gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

2050年の日本 森嶋通夫の予言 3 没落のはじまり  日銀の失敗

2023-02-01 20:46:53 | 日記
A.世代と時代
 ある人間のものの考え方や感受性は、生まれつき持っている遺伝性の特質もあるが、成長過程で身につける教育の効果によって左右され、それは当然ある時代、ある社会の支配的な「空気」が反映している。だとすると、昭和に生まれた日本人の場合、1945年8月の敗戦以前の教育を子どもとして学校で受けた世代(1930年生まれだと敗戦時15歳で1980年には50歳)と、途中で戦後の民主教育に切り替わった世代(1935年生まれだと敗戦時10歳で1980年には45歳、いわゆる昭和一桁世代)と、はじめから戦後教育で育った世代(1945年生まれだと敗戦時0歳で1980年には35歳)の間で、そうとう異なる価値観の葛藤・矛盾が現れたはずである。それが日本社会の指導的な層に達したのが1980年代だと、森嶋流人口史観は措定する。これは、ぼくなどがやってきた社会学的階層論では、かなり無理のある説明だ。つまり、教育と世代で3区分した要素に単純化した仮説を日本(経済)の没落予測に適用したわけで、学校教育における多様性を無視しておいて、戦前の教育を儒教道徳(教育勅語)を基本とした保守思想、戦後の教育をアメリカ流自由主義・民主主義の刷り込みと単純化している。ただ、経済成長路線が陰りを見せた1980年代に、起きていたことのひとつの底流に、指導層の若年期の教育という要因をおいてみる、という発想は非常に刺激的ではある。
 確かに、ぼくが個人的なかかわりを持った上の世代の人たちを考えてみても、初めから戦後教育を受けたぼくなどから見ると、10歳上の世代(途中で教育が大転換した人たち)は、日本国憲法を特別な衝撃として受け止めた体験があると思えたし、20歳上の世代(戦争を軍隊や空襲体験として生きた人たち)は、残らず教育勅語を暗記していた。一番違うのは、日本がやった戦争というものに対して、10歳上の人たちははっきり否定的だったし、20歳上の人たちは複雑な表情で口ごもった。でもそれが、1980年代に戦中世代が退場して戦後派が社会の中核をなした時代だったということは、あまり考えたことがなかった。それは逆に、その世代も退場して、その後の世代が50代になっている2020年代は、新たな問題を提起できるかもしれない。

「(承前)しかし初めのうちはふたつの道徳―ー日本式の大人道徳と西欧式の子供道徳―ーの矛盾はそれほど大きいものではなかった。子供たちは学校で自由主義、個人主義について学ぶとともに、家庭では日本式の道徳(儒教道徳といってもよいであろう)を学んでいたから、戦後初期の若者たちは二刀流に行動することが可能であった。だから新入社員は大人の社会に順応し、日本は教育改革にもかかわらず、道徳面で極めて保守的でありえたのである。
 しかし1980年代末になると、純粋戦後派の家に生まれた子供たちが学校教育を終えて、大人社会の門戸を叩くようになった。このような新青年は、二刀流を使えなかった。
 彼らの親は、二刀流であるとはいえ学校では欧米流の教育を受けていたのだから、そのような家庭で育った80年代末期の新青年には、二刀流を使うことは非常に難しかった。「新入社員教育」は効果を発揮しなくなった。会社生活になじんだ大人たちは新入社員を「新人類」と呼び、あたかも別の惑星から来た人たちを見る思いで見た。
 こうして漸く、日本の大人社会の下(若年層)が動き出した。学校教育は大人社会にうまく接合していなければならないというデュルケームの主張に、日本が真剣に直面すべき時に達したのである。それは大人社会を固定して、それに適合するように子供教育をするという形でなく、子供教育を固定して―ー自由主義・個人主義教育は、戦後社会の至上命令である――大人教育がそれに適合するという形で遂に実現するようになったのである。ここに遂にと書いたのは、大人社会のあらゆる抵抗があったにもかかわらず、遂にという意味である。
 しかしこれは二つの社会の理想的な接合の仕方ではなく、致し方ない無理矢理の接合である。というのは大人の社会の側に、自分たちの社会の道徳や気風を変えようとする気がなかったからであり、もしそういう気があれば、大人社会をどう変えるべきかの議論が起こり、そのためには学校教育をどう変えればよいかの議論が起こった筈である。文部省に教育改革の意思が全くなかったとは言わない。しかし彼らの改革の試みは、すべて技術的な側面だけに限られていたようである。自由主義、個人主義は、学校教育の神聖不可侵な理念であり、他方大人社会は明治天皇の教育勅語そのままの社会であり続けさせたいというディレンマに文部省は陥っていた。
 その間、大人社会の理念と子供教育の理念は両立不可能なまでに乖離して、最後に大人社会が、新人類によって押し切られたのが現実である。(最近には、子供教育の理念をもっと保守化、土着化せよという動きが一部に起こってきている。不況が続けば、こういう動きは強くなると考えられるが、その点については第八章を見られたい。)
 一層詳細に言えば、二つの社会の乖離は大人の各部分社会ごとに違っていたという問題がある。最も摩擦の少なかったのは、芸能界やスポーツの世界であろう。だが他方で最も日本的なのは政界である。政界はいまだに日本土着の村落共同体を運営する仕方にこだわっている。政党は一つの派閥で覆われ尽くすほどには小さくはなく、政党内にいくつかの派閥が存在する。派閥の長は派閥に属する部下(陣笠)を統括するために、部下を財政的に支援する。そのためには派閥の長は自分自身が巨大な財産を持っているか、財界から金を集めることができなければならない。党員を増加させ、党費を調節して党活動を極大にするという、西欧的合理的党運営という考え方は、日本の保守政党には存在しない。
 こういう合理的運営を行わない日本の保守政党では、派閥を牛耳るほど大きくなければならないが、通常そのような圧倒的に大きい派閥は存在しないから、他の派閥と少なくとも短期間提携して拡大派閥を形成できなければならない。そのためには資金が必要であり、資金獲得のためにはあの手この手の汚い手が使われる。こうして政界では至る所で汚職行為が行なわれる。政治家にとっては主義主張はどうでもよい、すべては金である。
 だから陣笠は資金を集めることが政治活動だと思っており、派閥の長は大派閥をつくる工作をすることが大物政治家のすることだと思っている。事実そういう活動が成功した場合、自分の派のメンバーに閣僚の地位を与えうるのだから、大派閥形成に関与した人達は心の底から、立派な政治活動をしたと考える。
 政党とは、同じ政治的信念を持っているものが、一つの団体を形成して、党費を払って自分たちの政治的信念を実現させようとするところに生まれる。だから政党にとって一番大事なことはどんな信念の下に集まるかということであり、、信念をより優れた、より一般的支持を受けるようなものに改善することが政治活動の核心的部分でなければならない。そのために政治資金のかなりの部分が研究費に投じられている。だから彼らは宗教家、ジャーナリスト、文科系の大学教師と非常によく似た活動をし、よく似たタイプの経済生活をすると考えられる。
 しかし現実には政治家は知識人の範疇の外に所在する。前にも書いたことだが、知性派に属する日本のある政治家は、9320万円の年間総政治資金のうち0.16パーセント弱しか図書費に使っていなかった。それは月額にすれば、月当たり1万2000円であるから、3000円の単行本四冊分である。ちょっとした読書好きの人なら、年収800万円位の人でも、これぐらいの本を買う人はざらにいるだろう。しかしそのことに驚いてはならない。残りの9000万円強が何に使われているかを調べてみれば、普通人には信じがたいほどの金が、冠婚葬祭での心付けや、贈賄のためや、使途不明の接待費やお車代に使われていることがわかる。こうして日本の政界が西欧のように研究に金をかける政界と非常に異なっていることが判明する。
 政治家の仕事は、新しい政治的なアイデアを創り出すことにある。偉大なる政治家はアトリー(福祉国家)、ヒース(EEC加盟)、サッチャー(私有化政策)がそうであるように独自の政策プランを持っていた。イギリスでは、総選挙とは各党の政治プログラムの間の戦いである。日本のように候補者がこの選挙区にどんな利権を中央から持ち帰るかの「公約」の争いでは決してない。西欧社会、とくにイギリスでは、公約とは総選挙のときに党が公認した政治プログラムのことであり、党には唯一の公約があるだけである。日本のように各候補ごとに公約があるのでは絶対ない。
 候補者は党の公約を理解し、説明できなければならない。公約は、政治、経済、文教、福祉等、国民生活のあらゆる面にわたるから、公約をマスターするだけでもかなり勉強する必要がある。イギリスでは政治家は、大学にしばしばきて講演会を開くし、大学の研究会にも参加する。学生は意地の悪い質問をするから、自党の公約の裏の裏まで理解していなければ、とっちめられてしまう。
 戦後教育を受けた人達と政界の距離は、彼らと実業界との距離よりはるかに大きい。多くの日本の若い人は政界に背を向けてしまい、政治家の家に生まれた二世だけが人材の主要補給源になっている。その結果政界は国民からますます離れた世界になり、彼らが国民の意思を代表していないことは、外国でも周知である。こういう状態は国を格付けする場合に、決してプラスにならない。その上、政党や政府から、新発想の行動計画が発案されることはないのであるから、政治に無関心でも取り残されることはない。
  1990年代初めが重要な理由
 1960年代から1970年代にかけて日本の政財界を支配していた戦前世代が、1990年代になって力を失った。このことは容易にわかることである。1980年代は、主役が戦前世代から戦中世代へと移っていく時期だった。そして、1990年代半ばには、さらに戦後世代への移行が始まったと言えるかもしれない。GHQの教育改革は、米国流の理想を日本の子供たちに植えつけるという意図を持って進められた。それは、「家」の大切さや国家への忠誠を強調する儒教を基礎にした戦前教育とは大きく異なっていた。作家の三島由紀夫が、自衛隊の将校や兵士に対し忠誠心や愛国心を重んじる戦前倫理の復興の必要を説き、彼らに一笑に付されるとその場で自殺したのは1970年である。その行為は唐突で、手法もヒステリックでマンガ的ですらある。しかし、それが戦前世代から戦後世代への実権の移行が始まった初期の出来事である点には注目すべきである。三島自身は。過渡期の教育を受けた最年長の世代に属している。
 少なくとも1980年代初めまでの日本では、政治家、官僚、財界人が互いにうまく協力を進めてきたことは承認できる。だが、いわゆる「バブル」がはじけた1990年代以来、この三つの専門集団の間の強固な団結は崩れていった。官・財の間の贈収賄、インサイダー取引、不自然に高価な飲食店での「官官接待」など、数えきれないほどの不祥事が新聞に暴露された。こうした職務規律の荒廃は、特に「バブル」期に生じたものについては、政治家・官僚・財界人の活躍する年齢が大きくずれているという事実と関連が深いように思われる。
 官僚の場合、その省庁のトップである事務次官が決まると、彼以上の古参者は辞める慣例になっている。だから官僚の殆ど全員は約53歳以下と言ってよい。他方、企業の世界では、通常の社員は58歳が定年である。幹部クラスになると、たとえば63歳まで残る者もいる。さらに、社長・会長・相談役になると、だいたい70歳くらいまでは現役に留まれる。
 そして、政治家の場合には、企業トップよりもさらに高齢まで現役に居座り続けることも決してめずらしくない。1990年代前半が大切な理由は、これで理解できよう。この時期は非常に複雑な時代である。官界は一貫して戦後教育を受けた人か小学一、二年だけ戦前教育を受けた過渡期末期の人で占められており、次いで産業界のトップは過渡期前期の人で占められつつあり、さらに政界にはまだ時代遅れの考え方をする戦前派が残っていた。日本は政財官の三界の結束が固い社会と言われるが、1990年代初めには、教育的背景の全く違う人が三界を占めていたのである。
 それまでの戦後史を通じて、1946年から1980年にかけては、吉田茂、石橋湛山、池田隼人、佐藤栄作、三木武夫、福田赳夫、大平正芳など、日本的水準では優れていたといえる政治家が活躍した時代であったが、これらの人達は石橋・三木の二人を除けば、他は全員キャリア官僚の出身である。その後、こうした官僚出身者による政界支配が批判され、政党生え抜きの人間に重要な地位を任そうという機運が高まった。1988年から1997年にかけて九人の首相が誕生したが、そのうち官僚出身者は宮澤喜一ただ一人、他はみな政党生え抜きの首相である。だがその業績は、それ以前の官僚出身の首相に比べると、明らかに大きく見劣りがする。
 これらの党人脈の政治家は戦後教育を受けた若い人達であったにもかかわらず、選挙に勝ち抜かねばならぬという地位の不安定さの故に、選挙区の古老に牛耳られており、日本の政界の倫理は党人脈の時代が来るとともに近代以前に逆戻りしてしまった。さらに政界には定年制がないから、古色蒼然とした時代はずれの思想の持主の大物が生き残っている。こうして日本の政界の倫理は遂には、ムラ社会の感覚や哲学によって支配されるくらいにまで、地に落ち堕落してしまったのである。
 さて、ここで忘れてはならないのは、企業社会の上層部ではその頃は戦前期ないし過渡期前半期の教育を受けたものが支配し続けていたということである。だから保守的な眼によって、新入社員が80年代半ばには「新人類」と見られたことは既に述べた。彼らの扱いに手を焼いた1980年代後半には、社内での再訓練自体がうまくいかなくなってしまった。というのは、訓練する側でさえ、経営上層部から見れば理解しがたい存在、新人類の亜流でしかなかったからである。
 それだけでなく、日本の教育は入学試験競争を激化させたから、日本の親に自分たちの子供を日本での教育から脱出させるという動きをつくり出していた。1968年・69年に相次いで深刻な学生運動が起きた後、多くの家庭が子女を米国に留学させ、そこで教育を完了するという傾向を生み出した。このころ、多くの家庭はそうすることができるほど裕福になっていたし、日本企業の多くも海外への事業展開を進めていた。
 米国に留学した子女の大半は、日系企業の海外支社に職を得た。彼らは、キャリア形成という点で大きな利点を持っていた。彼らの多くは、1980年代初頭に、有力企業の中級管理職として有望な将来を約束されつつあった。こうして日本は、優れた国際的資質を備えた労働力をつくり出しつつあった。ただし、労働人口全体の中では、彼らは依然として少数派であり、彼らもまた戦前ないし過渡期初期の世代で占められた経営上層部との相性は良くなかった。」森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店(岩波現代文庫205)、2010年pp.17-26. 
 
 森嶋氏の眼は、英国から90年代の日本を見ているので、いろいろバイアスがあって、30%くらいは見当はずれだと思うが、1980年代の日本を振り返ってみると、戦争を現実に知っていた世代が舞台から去り、戦後の民主教育で育った世代もくたびれてきて、日本経済が長い不況に入っていくなかで、戦争を軽く考える世代が頭をもたげてくる時代だったのか、と思う。その結果が、いまの軍拡歓迎気分になったとしたら、ぼくたちの責任は重いな。


B.失敗の10年?
 10年前、民主党を下野させて第2次安倍政権ができたとき、「アベノミクス」なるキャッチフレーズで「デフレからの脱却」のため大幅な金融緩和で物価を上昇させ、それを続ければ賃金が上がり、経済の成長が回復するという言説が蔓延した。そのとき、この政策を支えたのはアメリカのリフレ派経済理論というもので、それがきわめて楽観的な金融で経済活性化させるというものだったから、ぼくはきっと失敗するだろうし、失敗したら日本経済は回復不能状態になるだろうと思った。安倍政権は、この政策に懐疑的な日銀総裁白川氏に代えてリフレ派の黒田東彦氏を据えて、10年低金利政策を続けた。事態はやっぱり失敗に終わった。

 「異次元緩和 費やした10年 「デフレで低成長」当時の社会を席巻 大きかったコスト
 インタビュー:前日本銀行総裁 白川 方明 さん 
 物価高が生活を直撃する中、日本銀行による「異次元の金融緩和」の行方が焦点となっている。近く任期満了を迎える黒田東彦総裁のもと、10年にわたって進められてきた政策だ。前任の総裁で、物価上昇目標を掲げた政府との共同声明に携わった白川方明さんが、声明の内実や今の思い、中央銀行や日本が向き合うべき課題を語った。

――ロシアのウクライナ侵攻から、もうすぐ1年。エネルギーや食料が値上がりして物価を押し上げ、実質的な所得が減って人々の生活が苦しくなっています。
 「禁輸政策のあり方が改めて問われています。危機がいついかなる形で起きるかは、誰も正確に予測できない。金融政策は、その現実を所与とした上で運営するしかない。にもかかわらず、約束をした。つまり、今回の世界的インフレ(物価の持続的上昇)は、先進国がデフレ(物価の持続的下落)を過度に懸念して、大規模な金融緩和の継続を事前に約束(フォワードガイダンス)していたこととも無関係でないと思います」
 「昨年亡くなった恩師の小宮龍太郎・東京大学名誉教授は、1970年代の日本の『狂乱インフレ』について、こう分析していました。当時の激しい物価上昇の原因を、もっぱら中東戦争に伴う石油の供給不足に求めるのは正しくないと。金融緩和で物価が上がっていたところに、石油危機という供給ショックが起きた結果だと。同じことが、今回の世界インフレについてもある程度妥当します」
  ■      ■   
 ――前年比2%の物価上昇を目指す目標を盛り込んだ、政府と日銀の2013年1月の共同声明から10年が経ちました。当時の総裁として、どう振り返りますか。
 「日本の低成長の原因はデフレにあり、日銀の大胆な金融政策で解消できる、という理論が当時の社会を席巻していました。総裁在任当時、最も厄介だったのはそうした『時代の空気』でした。金利は既に極めて低い水準にあり、下げる余地はほとんどなかった。お金の量を大幅に拡大しても、この冷厳な事実は変わらない。追加緩和の効果は非常に限られていた」
 「低成長の問題も、グローバル化や少子高齢化への対応など日本が直面する真の課題に取り組まない限り、解決しないと考えていました。そのことを繰り返し説明しましたが、『言い訳をしている』『効果がないのは金融緩和が小出しだから』と批判されました」
 「12年末の総選挙で、2%の物価目標を設定して日銀に大胆な金融緩和を求めることを公約に掲げた自民党が圧勝しました。国民が公約を吟味した上で投票したかは分かりませんが、その公約にノーを突きつけなかったことは事実でした。民主主義国家において、中央銀行は国民の判断を全く無視することはできません。
―-共同声明は物価目標を定めた文書として、その後の金融政策を縛ったのではないでしょうか。
 「何らかの文書を交わさざるを得ないと判断した上で、私が最大限努力したのは、むしろ2%目標を機械的に追及しなくても済む道を残すことでした。政府の深刻な財政状況を考えると、日銀が金融緩和を通じて際限のない国債の買い入れに組み込まれる懸念があり、「物価安定を通じて国民経済の健全な発展に資する」という日銀の使命達成が、難しくなると考えたからです」
 「政府は『政策協定』『アコード』という表現を求めましたが、『共同声明(政策連携)』にとどめました。2%は、あくまでも『経済の競争力と成長力の強化』が前提の条件付き目標となっています。達成期限について政府は2年を求め、日銀は『中長期』を主張。実現不能な2年よりはましと判断し、『できるだけ早期に』で決着しました。金融的な不均衡などのリスクを点検していくことも盛り込み、いつの日か社会が金融政策では問題が解決しないと気づくことに期待をつなぎ、その時に、柔軟な金融政策を追求できるように努力しました。理想的な文書ではなく、批判もあるでしょうが、私にはあれが限界でした」
 ――ウクライナ危機などで世界的インフレが起きるまで、消費増税の影響を除いて2%の目標は達成されませんでした。円安でも企業の競争力は戻らず、実質賃金や潜在成長率も低迷したままです。
 「日銀がお金の『量』を拡大しさえすれば物価が上がるという議論は、さすがに聞かれなくなりました。低成長の原因が物価下落にあるという見方も、消えつつあります。このことを学ぶのに、日本は20年を費やした。民主主義のコストかもしれませんが、日本の課題を『デフレ』というあいまいな言葉で設定したことのコストは、本当に大きかったと思います」
 「アベノミクスの3本の矢について、3本目の成長戦略や財政構造改革が進まなかったことこそが問題だ、とよく言われますが、不正確な表現です。金融緩和が長期化すると、それを前提に、政府や企業、家計の行動も変わります。経済の新陳代謝の遅れや財政規律の低下も、そうした行動変化とまったく無関係ではありません」
 ――冒頭で触れた時代の空気は、どこから来たのでしょうか。
 「無視できないのは米国からの影響でした。中央銀行が2%の物価目標を掲げれば人々の期待が変化して実際に2%になる、という理論を米国の主流派経済学者が主張しており、それが日本の学者、マスコミ、政治家の間に広がった。米国のソフトパワーをひしひしと感じました」
 ―-この10年で、米国での議論は変わりましたか。
 「有名なサマーズ氏(ハーバード大教授、元財務長官)は数年前、『日本で大規模な金融緩和の実験をやったが、インフレ率は反応しなかった。当然のように考えていた理論が実は誤っていたことを示唆している』と書いています。中央銀行が望む水準に必ずしもいつも物価上昇率を設定できるわけではない、と」
 ――金融緩和を修正する際の難しさは何ですか。
 「将来を正確に予測できないこと、加えて金融緩和の継続を前提とした行動が深くビルトインされていることです。緩和の修正は、何がしか混乱を招くことは不可避です。かと言って、緩和を続けても経済を改善する力は乏しい。中央銀行は、緩和を修正すれば、その後に景気が無関係な要因で交代しても批判を受ける。それを恐れると、その面からも修正は遅れる。厄介な均衡状態です」
 「世界的にみると、21世紀に入ってグローバル金融危機が起きた。その後は低成長・低インフレが問題と言われていたが、今は高いインフレにある。マクロ経済は安定していたとは言えません。金融政策運営の枠組みにも反省が必要です。日本は他国に先行して様々な経験をしてきただけに、当局者も学界、マスコミも議論をリードしてほしいと願っています」
 ――中央銀行には何が一番大切ですか。
 「どの国でも、中央銀行の行う政策の基礎は国民の信頼です。信頼は、専門家としての知識と、使命遂行への誠実さによって築かれるものです。多くの人の生活に影響を与えるだけに、謙虚に耳を傾ける姿勢も求められます。また中央銀行は、どの国でもその国最大ともいえる経済シンクタンクです。人口減少をはじめ、中長期的に日本経済の持続可能性に大きな影響を与える動きに関する調査には、特に期待が高い」
 「同時に、中央銀行にスーパーマンを期待するのは無理です。良い政策には、それを支える幅広いインフラが不可欠です。議論を支える学者やエコノミストの骨太の分析、統計などデータの整備、マスコミによる時間的視野の長い報道、若い人を引きつける公的機関の組織づくりは特に重要です」
    ■      ■ 
 ――10年前の「共同声明」を見直す必要はありますか。
 「あまり実利がないと思います。共同声明は、柔軟な政策を妨げない書きぶりになっているからです。求められていることは、些細な表現の修正ではなく、日本経済の根本課題を正しく認識すること。その中でも特に、人口減少がどこかで止まるという展望を持てるようにする重要性を認識することです。成果が出るには30~40年かかる話ですが、合意を形成しなければなりません」
 ――「日銀が国債を大量に買っても危機は起きていない」という議論を、どう思いますか。
 「危機を、激しいインフレや金融システムの動揺と定義するなら危機は起きていません。しかし、静かな危機は進行しています。新陳代謝の遅れによる生産性上昇率の緩やかな低下、1971年の水準にまで戻った円の実質為替レートなどは象徴的です。経済政策全般の問題ですが、目に見える危機がないからと言って、心配が要らないわけではありません」
 「国際市場について言うと、たとえば大規模な自然災害が起き、復興のために資金を調達しようとした時に、困難に直面する可能性も否定できません。やはり、頑健性を備えた財政構造にしなければなりません」 (聞き手 編集委員・吉岡桂子)」朝日新聞2023年1月31日朝刊、13面オピニオン欄。

 第2次安倍政権がまずやったのは、この白川日銀総裁を更迭したことと、安保法制や憲法解釈で邪魔になる内閣法制局長官を、最高裁判事だった山本庸幸氏から外交官だった小松一郎氏に代えたこと。これ以後の10年が、日本という国の没落を加速させたことは、いまや否定しようがない歴史となった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2050年の日本 森嶋通夫の予... | トップ | 2050年の日本 森嶋通夫の予... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事