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理性の運命 1 ニーチェ再考  スーパーヨットの眩示的消費

2023-04-22 15:11:35 | 日記
A.現代哲学の岐路はいつのお話か
 生松敬三と木田元の対談集『現代哲学の岐路』講談社学術文庫1996は、もともと1976年に中公新書の一冊として出された『理性の運命――現代哲学の岐路―』を文庫化したものである。最初の対談集が出てから20年後に文庫化されたわけだが、その間に生松氏は世を去り、ベルリンの壁崩壊やソ連解体など世界の情勢は大きく変わった。「現代哲学」といっても、70年代半ば以降に一躍注目された「フランス現代思想」、フーコー、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズ、ガタリなどの著作は登場していない。ここで語られているのは、19世紀末から1920年代あたりまでの西洋哲学・思想の動向に焦点があり、さらに遡ってドイツ観念論から近代初期の思想、そして古代ギリシャ哲学まで辿っている。
 さらに2020年代に入った現在からみれば、1976年の対談が1996年に振り返られた内容が、さらに四半世紀ほどが経過しているわけで、もはや時代遅れの昔語りになってしまったかもしれない。しかしこれは、読む価値がなくなったとはぼくには思えない。むしろ100年前の思想状況の語りをいま振り返る意味はあると思うので、しばらく読んでみようと思う。対談者の略歴は以下の通り。対談当時、どちらも同年生まれの中央大学文学部教授として同じ場所にいた仲であった。学生時代から、どちらの著書にもぼくはお世話になった。
 *生松敬三:1928年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。1984年没。著書に『現代思想の源流』『社会思想の歴史』『日本文化への一視角』『森鴎外』、訳書に『宗教社会学論選』、講談社学術文庫に『ハイデルベルク』など。
 *木田元:1928年山形県生まれ。東北大学文学部哲学科卒業。著書に『現象学』『ハイデガーの思想』 『メルロ=ポンティの思想』『哲学と反哲学』『反哲学史』、学術文庫に『現代の哲学』、フェルマン『現象学と表現主義』など。

「木田 しかし、それにしても、無思想の時代とか価値の多元化の時代とか言われる事態、もっともこの二つもそれぞれ別の事態なのかもしれませんが、とにかく、そう言われる事態にしても、また感性の復権とか官能の解放といった事態にしても、現代の文化的状況というのは、どことなくニーチェ(1844~1900)が言っていたような‥‥…。
生松 そう、ちょうど一世紀前にニーチェが予測していたような事態ですね。
木田 考えてみれば、近代の克服ということを、最初に壮大なかたちで問題化してみせたのはニーチェだったわけでしょうから、われわれはニーチェの思想圏に生きている、と言えなくはない。
生松 そういうことでしょうね。
木田 ニーチェに、『力への意志』という未完の遺著があります。結局これは書きあげられないでしまったものなんですが、もし書きあげられていたとすれば、彼がこの本の冒頭に据えるつもりだったらしいこんな言葉が、草稿のなかに残されています。「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきもの、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」とね。どうもわれわれは、まさしくそのニヒリズムの時代に生きているのかもしれない、というような気がします。問題は、そのニヒリズムの克服の方向ということですかね。
生松 いや、そのニヒリズムをさらに深めてゆく方向、ということになるかもしれませんね。それはともかく、実際、二十世紀も四分の三を過ぎて、思想史なり精神史なりのなかでのニーチェ像はますます大きくなってゆく感じがします。ニーチェという人は、本当に奇妙な魅力をそなえた思想家で、昔からその時々にそれぞれの角度から、いつも話題になり続けてきた人ではあったんですが、最近ますます、その本質的な思想内容ないし思想様式に即して、高く評価されるようになってきたんじゃないかと思います。
   哲学史の書きかえ 
木田 ニーチェ自身、自分の死後五十年したら、自分の哲学のわかるやつが一人か二人は出てくるだろうという予言めいた言葉を残しているんですが、いかにもそういった感じになってきていますね。
 だいたい、僕たちが習った哲学史のなかでは、ニーチェにはほとんど明確な位置が与えられていませんでした。せいぜい、生の哲学者のうちに数え入れられるか、キルケゴールとならんで実存哲学の先駆者にされるか、その程度のものでしたよね。ということは、ニーチェの言っていることの意味が。まだよく理解できなかった。ニーチェはある意味ですでに、現代のような状況を先取りし、そこからものを言っていたのに、それがうまく理解できなかったわけで、理解するにはそうした状況が現実に現出するのを待たねばならなかったということでしょうか。
生松 そうなんですね。だからニーチェの思想史的意義を組み込むようなかたちで、ヨーロッパの近代哲学史をもう一度考え直してみる必要は、どうしてもあるように思います。つまり、ニーチェが見てとっていたような歴史の側面というものを、どうもわれわれが習った歴史や哲学史は採りあげてくれなかった。だからニーチェの言うことをよく理解できなかったんじゃないか……。いまごろ文句を言っても追いつきませんが、それはそのとおりなんだから仕方がない。
 話は少しずれるかもしれませんが、たとえば、非合理主義といったものにしても、十九世紀なり二十世紀なりのある時代に、突然現れてきたようなものじゃありませんね。あれは、ルネサンス以来、ヨーロッパの近代にはいつも底流としてあったものですよ。だけど、これまでの哲学史はそれを組み入れることができなくて、合理主義という表街道だけをすっきり辿ってきたようなところがあります。
木田 われわれが習った哲学史は、新カント派製のものでしたからね。だいたい哲学史というのは、そう古くからあったものじゃない。シェリング(1775~1854)やヘーゲル(1770~1831)が哲学史の講義をしたのが最初ですよね。それをもっと実証的な学問のかたちに仕立てあげたのが新カント派なんで、時代的にいってもヴィンデルバント(1848~1915)の哲学史あたりが日本に最初に輸入されて、いわば哲学史の原型にされたわけでしょう。ところが、新カント派の哲学史には、はっきり新カント派的な制限があったわけで……。
生松 それはもう明らかですね。端的に言えば、近代哲学史のなかで、大陸の合理主義とイギリスの経験主義が全部カント(1724~1804)に流れこみ、カントはそのいずれをも超えた新しい立場、つまり批判哲学をつくり、そこからまたすべてが流れ出すという枠組からしてそうです。これは、やはりお国自慢か、わが仏尊しのたぐいですよね。冷静にヨーロッパの哲学史の展開を見てくると、カントが両方を全部すくいあげているとは、どうにも思えない。そういう文脈もたしかにあるにはあるけれども、そう言ってしまうと、デカルト(1596~1650)以来の大陸の合理主義、F・ベーコン(1561~1626)以来のイギリスの経験主義のもっていた独自の意味が見失われてしまうような気がします。ましてや、さっき言ったような非合理主義的な裏街道は、視野にも入ってこないことになる。
木田 そうですね。たしかに新カント派的な狭い合理主義の枠でかこいこんで、それに入ってこないものは、切り捨ててしまうところがある。たとえば、ドイツの哲学的伝統のなかにも、こういう文脈があるわけです。やはりニーチェですが、このニーチェにしたって、哲学的伝統と無関係に、突如として出てきたわけではないんですね。たとえば彼が、『悲劇の誕生』で初めてもち出して、かなりあとまで彼の思想の基本的カテゴリーになっていた「デュオニュソス的なもの」と「アポロン的なもの」という対概念ね、あれは少なくともその発想の当初は、明らかにショーペンハウアー(1788~1860)の『意志と表象としての世界』というときの「意志」と「表象」とのとらえ直しなんです。
 ところが、ショーペンハウアーのこの本というのは、彼自身そう言っているように、一つのカント解釈なんで、彼の言う「意志としての世界」と「表象としての世界」は、カントの「物自体」と「現象界」とのこれまたとらえ直しなんです。そして、カントの言う「物自体界」とは意志の支配する領域だし、「現象界」は知性つまり表象能力の支配する領域なんで、つまりこの二元論は、ライプニッツ(1646~1716)が例の『単子論』で単子(モナド)の二つの属性と見た「意欲(アペテイトス)」と「表象(ペルケプテイオ)」の二元性の継承であったわけです。しかも、ライプニッツのもとで表象よりも意欲が優位に立たされていたわけですから、そこには明らかに一貫した主意主義の系譜がある。くどい例になったけれど、こうした系譜は新カント派の哲学史ではまったく見落とされています。
生松 そう、今までの哲学史では、ライプニッツはカントによって乗り越えられ、そのカントからドイツ観念論が出てきてヘーゲルによって完成される。ショーペンハウアーなど、そのヘーゲルの矮小な敵対者にすぎないし、ニーチェなどは、古典文献学者のなかから出てきた文明批評家にすぎないということになっていた。
 そのニーチェが今日哲学史のなかでますます大きい位置をしめるようになってきているというのは、ニーチェ以前の哲学史をも、もう一度ニーチェ的な視角から見直す必要があるということでしょうね。近ごろでは歴史研究が大きく進んで、ルネサンスにしたって、十八世紀にしたって、これまでとはまるで違った照明を当てられ、違った様相を示しはじめてきてますね。中世のとらえ方にしても同じことなんで、そうした成果をふまえて、近代哲学史を再検討する必要は十分にあるようです。
木田 たしかにそうですね。しかし、それにしても、さしあたり近代合理主義批判といわれるときの合理主義なり、理性なりがどういうものなのか、そして、理性か非理性か、合理主義か非合理主義かという基準がはたして有効かどうか、有効でないとすれば、何をどう考えればよいのか、これをこれからの話のなかで考えてゆきたいわけですが、当面、問題になるのは、ニーチェの生きていた十九世紀――二十世紀がある意味ではそれを継承し、ある意味ではそれに反逆した十九世紀――ではないかと思います。
  砂漠の時代 
木田 ニーチェは、1844年に生まれてちょうど1900年に死んでいるんだから、そんなに昔の人ではないわけですね。ただ、1889年の1月3日にイタリアのトリノで倒れ、最後の11年間は、いわば狂気の闇に包まれて過ごしたわけですから、実際に執筆活動をしたのは1870年代、80年代ということになります。そこで、なぜあの時期にニーチェが、今日なお有効な、あるいは今日ますます有効になりつつある近代批判の視点をあれほどはっきり打ち出すことができたのか、ということが問題になりますね。それを考えるには、ニーチェの時代背景と思想的系譜を確かめておく必要があると思うのですが。
生松 ニーチェの一般的な時代背景といえば、産業革命の進行と、それにともなう一種の科学万能主義、ということでしょう。十八世紀啓蒙が十九世紀の段階になると、もう哲学理論のレベルではなくて、科学技術、産業革命というかたちで急激に現実化し、それとともに都市化が進み、文化の大衆化状況といったふうなものが現れてくる……。
木田 ええ、さらにいえば、産業革命が進行してゆくにつれて、自然科学的な認識の有効性が確かめられ、いわば有効性と真理性が取りちがえられて、自然科学的認識こそがただ一つの認識だ、と考えられるようになってきたということでしょう。例のツルゲーネフ(1818~1883)の『父と子』のバザーロフ、あれはニヒリストということになっているけれども、もっと単純な科学的唯物論者ですよね。あのバザーロフに見られるように、科学万能主義が人生観のはてまで浸透するほどの、そういう時代風潮になっていたわけです。まあいまから考えれば、実際にそれほど科学が進歩していたわけではないのでしょうが、とにかく科学的認識を押しすすめてゆけば、やがて何もかもが明らかにされるにちがいないと期待をもたせるほど、急激な勢いで進歩しつつあったことはそのとおりでしょう。そして、そうした科学の進歩に、きわめて楽観的な期待を寄せるというのが、一般的な時代風潮であったにちがいないと思うんです。
生松 極度にオプティミステックな科学的合理主義がね。
木田 ところがそうなってくると、世界がまったく翳りのない透明なものになってくる。ドストエフスキー(1821~1881)が『地下生活者の手記』で、「水晶の宮殿」という言い方をしていましたね。「二二が四の水晶の宮殿……」。あれは、1851年のロンドンの第一回万国博覧会の時に会場として建てられた鉄骨とガラスだけで造られた建物のイメージがあったんだと思いますが……。ニーチェは、それを砂漠と言っています。「正午の影一つない砂漠……」。
生松 そういう形容は、よくわかるような気がしますね。それに、二人とも、そうしたものを前にして、ひどい無力感を感じた時期があったらしいですね。ドストエフスキーは、それに頭をぶっつけて口惜しがるほかなすすべがない、というふうなことを言っていたはずです。ニーチェにしても、『人間的な、あまりに人間的な』を書いた中期の、いわゆる実証主義の時代には、科学的真理を逆手にとって、既成の価値を片っぱしから破壊してゆこうとするんですが、あそこもやけっぱちな感じがしないでもありませんね。
木田 ええ、彼らのような鋭敏な人たちには耐えられなかったんだと思います。そうした「水晶の宮殿」や「砂漠」には、もう文化の想像力、芸術的想像力などというものの、ひそむ余地がない。とにかく十六世紀や十七世紀に現われたような壮大な芸術様式の生まれてくる可能性はまったくありそうにもなく、文化の想像力が枯渇しつくしたように思われたんでしょう。これはニーチェに限らず、あの時代の芸術家や思想家が一様にもった感慨でしょうね。ヘーゲルでさえ『美学講義』で、偉大な芸術の時代は終わったという意味のことを言っています。それじゃあ、そういった砂漠的な状況を出現させたのは何かというと、これは近代の合理主義にほかならない。もちろん、話しはそう簡単なものではないでしょうが、近代批判の視点が生まれてくる直接の時代背景というのは、そういうところですね。
生松 それにね、一方では十九世紀初頭に、ヘーゲルのもとで完成されたような壮大な哲学体系、あれがどうなるかっていうことですね。1831年にヘーゲルが死んだあたりから、哲学の諸領域というのは、自然科学や新たに成立してくる社会科学に、次々に食いちぎられていって、もう壮大な体系の構築される可能性はなくなってしまう。大芸術、大哲学の時代は終わったという感じもどうも一役買いますね。オーギュスト・コント(1798~1857)が、実証主義ということを言い出すときに、「形而上学の時代から科学の時代へ」という言い方をする、まさしくそういう時代ですね。」生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』講談社学術文庫、pp.25-35. 

 1970年ころ、中央公論社から『世界の名著』シリーズというのが発売されていた。全部で81巻。第1巻は「バラモン経典/原始仏典」で、第2巻が「大乗仏典」、第3巻は「孔子・孟子」といった具合に、古今東西の名著を網羅しているのだが、高校生のぼくは1966年に最初に出た46巻『ニーチェ』(「ツアラトゥストラ」手塚富雄訳と「悲劇の誕生」西尾幹二訳)と、第18巻『ルター』(「キリスト者の自由」)を読んで思想というものを考えるようになった。36巻『コント/スペンサー』と47巻『デュルケーム/ジンメル』は購入して今も持っている。『ニーチェ』の巻に付録で付いていた三島由紀夫の対談を覚えている。ニーチェが異端の思想家として、20世紀の思想に異彩を放つ存在になっていたことを知った。
 

B.‶超富裕層”ってどこにいるの?
 まずは東京新聞の1面トップに載ったこの記事。
 「富裕層人口 東京は世界2位 投資資産1.3億円以上 29万人
【ニューヨーク=時事】百万㌦(約1憶3千万円)以上の投資可能な資産を有する富裕層の人口が最も多い都市は米ニューヨーク。英コンサルティング会社ヘンリー・アンド・パートナーズ(H&P)が十八日発表した「世界の富裕都市」ランキングで、こんな結果が明らかになった。二位には東京が食い込んだ。
 トップ10には、米国と中国(香港含む)から三都市ずつがランクインした。両経済大国の主要都市に富が集まっていることが改めて浮き彫りとなった。
 H&Pによると、昨年末のニューヨークの富裕者は34万人。東京は29万3百人だった。ただ、ニューヨークが十年前と比べて40%増だったのに対し、東京は5%減となり、景気の勢いが反映された形となった。
 10億㌦以上の資産を持つ層に限ると、東京は23位に後退する。
H&Pは、ニューヨークのほか五位に入ったシンガポールなどは、外国からの直接投資の見返りに居住権や市民権を付与する制度を持ち、投資を積極的に奨励して富裕層を呼び込んでいると分析した。」東京新聞2023年4月19日夕刊1面。

 百万$が自由にできる資産家、はそんなに沢山いるはずはないと思うけれど、ニューヨークには10億
ドル以上の超富裕層が集まっているらしい。どっちみち年収5万$(700万円位か)程度の庶民大衆には無縁な話だ。こういう人たちがやっているマネーゲームにも、ぼくたちはもとより無縁だ。

「コラムニストの眼 スーパーヨットの復活 富の集中 これ以上ない誇示:ポール・クルーグマン
ニューヨーク・タイムズ紙と提携して取材したこともある非営利・独立系の報道機関「プロパプリカ」は最近、米連邦最高裁のクラレンス・クロウ氏の関係について、驚くべき記事を出した。
 ウォルマートの駐車場をぶらぶらするのが好きな控えめな思考の持ち主だと装っていたトーマス判事が、長年にわたってクロウ氏の負担で何度も豪華な休暇を過ごしていたというのだ。このことは、これまで公表されてこなかった。倫理的な問題は明白なようだ。
 だが、ウォールストリート・ジャーナル紙は「クラレンス・トーマスへの中傷」という見出しの社説を掲載し、プロパブリカを非難した。プロパブリカを非難した。プロパブリカがスキャンダルに見せかけようと含みのある言葉を使っている、というのだ。クロウ氏が所有する全長162㌳(約50㍍)のプライベートボートを「スーパーヨット」と呼んだ、というのがその一例だという。このボートは「スーパーヨット・ファン」というウェブサイトに掲載されているにもかかわらず、だ。
 ニューヨーカー誌の2022年の記事によると、実はヨット業界では全長98㌳(約30㍍)を超えればスーパーヨットとして扱われている。
 一連の出来事で、大型ヨットと、大型ヨットが示す社会のあり方について考えさせられた。
 金持ちは大型ヨットを購入して運航する経済的余裕があれば、そうするものだ。実際、ヨットは所得と富が少数の手に集中している不平等を示す、大変分かりやすい指標だ。(19世紀後半の)「金ぴか時代」には、より大きく、より豪華な内装のヨットが続々と登場した。
 反対に、1940年代に所得格差が縮小する「大圧縮」の時代を迎え、その後40年にわたり米国が相対的に中間層の社会になると、スーパーヨットの最初の黄金期は終わりを告げた。フォーチュン誌は55年に「経営トップ層の暮らしぶり」という素晴らしいエッセイで、その生活水準が戦前と比べるとどれほど質素になっていたかを強調した。
 そして今、スーパーヨットが復活した。私たちは今まさに「かつてないヨットビジネスの隆盛期」を生きている。
 私は長年、所得と富の不平等をめぐる議論を追うのに多くの時間を費やしてきた。80年代に経済格差の拡大が始まって以来、所得や富が上位層で急増しているというデータを疑問視し、格差の否定とも言えることに執念を燃やす知的産業のようなものが現れるようになった。確かに、上位層で物事を測るのには技術的な注意も必要だ。超富裕層はごく少数であるため、無作為抽出調査で見落とされる可能性があるし、節税にもたけているので、税務データでの追跡も困難だからだ。
 しかし、私たちが「金ぴか時代」に匹敵する、あるいはそれ以上に極端な富の集中の時代に生きているのかどうかに疑問を持っているとしたら、スーパーヨット・ブームがその疑問を解消してくれるはずだ。
 まず、なぜ富裕層はスーパーヨットを買うのだろうか。
 ボートに乗ること、つまり大海原に出て自然を間近に感じることは、多くの人にとって大きな楽しみの源となり得る。しかし、本当に大きなヨットは、浮遊する豪邸のようなものなので、乗客は海上の体験から隔絶され、目的は果たせないように思える。
 実際、55年のフォーチュン誌の記事によると、当時の経営トップ層は、それ以前の富裕層が巨大ヨットに満足していたのと同じくらい、小型の舟に満足していたという。
 しかし、巨大ヨットを所有し運航することは、(経済学者の)ソースティン・ベブレンがいう「誇示的消費」のこれ以上ない分かりやすい一例だ。直接的な満足を得るためではなく、自分の富や地位を顕示するための消費なのだ。スーパーヨットへの需要は、自家用機の所有が人目を引くステータスシンボルでなくなってから実際に急増したのだ。
 ただ、ヨットはいくらでも大きなものを造ることができるので、このゲームに明確な終わりはない。
 ある意味、これは悲しいことだ。近代史の中でこれほど多くの富が少数に集中していることはまれなことなのに、その富の多くが相手を出し抜くためにゼロサムゲームに費やされている。
 もう一つのポイントは、スーパーヨットが環境に多大な悪影響を及ぼす点だ。海運や航空の脱炭素化が、おそらくスーパーヨットや自家用機も含めて難しいというのは周知のことだ。
 私は、地球を救うために経済を縮小しなければならないと考える脱成長論者ではないが、超富裕層によるぜいたくかつ破壊的な支出を抑制することは、気候変動の解決策の一つになるだろう。
 いずれにせよ、最高裁判事を乗せるかどうかにかかわらず、スーパーヨットの増加は極端な経済格差を表す明らかな指標となっている。そしてこの格差は、米国の民主主義を引き裂いている極端な政治の二極化の要因であることは明らかだ。そして、スーパーヨットをそう呼ぶことが何らかの下劣な中傷だと主張するような人は、この問題に加担しているのだ。(NYタイムズ、4月11日電子版 抄訳)」朝日新聞2023年4月20日朝刊13面オピニオン欄。
 いまや自家用飛行機は贅沢品でもなくなって、富豪たちの遊びはスーパーヨットも宇宙旅行に向かっているのだろうが、庶民大衆にはもとよりまったく無縁だ。ヨットというが、超大型豪華客船の部屋別個人所有だそうで、「ソムニオ」という船は約1100万ドル(約12億6000万円)の部屋が売り出されるという。この船の建造費は約6億ドル(約680億円)だという。ヴェブレンのconspicuous leisureのまさに典型例だな。無駄と言えば最高の無駄だ。
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