gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

人類史的考察と近代史的考察 後編 理系女子が少ない理由?

2023-04-19 14:04:03 | 日記
A.ロシア正教という固有性
 前回は、サル学の山極 寿一氏の「共感力と技術 賢い使い方を」という、巨視的人類史的な考察の文章を引用させてもらったのだが、今回も最近新聞に載った佐伯啓思氏の文章を引かせてもらう。山際氏ほどの長大な射程ではないが、これも西欧近代の開始から現在までの、歴史的視野で考えているという意味で、現代批判の論説だと言えるだろう。直接の契機としてはロシアのウクライナ侵攻への考察なのだが、もちろんそれは発想のきっかけであって、広く「リベラルな近代主義」という過去300年ほどの世界をリードした価値、人類社会は全体としてある方向に向かって進化しているという考え方を、反省的に考え直す、という指向を秘めている。
 西欧で近代がはじまった当初から、そして今も世界あちこちで「リベラルな近代主義」への反発や批判は根強く存在しているけれども、世界史の本流において、この科学と経済成長による未来の開発という進歩史観は、人々に根拠を問わぬ信仰のように普及している。佐伯氏はかねて、この「リベラルな近代主義」がユダヤ・キリスト教から出てきたものであり、一神教的世界観をもたない東洋思想や日本固有の文化とは異質のものだと考える。固有の伝統保守という立場から普遍思想に対する批判を繰り返してきた佐伯氏だから、ここで述べられていることも、改めてなにか新しいことではないのだが、ロシアという立ち位置が、キリスト教といっても西欧近代につながるプロテスタントやカソリックとは別の、ロシアという固有世界にロシア正教が一体化しているという点を意識する。

 「西欧の価値観「普遍的」か   異論のススメ・スペシャル  佐伯 啓思 
世界の方向づけ担い ロシアと対立するが 歴史意識の根は共通 
 ロシアのウクライナ侵略からすでに1年が経過。1年前の論考(本紙2022年3月26日付)で私は次のようなことを書いた。
 この事態の背景には、冷戦後の米国中心のグローバル文明の失敗がある。個人の自由や市場競争、民主的な政治、人権、法の支配、国民国家体制、科学技術と経済成長による幸福追求、それを実現する進歩的な歴史観。これらの価値を総称して「リベラルな近代主義」と呼んでおけば、冷戦後の時代とは、この価値観の世界規模での実験であった。その強力な推進者は世界秩序の守護者を自認する米国である。
 だが、約束された未来は来なかった。この楽観的な信念は信頼を失いつつある。となると、近代主義が覆い隠していた、各国や各地域独特の文化や歴史が表面にせりだしてくる。とりわけ冷戦で敗北し、その後のグローバル文明においても決して栄光ある地位を手にできなかったロシアは、ある屈辱感とともに、改めて「ロシア的なもの」による強国の再興を夢想する。かくて、ロシアの歴史の中に埋め込まれていた「西欧的なもの」と「ロシア的なもの」の確執がウクライナをはさんで噴出した。
 おおよそこういうことを書いたが、その見方は今日でも変わっていないし、さらに付け加えたいこともある。というわけで、今回は、1年前の論考の続編である。
  •       *  
 先に列挙したリベラルな近代主義はあくまで西欧文化の産物であり、20世紀に米国が継承したものだ。だがそれはまた「普遍的価値」だともいわれる。なぜなら、自由を求める心情や、豊かになりたいという欲望は万人に共通であり、その実現のためには、平等な権利や民主的な政治や市場競争が不可欠である。したがって、リベラルな民主主義や市場競争は、場所や文化を超えて普遍的である。西欧こそがその普遍的価値を生み出した、といわれる。
 西欧からすれば、この価値観に反対するものは原則的にはいないだろう。いるとすれば、それは自己の権益や権力にしがみつく独裁者や強権的支配者、あるいは狂信的な宗教原理主義者だけである。だから、この独裁者や支配者や宗教的原理主義者を打倒してリベラルな近代的価値を世界化することが歴史の進歩である。こういうことになる。
 確かに、この近代的価値を生みだしたところに西欧文化のすごさがあり、また、そこに西欧や米国が世界史を動かしてきた理由もある。自由と富の拡張、科学と技術による自然支配、そして人間の幸福実現こそが歴史の進歩だという信念は西欧近代の産物であり、その目的は、人間の手による完全な世界の実現という理想であった。
 だが少し気になることもある。確かに、人間は自由を求め、幸福を求めるものではあろう。それは米国の「独立宣言」にもあるように、人間の普遍的な権利といってもよい。だがまた、人間は、他者を支配したいという尊大な欲望をもち、逆に支配されることに強烈な屈辱感を感じる。そこまで言わずとも、他者より優れているというつまらない虚栄心に動かされ、少しでも馬鹿にされれば生涯その恨みを忘れない。一方で自由を追求すると同時に、他方で圧倒的に強いものや絶対的なものへ積極的に服従したり臣従したりもする。また人は理性的であるとともに、理性を超えた神秘的なものへも強く惹かれる。
 人間のもつこの二面性に少しでも心を留めれば、とてもではないが、リベラルな近代的価値を実現すべく歴史が動くなどとはいえまい。また、近代とは、宗教や神秘的存在と無縁の合理的な時代だなどというわけにもいかない。
 それどころではない。もしも西欧文化に最初に歴史意識を植え付けた契機があるとすれば、それは何よりも旧約聖書の世界であっただろう。エジプトでの屈辱的な奴隷の経験から始まり、バビロンの捕囚やペルシャの支配をへて、最後はローマに征服されるという苦難の歴史を歩んだ古代ユダヤ人のたどり着いた歴史意識である。現世における苦難や屈辱は、いずれ絶対的な神による救済によって報われるというメシアニズムは、キリストの千年王国説にも受け継がれ、一種のユートピア的思考を可能とした。
 もっと新しいところでは、19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルは、人間の歴史とは強者(主人)による弱者(奴隷)の支配だとみなした。だが、弱者は奴隷の生に甘んじることはできない。なぜなら、たとえ奴隷であっても人間としての尊厳があり誇りがあるからだ。だから、いずれ奴隷は主人に復讐する。ヘーゲル的にみれば、歴史はこのように動くが、やがてそれは、すべての人が主人であり奴隷であるような社会、つまり、近代の市民社会というような高度な秩序に落ちつく。
 それは、支配をめぐる、もしくは他者に対する優越や尊厳をめぐる激しい闘争の着地点であり、歴史の終局である。だから、西欧における自由とは、なによりも奴隷ではなく主人であること、つまり自らの尊厳を自分で守ることなのである。決して自分のやりたいことをやるのが自由なのではない。そして、ヘーゲルを下敷きにして、米国の政治学者フランシス・フクヤマが、自由と民主主義の実現を「歴史の終り」と呼び、冷戦後の世界観の基調にすえたことはよく知られている。
 これが、今日の世界を主導する「普遍的価値」だ。だが、果たしてこれを本当に普遍的価値や普遍的歴史観と呼べるのだろうか。
 明らかに、ここには、ユダヤ・キリスト教を下敷きにした西欧文化が横たわっている。ユダヤ教からキリスト教へと展開する中で、神による救済は全人類的なものへと拡張され、預言者が与えたメシアニズム的な意識は、ヘーゲルをへて、人間理性の展開による実現という進歩的な歴史観になった。
 今日、誰も「預言者」など持ち出さないし「神による救済」などとはいわない。それに代わって、自由の実現も幸福の実現も人間の意思と理性に帰着する。だからこそ普遍的だというのである。だが、そもそもこのような歴史観を導いたものはユダヤ・キリスト教であり、旧約聖書的な世界観であった。西欧文化の背後にはユダヤ・キリスト教が隠されているとはよくいわれることだが、そうだとすれば、その普遍主義もかなり疑ってかからねばなるまい。
 「普遍的(ユニバーサル)」とは、「ユナス(ひとつ)」と「バーサス(向ける)」が合成された「ユニバース」の類語である。ということは、「普遍的」とは、「ある一定の方向に向けられた」という意味を含む。この場合、「普遍性」の方向づけのかじを取るのは西欧近代主義であることはいうまでもない。
  •      * 
 ではロシアはどうなのであろうか。ロシアの歴史もまた、モンゴル・タタールの支配に苦しみ、西はスウェーデン、ポーランド、リトアニアといった大国の、南はオスマン帝国といったイスラム教の強国の脅威にさらされてきた。その苦難の歴史のなかでロシアの精神的な支柱となったのはロシア正教会である。10世紀にキエフ大公国がビザンツ帝国の東方正教会を受け入れて以来、紆余曲折をへつつも、モスクワは、ローマ、コンスタンチノープル(現イスタンブール)につぐ「第3のローマ」としてキリスト教の正統な継承者を自認してきた。ロシアからすれば、ポーランドのようなカトリック大国は、地政学的のみならず、宗教的な意味でも脅威であった。
 ここで重要なことは、国境をこえた普遍宗教であるローマ・カトリックとは違って、ロシア正教会は、ロシアの歴史と大地に根を下ろしたいわば民族宗教の色彩を濃くした、ということである。かくてロシア的メシアニズムというものがでてくる。ここでは、ロシアの救済を約束するものは皇帝であり、皇帝が救世主であるかのように見なされる。神がイエスという人を遣わしたのなら、人は神に近づくよう努める(「テオーシス」と呼ばれる)というのだ。かくて、神、皇帝(絶対権力者)、民衆が一本の糸でつながれる。
 これは、宗教的権威と世俗権力の抗争の果てに、教会から国家を分離した西欧の近代とは全く異なった歴史的経緯であった。西欧のキリスト教の普遍主義に対して、ロシア正教会のもつロシア主義は、普遍主義を唱えて拡張する西欧に対して、ロシアの防衛を軸にした強固な世俗権力を求めた。たとえその権力が、皇帝から共産党の書記長、さらには投票による大統領になったとしても。
 もちろん、社会主義によってロシア(ソ連)は公式的には宗教を排除した。ロシア的メシアニズムがいまだに生きているなどといえば暴論以外の何ものでもなかろう。しかし、今日においても、宗教的なものが、人々のこころの深層で、いわば「思考の祖型」を作っている、というのもあながち間違いではない。ロシアの救済を約束する正教会の神意は、世俗化された皇帝型の権力によるロシアの強国化となって現出するのである。
 西欧においても、今日、神だの救世主だのを持ち出すことはおおよそ時代錯誤とみなされる。しかし、神なき世界で、人が世界の完成と救済を請け負うというような目的論的な歴史意識は、ユダヤ・キリスト教を祖型としたものといってよかろう。とすれば、今日の、ウクライナを挟んだ、ロシアと西側諸国の対立は、その深層にあっては、旧約聖書の絶対的一神教に端を発する二つの世界観の対立ということも不可能ではない。
  •        * 
 ところで「ユニバース」には、「方向づける」とは少し違うもうひとつの意味合いがある。それは「ユニファイ」つまり「様々なものを結びつける」という意味である。その方が、本来の「ユニバース」つまり「宇宙」や「世界」という意味にも近い。もしも、このグローバリズムの時代にあって真の「普遍性」を唱えるのならば、それは「一つの方向に向ける」ものではなく「多様なものの結合」でなければならないであろう。」朝日新聞2023年3月31日朝刊、13面、オピニオン欄。

 どこの国民にも固有の文化とその背景をなす宗教がある、のだとすれば、それをもう一段高いところに置くのが「普遍性」という理念であり、西欧の場合、それはかなり長い対立と闘争の宗教戦争の果てに、登場したのが「リベラルな近代主義」だったということを、理解する必要がある。しかし、ぼくたち日本人は、そういう価値観の相剋・闘争を実感として理解しているとは言えない。ただ社会が豊かさと便利さに向かって進化すると単純に楽観しているだけで、それに対する反動が起こると、これもまた理由のあることだろうと批判はしない。その結果、自分のところでではどうするのか?となると、きわめて怪しげな伝統や歴史を捏造するのは困ったことだ。


B.理系女子が増えればいいんだろうか?
 20世紀の日本の高等教育の実態に比べれば、今の大学や大学院での女性の進学実績は、明らかに向上している。それでも男子と比べればまだまだだと言わざるを得ないのは確かだ。それが、出産や育児といった人生上の困難が、キャリアに悪影響するというジェンダー・バイアスもなくなっていないこともわかる。しかし、理系に女史が少ないという数字をどう見るか?

「少ない 女性の理系研究者 無意識のバイアス 解消を  窪川かおる
 四月は入学・進学の季節である。大学では十八歳の一年生が、民法改正により成人となり、社会の構成員としての責任を持つようになる。大学進学率は2022年度に56.6%と過去最高を更新した。男子が59.7%、女子が53.4%だった。
 学部在学者数も過去最多で、女子学生は45.6%を占める。大学院でも修士課程の31.7%、博士課程の34.2%が女性だ。大学・大学院で専門教育を受けた女性が卒業・修了した後、就業先での女性比率の増加が見込まれる。
 だが、現実はそう簡単ではない。15年に施行されたいわゆる女性活躍推進法は、国や自治体の機関などの長につく女性の数の公表、常用労働者数百一人以上の一般事業主の女性活躍に関する行動計画の策定と情報公表などを義務付け、女性の就労人口の増加を目指したものである。
 ところが、法律が施行された時、海外の女性たちからは、頑張っている日本の女性にさらに頑張らせるのか、とあきれられた。この法律が数合わせを含むからだ。
 それでも、女性が加わる利点が浸透すれば、社会が変わり、自然に女性の活躍が拡大していくと期待される。それは女性だけでなく、誰もが働きやすい職場環境、効率化と能率化への意識改革、将来を担う人材育成の推進になる。
 しかし、まず女性自身がそれらを選択しなければ何も始まらない。
 スイスのシンクタンク、世界経済フォーラムが各国の男女格差を順位付けした2022年版のジェンダーギャップ指数」では、日本の総合順位は146カ国中の116位で、先進七か国(G7)の最下位を継続中である。
 指数の算定には四つの項目が考慮される。教育では日本が一位で、その評価に前述した学校での男女比の大きさが含まれる。健康も長寿命が評価された。問題は経済参画(121位)や政治参画(139位)の少なさである。
 なぜ、日本の女性は政治や経済への参画が少ないのか。これは、なぜ女子学生は理系に少ないのかという疑問とも通じる。
 大学の女子学生は約半数だが、理学では27.8%、工学は5.7%と低い。国際比較でも理系の女性学生の割合は、経済協力開発機構(OECD)諸国で最下位である。女性の大学教員も自然科学者も少数のままだ。
 国連が三年ごとに発行している「世界の海洋科学の現状報告2020年版」は、その時に関心が高いトピックスについて分析している。20年版のトピックスの一つが、海洋の人材におけるジェンダー分析であった。
 それによると、日本は四方を海に囲まれた国でありながら、海洋科学における女性研究者の比率は約12%と、報告書作成に協力した科学者がいる45カ国中で最下位。一方で、世界の平均は38.6%と、自然科学系全体の平均より10㌽も高かった。
 全米科学財団(NSF)の海洋科学の研究助成に男女差があるかを調べた論文がある。助成に偏りはなく、女性の研究代表は三十年間で約10%から三倍に増えていた。それでも女性研究者への追加支援の必要が論じられている。欧米の女性海洋科学者は50%を目指して活動している。
 日本では、政治や経済への女性進出が進まず、理系の女性研究者も少ない。女性自身が、それを選択しないという側面もある。そこは同じ根っこ、すなわち女性が政治、あるいは理系には向かないという「アンコンシャス(無意識の)バイアス」があり、それが選択肢を狭めているように見える。
 例えば「女の子は理科や数学が苦手」という言説も耳にする。だが、OECDの生徒の学習到達度調査(PISA)では、数学の得点の男女差は、生物学的な性差ではなく、環境の影響だと論じているのだ。
 研究費の場合、男女格差の解消は可能だが、このような無意識の思い込みを解消するのは簡単ではない。それには社会の根本的な変革が必要になる。
 必要なことは、女性が意思決定に参画している「当たり前」を増やすことである。増やせない場合、その原因を女性から尋ねよう。男女共に、自分に向けられた無意識のバイアスを探し出し、それらを排除するという意識が求められている。 (くぼかわ・かおる=帝京大先端総合研究機構客員教授)」東京新聞2023年4月17日夕刊、5面。

 「理科や数学が女子に向いていない」という偏見は愚かなものだ。女性の高等教育でのキャリア形成に、男性より不利な条件があり、これをなくすのは当然だと思う。でも仮にそれがかなり実現したとして、それでも18歳の女子高生が進学先に理系を選ばないとしたら、それはジェンダーバイアスであるよりも、彼女たちの知的興味からして、現代のサイエンス、テクノロジーというもののあり方が、女性には偏ったものとしてイメージされているのではないだろうか。逆に言えば、男子高生にとっては、そのような疑問は沸いてこない、理系のエンジニアなり研究者への道を進むことは、そのまま社会に肯定的に迎えられるポジティヴなものとして受け入れられているということではないだろうか。ぼくにはそこが気になる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人類史的考察と近代史的考察... | トップ | 理性の運命 1 ニーチェ再... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事