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逃げる人 高野長英14 逃避行探訪  やせ細る日本

2019-02-23 15:58:49 | 日記
A.逃亡の奇跡
 昨年4月、愛媛県今治市の松山刑務所大井造船作業場から逃走し瀬戸内各地に潜伏した事件があった。27歳の男性受刑者は、すぐ捕まって連れ戻されると思われていたが、約2週間以上逃亡を続けた。「脱獄」というと映画や小説の世界の話かと思いきや、現代でも珍しいことではない。法務省矯正局によれば、「全国の矯正施設(刑務所、少年院など)からの逃走は、平成に入って29件36人です」とのことで、1年に1件以上のペースで発生しているそうだ。
 ほとんどのケースで数日以内に身柄が確保されているが、1年2か月にわたって逃げ続けた脱獄者もいる。1989年に熊本刑務所から脱獄した懲役18年の連続強盗・婦女暴行犯の男だ。実刑確定から4年目の脱走で、最終的には680km離れた神戸市内で逮捕された。これは、作業場からくすねた材料で外部に通じるドアの合鍵を密造する用意周到な犯行。刑務所では“模範囚”として通っていたが、模範囚であるがゆえに刑務所内で陰湿なイジメにあったのが脱獄の理由だという。
 あと数年で出所できるはずの模範囚の脱獄が起こるのは、「塀のない刑務所」という構造もさることながら、獄中の人間関係も影響しているのかもしれない。(週刊ポスト2018年5月の記事から)
 牢獄内の人間関係や悪環境が脱獄を誘発するのがいまだとすると、高野長英の脱獄は、牢名主という囚人の自治的秩序のトップにいて、いじめどころか囚人からの信頼尊敬を集めていたらしい彼の、個人的動機による計画的なものだった。脱獄後の行動もじゅうぶんに考え計画されていた。

「小伝馬町の牢獄が焼け落ちてから三日間が、長英にとって、つかまる心配なく町を歩きまわれる時間だった。
 彼はまだ、小伝馬町から近い下谷練塀小路まで、数人の囚人仲間と一緒に歩いて大槻俊斎をたずねた。ただちに一人にならぬところに、長英の人がらがあらわれている。牢名主として、行き場のないひとたちをつれて歩いてきたものだろうか。
 大槻俊斎(1804~62)は仙台藩白石城主片倉氏の家臣で桃生郡赤井村に生れた。長英と同年同郷の蘭学者である。一八歳の時に江戸に出て高橋尚斎、手塚良仙、湊長安、足立長雋についてまなんだ。湊長安は、吉田長叔の門人であり、またシーボルト門下でもあったので、この縁で同郷の長英とも会ったであろう。
 のちに長崎に遊学し、水戸の別家永沼侯の医官となった。天保一二年(1841)には、高島秋帆に頼んでたねをもらって種痘を神崎屋源造の娘の子にして成功した。江戸における種痘のはじまりであるという。相当の冒険心をもつ医者だったのだろう。
 弘化一年(1844)六月三〇日のあけがた、俊斎は、訪問客があることをねどこできいた。長髪の人と他にニ、三人が門前に立っていて、門弟が、どなたかときくと、伊東玄朴のところから病人のことできた、門をあけてくれと言ったそうだ。俊斎は高野長英であることをさとって屋内にいれ、これからどうするつもりかときくと、友人の伊東玄朴その他をたずねるつもりであるが、こんなふうていでは具合がわるいから、何か着物を貸してほしい、それからひげをそりたいからカミソリを貸してほしいと言った。
 俊斎が、家には床屋がかよってくるので、カミソリは置いてないとこたえると、長英はそうかと納得した。三日以内に獄にかえったほうがいいと忠告すると、長英は、わかっている。心配するなとこたえた。帰りがけに、おもちゃ箱の中に木刀を見つけて、それをくれと言った。俊斎は、せがれのおもちゃで何の役にもたちませんと言ってことわろうとしたが、長英がこれでもよいと言って、有無を言わせず、もっていってしまった。ただし、俊斎の孫弐雄の話では、これは実はほんものの刀をわたしたのだが、世をはばかっておもちゃの刀と言いなしたのだと、母からきいたそうである(青木大輔編著『大槻俊斎』1964年刊)。
 俊斎は、長英にやった刀のことが気がかりで、町方の同心大関庄三郎に相談したところ、おもちゃならば、別のおとがめもないだろうが、自分から役所にとどけ出ておこうと言った。その後、長英と一緒に俊斎をおとずれた仲間が本郷のあたりでつかまり、この男が、長英が大槻俊斎をたずねて刀をもらったと話したので、このために俊斎は何度も奉行所によびだされ、三年の猶予を与えるから長英をさがし出せと申しわたされた。
  (中略)
 獄をはなれた第一日目、長英は、まず下谷の大槻俊斎を訪問したあとに、牛込の赤城明神境内にある漢方医加藤宗俊をたずねた。この人は長英釈放のために努力してきた人だから、ここで休ませてもらい、しばらくねむったのち、夜に入ってここを出て、四谷の相之馬場にある尚歯会の世話役をしていた遠藤勝助をたずねた。ここで長英は身支度をととのえることができて、その夜のうちに去っていった。
 そのあとに伊東玄朴をたずねたという説があるのだが、はっきりしたことはわからない。安心して人をたずねて歩くことができるあと二日の間に、長英はおそらく、麻布六本木近くに住む妻子のもとにたちよったであろうし、そのために気をくばってくれている鈴木春山、内田弥太郎たちをたずねて今後の相談をし、おたがいの連絡方法について打ち合わせをしたであろう。
 その後、長英の消息はない。おなじ水沢出身の佐々木高之助、いまは津山藩医箕作阮甫の養子となり蘭学をおさめて当時、銅板着色の世界全図とその解説書『坤輿図識』全七巻を準備しつつあった箕作省吾(1821~46)は、仙台藩の医官桜井元順あての手紙に、
  去月二十二、三日夜、小伝馬町百姓牢焼失、乗(きょに)虚(じょうじて)長英出奔。俊斎方へ町同心共参(どもまい)同人中相尋(あいたずね)候(そうろう)由(よし)。何方(いずかた)へ奔(はし)り候や。定てユリス〔ロシア〕抔(など)と案候。御考(おかんがえ)如何(はいかが)。
 ひと月ほどたったある夜、今日の東京都板橋に住む水村玄銅という医者の家に、長英は突然あらわれた。玄銅は長英の門人で、長英在獄中、釈放運動をしている。水村家には、天保一四年(1843)正月の日付のある東叡山あての嘆願書の写しが残っていた。おそらく、これは江戸の漢方医加藤宗俊が中心となってすすめた赦免運動の文書だろう。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.252-260.

 このあと水村玄銅の家、そしてその兄の医者、高野隆仙の埼玉県北足立郡尾間木村の家、それから大宮を通って上州、いまの群馬県の各地を門人や医者のつてを頼って長英の逃亡生活は続いて行った。

 「幕末から明治はじめにかけて、上州は無宿者の本場であった。江戸に流れて来て上州無宿を名のるものが多かっただけでなく、上州にもどっても各地をわたりあるいて無宿者として生きる人間が多くいた。旅に出ている間は自衛上、刀をもっていることが、武士以外のものにも許されるという法律のぬけ穴を利用して彼らは法律を公然とやぶり、上州長脇差をさしてわたりあるいた。
 萩原進『群馬県人』(新人物往来社、1975年刊)によると、博奕場をかしてその席料をとって暮らすやくざにとって、堅気の旦那衆がバクチに使う金がなくては、暮らしてゆくことはできない。その点で上州は中仙道、三国街道など主要な道路がとおっていたので現金の流通が盛んだった。
 それにくわえて、中世の戦国時代以来、村の力で村を防衛しなければ、いくらでも戦国領主たちの使役にかりたてられるという困難に応じて、地侍集団ができており、その伝統をやくざがひきついで村を守るという役割を果たしたという。そのもっとも名高いものが国定忠治(1810~50)と大前田英五郎(1793~1874)であり、忠治の子分は上州各地で700人と言われ、英五郎の子分は上州の範囲をこえて3000人と言われた。
 代官羽倉外記は、忠治の処刑後、忠治が村民の立場にたつ側面をもっていたことへの洞察をふくむ小伝『赤城録』を書いた。忠治が岡っ引きを殺してからも数年上州各地でかくまわれていたこと、英五郎のばくち場の駒札が上州では幕府発行の貨幣とおなじく通用したことなどを考えあわせると、中央政府、地方政府の支配のおよばぬ政治の場がここにあったことがうかがわれる。国定忠治も、大前田英五郎も、ともに高野長英の同時代人であり、忠治、英五郎の活動を許した上州人の気風が、長英の潜行をも許したものと考えられる。
 群馬県吾妻郡の中之条という町は、明治中期までは上州で名だたる町の一つだったらしい。この町の鍋屋旅館は、今の投手田村喜代治が一三代目にあたるという。十返舎一九が書いた『諸国道中金の草鞋』(1820年刊)という戯作にも出てくる。
  (中略)
 この旅館の当時の主人田村八十七は、中之条と原町とのあいだに市(いち)をたてることをめぐっての争いがあった時、町田明七という人と村を代表する二人として江戸におくられ、小伝馬町の獄につながれた。ここは天領であるので、江戸におくられたのである。そこで、牢名主となっている高野長英に会った。長英とは、かねてからの知り合いで、田村八十七の名は長英入獄前の天保九年(1838)の福田宗禎あての手紙にすでに見える。
 小伝馬町では、長英は、
「この人には、しゃばで世話になったので、今夜ここにとまるについては、客にしてほしい」
と牢内のみなに計ると、
「はあ」
と言ったそうである。
 鍋屋旅館にある田村八十七(号は渓山)筆の「韓信股くぐり」のびょうぶを前にしていると、この大きな図柄から見て、村の利害を一身にひきうける太っぱらな性格を感じる。胆力のある自分を屈して暴漢の股をくぐる韓信に、筆者は自分をなぞらえていたのだろう。
 伝馬町の牢内の話が、この鍋屋の家中で代々語りつたえられて今日に至っているところから言って、沢渡、赤岩、伊勢町、横尾の各地に潜伏した長英が、牢内から長英より早く出てこの旅館にもどっていた田村八十七からさまざまの便宜を得ていたものと推定できる。
 先代の当主田村辰雄によると、長英はこの旅館の土蔵にかくまわれていたことがあるという。八十七の娘リウ(里宇)は長英の顔形をおぼえていたそうである。リウは、明治に入ってから、長英の薬用のさじや長英筆の竹の絵、オランダ語で書いた字訓をはった扁額などをゆずりうけ、長英を尊重することを子どもに教えた。その子喜八は、一〇〇歳まで生き、一九六四年に亡くなり、その子辰雄は、私がたずねた一九七四年四月三〇日には八五歳で、話をしに見えた。
 当主の案内で、この宿屋を見てまわったが、ここに長英ゆかりのものが大切に保存されているだけでなく「瑞(ずい)皐(こう)の間」という部屋があることを知った。いうまでもなく瑞皐は長英の号である。明治以来何年にもわたってこの旅館では長英が記念されていたのである。旅館の庭には、長英の詩の一節、「双眸呑五洲」(大槻如電のつたえた作では呑(のむ)が、略(おさむ)になっている)を彫った石がたててある。
 隠れた活動を語りつたえるところには、詩と真実がまざりあってくる。その二つを分けることはむずかしい。
 私が高野長英の伝記を書こうなどとは夢にも思わなかった一九五一年の夏、私は中之条からあてもなく歩いて、沢渡温泉に達した。それまで沢渡という名前などきいたこともなかった。何日か滞在するうちに、宿の前に大きな碑があり、それは昔、高野長英をかくまった土地の医者の記念碑だときいた。風呂に入って宿屋の主人の話をきいていると、近くに長英がかくれていた「穴小屋」という大きな洞穴があるという。
 親切な主人の案内でいってみると、それは近くどころか往きかえりにまる一日はかかるところで、沢渡から草津に通ずる道からはなれて山の中を相当歩いたところにあった。洞穴そのものは大きくて、何人も一緒に住める岩屋のようなものだった。しかし、ここに長英がひとりで住み、沢渡の温泉から食物をはこんでもらうということは、私にはとても考えられなかった。長英は、夜になると、山から下りてきて蛇野川で釣りをしたというので、そこの橋は晩釣橋と名づけられているが、実際に歩いて見ると、これもありそうなこととは思えない。
 明治から大正にかけて冒険ずきの少年たちが群れをなして「穴小屋」まで遠足にでかけて来て、彼らの空想に土地の古老の言いつたえがまざり、だんだんに尾ひれがついて、ここに長英がかくれたということになったのではなかろうか。うわさ話は、ともかく、おもしろくなる方向にむかって一方的に進むものだから、一日の山歩きでくたくたにつかれて風呂につかりながら、私は、そんなふうに考えた。しかし、ともかく、ここには、少年の夢の中に高野長英は生きている。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.271-275.

 鶴見俊輔は、1970年代前半、この長英の評伝を書きながら、脱獄後の長英の逃亡生活を追って潜伏したとされる各地を歩いてそこにのこる伝承や遺跡を訪ねて歩いた。とくに脱走後の上州各地と、嘉永元(1848)年に比較的安全に過ごした四国宇和島での、長英の足跡を探訪して、120年以上経っていながら彼の逃亡をかくまい見守り伝承している人がいることに深い感慨を見出している。



B.いま・どうなっているか?
 あの1980年代の浮かれたバブル時代を記憶しているのは、もうアラ還、50代以上の人間で、それからの長いトンネル、あるいはだらだらの下り坂時代にも、多くの日本人はまだ本気で未来に何が起こるか考えていなかった。そのうちまた経済は回復し、再びバブルが来るのは無理としても、日本はアジアの先進国として優秀な人材と技術で「発展途上国」のために貢献し、国民は豊かな生活を維持していくだろうとあまり根拠もなく惰性で期待していた。しかし、それから25年ほど経って、明らかにどこから見ても日本という国からかつての栄光は色あせ、国民の生活は一部の富裕層以外は衰弱し、かつて見下していた中国とは経済でも政治でも、もう太刀打ちできない場所にいる。どうしてこうなってしまったのか?そして、この現実を直視し今とるべき進路と政策を誰かが示す必要がある。それはバブル気分、いやそれ以前に「ニッポンすごい」「サムライ魂」などという愚かな妄想や偏見を持たない若い世代の中からでてくるはずだと思う。それも儚い老いた人間の期待かもしれないが、行き詰った(息詰まった)現政権の時代錯誤な悪あがきを見るにつけ、危機感はつのる。
 
 「戦後七三年が経ち、復興・成長という過程を経て、バブルの崩壊から四半世紀、二一世紀日本の社会状況を再考しておきたい。日本の勤労者世帯可処分所得、つまり働く中間層が収入から税金、社会保険、年金拠出などを差し引かれた実際に使える所得は、一九九七年がピークで、二〇〇〇年の568万円で二一世紀を迎え、二〇一七年は521万円と、年間47万円も減った。また、全国全世帯の消費支出も、二〇〇〇年の380万円から二〇一七年の340万円へと年間40万円も減少しており、二一世紀に入って日本人の貧困化が進んだことが確認できる。
 また、二一世紀に入って、外国人来訪者は二〇〇〇年の527万人から二〇一七年の2869万人と五倍以上に増えた。だが、日本人出国者は二〇〇〇年の1782万人から二〇一七年の1789万人へと横ばいのままである。「グローバル化」の掛け声とは裏腹に、日本人はグローバル化疲れとでもいうべき局面に入った。「内向の日本」なのである。
 こうした現実を背景に、21世紀に入り一七年間の日本人の意識の変化を各種調査の動きで確認するならば、博報堂の生活総合研究所が四半世紀にわたる「生活定点調査」の結果として示している「常温社会化」という表現が適切と思われる。[日本の行方は、現状のまま特に変化はない」と考える人が、二〇〇八年の32%から壱八年の56%へと24ポイントも上昇しているごとく、全般に「公よりも私」「先よりも今」「期待よりも現実」(イアマ、ココ、ワタシ)という価値観が浸透している。内閣府の「国民生活に関する世論調査」(2018年)においても、「現在の生活に対する満足度」は75%と一〇年前に比べ17ポイントも上がっている。「不満はないが不安はある」というのが現在の日本人の心理なのだろう。
 現代日本の社会心理は「不安を内在させた小さな幸福への沈潜」といえる。多くの人がうつむきがちにスマホを見つめ、休日には全国に3500を越したショッピング・モールに行って思惟さな幸福を享受するライフスタイル、常温社会へと引き寄せられている。
 こうした状況は、ある意味では幸福な日本の断章かもしれない。だが、これこそがケジメと筋道を見失う日本の温床になっているともいえる。例えば、森友・加計問題をめぐる当事者と忖度官僚の国益を忘れたかのごとき無責任、政治主導の「異次元金融緩和」という呪縛から逃れきれず、健全な経済を見失いつつある経済政策、安保法制から防衛装備品導入、沖縄問題まで、米国に過剰同調して日本の主体性を失いつつある外交安保政策の現状など、国民的議論がなされるべき課題にまで、不思議なまでの諦念と無関心が蔓延している。だが、迫りくる世界経済の変調とリスクの高まりは「常温社会への埋没」を許さないであろう。それが鮮明になるのが二〇一九年と思われる。
 静かに一九三〇年代を思い起こさなければならない。一九二九年に世界経済が大恐慌に陥り、経済基盤が不安を高めるにつれて台頭したのがファシズムであった。自国利害と民族主義は経済不安によって増幅され、力への誘惑、統合への意志が高まったのである。
 論じてきたごとく、世界経済はここ数年続いた「同時好況」から「変調」という局面を迎えている。とくに、株価への根拠なき熱狂が、様々なリスク要素の顕在化に対して敏感に反応し始めている。二〇一九年。もし株価下落が触発する金融不安が起こるならば、日本も試練に晒されるであろう。常温社会に埋没する日本にとって、この試練に冷静に対応することは容易ではない。何よりも懸念されるのは、この国の指導者に時代を見据える構想力がないことである。
 長期的・構造的視野に立って世界を認識し、課題を制御する新しい秩序形成をリードする構想、しかもその中で日本が果たす役割を強く自覚した構想が求められる。中国脅威論に怯えて「日米連携で中国の脅威を封じ込めよう」という次元での構想では、再び国権主義と偏狭なナショナリズムの誘惑に吸い込まれていくであろう。常温社会がどんなに快適であっても、結局は国民を不幸にする時代を招来することになりかねない。予想される激流の中で、民主主義を守る連帯が必要なことに、日本人が自覚を高めうるのか、それが試される局面を迎えている。
 二一世紀が「アジアの世紀」になることは間違いない。現在、世界GDPに占めるアジアの比重は約三分の一だが、二〇五〇年までには五割を超し、今世紀末には三分の二を超すと予想される。この潮流に、技術をもった先進国として協力・支援すること、とりわけ、アジアの相互メリットになる連携を実現することこそ日本への役割期待であろう。また、核抑止力という固定観念に国の運命を託するのではなく、国連の核兵器禁止条約の先頭に立ち、アジア非核化構想をすみやかに実現すべきであろう。それこそが、二一世紀の世界史における日本の役割である。」寺島実郎「荒れる世界と常温社会日本の断層――二〇一九年への覚悟:脳力のレッスン 特別編、岩波書店『世界』2019年2月号、pp.63-65.

 先走った予測は半分以上間違うだろうが、歴史をふり返れば世界史の大きな動きは、グローバルなどといまさら言わなくても25年くらいで構図が変わってしまう事は、これまでも繰り返されている。1930年代は、軍縮と協調で平和を追求する流れが強まるはずと思われていた世界の状況が、いつしか偶然的な出来事への対処を誤り、世界恐慌を契機にブロック経済の利己的追及が表にあらわれ、どんどん緊張と対立の方向になだれ込んでしまった。それが結局世界戦争の悲劇に終わることはいうまでもない。自然災害とちがって、そういう選択を行った指導者の責任を、歴史家はちゃんと追求しているはずだ。2019年は、すでに世界は大国同士の利害のぶつかり合いと、軍事的緊張の方向にすすんでいることが誰の眼にもはっきりする転換点かもしれない。オリンピックに浮かれている国民は、歴史に翻弄されるだけの悲しい愚かな人民だとは思いたくないが…。
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