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敗戦を語る俳優たち 4 長崎の鐘の作者  知らなかった症候群 

2020-12-02 19:44:38 | 日記
A.佐々木孝丸、千秋実の薔薇座
 先日放映が終ったNHK朝ドラ「エ~ル」のなかで、窪田正孝演じる主人公古山裕一(作曲家古関裕而がモデル)が、ラジオドラマ「長崎の鐘」の主題歌を作曲するために長崎を訪れ、被曝して闘病中の永井隆博士(劇中では吉岡秀隆演じる永田武になっている)に面会する場面があった。戦争中に国策に協力して威勢のよい軍歌などを書いた自分を悔やんで曲が書けなくなった裕一が、戦後の作曲家としての出発を歩みだすという物語になっている。
 このときの1949(昭和24)年は、戦争が終わってから4年。まだ人々の生活は物資も乏しい苦しい時代だが、過ぎ去った戦争の記憶を呼び出して嘆くよりは、とにかく占領下の戦後社会を生きるために必死でそれぞれ努力をはじめ、戦争中は統制されていた音楽や演劇や文化活動が、ある意味明るい方向で自由になっていく時代でもあった。永井隆博士はまもなく原爆症で亡くなるが、「長崎の鐘」はラジオドラマになり、芝居になって大きな反響を呼んだ。その戯曲を書いたのは、戦前から新築地劇団などで舞台に立った俳優佐々木孝丸で、その上演を実現したのは千秋実だったという。千秋は佐々木の娘婿で、二人とも戦後の映画やテレビで数多くの役を演じることになるが、当時は千秋と妻の踏絵が薔薇座という劇団を立ち上げたところだった。

「永井隆の半生を芝居にしようと奔走したのは、千秋実だった。その経緯とエピソードは、千秋と佐々木踏絵の共著『わが青春の薔薇座』(リヨン社、1989年)にくわしい。本項では『わが青春の薔薇座』をおぎなうかたちで、佐々木孝丸の戯曲『長崎の鐘』と、そこから生まれた一篇『或る原子学者の半生』について書きたい。
 永井隆は、1945(昭和30)年8月9日、長崎に投下された原子爆弾に被曝し、妻の緑をうしなう。永井夫婦は熱心なカトリック信者だった。自宅の焼け跡には緑の遺骨と、肌身はなさずつけていた「ロザリオの鎖」が残されていた。永井の同僚や教え子たちも犠牲となった。
 被爆による白血病で、余命三年の告知を受けた永井は、病床で文章を書きはじめる。日比谷出版社が『長崎の鐘』を出したのは、1949(昭和24)年1月で、世に出たのは『ロザリオの鎖』(ロマンス社、1948年)のほうが早い。『長崎の鐘』の奥付には、式場俊三の名がある。俊三の兄は、精神医学者で美術評論家の式場隆三郎で、ながいの文章を世に出した人物である。
 『長崎の鐘』の後半には、「連合軍總司令部諜報課」名義による特別付録「マニラの悲劇」が収録されている。1945(昭和20)年2月、マニラ市における日本軍の無差別的破壊「マニラ大虐殺」の記録である。アメリカ軍による長崎への原爆投下と、日本軍によるマニラでの残虐行為を一冊にしたのは、GHQの思惑だった。GHQの許しがなければ、原爆の惨状を世に問うことはできなかった。
 『長崎の鐘』の刊行からまもない3月17日から27日まで、薔薇座が『長崎の鐘 原子科學者 永井隆傳』(五幕十一場)を三越劇場の「三越新劇祭」で上演する。日比谷出版社の『文藝讀物』に佐々木の『或る原子學者の半生』が載ったのは五月号、戯曲『長崎の鐘』は『悲劇喜劇』(早川書房)1949年10月号に掲載された。
 この年の七月には、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲による『長崎の鐘』が、日本コロムビアから発売された。《こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ》という藤山一郎の歌声は、今日まで広く歌いつがれている。永井は、ラジオで藤山が歌う『長崎の鐘』を聴いた。そして古関裕而に、感謝の手紙とみずから編んだ木綿糸のロザリオを送っている。1950(昭和25)年9月には、大庭秀雄監督『長崎の鐘』(松竹大船)が封切られ、若原雅夫が永井を演じた。
 佐々木孝丸は当時、新劇の世界では有名だった。でも、映画にはまだ出ていない。国民の誰もが知る銀幕のスターではなかった。『文藝讀物』の誌面には、佐々木の肩書やプロフィールはない。『或る原子學者の半生』の主人公は永井隆ではなく、仮名の“中井豊”になっている。その冒頭を引用する。

 祈に明け、祈りに暮れる長崎の聖地浦上、キリシタン禁制のはげしい迫害に耐えながら、相繼ぎ相傳えて四百年、キリストの教をひそかにまもり通してきた人々の魂のふるさと浦上……天主堂の冴えた鐘の音と共に、朝に夕べに、いたるところでミレーの名畫そのままの姿が見られた。 
 そこから谷一つ距てた丘のふもとの、広大な建物、ここでは、千數百の學徒が、近代科學の研究と實驗にいそしんでいる。長崎医醫科大學である。
 原子醫學専攻の中井豊は、この大學の助教授で、物理療法科の科長である。自宅は大學と天主堂との中間にある。晝間、ラヂューム室やレントゲン室で、夢中になつて放射能と取り組んでいる中井の姿は、早朝や夕方には、しばしば、天主堂の中に見出される。彼はすぐれた科學者であると共に、信仰篤いカトリック信者なのだ。(佐々木孝丸「或る原子學者の半生-―永井隆博士の事――」『文藝讀物』1949年5月号、日比谷出版社)

 『文藝讀物』は全体で96ページしかなく、『或る原子學者の半生』は12ページにわたって掲載された。永井の半生を描くには足りないし、ダイジェストになってしまう。「原爆文学」と呼ぶには、完成度はそれほど高くない。
 それでも、『筑波秘録』(落合三郎名義、南蛮書房、1930年)、『慶安太平記後日譚』(同、早川書房、同)、『立體脚本新劇集 父帰る 地蔵経由來』(佐々木孝丸名義、池田書店、1947年)と三冊の戯曲集を出し、多くの舞台を演出した人である。演劇的効果をねらったような場面が、そこかしこにある。父(永井)と娘(綾野)のこんなやりとりがある。

 うとうとしていると、綾野が自分の頬を父の頬にすりよせている。そして、
「お父さんのにおい、お父さんのにおい」
そんなことを云っている。この子に、「お父さん只今!」と勢よくおなかえとびつかれてはことだ。ひぞうが極度にまで肥大して、臨月の腹のようになつている。そこえとびつかれたら、一度に破裂して即死だ。で、とびつかれないように、寝臺のへりえ、いろんなものをつみ重ねてバリケードを作る。愛情をせきとめるバリケード!……だが、この子を孤児にするのを、一日でも長くのばそうとする愛情のためのバリケードでもある。 (前掲書) 

 この読み物は日比谷出版社にとって、先行する永井の『長崎の鐘』と『生命の河―原子病の話―』(1948年)のプブリシティの意味があった。『文藝讀物』五月号の巻末には《永井隆博士の二大主著》として両書の広告がある。百ページに満たない文芸誌に、五幕十一場の戯曲『長崎の鐘』の全篇をおさめることはできない。それをわかりやすく読み物にすることを、編集部が佐々木に提案したと思われる。
 わずか12ページ、佐々木は駆け足で、その半生をたどっていく。そこには、永井への誠実な姿勢が感じられる。題材は重いけれど、興味深く読んだ。この作品を、娘夫婦が主宰する薔薇座のために書いたことを、「筆者附記」として明かした(漢字が難しいとの理由で、「バラ座」と書いている)。
 <中略>
 千秋実は、戦前は新築地劇団の舞台に立ち、戦時中は樺太国境へ出征した。内地へ戻ったのち、佐々木文枝(踏絵)と結婚している。ふたりは、二人の男の子にめぐまれた。東京の自宅は、空襲で焼けた。戦争が終わり、千秋と踏絵が語らって生まれたのが、若い世代を中心とした薔薇座だった。
 1949(昭和24)年当時、新劇界には主要な劇団として、文学座、文化座、俳優座、新協劇団(第二次)、ぶどうの会、民衆藝術劇場(第一次民藝)、薔薇座があった。これらは東京を拠点とした劇団で、たとえば京都では、毛利菊枝の「くるみ座」が活動を始めている。
 薔薇座は、1946(昭和21)年11月に旗揚げされた。第一回公演『新樹』(久藤達郎作、村山知義演出)は、東京の神田共立講堂で上演された。そこには、千秋が抱く既存の新劇への反発と、踏絵の夢がある。夫婦二人三脚での再出発に際した、千秋の文章がある。

 そして八月十五日を迎へたのです。舊(ふるい)日本は亡びて新しい文化國家日本の建設が我々に與へられたのです。ところが敗戦の混亂に、無反省にも古色蒼然たる舊き新劇を登場させ、その登場者はより所を失つて右往左往する悲しきそして愛すべき大衆を舞臺の上から冷たく見下ろし決してその中に入り共に泣き共に笑はうとはしませんでした。その結果は封建的演劇の蘇生となり、刹那的エログロ演劇のはんらんとなり、演劇界を益々混亂に導き入れた動機ともなつたのです。此の時、外地から工場からと幸ひにも生き残つてかへつて來た同志と共に我々の保ち續けた現代大衆劇の確立の情熱は燃え上り、ここに薔薇座の誕生となつて猛驀進を開始することになつたのです。 (千秋実「薔薇座の歴史と計畫」「日本演劇」1948年5月号「劇團特集(四)薔薇座」、日本演劇社)

 薔薇座が生まれたとき、佐々木孝丸はどちらかといえば、群れない新劇人であった。新劇界の名だたる演出家と俳優が属する各劇団に、参加していない。華やかに復活をとげる新劇人たちとは、距離をおいた。そうした当時の新劇界のなかで、娘夫婦から乞われるかたちで、薔薇座に参画する。
 薔薇座を立ち上げるにあたって、千秋と踏絵は、佐々木に相談をしていない。それでも、戦前から活動する父の手腕はきっと頼りになる。自伝に《敗北者の逃走》《逃げつぱなし》と書いた佐々木にとっても、薔薇座には期するものがあった。かわいい娘と娘婿が心血をそそぎ、薔薇座には若い人たちも多い。そこに協力したいのは、演劇人としての情であろう。いっぽうで娘夫婦の劇団ゆえ、遠慮もあった。
 <中略>
 その薔薇座が、第八回公演のテーマにえらんだのが長崎の原爆、永井隆の半生だった。原爆のむごたらしさを世に問う。それだけではなく、くりひろげられる人間くさいドラマ、夫婦愛、家族愛、医師の師弟愛を劇化しようと試みる。千秋は、永井の著作をもとにした戯曲化を、義父の佐々木に依頼した。
踏絵はのちに《佐々木は喜んで引き受けた》(『わが青春の薔薇座』)と書く。これだけでは、佐々木の真意がよみとれない。話題の人となった永井隆は、佐々木にとっても気になる存在だったらしい。一読者として惚れこんでいたところに、娘婿の千秋から戯曲化の相談を受けた。だから喜んで引き受けた。その心境を、上演にあわせて書いた。

 『ロザリオの鎖』という博士の随筆集を讀んで、僕は非常に感激した。感激はしたが、そのときはまだ、博士のことを芝居に書いてみようなどという氣は全然なかった。『この子をのこして』という次の本を讀んで、僕は少しばかり「永井マニア」になりかかつていたらしい。が、そのときのマニアはどうやら「疑似」程度のもので、きわめて輕い病症であつたらしいのだが、つぎに、『生命の河』を讀み、『亡びぬものを』を讀むにいたつて、僕の病症は「疑似」から「眞性」に進んでしまつた。「急性」と「慢性」と、醫学的にはどちらが命とりなのか知らないが、とにかく僕は、「急性・眞性永井マニア」になつてしまつたのである。だから、薔薇座の千秋から、「おやじ書かんか」といわれたときには、「よし書こう」と言下に引き受けたわけである。 (佐々木孝丸「モデルに負けるの記」「日本演劇」1949年4月号)

 永井隆の半生を芝居にするにあたって、千秋はまず、永井を世に出した式場隆三郎に相談した。式場から協力をとりつけたうえで、義父の佐々木に戯曲化を依頼した。著作を通して永井の人となり惚れこんでいた佐々木は、それを引き受ける。
 その経緯を記した「モデルに負けるの記」には、原爆に対する怒り、当局の弾圧に屈して転向したうしろめたさ、自身の戦争責任への文言は見あたらない。戦後になって新劇人の戦争責任を問う声があがったとき、そこに佐々木孝丸の名もあった。各劇団が活動を本格化させていくなか、こうした責任を問う声は薄れていく。
 永井隆の人となり、思想を戯曲にすることに、葛藤はなかったのか。原爆への怒りはどうなのか。「モデルに負けるの記」には、その心情が書かれていない。長崎は、1938(昭和13)年2月に僧侶の父、佐々木諦薫が没した地である。永井がいた長崎医大は、佐々木が父を看病し、看取った病院だった。そうした縁すら記していない。
 「モデルに負けるの記」に書かれていないものの、脳裏には丸山定夫の存在もあったはずだ。丸山は新築地劇団でともに舞台に立った仲間である。徳川無声が戦後すぐ、移動演劇「桜隊」の合同葬と慰霊碑の実現に奔走したことは、すでに書いた。その無声が、慰霊碑実現のために相談したひとりに、佐々木の名がある。丸山の死から二十五年後、仲間たちが遺稿集『丸山定夫・役者の一生』(ルポ出版、1970年)を編んだときには、無声とともに刊行委員に名をつらねた。
 自伝『風雪新劇志――わが半生の記―ー』には、新築地劇団時代の丸山のエピソードが綴られている。丸山だけではない。ともに原爆の犠牲となった仲みどりは、左翼劇場にいたことがある。同自伝には《戦争中、丸山定夫たちの「さくら隊」に加わり、広島で原爆にやられて亡くなった。敢て一言書き記して置く。》とある。
 いずれにせよ、戯曲化を引き受けた。佐々木は、永井の著作軍を原作として、二百枚の戯曲(草稿)を書き上げた。千秋はそれを持って、長崎で闘病中の永井を訪ねる。病床の永井は、ひと晩でそれを読み、千秋に指摘した。永井から佐々木宛てに、手紙も送られた。
 永井の指摘は、演劇人として相応のキャリアを持つ佐々木を唸らせた。「モデルに負けるの記」を読むと、最大限の敬意をはらっていることがよくわかる。具体的にどんな指摘を受けたのか。佐々木が覚悟していた「脚色しすぎで事実と異なる」「モデルとなった人たちに顔向けできない」といった指摘は、なかった。あったのは、等身大の人物像にしてほしいとの注文である。」濱田研吾『俳優と戦争と活字と』ちくま文庫、2020年、pp.321―333. 

 1949年はぼくの生まれた年で、もちろん赤子のぼくにはなんの記憶もないのだが、どんな時代だったのか知りたいと思ってきた。かすかに子どもの頃の記憶を辿ると、といっても1955年くらいの風景だろうが、人々はまだ粗末な着物を着て、ささやかな食事をしていた。東京は空襲で焼けた跡はもうなかったけれど、建物はみな木造で空が広かった。まだテレビもクーラーもなかったあんな時代に、新しい芝居をやろうとした人たちは、意欲にあふれていたんだろうな。「七人の侍」でのどかで気のいい侍を演じていた千秋実さんの笑顔が懐かしい。


B.ロキタンスキー症候群って知らなかった。
 ちゃんとした知識が大事だということは、最近のSNSなどでも嘘やガセネタが拡散していたり、専門家をこきおろしたりする風潮をみて、改めて痛感する。とくに医療や生命科学に関する知識の場合、さまざまな実害が生じてしまう。恥ずかしながら、この記事にある「ロキタンスキー症候群」のことをぼくは全然聞いたこともなかった。不妊治療の話や子宮がんについては多くの情報があるが、子宮がない女性がいる、なんて考えたこともなかった。

 「明かせぬ苦悩 周りの受けとめでも変わる選択:「子宮がない」大切な人だったら・・・ 東京科学医療部 三戸部 六美
 生まれつき子宮や膣がない女性たちがいる。「ロキタンスキー症候群」と呼ばれる。がんの手術などで子宮を失った女性たちもいる。彼女たちとその家族は、「子をもつ」という選択とどう向きあったのか。「子宮がない 家族の選択」という連載でつづった。
 きっかけは、子宮がない女性に、提供者(ドナー)の子宮を移植して出産をめざす「子宮移植」の議論だった。養子縁組や代理出産のように子をもつ選択肢になりうる一方、出産という目的で健康なドナーの体にメスを入れることに倫理的な課題がある。国内の実施例はない。日本医学会で臨床研究を認めるか、いまなお検討が続く。
 その取材の中で、ある人からこんなことを言われたことがあった。「子宮がないことを画して結婚した人もいるんだって。夫をだますなんて」
 生命の誕生や死に直結する技術は、さまざまな分野の専門家、社会全体で、冷静に慎重に議論されるべきものだ。しかし、そうした議論とは別に、外見からは分からない子宮という臓器の不在に、人知れず悩む人の思いが伝わらないまま、誰かの何気ない一言が、当事者を傷つけているとしたら悲しいと感じた。
 連載で紹介した女性の一人は、結婚前に子宮がないことを明かせず、秘密に押しつぶされそうになりながら涙する日々を送っていた。それでも思い切って打ち明けたとき、すべてを受け入れ、養子縁組の提案をしてくれた夫に救われた。子宮頸がんで子宮を摘出した女性は、「いまのままでいい」という夫と愛犬と仲良く暮らす。ロキタンスキー症候群の20代女性は、自分で妊娠・出産が望めないなら、ほかの人の赤ちゃんを守れる存在になりたいと、助産師をめざす。
 子を授かるかどうか。それは、決して当たり前ではないし、カップルや個人の選択でしかない。「子宮がない」と一言でいっても、その選択は、歩んできた人生、パートナーや家族といった周りの受けとめによっても、大きく変わる。「もし目の前の大切な人が当事者だとしたら、どう寄り添うか」。そんな想像力が少しでも広がれば、と願う。」朝日新聞2020年12月1日夕刊5面、取材考記。

 
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