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音の記憶Ⅶ 三波春夫2  無辜の民が戦争で殺されたことの責任  

2017-05-28 23:11:32 | 日記
A.音の記憶Ⅶ 三波春夫2
 三波春夫の歌った曲は山のようにあるが、ほかの演歌歌手には真似のできない特別の芸、といえば、「長編歌謡浪曲」と名付けた歌謡・浪曲・芝居の混然一体一人ミュージカルである。すでに1960年頃から国定忠治や沓掛時次郎、あるいは南部坂雪の別れ、などこの線の曲は出していたのだが、本格的に「長編歌謡浪曲」と銘打ったのは1964年の「元禄名槍譜 俵星玄蕃/権八忍び笠」からである。1966年に豪商一代 紀伊國屋文左衛門、続いて「赤垣源蔵」、以後続々と「信長」「奥州の風雲児 伊達政宗」「頼朝旗揚げ」「壇ノ浦決戦」「天竜二俣城」「勝海舟」「真田軍記 沼田城物語」「忠臣蔵外伝」「花咲く墓標/小野先生とその父」「瞼の母」「高田屋嘉兵衛」などと自作の長編歌謡浪曲は、シリーズ化して全集版にもなっている。
 もう生の国民歌手三波春夫を見たこともない世代からすれば、彼の全盛期は、日本中が手を叩いて歌った「東京オリンピック音頭」や大阪万博ソング「世界の国からこんにちは」の1970年あたりと思われるだろうが、実は70年代を通じてこの人はものすごい勢いで毎月新曲を出し、長編歌謡浪曲新作を創作して、走り続けた。この頃登場したシンガーソングライターといえば、ギターを抱えて私的な思いをこめたラブソングをぶつぶつ歌うというイメージが支配的だったときに、三波春夫こそ、日本の大衆の心に歴史的記憶と人間関係の美意識をヴィジュアルに訴えかけた最大のシンガーソングプレイヤーだったといったら、異論はあるだろうか?
 源平合戦から戦国の風雲、忠臣蔵から幕末まで歴史上の人物伝を色鮮やかに描く浪曲講談に材をとりながら、旧時代の忠君愛国路線は抑え目にして、人物同士の友愛と大義への献身を三波春夫はドラマチックに演じ、歌った。その「長編歌謡浪曲」が実現したものは、兵士として負けた戦争に傷つき戻った祖国の現実、アメリカナイズされた「平和日本」への違和感を、いかに中和し慰藉するか、だったと思う。シベリア抑留でソ連に思想教育を受け、日本兵たちに思想浪曲で共産主義を宣伝したという北詰文司さんの青春戦争体験は、それを祖国の現実の中で再生させる余地はなかった。和服を着て化粧をした歌手三波春夫となった彼には、浪曲の世界をまったく新しい表現として、そして日本の歴史に自らの美意識を投影する形で「歌謡浪曲」は完成する道が残された。

「元禄名槍譜 俵星玄蕃」はこういう歌詞になっている。
作詞:北村桃児(三波春夫のペンネーム) 作曲:長津義司

槍は錆びても この名は錆びぬ
男玄蕃の 心意気 赤穂浪士の かげとなり
尽す誠は 槍一筋に 香る誉れの 元禄桜

姿そば屋に やつしてまでも
忍ぶ杉野よ せつなかろう 今宵名残りに
見ておけよ 俵崩しの 極意の一手
これが餞(はなむ)け 男の心

涙をためて振り返る そば屋の姿を呼びとめて
せめて名前を聞かせろよと
口まで出たがそうじゃない
云わぬが花よ人生は 逢うて別れる運命とか
思い直して俵星 独りしみじみ吞みながら
 ( 中 略 )
 ここまでイントロの歌を一節歌って、ここからは立て板に水の語りが入る。

「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え、おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ、助太刀するは此の時ぞ、もしやその中にひるま別れたそのそば屋が居りはせぬか、名前はなんといま一度、逢うて別れが告げたいものと、けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻き眼のつる如く、なげしにかかるは先祖伝来、俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて一足表に踏み出せば、天は幽暗地は凱凱たる白雪を蹴立てて行く手は松坂町…」
 
吉良の屋敷に来て見れば、今、討ち入りは真最中、総大将の内蔵之助。見つけて駆け寄る俵星が、天下無双のこの槍で、お助太刀をば致そうぞ、云われた時に大石は 深きご恩はこの通り、厚く御礼を申します。 されども此処は此のままに、槍を納めて御引上げ下さるならば有難し、かかる折しも一人の浪士が雪をけたてて
サク、サク、サク、サク、
サク、サク、サク、~、
『先生』 『おうッ、そば屋か』
いや、いや、いや、いや、 
襟に書かれた名前こそ、まことは杉野の十平次殿、わしが教えたあの極意、命惜しむな名をこそ惜しめ、立派な働き祈りますぞよ、さらばさらばと右左。赤穂浪士に邪魔する奴は何人たりとも通さんぞ、橋のたもとで石突き突いて、槍の玄蕃は仁王立ち。」(歌詞はここにリンク)http://www.uta-net.com/movie/87208/

 七五調の張りのある地の文は、「けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻き眼のつる如く」といったいで立ちの描写、サク、サク、サク、といった擬声語擬態語の効果、これに踊りのような振りと歌にセリフが組み合わされて、ドラマは終わる。この「俵星玄蕃」が表象する思想的内容はどうか?世を忍んで主君の仇討という目的のために、そば屋に身を変えて吉良邸を探る浪士杉野十平次に、槍の達人俵星玄蕃は密かにこれを察し、討ち入りの夜加勢しようと槍を掴んで吉良邸に駆けつけ、大石から加勢無用とやんわり拒否され、杉野に会ってひと言激励してその場を去り、表で邪魔の入らぬよう立ちはだかる、という物語。

 日本の文芸の歴史のなかでは、平家物語から太平記、信長記や太閤記、源平盛衰記や忠臣蔵といった「語りの文化」は、琵琶や三味線といった楽器音楽とも深く関わっていた。そのことを考えれば、20世紀の三波春夫という人がやっていたことは、そうした歴史の断片的なイメージに具象的なイメージを吹き込みながら、権力とは無縁の日本人たちが、歴史というものを捉えるときに、基本的にとった態度に寄り添うことだった。そういう表現は、いわゆる演歌歌謡曲の拠って立つ水源なのだが、その多くがただ古い共同体の側から保守的に反近代の心情を屈折して歌うか、ただ恋愛や家族を暗く美化して称揚するか、明るい「人生の応援歌」に走るかという安易な馴れ合いに落ちていたのに、三波春夫の「歌謡浪曲」はシュールに屹立していた。崇高なものの意思を「忖度」して、身を捨てて奔走すること、これが維新の志士の精神だった、ということを明治100年にも三波春夫は歌っていたのである。
 それはある意味できわめて政治的に、日本史の中の頼朝や秀吉や家康のような表の主役ではなく、俵星玄蕃のように片隅で消えていったような脇の人物に焦点を当て、そこに三波さんは人としての崇高な精神を貼りつけた。ひとつ間違えば、国定忠治的反体制ヤクザに傾く可能性を保持しながら、司馬遼太郎にも一種通じるこの三波春夫という人の、矜持でもあるだろうし、救い出されるべきナショナリズムの具象化でもあったと思う。おそらく、あの戦争を知っている高齢者より下の世代には、三波春夫の時代劇世界を理解する糸口自体、説明されてわかる水準にはもうない。
 でも、歴史という現実は日々そういうものの堆積した残骸なのだと思う。



B.国の責任というもの
 1945年8月の敗戦までの約半年間に、日本の主要な都市は米軍の空爆を受け、民間の非戦闘員多数が死亡し、傷つき、家を焼かれて路頭に迷った。人的被害だけでなく、寺院や城郭遺構など文化的遺産も灰燼に帰した。これは自然災害ではなく、日本が国家として米英に宣戦布告して始めた戦争の結果であることは言うまでもない。もし、日本の指導者が半年前に戦争をやめる決断をしていたら、もし3か月前の沖縄戦で日本が敗北を認めていたら、多くの無辜の女子供老人の命がどれほど救われたか、というIFをいっても仕方がない。けれども、国家の存在意義は侵略的な対外戦争をすることではなく、国民の命と財産を守ることにあると、日本の軍も政府も考えていなかった結果であると思うしかない。
 そしてもっとはっきりしていることは、戦後の政治指導者も、軍人の死者へはいち早く手厚い恩給で報い、靖国神社で頭を下げることには積極的でも、民間の空襲犠牲者に対しては、いろんな理屈をつけて何もしてこなかった。この事実を認めれば、この国は、国のためには命を捨てろといいながら、国の行為によって命を奪われたり、家を焼かれたり、難民となって逃亡するなかで亡くなったりした民衆にたいしては、責任も補償もする気はないということになる。
 共謀罪で揺れる今国会で「空襲等民間戦災障害者に対する特別給付金の支給等に関する法律」を超党派で法案成立を図るという。素案のポイントは、長期間の労苦への慰藉(1941年12月8日から沖縄線が公式に終わった45年9月7日までの空襲、船舶からの砲撃などが原因の身体障害者または外見に著しい醜状を残す者(外国籍を含む))とあり、特別給付金は1人につき50万円。孤児らの労苦、空襲被害者の心理的外傷など被害の実態調査をする。追悼施設を設ける、となっている。

「耕論:空襲被害者の救済
 欧州、軍民分け隔てなく:元国立国会図書館調査員 宍戸 伴久さん
 戦争は国家が行うものです。第2次世界大戦以降、その被害の救済は「国の責任で保証する」「軍人と民間人、国籍の違いをできる限り区別しない」が西欧諸国の共通原則になっていました。
 ドイツでは一貫して「戦争行為で受けた人身の被害の補償責任は国にある」という考え方です。一般市民も外国籍であっても。とりわけ「戦争の直接的影響」という理由で空襲被害を保障しています。
 22年前にドイツに調査に行きました。被害の認定は、住んでいた場所に空襲があったことが新聞記事などで証明できればOK。認定を受けやすい要因が関係の証明は簡素化されていました。
 ドイツの戦争被害補償の受給者は2015年に約15万人。1952年の430万人あまりの4%に満たず、今や役割を終えつつあります。
 フランスには軍人、一般市民を問わず、すべての戦争被害者に敬意を表し、国が保証する制度があります。戦争孤児は上乗せした金銭的援助も受けられる。今ではテロ被害者にも適用されています。
 このように欧米諸国では、軍人だけでなく民間人も救済する仕組みがあります。
 一方、日本はというと、戦争被害者は「軍人・軍属に限り損害を補償する」という原則が貫かれています。第1次世界大戦以前ともいうべき考え方。欧米と比べると遅れていると言わざるを得ません。
 戦時中、戦時災害保護法があり、戦争被害者とその遺族、家族には生活扶助費などが給付されていました。
 戦後、GHQの「非軍国主義化政策」の一環で、この保護法は廃止され、軍人恩給は停止。戦争被害の救済は生活保護など社会保障制度によるものになりました。
 軍人恩給に代わるものとして、52年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が施行されました。翌年に軍人恩給が復活した後は、恩給をもらえない軍属らに援護法が適用、拡大されていったのです。
 大きな運動や裁判があった原爆被爆者、シベリア抑留者にも道が開かれました。ただ補償ではなく、あくまで例外的な救済や慰藉。民間の空襲被害者は置き去りにされたままです。空襲の死者は原爆を含め50万人とも言われます。
 日本では「戦争被害は国民が等しく耐え忍ぶべきもの」という受忍論で、多くの補償要求が拒まれてきた。国の財政負担が大きいからともされてきたが、フランスやドイツは財政難であっても補償措置を断念していません。
 今回の素案は対象を生存障害者に限るなど不十分ですが、被害者の声に初めて応えた意義は大きい。この通りの法案が可決されれば、今後行われる被害の実態調査を受け、国や国会がどのように対応するのかが問われることになります。 (聞き手・黒川和久)」朝日新聞2017年5月26日朝刊15面オピニオン欄。

 大衆的な原水爆禁止運動の結果、原爆の被爆者援護法ができたことで、被爆者の実態が政府の手で調査されることになった。それまでは、被爆の実態も被爆者への差別も闇に埋もれていた。シベリア抑留についても、政府が非を認め戦争のもたらした個人の生への被害を、広く明らかにする効果があった。空襲被害者への補償・援護は、これまで後回しにされてきたが、生存者が少なくなる今、せめてその事実をその後の人生を含め、なんらかの措置をとることは、共謀罪や憲法改正より重要な課題ではないか。 
 同じ紙面で提案者の自民党衆院議員、空襲被害者国会議連会長の河村健夫氏は、こういう発言をしている。

「旧社会党などが1973~89年に14回、戦時災害援護法案を出しましたが、成立しませんでした。当時は戦没者の慰霊や遺族対策など、ほかにすべきことが多く、空襲被害まで補償したら財政的に大変だという懸念もありました。
 とはいえ、東京大空襲は一夜で広島、長崎の原爆死者に匹敵する10万人が亡くなっています。被爆者には援護法をつくりました。いまは自然災害の被害者も支援する時代です。国の起こした戦争の被害者にこのまま、何もしなくていいのでしょうか。
 (中略)
 最近、戦時下の庶民の暮らしを描いた映画「この世界の片隅に」がヒットしました。あの主人公こそ、今回の法案で慰藉しようとしている戦争の被害者です。若い議員も映画を見て考えてほしい。
 素案発表後、政府、与党からいろんな投げかけがあった。シベリア抑留者対策などに取り組んだ2005年の政府・与党合意に「戦後処理は終了した」という一文があり、整合性はあるのか、数ある戦争被害の中で支給対象を身体障碍者に限る根拠は何か、という具合です。
 でも、安倍首相も15年に衆院予算委員会で対応を問われ、「国会で十分なご議論をいただきたい」と答弁しています。戦争による精神障害を差別しないし、今後調査しますが、身体障害の方が戦争との関係を認定しやすいという現実的な判断があります。
 いま、安全保障の議論が盛んです。再び戦争が起こらないようにするための議論です。その時、前の戦争の積み残しがあっちゃいかんでしょう。戦闘機1機より少ない予算でできることです。 (聞き手・編集委員 伊藤智章)」朝日新聞2017年5月26日朝刊、15面オピニオン欄。

 空襲被害者に補償をしなくていいとは言わないが、予算がない、と言っているうちに、もはや当時0歳児でも、72歳になっている。戦争の被害者は、日本国民だけではないし、戦死者だけでもない。むしろ戦争の傷跡を背負ってその後の人生を生きて死んでいった人たちの数は数百万を超えるだろう。その霊に対して、「あの戦争は間違っていなかった」「正義の戦争だった」などと本気で言うとしたら、歴史と人間の冒涜としか思えない。誤りを認めて責任を取るのが「美しい国」だろう。
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