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海没死の悲惨・・戦争を終わらせた首相のこと

2018-06-08 22:50:16 | 日記
A.海に沈んだ兵士
 海難事故などで船が沈み、乗船者が海に落ちて溺死する不幸な事件はたまにある。しかし、平和な時代であれば救助船もかけつけるし、少しでも犠牲を少なくしようと多くの努力が尽くされる。しかし、戦争という異常事態では、嵐や事故のためではなく、敵の商船艦船を狙った機雷・魚雷を狙って撃って沈めるわけで、大量殺人行為ではあるが軍事的な成果として褒められる。アジア・太平洋の戦争では、日本は多くの将兵が戦地に向かうために輸送船団を仕立てて航海し、米軍潜水艦や爆撃機によって沈められた。「海没死」は戦争末期に激増し、正確な数はわからないが、およそ35万8000人の犠牲者が出たという。

 「狭い意味での戦死のなかにも、この時期に特有の死のありようをはっきりと見てとること不ができる。そのひとつに大量の海没死がある。
 アジア・太平洋戦争では、連合軍の航空機や潜水艦の攻撃によって、多数の艦船が沈没したが、海没死とは艦船の沈没に伴う死者のことを指す。その死者数については、前掲『旧日本陸海軍の生態学』が詳細な検討を加えているので、ここでは概数だけを示しておこう。
 『太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑』によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=18万2000人、陸軍軍人・軍属=17万6000人、合計で35万8000人に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人(『日露戦争の軍事史的研究』)と比較すれば、この35万8000人という海没死者数の重みが理解できるだろう。なお、船舶輸送軍医部は、「船舶輸送中における戦死は溺水死その半ばを占むべし」としている(「船舶輸送衛生」)。つまりは「溺れ死に」である。
 多数の海没死者を出した最大の要因は、アメリカ海軍の潜水艦作戦の大きな成功による。第二次世界大戦で、米海軍は52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・5002000トンの枢軸側商船を撃沈している。潜水艦1隻の喪失で25隻もの商船を撃沈していることになる。ドイツ海軍は781隻喪失、撃沈が2828隻・1400万5000トン、一隻の喪失で3・6隻を撃沈しているが、米海軍には大きく水をあけられている。ところが日本海軍の場合は、127隻喪失、撃沈が184隻・90万トン、1隻の喪失でわすか1・4隻を撃沈しているにすぎない。
 米海軍の対日潜水艦作戦では1943年半ばが大きな画期となった。米海軍は、この頃までに不発や早発の多かった米軍魚雷の欠陥を是正しただけでなく、日本商船の暗号解読に成功した。これによって、船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になってのである(「研究ノート対日通商破壊戦の実相」)。
 多数の兵士たちが海没死した日本側の要因としては、日本軍の輸送船の大部分が徴傭した貨物船であり、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込めたことがあげられる。そのため沈没の際に全員が脱出することは不可能だった。また多数の船舶の喪失によって船舶の不足が深刻になり、一輸送船あたりの人員や物資の搭載量が過重となったことも犠牲者を増大させた(前掲、「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」)。
 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は、船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、軍隊輸送では坪当たり三ないし四人の兵士が通常だが、温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり二・五人を理想とする、しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、「坪当たり五人の多きに達すること」があると指摘している。
 一坪に完全武装の兵士五人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、船倉の異常な温度と極度の温度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち合い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでいく兵を、切ない悲しい思いをして見送った」と回想している(『軍医の見た大東亜戦争』)。
 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば、甲板への出入り口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。
 「八ノット船団」――拍車をかけた貨物船の劣化
 また、日本の貨物船の性能も問題だった。アジア・太平洋戦争中、日本は急増する船舶需要に対応するため、多数の戦時標準船を建造した。設計・建造の簡易化、工期の短縮、資材や労働力の節約などによって、建造数を増加させることを最優先の課題とした低性能の船舶である。
 戦時標準船にはいくつかのタイプがあったが、貨物船の航海速度を見てみると、第一次戦時標準船では、速度が最大のタイプが12・3ノット、最低のタイプが10ノット、第二次戦時標準船では最大が10ノット、最低が7ノット、第三次戦時標準船では、最大が14ノット、最低が7・5ノット、速度を最優先した第四次戦時標準船でも18ノットである(『戦時造船史』)。
 輸送船やタンカーは、潜水艦や航空機の攻撃に備えて船団を組み海軍の艦艇によって護衛される。しかし、船団のなかに8ノット(時速約15キロ)という低速の船舶が存在すると、船団全体の速度をその船舶の速度にあわせざるをえない。その結果、「八ノット船団」などと呼ばれる低速船団が普通になり、船団護衛をはますます困難になった。「八ノット船団」が潜水艦による攻撃を警戒してジグザグに航行する「之字運動」を行えば、速度はさらに6ノット以下に低下したという(「護衛船団幕僚体験談摘録」)。
 輸送船が攻撃を受けたあとの状況についても、具体的に見ておこう。魚雷や爆弾が命中するとその爆発によって直ちに戦死者、負傷者が出る。その一方で船内はパニック状態に陥り、失神する者、精神に異常をきたす者が続出する。船外への脱出に成功しても、こんどは積載していたボート、筏、すがりつくことのできる浮遊物などの奪い合いが起こることも少なくない。大本営陸軍部による「戦訓報 第四十九号 海難対策に関する教訓」(1945年1月18日付)は、この点について、「浮遊物を争奪しあるいは独占せんとし、あるいは他の者にすがり、おのれ一人のみ生存せんとして両者ともに失命するに至りし事例多し」としている。
 そうした奪い合いの一つとして大誠丸の悲劇をあげておきたい。1945年4月、海上機動第三旅団などが乗船して函館に向かっていた大誠丸(1948トン)は、潜水艦の攻撃を受けて北海道新冠郡節婦沖で沈没した(『戦時船舶史』)。同部隊の隊員だった小屋敷清は、「海中を漂流している兵が助けを求めて『大発』(上陸用舟艇)にすがりつくのを将校が刀でその腕を斬りおとすのを何件か見た(腕のない死体も浜辺に流れ着いた)」と証言している(『戦争体験の記録と語りに関する資料調査1』)。
 作家の吉村昭は、この事件を取材して、「海の棺」(『総員起シ』所収)を書いているが、船名、部隊名、地名などはあえて伏せている。
  圧低傷と水中爆傷
 次に海没にかかわる、あまり知られていない戦傷として、圧低傷と水中爆傷をあげておく。一般には圧低傷とは、高所から足を下にして地上や固い床などに墜落した際にその衝撃によって引き起こされる損傷をいう。戦時期に固有の圧低傷については、戦時中からこの問題に大きな関心を持っていた元陸軍軍医中尉の山田淳一が次のように書いている。

 今次の戦争では触雷(機雷・魚雷)による船体の爆破によって、平時のものとは逆に下からの強大な衝撃によって艦上あるいは海中に跳ね飛ばされて、重症な圧低傷と共に爆破による爆創、挫傷、骨折、熱傷、鼓膜損傷および内蔵損傷等の単数あるいは複数の損傷が一時に合併するのが常であった。 (『比島派遣一軍医の奮戦記』)

 山田によれば、沈没後に収容された戦傷者のうち「四四%が圧低傷が合併していると報告されてい」たという。
 それでは、水中爆傷とは何だろうか。アジア・太平洋戦争中に軍医に任官した国見寿彦は、海軍軍医学校における戦傷学の講義で、水中爆傷という戦傷の存在を知った。国見は、「それは海中を泳いでいる時、爆発に遭遇し、そのときは体の外部にはなんら損傷がないのに次第に腹部がはれてきて、腹痛がひどくなり、次第に憔悴して死亡するという恐ろしい戦傷である。はじめ原因が分からなかったが、どうも爆雷の爆発に遭遇したときにかぎるようであった」と書いている(『温故知新』)。
 爆雷とは代表的な対潜兵器であり、船団を護衛している駆逐艦や駆潜艇などが敵の潜水艦を攻撃するために投射・投下して、水中で爆発させる兵器である。
 また、水中爆傷の患者の状況については、1944年1月、ラバウルでその治療にあたった海軍軍医少佐の波多野克己が、「これほど苦しむ患者を診たことがない。腹部の激痛を訴えて号泣している。口からは血痰を吐いている」と書いている(『ラバウル洞窟病院』)。
 この水中爆傷の原因はその後解明されたようである。1942年6月に海軍軍医学校を卒業し、44年7月にセレベス島で水中爆傷の手術に加わった元海軍軍医大尉の佐藤衛は、次のように回想している。

 敵潜水艦に撃沈された輸送船の乗員が海上浮流中、味方対潜爆雷攻撃による水中爆傷で腸管破裂を生じ、すでに腹膜炎を起こしかけた患者を一度に十名あまり収容したことがある。〔中略〕開腹すると驚くべし、全員腸管が数カ所で破れている。その場所に特徴があり、〔中略〕この特徴から腹壁を介しての衝撃による損傷ではなく、肛門からの水圧が腸内に波及し、内部から腸壁を破ったのだと判る。 (『雲騰る海』)

 「突然発狂者が続出」
 もう一つ、海没の問題で無視できないのは、海没に伴う精神的なダメージである。そもそも、船舶の喪失が激増するようになると、出港時から兵士たちの間に不安が広がった。1943年2月から3月にかけて実施されたニューギニアへの増援輸送作戦、八一号作戦では、米豪軍の航空攻撃によって、輸送船の全船八隻と駆逐艦四隻が沈没し船団は壊滅した。「ダンピールの悲劇」である。
 土井全二郎は出港前の兵士と船員の状況について、取材に基づき次のように記している。

 そんなこんなで、出かける者の多くがますます「無口」になり、そして機嫌がわるかった。不安が頂点に達した出港前日の午後には、輸送船に乗船中の将兵の間から、「とつぜん発狂者が続出」するという深刻な事態すら発生していた。それも「とうてい仮病とは思われない」ほどの重症なのである。 (『撃沈された船員たちの記録』)

 沈没後に救助された兵士たちの精神状態も深刻だった。軍の報告書でも、「悲惨なる状況に遭遇し」、かろうじて救助された者は、「通常。救助後、相当期間精神的感作、とくに恐怖感大にして」、軍務につかせるには支障があったと指摘されている(前掲、「海難対策に関する教訓」)。
 なお、人員や軍需品などの搭載品と共に軍旗が海没した部隊もあった。軍旗は、歩兵連隊と騎兵連隊の編成時に天皇から部隊に「親授」される旗である。天皇から直接授けられたものとして神聖視されると同時に、その連隊の団結の象徴でもあった。その軍旗が海没しているのである。
 具体的には、1942年11月、歩兵第170連隊の乗船がパラオ沖で潜水艦の攻撃を受けて沈没し軍旗も海没、44年4月には歩兵第210連隊の乗船がバシー海峡で潜水艦の攻撃を受けて沈没し軍旗も海没している(「保・騎兵連隊と軍旗⑤」)。「天皇の軍隊」の崩壊を象徴するような出来事である。」吉田裕『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』中公新書2465. 2017.pp.42-51.

 人の死は、どのような形にせよ悲しみを誘うが、戦争での死は無残というしかなく、とくに「海没死」の残酷さはそれが人間の意図した行為の結果であることが、さらに心が痛む。海に落ちて必死で漂う兵士に追い打ちのように、味方の対潜爆雷が水中で破裂し、その後で救助されて一見身体の損傷はないかに見えて、実は肛門から侵入した水圧で腸管が破壊されていたという水中爆傷の死の苦しみ。なんという残酷なことをやったのだろう。戦争だから仕方がない、とはいいたくない。



B.戦争を終わらせた総理大臣
 1945年8月14日、日本の都市は空襲で次々破壊され、攻め寄せる米軍の前に「本土決戦」を呼号していた大日本帝国は、ついにポツダム宣言を受け入れ降伏した。もっと早く戦争をやめていれば、広島・長崎はじめ何十万人もの命は悲惨な死を迎えなくてもよかったのだが、とにかく全滅しても戦争を継続するという軍中枢の意向を、御前会議で天皇の意志としてポツダム宣言受諾を決めた前後のいきさつは、半藤一利『日本の一番長い日』にかなり細かく描かれて、映画化もされた。
 1967年版の岡本喜八監督作は、首相鈴木貫太郎を笠智衆、外相東郷茂徳を宮口精二、陸相阿南惟幾を三船敏郎、海相米内光政を山村聰という重厚な配役だった。昭和天皇は先代松本幸四郎さんが演じたが、ほとんど後姿だけだった。終戦を阻止しようと画策する青年将校畑中少佐(黒沢年男)、椎崎中佐(中丸忠雄)の血走った目が印象に残るが、ちょっとだけ出てくる横浜警備隊長の佐々木武雄大尉を演じた天本英世さんの、狂気の叫びは凄かった。
 2015年にも原田眞人監督で再映画化されたが、こっちは鈴木首相を山﨑努、阿南陸相を役所広司、昭和天皇を本木雅弘、畑中少佐は松坂桃季が演じ、67年版には登場しなかった東条英機(中嶋しゅう)が多く登場する。佐々木横浜警備隊長は松山ケンイチだった。鈴木首相夫人のたか(西山知佐)もちょっとだけ登場する。鈴木首相役は穏やかな好々爺そのものの笠智衆さんよりは、元海軍軍人でもある硬骨の威厳ある人物として山崎努さんの方が実物に近いかもしれない。でも、戦争を知る時代のリアルな映像として、やはり岡本喜八版「日本の一番長い日」の鬼気迫る緊張感は素晴らしいとぼくは思う。
 
 「ザ・コラム 老宰相 最後の言葉 託された世代の立つ地平は :駒井 剛(編集委員)
 東京の不忍通り。文京区千石あたりは坂道になる。かつて小石川円山町と呼ばれた周辺に、先だって私は立ってみた。
 昭和20(1945)年8月15日。正午に昭和天皇の終戦の詔勅がラジオから流れ、日本は戦闘を止める。終戦の日の早朝、この坂道周辺は、歴史の舞台になった。
 午前5時ごろ、横浜警備第3旅団の大尉が率いる暴徒が襲撃し、住宅に火を放った。標的は鈴木貫太郎首相邸である。
 鈴木は自動車で逃げようとするが、エンジンがかからず、居合わせた人たちが坂道を押して動かし間一髪で退避した。それから3カ月あまり各地を転々とした。終戦を成し遂げた功労者を、国を売った反逆者として抹殺しようとする人々がいたからだ。
 いま当時をしのぶよすがは坂道だけだ。
 鈴木は何度も命の正念場に遭遇した。海軍軍人として日清、日露戦争に従軍した。
 昭和11年、陸軍の青年将校が起こした「二・二六事件」の際は、侍従長だった鈴木が、天皇を誤らせる「君側の奸」と目されて4発の銃弾をこめかみなどに受ける。
 鈴木は血の海の中にあった。絶対説明の窮地を「とどめはやめてください」と自らも銃剣を突きつけられた妻の孝が守った。
 信じがたいほどの生命力のためか鈴木は蘇生する。私には終戦の大業を成し遂げるため、生かされたとしか思えない。

 「軍人は政治に関与すべからず」が信条の77歳が首相に就任したのは天皇のたっての願いだった。その意志は分かっていた。戦を終わらせるのが己の使命と考えた。
 就任直後「私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で、国政の処理に当たります。諸君もまた、私の屍を踏み越えて……」と語った。字面だけ見れば本土決戦を覚悟せよと言っているように見える。
 こんなことがあった。昭和20年5月、疎開先から一字帰京していた鈴木の孫、道子さんは首相官邸を訪ねていた。前庭に真っ赤なバラが咲いていた。戦争を忘れさせる見事さだった。この後、学校疎開先の秋田に行く予定だったが、バラを見て「このまま家族と一緒にいたい」とだだをこねた。
 手に余った母が祖父に説得を任せた。鈴木は静かに言葉を重ねた。「友達と秋田に行きなさい。道子達若い人は安全な場所で暮らさないといけない。次の時代を築いていってもらわなければならないからね」
 優しかった祖父を思い出しながら、道子さんは「日本人が絶滅するような本土決戦など、考えなかった証しです」と話す。
 昭和20年11月、鈴木は妻と千葉県関宿町(現野田市)で暮らすようになる。先祖代々の地で、「若い人と何かをやりたい」という希望があった。当初は東京と行ったり来たりだったが、翌年から定住し、若者たちと農事研究会を作って勉強会を重ねた。
 海軍で欧州留学した際、農業に関心を持ち、関宿で酪農を盛んにできないかと考えた。利根川と江戸川に挟まれた河川敷に豊富な草地があり、牧草に不足はなかった。
 「農のない国は国家とはいえない」が口癖だった鈴木は、知り合いの農業専門家らを招き、若者たちに話を聞かせたという。
若者に日本の未来を築き直してもらう。関宿では農業がそのすべだ。願わくは未来を見届けたい。それが鈴木の願いだった。
 終戦後、「あなたはなぜ自刃しないのか」と詰問されて、「私は死なない」と返した。命を惜しんだのではない。「余生を傾けて真に国家が健全な肉体になってゆくまで見守っていくのが自己の責任だと痛感している」からだった。
  ◇ 
 だが、残された時間は長くはなかった。昭和23年4月17日、家族や関宿の住民が観音経を唱えるなか、鈴木は息を引き取った。
直前、意識が残る鈴木が最期の言葉を残した。2度「永遠の平和」と繰り返した。
 鈴木は日本再建の鍵を「日本国民が嘘をつかぬ国民になることである」と言い残してもいる。軍や政治家のウソが、侵略の果ての亡国の引き金になったと考えたのだ。
 いま、日本はその願いを忘れ、逆コースを歩んでいる。政治家、官僚、自衛隊にはウソがはびこり、当事者は恥という言葉と無縁にいる。老宰相に健全な国家づくりを託された私たちの世代は、彼の願いとあまりにかけ離れた地平に立っている。」朝日新聞2018年6月7日朝刊、16面オピニオン欄。

 軍人として日清・日露戦争に従軍し、二・二六事件で銃弾に倒れ、最後に大戦争を終結させるといういわば戦争により膨張した日本帝国を中心で担って生きてきた人が、その国を滅ぼす現場に首相として立ち会ったわけだ。昭和天皇はこの戦争を終わらせるには鈴木貫太郎しかいないと確信していたという。最後の最後にいたるまで、国家の責任ある立場にいた人間たちは、日本軍が実質的に戦闘能力を失っていることを知りながら、どこかでこの戦争をやめなければと判っていながら、自分から停戦終戦を言い出せなかった。そのことは記憶しておかなければならない。
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