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バブルの時代の演劇・・今はもう遠い記憶

2014-12-02 14:44:07 | 日記
A.「道徳」教育に何を持ち込みたいのか?
 ぼくの個人的記憶を思い返してみると、小中学校で先生から、人としていかに生きるべきか、生きていくうえでやっていいこととやってはいけないこと、を教わったことがあるだろうか?と考えたら、授業や教科書を通じて教わったことは、まずないと思う。道徳教育的なものが少しはあったような気もするが、挨拶をしろとか時間に遅れるなとかといった、子どもが身につけるべき躾は、家庭で親や大人が自然にやっているはずだし、嘘をつくなとか、人のものを盗るなとかいうことは日々の具体的な生活場面で、叱られたり罰を受けたりすることで体験的に知る。
 いかに生きるべきか、というような問いは、少し思考力がついて、自分自身の心の中で反省的態度ができないと難しい。ぼくが小中学校の教育を受けるなかで、そういうことを考えさせてくれたのは、やはり何人かの先生だったと思う。ただ、そういう先生は、教師に課せられた仕事としてそういうことを教えてくれたのではなく(たんに規律訓練的に子どもを罰したり命じたりする教師は、子どもには怖いだけで尊敬の念は抱かない)、自分の人としての経験や思想を、弱点を含め子どもにさりげなく見せてくれたから、信用できたのだ。規則だから、ルールだから守らなければいけない、というだけでは小学生でも納得はしない。
 文科省が考えている道徳教育の教科化、というのは、力を持つ大人が望ましいと考える一定の規範を、学校という制度の中で教師が子どもたちに教えることが必要だという前提に立っている。しかし、その中身はどういうものなのか?

「今年2月以降、半年間で計3回、「『私たちの道徳』の配布について」などと題された文書が、文部科学省から都道府県教育委員会などに届いた。
 「私たちの道徳」は、文科省が作った道徳の教材だ。今春、全国の小中学校に配られた。一人ひとりに行き渡るように1080万冊作製し、発送費も含めて約10億円かかった。
 学校に据え置くのではなく、児童が持ち帰って家庭や地域でも有効に活用を――。2、5月の通知と7月の事務連絡は、いずれもそんな内容だった。
 東京都内の50代の小学校長は「同じ通知がこんなに来たことはない」と話す。内心、「しつこいなあ」とあきれたという。通知に従って夏休みには家へ持ち帰らせた。だが、「親は親の価値観で子育てをしているのに……」と疑問を感じていたのも事実だ。
 もともと、文科省は2002年から、道徳の教材として「心のノート」を小中学校に配っていた。だが、民主党政権の事業仕分けで11、12の両年度はウェブサイトへの掲載だけになった経緯がある。第2次安倍政権の発足後、政府の教育再生実行会議が、いじめ対策の一環として道徳教材の充実を提言。それを受けて、「心のノート」を全面改訂した。偉人伝や格言など具体的なエピソードを多用したのが特徴だ。
 教科外の活動だった道徳は、中央教育審議会(文科省の諮問機関)の10月の答申を受け、早ければ18年度から正式な教科となる。国語や英語のように授業で検定教科書を使う。評価は数値ではなく、記述式となる予定だ。
 東京都のある小学校長は「道徳に評価はなじまない」と話す。一般的に良いとされる解答を書けたとしても、それが身についたかは別問題だからだ。都内の小学校長は、学期ごとの評価は難しいと考えている。「心を育てるには時間がかかる。子どもたちは道徳で考えたことと日常生活の体験を絡めながら深めていくから」(岡田昇、佐藤恵子)

 国語や算数のように、教科書を使って、授業という形で「道徳」を教え、子どもたちを評価する、というのはきわめて難しい。特定の価値観を強制するものではないといいながら、「道徳」とは基本的に特定の価値観に立たなければできないのではないか?

「安倍晋三首相が強いこだわりを持つのが第1次政権から掲げる「戦後レジームからの脱却」であり、その一里塚が教育改革だ。
 第1次政権で「愛国心」養成を盛り込んだ教育基本法改正をしたが、課題を積み残したまま退陣。第2次政権で腹心の下村博文氏を文科省に起用し、大学改革や教科書検定基準の改定、教育委員会制度の見直しを矢継ぎ早に進めさせた。自民、民主などが共同提出した、いじめ防止対策推進法成立などの成果も上げた。
 第1次政権で見送らざるを得なかった道徳の教科化は「悲願」。教員は国の定めた基準で検定された教科書を使って授業し、子どもの内面を評価することが、事実上義務づけられる。
 これまでは教科外の活動に過ぎず、道徳教育の充実につながる可能性はある。ただ、教育研究者らの懸念は根強い。例えば愛国心。教育基本法の目標に照らし、「国を愛している」と教員が感じた子だけが評価されないか。愛し方は様々なのに、自由な価値観が制限されかねない。中教審は教科化を答申した際、「価値観の押しつけは道徳教育が目指す方向と対極」と指摘し、こうした心配に応えた。この考えが現場に浸透するかが注目される。」」朝日新聞2014年12月1日朝刊3面「政権2年を問う」欄

 ちなみに文科省作成の『私たちの道徳』中学生用を覗いてみた。道徳の教科化が実現するとこれが教科書になるもの。
「礼儀の意義を理解し適切な言動を
温かい人間愛の精神と思いやりの心を
正義を重んじ公正・公平な社会を
役割と責任を自覚し集団生活の向上を
勤労や奉仕を通して社会に貢献する
社会に目を向け、社会と関わり、社会を良くする
家族の一員としての自覚を
学校や仲間に誇りをもつ
故郷の発展のために
国を愛し、伝統の継承と文化の創造を
日本人としての自覚をもって真の国際人として世界に貢献したい」
という項目が並び、具体的に登場する人物として、中学では松井秀喜(強い意志)、曽野綾子(誠実)、山中伸弥(自己の向上)、孔子(寛容)、加納治五郎(国際的視野)があげられている。ついでに小学校低学年は、二宮金次郎(勉強や仕事をしっかりと)、日野原重明(温かい心・親切)、ファーブル(動植物に優しい心)。中学年用は、澤穂希(粘り強くやり遂げる)、リンカーン(正直)、葛飾北斎(美しいものに感動する心)、石川啄木(愛郷心)、小泉八雲(日本の伝統と文化を尊重)。高学年用は、内村航平(努力)、吉田松陰(誠実)、松下幸之助(感謝)、マザー・テレサ(公正、公平)、坂本龍馬(日本人としての自覚)である。

 人物のエピソードで「道徳」の徳目を教えようというのは、どうしても恣意的になる。その人物の全体像ではなく、徳目の教化に都合のよい部分だけを示すことで、「子どもにもわかりやすい」ということを優先して選ばれる。戦前の「修身」は、一方で「教育勅語」という抽象的倫理の文章を暗記させ、他方で二宮金次郎や楠木正成のような断片的エピソードで勤勉や忠義を実践した「偉い人」への尊敬を導こうとした。それは自分の頭で道徳や倫理について考える訓練ではなく、余計なことは考えずに国家に従順な「臣民」を作ることを目標にしていた。この『私たちの道徳』に漂う雰囲気は、どうも「修身」のモデルを追憶している気がする。



B.八〇年代以降の現代演劇
「一九八〇年代以降、日本の現代演劇で目立ったのは、舞台を「近未来」に移したSF的な世界を描く劇が数多く登場したことである。
 例えば、八四年の二月から三月にかけて、東京・下北沢の小劇場「ザ・スズナリ」の企画で気鋭の五劇団が「近未来劇」を共演する催しがおこなわれた。劇団「第三舞台」を率いる鴻上尚史(一九五八年~)の『宇宙で眠るための方法について』、「ブリキの自発団」を主宰する生田萬(一九四九年~)の『ナンシー・トマトの三つの聖痕』、劇団「第三エロチカ」代表の川村毅(一九五九年~)の『ニッポン・ウォーズ』など、八〇年代を代表する近未来劇が顔をそろえた点でも、この連続公演は忘れがたい。
 しかも、後述するように、これらの「近未来劇」には、核戦争後の廃墟を舞台にしたり、人間そっくりのアンドロイド(人造人間)が登場するものもあった。もっぱら「過去」と「現在」を描いてきた従来の演劇とは著しく違った劇世界が出現したのである。
 こうした近未来劇を手がけた劇作家には、上記の書き手以外にも、名古屋の劇団「プロジェクト・ナビ」を主宰する北村想(一九五二年~)、NOISEを率いる如月小春、「M・M・M」主催の飴屋法水(一九六一年~)、劇団「ショーマ」代表の高橋いさお(一九六一年~)らがいる。なぜ、彼らは「近未来」に舞台を設定したのだろうか。
 上記の劇作家たちの多くは、一九五〇年代から六〇年代はじめの生まれである。高度経済成長期に幼年期、あるいは少年時代を送った世代である。彼らの多くは、小劇場演劇の第一世代がそろって体験した六〇年安保闘争、あるいは第二世代が出会った学園闘争や全共闘運動のような、突出した「原点」となるような経験を共有していない。特定の時代にこだわるよりも、さまざまな時代を等価に眺められる視点をもった世代である。しかも彼らは、情報があふれ、メディアが発達した時代に育った。時間を自由に設定する思考実験としてのSF小説、SF映画が身近にあったことも見逃せない。
 この時期、「過去」と「未来」をめぐる感覚に変化が生じていたことも重要である。
「過去はいつも新しく、未来は不思議に懐かしい」――これはブリキの自発団(八一年結成)が八六年に初演して評判を呼んだ生田萬作・演出『夜の子供』で、ヒロイン女優の銀粉蝶が語った印象的なせりふである。普通なら「過去」=「古い」=「懐かしい」、「未来」=「新しい」となるところだが、この劇ではその結びつきが転倒し、「過去」=「新しい」、「未来」=「懐かしい」になっている。つまり、生田萬の劇世界では、「未来」は希望に彩られた「新しい」場ではもはやなく、むしろ終末感が漂う「懐かしい」場になっている。逆に昔を慈しむ目で見直され、再発見された「過去」はういういしい「新しさ」で私たちに迫ってくる。
 生田萬が如月小春との対談で語った次のことばは、彼らにとって「未来」が終末感と一体化している状況をよく物語っている。「核による最終戦争のシミュレーションなんていうのが、たとえばペンタゴンとかに行けば何十回、何百回と行われていて、イメージの中で何度も地球を壊しているうちに、僕たちのイメージの中でも、実はもうとっくに世界は終わっちゃって、終末というか終末〈後〉を今生きている、そういう感じなんです」(「時を駆ける演劇」)
 ブリキの自発団が九二年に上演したテネシー・ウィリアムズ原作、生田萬構成・演出の『ブリキの「動物園」』も、異様に変形された形で「懐かしい未来」を描いた舞台だった。原作の『ガラスの動物園』は一九三〇年代の不況期のアメリカの家族を描いた「思い出の劇」だが、この生田版の舞台では、「思い出」は途方もない距離にひきのばされ、何と遠い宇宙の果ての星から滅びた地球を回想する劇、つまり絶滅した人類の追憶のドラマになっていた。幕切れでは、舞台上のアパートの壁が変化し、巨大な宇宙船のなかから望まれる廃墟の地球が美しく浮かびあがった。人間と地球はここでは、「廃墟」に向かうことを運命づけられた存在なのだ。
 「廃墟劇」の先駆的な秀作として忘れることができないのは、七九年に初演された北村想の戯曲『寿歌(ほぎうた)』である。
 これは当時、北村想が主宰していた名古屋の劇団「T・P・O師★団」(八一年に解散して「彗星’86」となり、その解散後の八六年、プロジェクト・ナビとなった)が初演した一幕劇である。翌八〇年には東京、大阪でも上演され、私は東京公演の会場となった浅草の木馬座で初めてこの秀作に触れた。出演者三人きりのごく簡素な作品だが、この劇が演劇界に与えた衝撃は大きかった。八二年には加藤健一事務所とオンシアター自由劇場でも上演された。八〇年代以降の廃墟が登場する近未来劇の多くは、この『寿歌』の刺激から生まれたと言っても言い過ぎではない。
 この作品は世界核戦争でほぼ人が死に絶えた日本の関西地方を大八車を引いて旅していく男女の旅芸人二人と、彼らが旅の途中で出会う浮浪者のようなキリストを描いている。開幕のせりふはこうだ。
 「キョウコ あ、また光った。今度はあっちや。ゲサクどん、またミサイルやろか。
  ゲサク ああ、キョウコはん、ミサイルや。」
 核戦争による人類の絶滅という重い主題を、人間の未来に警鐘を鳴らす悲痛な悲劇としてではなく、関西弁を駆使して、まるで冗談のようなかろやかな喜劇的象徴劇として展開した北村想の感受性は画期的だった。ヤスオと呼ばれるキリストがパンを増やして民衆に与える奇蹟も、ここでは大道香具師風の見せ物「物品引き寄せの術」として行われる。ヤスオがキリストであるように、男女二人のコミカルな芸人もここではたんなる個人ではなく、核戦争という愚行で自分自身を滅ぼした人類のシンボルとして描かれる。劇の最後では、この二人は滅亡を超えて生きのびる新しい人類のアダムとイブになることも予想される。北村想は神と人間、人間の終末と再生をめぐる形而上のドラマを書いたのだ。しかも、それをごくさりげない喜劇のスタイルでやってのけた点が見事である。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1955. pp.228-233.

 『寿歌』は、ぼくは舞台で見たことがないが、NHKが3チャンネルで教育テレビの頃、現代演劇の舞台を放映する番組があって、それで見た。なるほど核戦争という主題を、これまでの反戦平和とか、広島長崎というリアリズムの線で見るのとはまったく違う、という点で新しいと思ったが、「近未来」のイメージがこういうふうに出てくるのは、どこか違和感もあった。

「こうしてこれらの近未来劇は、これまでの演劇がよりどころにしてきた確実な自己(アイデンティティ)という幻想と、ロマンチックな「遠く」への脱出願望を冷徹に解体した。川村毅の次のことばは、「神話」が消えた八〇年代の劇作家たちの立脚点を明確に語っている。
 「神話は崩壊した。気持いいほどに。崩れ去った後に、私(ら)は“物語(ロマン)”を紡ぎ始めた。神話という庇護もないまま、“遠く”への幻想も“自己”への信頼もないままに」(「まっさらな場所と多頭の怪物」)
「神話」が消えた空白感の漂う時代を生きる劇作家たちの多くは、外部の現実とわたりあうよりも、現実の解釈を精密化した批評意識の濃いドラマ、あるいは複雑な入れ子式の構造をもった劇、つまりメタシアター(演劇についての演劇)を作り出した。演劇の自己言及性と虚構性を強調する劇である。上記の鴻上、川村、生田、高橋の劇作の多くもこのメタシアターの系譜に属する。さらに北村想の『DUCK SOAP』(八七年)、劇団「離風霊船」(八三年結成)の大橋泰彦の『ゴジラ』(八八年初演。第三十二回岸田戯曲賞)、 (中略) 

 近未来劇とメタシアターが盛んだった一九八〇年代は、バブル経済の好景気に沸いた時代である。それは同時に、企業と地方自治体とのからみで、演劇を囲む社会環境が大きく変わった時代でもあった。
 第一の変化は、土地の高騰、株価の上昇、消費の急増で金回りがよくなった大手企業が演劇の世界に参入してきたことである。企業系劇場が次々に生まれ、企業がスポンサーをつとめる演劇・ミュージカル公演が急増した。
 こうして東京では、ワコールの「スパイラルホール」(八五年開場)、西武セゾングループの「銀座セゾン劇場」(八七年開場)、東急グループの複合文化施設「Bunkamura」(八七年開場)などが出来た。松下電器はシェイクスピア専門劇場「パナソニック・グローブ座」(八八年開場)の大口スポンサーとなり、九二年に開場した北品川の「アートスフィア」には、三菱商事を中心とする企業一五社がスポンサーについた。近畿圏でも、大阪の「近鉄劇場」(八五年開場)に続いて、ダイエー・グループの「新神戸オリエンタル劇場」が八八年に開場した。
 このような企業の文化戦略は、当然、現代演劇に影響を与えずにはいなかった。例えば、串田和美が率いるオンシアター自由劇場はBunkamuraの中ホール「シアターコクーン」の所属劇団となる契約を結び、串田はシアターコクーンの芸術監督になった。夢の遊民社、第三舞台などの人気劇団の公演には大手企業が協賛した。蜷川幸雄が演出する舞台の海外公演も、たびたび大手企業の援助でおこなわれた。演劇界のかなりの部分がバブル経済の恩恵を受けたのである。
 八八年に、企業の文化活動を促進し、アートの現場と企業を結びつけることをめざす業界向けの週刊誌『日経エンタテインメント』(日経BP社)が創刊されたのも象徴的だった。この雑誌には劇団、オペラ団、オーケストラなどのスポンサー探しをバックアップする広告も掲載された。またサントリー、テレビ朝日、TBS、伊藤忠、角川書店のように、ブロードウェイ・ミュージカルに出資する日本企業も現れた。
 だが、バブルの栄華は長続きしなかった。九一年前後から景気は回復し、バブルは崩壊した。もともと企業の文化活動は、メセナ活動(企業の文化支援)というよりは企業宣伝の色彩が強かったから、企業の撤退はすばやく、企業協賛による冠公演は激減した。『日経エンタテインメント』は廃刊になった。とくにバブル崩壊の典型と言えるのは、八八年に東京のウォーターフロントに出現し、来日ミュージカルなども上演した多目的ホール「MZA有明」である。親会社だった新興の不動産会社が九一年に倒産し、わずか三年でホールは閉鎖された。
 第二の変化は、九〇年代以降、地方自治体が演劇専用ホールを造るなど、自治体と現代演劇の関係が強くなったことである。これまでのような貸し館中心の多目的ホールではなく、演劇の自主制作をし、芸術監督制を敷く地方の劇場も現れた。「箱」としての劇場・ホール以上に、中身の「ソフト」の質を問う時代がようやくやってきたのである。
 こうして、すでに述べたように、鈴木忠志は九〇年から九四年まで、水戸市が建設した水戸芸術館ACM劇場の芸術監督をつとめ、契約制による専属の劇団「ACM」を創設した。とくに水戸市が市の年度予算の一パーセント(九一年度は約九億一千万円)を水戸芸術館の管理運営にあてる方式を打ち出したことは、地方自治体の文化行政にとって画期的だった。太田清吾が神奈川県藤沢市の湘南台文化センター市民シアターの芸術監督になったのも九〇年である。九二年には劇作家の山崎正和が兵庫県が設立した財団法人「兵庫現代芸術劇場」の芸術監督に迎えられ、演劇の自主製作に乗り出した。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1955.pp.237-241.

 八〇年代のバブルは、一時的に日本が世界でもトップクラスの「豊かな社会」だと、日本人の多くに感じさせた瞬間だった。日本大手企業は世界に出て行ってしっかり儲けていたし、これからは労働ではなく余暇、誰もがそれなりに個人の楽しみを味わえるようになったのだ、だから祝祭だ、リゾートだ、メセナだ、と消費的な文化がもてはやされた。社会の片隅ではぐれもののような存在だった小劇場演劇が、一気に都会でも地方でもおしゃれな文化の先端に出てきた。しかし、それはバブルのあだ花に過ぎなかった。
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