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女性による女性のための演劇・・

2014-11-30 23:48:53 | 日記
A.国家は機能しているのか?
 世界を眺めわたして、国民国家の統治システムがその国民生活・国民経済を安定させるのにじゅうぶん機能している、といえる国はあんまり多くないだろう。いくつかの安定した国家でも、その安定はその国の政府や指導者が、とびぬけて賢く能力が高いからというわけではなく、地理的歴史的に恵まれた条件があり、今のところ幸運にも比較優位を何とか保っているにすぎない、のかもしれない。もはや世界は未開の土地をもたず、資源が枯渇する恐れのあるひとつの共栄世界であって、一国の力でどうにかなるものではない。軍事力ができることは局地的な破壊であり、グローバル世界に最終解決などありえない。だから、国家はどうすればいいか、国家になにができるのか、と問うことはとても重要なのだが、国家の可能性を信じるにせよ批判するにせよ、いずれにしろそんなに歯切れのいいことはいえないのが知的誠実というものだろう。こんな記事を見つけた。
「今起きているのは欧米型システムの崩壊だ 旧来秩序は役に立たない」マーク・マロック・ブラウン。(東洋経済オンライン)2014
「国家であることが難しく、国民であることはそれ以上に難しい時代である。国民の「忠誠」と交換に安全と基本的な福祉を古くから提供してきた国民国家が、国内で、また国際問題の基本単位としても脅威にさらされている。
 新しい種類の忠誠と連合が国家の伝統的役割に異議を唱えている。いくつかは地理的なものである。ヨーロッパだけでも、少なくとも40地域の“次のスコットランド”が、いま自分たちがいる国からの何らかの分離を模索している。単に宗教や民族ではなく、共通の商業的利害や政治的利害、またはその他の利害に基づくものである。NGO(非政府組織)のサポーターをしている者は、政党のメンバーよりもはるかに多い。
 ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン氏は、複数のアイデンティティとともに生きることを学び、市民権と忠誠の多様性を享受することで、われわれはさらに繁栄するだろう、と述べている。
 しかしこの多様性は無害なものではない。欧米諸国の大半では、国家はますます国民を失望させ、多くの場合、手が届かないような福祉提供のモデルに固執している。世界の経済成長が立ち直る過程で、先進国の高コストで高税率、高利益な統治モデルが批判にさらされている。
 欧米諸国の欠点は、ほかの地域と比較した場合、極めて明白である。中国は「経済安全国家」を体現している。海外での投資力を用いて、自国の産業化を支える資源やエネルギーを確保しつつ、GDP(国内総生産)成長率と国民の支持を維持するために、国内貯蓄を家計消費に導くことを目指している。
 ロシアは古典的な国家の安全を重んじる国であり、欧米の不安をおもちゃのようにもてあそぶことで、ウクライナへの支配力を強め、公認の国家主義によって国内の反対を抑圧している。
 われわれは混乱の世界に生きている。欧米諸国のいくつかは、強力な統一国家に戻ることを切望しているかもしれないが、それは難しいだろう。
 中国やインドも、経済的成功の反面で中流階級の政治的野望が既存の枠組みを機能不全にするため、国家破滅を招くかもしれない。別の見方をすれば、世界の東側の半分が強力な権威主義国家構造に組織され、西側では連携によるポスト国家モデルが取り入れられている。
 競合する組織構造の世界に制度と規則の枠組みをどのように提供するのかが、国際統治における問題だ。
 旧来秩序は役に立たない。ロシアは国連安全保障理事会という国家ベースの最高位の国際機関を、ウクライナ問題では脇に追いやり、シリア問題では手詰まりにさせた。政治家の喧噪とは別に、ロシア人たちが望むことは、世界貿易とテクノロジーの黄金時代の恩恵を家族に提供し享受させてくれる、平和で予測可能な国際秩序ではないだろうか。
 国家のハードパワーが、国境を越えたアイデア、発明、融資のソフトパワーと競い合う世界には、規律が必要だ。NGOが正式な役割を持つような世界秩序を設計する勇気を奮い起こすべきだ。さもないと、(防衛費の拡大やグローバルな機会損失の形で)ツケは高くつく。国家が「力は正義なり」のアプローチを追求し続け、必要な金融規制や環境保護義務を回避する結果を招いてしまう。
 悪行は国家だけではない。国境を越えた経済活動は、規制から逃れようとする者たちに、ビジネスだけでなく組織犯罪などの機会も与えてしまった。
 現状では米国が、司法制度の域外適用と国際金融制度の管理に頼って、国境での司法問題に対処する役割を演じている。だが、これでは不十分だ。
 必要なのは、政府と民間の利害関係者によって考案された規則、規範、制度の正当なシステムである。経済、政治、社会活動のグローバルな性質を反映することで、非国家的構造のパッチワークと共存していかなければならないのだ。(週刊東洋経済2014年11月29日号)

 歯切れが悪くて、じゃあどうすればいいんだよ?というような文章であるが、欧米型国家システム、あるいは国家連合システムに対して、中国やロシアはまだ少し違う国家体制を引き摺っているにしても、国境の内側でも外側でも国民国家だけではリスクを解決できないことは認めるのだろう。安倍政権のようなかなり時代とズレた奇妙な政治家たちが統治している日本だが、戦後日本の築いた遺産のおかげで、広い世界から見れば幸いにも国家は安定した形で機能しているように見えるのだろう。これ以上おかしくしないことが肝心だ。



B.女性による女性のための演劇
 戦争が終わった後の貧しい時代。そこで生まれた第1次ベビーブームといわれる団塊の世代にあたる人々は、いまやいよいよ高齢者の団塊を形成しつつある。戦後日本社会をまるごと生きてきた同世代の数が多い団塊たちは、若い時はまだ男性と女性では、はなからルートが違っていた。男の子は世の中で一仕事しなければいけないと思っていたし、女の子はいずれにせよ結婚しなければ一人前じゃないと教えられた。だからフェミニズムは女の子たちを覚醒させたし、元気のいい女性はいろんな分野で活躍を始めた。演劇の世界も、ある段階まで男性のものだったが、一九八〇年代になると女性たちが文字通り表舞台に躍り出てくる。

「一九七〇年代後半以降は、女性たちの演劇が本格的に浮上してきた時期としても重要である。すでに野田秀樹との関連でふれた如月小春をはじめとして、「劇団3〇〇(さんじゅうまる)」を主宰する劇作家・女優の渡辺えり子、「岸田事務所+楽天団」の座付き作者をつとめた岸田理生のように、自分で劇団を率いる女性の劇作家・演出家たちがこの時期、にぎやかに登場した。女性のメンバーだけで構成され、全作品をユニークな集団創作で作りあげる「劇団青い鳥」が本格的に関心を集めるようになったのもこの時期だ。
 それまでも現代演劇の分野で女性の劇作家や演出家は活躍していた。『つづみの女』『がらしあ・細川夫人』などの劇作で知られ、小説家・放送作家としても活躍する田中澄江(一九〇八~)。『常陸坊海尊』『かさぶた式部考』『七人みさき』など日本の民衆の過去と現在を結ぶ骨太の優れた劇作や、蜷川幸雄の演出ではなやかな脚光を浴びた戯曲『近松心中物語』などで知られる劇作家・秋元松代(一九一一年~)。チェコスロバキアの戯曲の演出を皮切りに、演出家として活動し、『広島の女』などの劇作もある村井志摩子(一九二八年~)。『琵琶伝』で岸田戯曲賞を受賞した劇作家・石澤富子(一九三一年~)。ベケットの不条理劇や秋元戯曲も手がけた民芸の演出家・渡辺浩子(一九三一年~)。劇団雲を経て、フリーの演出家として活動する大橋也寸(一九三五年~)――彼女たちは、その代表的な存在である。
 だが、その活動のあり方は、フリーの劇作家だったり、大手劇団に所属する演出家といった例が大半で、「劇団NLT」の代表者として演出・演技の両面で活躍した賀原夏子(一九二一~九一年)のような存在を除くと、みずから集団を率いる女性スタッフはまれだった。劇団の運営と頭脳の部分は、しっかりと男性のスタッフがにぎっていたのだ。
 そうした状況が変化し、女性たち自身が率いる劇団が大きくクローズアップされるようになったのが、一九七〇年代末である。劇作・演出などの知的リーダーシップをとるのはもっぱら男性、女性は女優か裏方の制作者というのが常識だった日本の演劇界の構造の組み換えがはじまったのだ。それは日本の企業でも女性の管理職が増えるなど女性の社会進出が注目を浴び、ウーマン・リブやフェミニズムの影響で女性たち自身の意識や価値観が大きく変わりはじめた時期でもあった。
 すでにふれたように、如月小春は東京女子大学の「劇団綺畸」に加わって演劇活動を始めたが、一九七六年、野田秀樹の舞台に大きな刺激を受け、一時は夢の遊民社に加わって、俳優として舞台に立ったこともある。
 その如月が劇団綺畸にもどり、みずから作・演出して一躍注目を集めたのが、七九年に初演された『ロミオとフリージアのある食卓』だった。会場は当時、夢の遊民社も拠点としていた東大教養学部構内の駒場小劇場で、才気あるこの劇作家の本格的デビューとなった初演の舞台を見た夜の驚きを、私はいまもあざやかに思い出す。
 この舞台では、仮面をつけた裏方の黒子たちによって、なにもない裸舞台に五体のマネキン人形(じつは人形のように硬直した五人の男女の俳優)と装置が運びこまれてくる。黒子の合図で人形たちは人間となって動きはじめ、シェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』ごっこに興じる東京・中野区の一家「奇夜比由烈徒家(きやぴゆれつとけ)」の喜劇を演じる。と、思っていること、ここまではじつは中野区を「ドラマの都」「悲劇の都」に仕立てようとはかる芝居狂いの中野区民たちが神社の境内で開催する祭りの実演だったことが判明し、祭りのクライマックスでは、劇中でロミオ役を演じさせられた「三越の配達アルバイト」の青年はいけにえとして殺される。こうしてイヴェントは終わり、にぎやかなカーテンコールと役者紹介。一同、深々とした礼をしたところで、彼らは再び不動のマネキン人形にかえり、黒子たちによって舞台から運びだされていく……。
 この粗筋からもわかる通り、これは劇の構造を入れ子にして何重にも仕組み、それをめまぐるしく内側から開いていく精密なパズルのような趣向のドラマである。如月小春はここで空虚な日常を満たすために仮面風の演技に喜々として情熱を傾ける人々の姿を、白々とした都市の光景として喜劇的に描きだした。ここでは人間は演技(仮面)の積み重なりとしてとらえられている。オリジナルの人間像はとっくに失われていて、「仮面の裏側」に本当の素顔があるわけではなく、そこにはありきたりの「もう一枚の仮面」、「人間を真似た何だかわけのわからない代物」(『都市民族の芝居小屋』)があるにすぎない。人間たちを操る黒子たちも、のっぺらぼうの仮面の群像である。
 思想やイデオロギーが生きるための支えではなくなった世界のなかで、日常生活を過剰な演技者として生きる人々を活写する前例には、すでに『熱海殺人事件』をはじめとするつかこうへいのドラマがある。如月も明らかにつかに劇を踏まえて『ロミオとフリージアのある食卓』を書いている。つかは過剰に演技する男たちを、人間の個的な実存に深くかかわるものとして、苦く切ない笑いで描いた。だが、如月はむしろそれを実体を欠いた仮面の演技の大量消費現象として捉え直し、現代の大衆消費社会批判、都市批判のドラマに仕立てたのである。
 如月小春は、この劇の舞台となった東京都中野区で育った。彼女自身が「無性格で均質で没個性的な(あるいは個性を装った)住宅群のはしり」、「高度成長期を支えたサラリーマン中流家庭の社宅の多い街」(同)と呼ぶ中野区をこうしたスタイルでドラマ化することで、如月は彼女自身もその一部である現代の都市における「個と、それをとりまく状況の実体のなさ」(同)を鋭く対象化してみせたのである。こうして『ロミオとフリージアのある食卓』は、如月小春の代表作のひとつになるとともに、「実体のない仮面の戯れ」を華麗に演じつづける一九八〇年代以降の日本の消費社会の特質を巧みに先取りする作品ともなった。
 如月はその後も『光の時代』(八〇年)、『家、世の果ての……』(同)といった精密なパズルのような劇作で関心を集めたが、一九八二年には劇団綺畸を離れた。そして翌八三年、新しい集団NOISEを結成。集団自殺する少女たちを描く『DOLL』(八三年)、『MORAL』(八四年)などを発表し、ビデオアートなどをとり入れた新しい舞台表現の領域を探っている。彼女はまた多方面にわたる評論活動にも才能を発揮している。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波書店、1995.pp.207-211.

 残念ながら如月小春は、その後2000年に40代で亡くなってしまった。しかし、女性が作り運営した劇団は次々現れた。

「わが国の「女性の演劇」を語るとき、ふれなくてはならないのは「劇団青い鳥」である。それは何よりも、女性メンバーのみによるこの劇団が、それまでの劇団(新劇系、小劇場系を問わず)とはちがう別種の原理で運営されている集団であるためだ。フェミニズムを主張する集団ではないが、彼女たちの舞台づくりは、暗黙のうちに、これまでの男性優位の劇団への批判になっていた。
 第一に、青い鳥は創立以来、台本、演出をふくめて舞台の多くを、役者全員によるユニークな集団創作でつくってきた。みんながアイデアを持ち寄り、話し合いと即興を加えたけいこを重ねて、舞台をつくりあげるのだ。
 第二に、この劇団は、座付きの劇作家・演出家やカリスマ的な主宰者をもたず、舞台づくりから運営まで、すべてを合議制で決めるやり方をとってきた。
 いずれも、これまでの男性原理で運営されてきた劇団とはちがう行き方である。小劇場系の劇団の多くは、劇団の代表者が座付き作者や演出家を兼ね、一種の芸術的独裁で集団を率いていくやり方をとっている。これに対して青い鳥は、階層性と分業制にもとづかない、いわばコミューン的な集団の組み方と、その特性を生かした集団創作法を編みだした。
 一九七〇年代は、演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンを中心に、集団創作方式で壮大なフランス革命連作劇『一七八九年』『一七九三年』などを作りだしたフランスの前衛劇団「太陽劇団」が世界的な注目を集め、日本でも「集団創作」や「集団的想像力」ということばがしきりに語られた。だが、青い鳥は、そんな流れとは別に、声高なことばも使わず、自分たちの身幅にあった「集団創作」をさりげなく生みだしたのだった。
 青い鳥は、一九七四年、新劇系の劇団「東京演劇アンサンブル」の養成所に通っていた木野花(一九四八年~)、天光真弓(旧芸名は上村柚梨子、一九四八年~7)、芹川藍(一九五〇年~)、葛西佐紀(一九五一年~)ら六人の女性によって結成された。芹川の妹の天衣織女(旧芸名は南部夜貴子、一九五五年~)が加わるのは、七八年からである。劇団名の由来は、彼女らが養成所時代の卒業公演に、メーテルリンクの『青い鳥』を演じたことによる。旗揚げは七五年十一月、市堂令作・演出『美しい雲のある幕の前』だった。
 「市堂令」とは、彼女らの集団創作名で、これは語呂あわせから生まれた名前である。終演後のカーテンコールで出演者たちが、みずから役者紹介をしたあと、「作・演出……」と言ってから一拍おき、元気に声をそろえて、「一同礼!」と、全員で深々とおじぎをするところから来ている。
 芹川藍が語る劇団結成の動機は、演劇にかかわる女性たちの意識の変化のうねりを物語る。
「(これまでの)戯曲に描かれている女の人って、たいていヒステリックで、別れるなんて時は泣いて男を引きとめたりね、男の背中に這いつくばっているようなそんな女の人ばかりでしょう。それを見るたびに、私はこういうんじゃない、そう思ったのね。まわりにも、自分の足でちゃんと歩いて考えて生きている女の人たちがいっぱいいる。私の芝居がしたい。女の人が溌剌として、冒険して、舞台を飛び回って、そして今、この時代の中で、(中略)自分自身が考えたり、感じたり、抱えていることがいきいきと確かに表現されている、そんな芝居をやりたい、そう思ったのね」(『トレパンをはいたパスカルたち――劇団青い鳥物語』)
 このユニークな「青い鳥スタイル」の集団創作は、どうして生まれたのだろうか。青い鳥の中心的なメンバーだった木野花(八六年に退団)は、インタビューで明快にこう語った。
 「きっかけは簡単な理由からです。全員役者志望で、誰一人作家及び演出家を目指さなかったのです。(中略)それでは芝居が出来上がりませんので、六人頭を寄せ集めたらどうにかなるかしらと、一度寄せ集めてみたのです。(中略)一人で考えたら、こうはいかなかっただろうような、めくるめくイメージが次々と出てきて、どれを削ろうかなんて、贅沢な事言ってみたりして、それはもう、まとめるのに苦労するわけです。(中略)とにかく、なけなしの知性と感性をフル回転させて、台本を創っていくうちに、自分でも気付かなかった可能性の扉が、一つ、又一つと開いていったという風で、なにか、新しいオモチャを発見した子供のように、それが楽しかったのです」(『ザ・グラフィティ――今演劇の異兄弟姉妹たち』)」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波書店、1995.pp.218-221.

 このブログで演劇の話を始めたとき、扇田昭彦氏のこの『日本の現代演劇』が、井上ひさしと永井愛にほとんど触れていない、と批判がましく書いてしまったのだが、わずかにこの部分に永井愛と「二兎社」のことが短く出てきた。ぼく自身、自分でチケットを買って、劇場で芝居を時々見るようになったのはこの10年ほどであるので、60年代以来の小劇場演劇を現場でこまかく追跡しているこの『日本の現代演劇』は、基礎知識としてたいへん参考になったのだが、実際自分が見ている舞台は、21世紀の現代演劇なので、自分の舞台評価には自信がない。
 映画や小説なら、その作品は作られたときのままに今もオリジナルを鑑賞することができるから、自分で作品を鑑賞して批評することは可能だ。でも、演劇は生もので、そのときその場にいて体験しなければ消えてしまう。舞台を見た記憶だけが残るというのは、なんだか儚く頼りなげにみえるが、それだけにその時代のそこに生きる観客と役者とスタッフだけが、特権的に味わうことのできるアートなのだ。
 

「八〇年代以降、女性の演劇はさらに多彩になった。劇作家・演出家・女優を兼ねる永井愛と大石静が作った女性二人だけの劇団「二兎社」(八一年結成)は、二人で十五役も演じわける早替わりの面白さを生かした『カズオ』(八四年)などで評判を呼んだ。日本女子大に在学中だった女性七人が結成した劇団「自転車キンクリート」(八二年結成)は、飯島早苗が台本、鈴木裕美が演出を手がけ、若い演技陣の魅力を生かした『MIDNAIGHT UPRIGHT(うしみつ時のピアノ)』(八六年)、『SINDBAD HI-NOON(ふとどきな千夜一夜)』(八七年)などで人気を得た。やがて飯島の戯曲はしだいにウェルメイド志向を強め、『ソープオペラ』(九二年)、『法王庁の避妊法』(九四年)などの舞台成果をあげた。
 女性の劇団ではないが、女優の高泉淳子が主演する劇団「遊⦿機械/全自動シアター」(八三年結成)も、この流れと関連づけて考えることができる。高泉が「山田のぼる君」という小学生を好演した吉澤耕一・白井晃構成・演出『僕の時間の深呼吸』(八六年初演)はこの劇団の代表作となった。その後、高泉は『ムーンライト』(九〇年)、『ライフレッスン』(九三年)では台本も手がけた。また高泉と青い鳥の伊沢磨紀が共作・主演し、白井晃が演出した『モンタージュ』(九一年初演)は、少女から老年に至る女性二人の友情を描き、コミカルで感銘のある舞台を作り出した。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波書店、1995.p.226.

 ぼくは永井愛の「二兎社」の芝居は10本以上見ている。高泉の「遊⦿機械/全自動シアター」の芝居も5本くらいは見ている。ああ、自分も舞台を見ている芝居がようやく出てきた。なんだか嬉しい。
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