが、別に日本人だからそうなれたのではない。国籍や人種や出身背景を超えて、彼らの実力と努力と幸運がそれを達成したのであり、あくまで個人としての栄光であり、日本に生まれ育ったのはたまたまそうであったに過ぎないし、彼らにチャンスを与えたのは少年時代から野球を思う存分にさせてくれた環境とともに、その背後に膨大なただの人、チームメイトや対戦相手やコーチや監督やスタッフがいたという事実であることは、彼ら自身がよく知っているはずであり、それは日本とかアメリカとか、国家とか民族とかとは別の何かであると思う。
  これから東京オリンピックまでのこの国で、繰り広げられるスポーツをめぐる大騒ぎは、メディアや政治の利己的なナショナリズムの期待とは関係のないところで、当の競技者・選手たちの運命にもさまざまな影響を与えるだろう。でも、歴史の大きな流れにとっては、結局ど~でもいいことだし、選手たちにとっても余計なことでしかないと思う。
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