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サムライ・日本刀・切腹のウソ  移民問題の失敗

2018-07-22 01:38:32 | 日記
A.「武士」の虚像と実像
 日本刀は「武士の魂」という観念は、応仁の乱から大坂夏の陣まで戦で人が殺し合った残酷な時代ではなく、元和偃武以降の平和な江戸時代に作られたもので、幕末のテロと内乱ではたしかに刀で切り合ったりしたが、腰に二刀を帯びるのは戦闘のためではなく、武士身分の象徴だったからだ。実際、源平の合戦や南北朝までは主要な武器は弓であり、その後の集団戦では槍だったという。刀は2,3メートル以内の接近戦でしか有効ではなく鎧兜で武装されると、打撲で相手を倒してからとどめと首を落とすときにしか使えない。鉄砲が導入された戦国末期も、命中率は高くなく、黒沢明の映画に出てくる騎馬武者の疾走も、当時の馬はもっと小さく長時間の疾走などできなかった。チャンバラ映画のような、刀剣の切り合いも、実際に刀を交えて数太刀合わせたら刃こぼれしたり曲がったり、二、三人切ったら使い物にならなくなったという。そういう武器と戦闘の実態を知れば、後世の絵にかいた武士と刀のヒーローは虚像だったことが高橋昌明『武士の日本史』(岩波新書、2018)を読むとよくわかる。「サムライ・ニッポン」などと得意になるのは、実際の歴史とはかけはなれたものだった。
 しかし、「切腹」というものはたしかに武士に対する法的な処分として位置づけられていたし、実際に切腹する事例は明治維新まであったし、その作法も決められていた。鎌倉幕府滅亡時の北条得宗一族の集団自殺は、まだ制度化や形式化されていたものとはいえないが、その後は刑罰として本人が意志的な自殺の形式をとることで「武士の名誉」を示す意味はあったのだろう。そこに精神的な覚悟という特別な観念が付与された。明治以降の日本軍では、旧来の武士身分の特権性は失われたが、戦士としての精神をシンボル化するために、日本刀や切腹の精神性が導入され、軍人の責任の取り方として理念が再構築された。

 「東アジア世界からみた武士の思想と切腹
 代表的な士道論の内容をまとめてみた。この際考えてみたいのは、こうした武士の思想を、東アジアという世界のなかに置いてみれば、どのような歴史理解の眺望が開けるか、という問題である。
 結論からいえば、中国・韓国の思想史の専門家たちにとって、武士道の異様さはもちろん、儒教にもとづく士道という武士の倫理思想も、非常に不思議で、おそらく理解に苦しむところであろう。なぜか。儒教は、法や武力のような強制による支配ではなく、礼楽(広義の文)や詩(狭義の文)によって人々の道徳心を高めながら、社会の秩序と神話を実現するのを理想とする。この思想の根本は「力」に対する徹底的な忌避であろう。武や武人は見下げられた。「力」の権化である武は、徳の反対物であるし、武人は「義理(道義・節操)を知らず」、粗野で教養にも欠けるからである。中国の古いことわざに「よい鉄は釘にはしない、よい男は兵隊にはならない」とあるように、兵は、異民族や流浪の没落農民、人間の「屑」や犯罪者のなるものとされた。また中国の伝統思想では、戦争は悪徳である。為政者による無用の戦争を詩歌によって抑制することも、詩歌・詩人の正しいあり方として、社会的に公認されていた。中唐の詩人白居易の「新(しん)豊(ぽう)の臂(うで)を折りし翁、辺(へん)功(こう)を戒むるなり」は、辺境での戦功を賞の対象とせず、むやみに戦争をしないように努めた玄宗皇帝治世前半の名宰相宋(そう)璟(えい)を讃え、その正反対だった治世後半の陽国中(楊貴妃の一族)を批判する詩である。
 しかし、現実の政治が、利に走り教養を積む暇もなく、それゆえ徳を体得していない庶民や夷狄を対象にする以上、無為・無政府は、儒家の取る道ではない。天使のもとに、中央・地方に厳然と政府が組織され、百官有司(有司は役人のこと)が完備されるのは、聖人の定めた典賞にかなっている。力を代表する刑や兵も、欠けるところがあってはならない。君子の徳にもとづく治国平天下の肝心な点は、刑と兵を設けて、しかも用いざるところにある。
 中国では、古代の漢代にはすでにかなり整った官僚制が存在した。支配イデオロギーの中心に据えられたのは儒教で、正統教学として採用された儒教を学び、その教養を身につけたものが、高官となって政治を指導するという方向が打ち出されてゆく。それにともない、中国官僚制を長く特徴づけた文官優位の原則も制度化された。六世紀末の隋に始まる科挙制度は、皇帝政治を支える官僚の選抜試験で、儒教的教養が問われた。科挙は建前としては万人に開かれ、人の生まれつきではなく、誕生後の学習で得られた能力によって人材を選抜するシステムである。漢・唐代にはまだ官吏登用の基本は家格によっており、高位の官僚は豪族や貴族が占めていた。しかし、唐末から五代にかけての動乱期に貴族層が大量に没落したことによって、日本の平安時代にあたる宋代に、科挙はようやく完成されたものになる。国家・社会制度が中国の圧倒的な影響力のもとに置かれた高麗や朝鮮王朝も、文人支配を建前にしていた。
 東アジア世界の周縁にあった日本では、古代以来中国大陸や朝鮮半島から、律令制という国家の支配制度をはじめ、高度な思想・文化・宗教・科学技術にいたるまで、じつに多くのものを学んだ。ところが、科挙はその後も含めてついに採用されなかったし、儒教の理解や普及も充分とはいえない。古代では氏族制が残り、続いて貴族制が長期に渡って生命力を保った。
 日本古代の官僚制では、貴族は父祖の地位に応じて、子孫が自動的に一定の位階を得ることができる蔭(おん)位(い)の特典を持っている。唐や高麗にも同様の制度があったが、日本のそれは適用される親族の範囲こそ狭いけれど、授与される位ははるかに高い。平安時代の支配層であった文官貴族をみても、儒教を精神の背骨としたと評価できる高位の貴族は、数えるほどしかいない。日本の古代中世の社会では、儒教は儒学、それも主に博士家という文士のイエの家業の形でしか存在しなかったし、個人と社会を律する強固な規範にはなりえなかった。
 だから日本のような文(儒)未確立の社会には、武士や武を明確にマイナス価値と位置づけ、しかも柔軟に体制内にとりこむ試みは現れにくい。むろん、日本の平安時代も中国にならったいちおうの文官優位社会である。特有のケガレ観から殺生にたいする忌避もあり、決して武が全面開花したわけではない。だが、武士でもないのに武をもてあそぶ文官貴族がいる。「殺生戒」を唱える仏教や寺院社会にすら、暴力行使を思想的に正当化し、みずから武力を保持し行使することをためらわない現実があった。
 武士を忌避しなかった日本社会は、その後武士が名実ともに治者として君臨する近世社会を迎える。一七世紀後半の頃から、いわゆる文治政治への転換が起こり、「徳川の平和(Pax Tokugawa)」が実現し、軍事集団は武力を凍結された。治者として実際政治を担当するのは、かつて「腰抜役」と軽蔑されていた役方(『政談』)、つまり文官の実務行政官僚たちである。近世にあっては、武士の政権といいながら、治者であるのが武士の主たる側面になった。その変化は、戦士が本来だったそれまでの武士のあり方に、深刻な修正を迫った。
 そして、近世半ば以降は、儒教が諸学・諸思想と習合しつつではあるが、初めて社会に一定の滲透を見た時代である。そこでは、武の対立物であった儒教が、皮肉にも武士の治者としての自覚をうながす教養体系として機能し始めた。その意味で、儒教によって自分を厳しく律する武士の姿は、実像というより、時代の要請が生んだ彼らの努力目標だった。
 もう一つ問題点をあげるなら、山鹿素行も『武道初心集』も、武士たるもの、日々夜々、常時死を心がけるという。しかし儒教では、君父の死にたいするいかに深い悲しみであろうとも、それを礼によって抑制し「性(理)」によって人欲に傾く「情」の部分を抑えてゆこう」と教えた。中国戦国時代に、讒言にあって楚の国から放逐されながら、楚の衰運を憂え汨羅に身を投じた忠臣屈原の自殺が、しばしば遺憾とされるのはその考えによる。儒教が要求するのは何よりもまず思慮、そして思慮によって中庸を守ることである(仏教でも同じだが)。死に急ぎは直情径行の最たるもので、野蛮人の美学に過ぎない。「士はおのれを知るもののために死す」とは、任侠(ヤクザ)の世界でのみ通用する物言いにすぎない(侠と儒とは対極概念)。事実、歴史をふりかえってみても、国家に殉じた臣という人物を探すのはなかなか難しい。
 以上の儒教の基本性格は、じつは日本人の歴史・思想史の専門家にも、あまり留意されていないかのように、筆者にも思える。素行のような一流の学者が唱えた士道論ですら、儒教の教説そのものではない。武士が支配勢力になりあがっていった日本歴史の特殊性を踏まえ、彼らの為政者としての心がけや振舞いを、平和な世にふさわしく儒教風に洗練させたもの、と位置づけねばならない。だから幕末になって対外危機が叫ばれるようになると、高遠藩の藩医兼藩儒であった中村中倧のような儒者は、「わが国は武国で、おのずから武士道がある。これは儒学の道の助けを借りず、仏の心を用いない、わが国自然の道である」(『尚武論』)と、武士の倫理道徳から儒教を引きはがす論を主張するようになるわけである。
 『葉隠』が倫理思想として、広がりを持つものでなかった点は、すでに述べた。加えて、武士道という用語の使用例は、近世以前には遡らない。武士道を倫理思想の対象として学問的に論じた先学に古川哲史氏がいるが、彼は「この語はこの時代(近世)にはほんの一部の人々に使用されただけである」と断じ、従来それが通説であった。
 近年、武家社会史の専門家である笠谷和比古氏は、古川市の断定を相対化しようとして、武士道の用例を、より広くより多くの近世の著作物にあたって採録しているが、それでもその最盛期は一七、一八世紀で、近世後期になると道徳上の義務的性格を帯びるようになり、武士道論は士道論の中に併合されてゆき衰退した、と結論づけている。
 これにたいし日本文学研究の立場から、武士の思想を精力的に論じている佐伯真一氏は、武士道は言葉自体としてはある程度の広がりがあったから、古川市の指摘は誤解を受けやすいけれど、倫理思想の用語としての使用に限ってみれば、その指摘は妥当性を欠くとはいえないとし、笠谷氏が衰退期とみた一九世紀に入ると、むしろ武士道を盛んに主張する思想が多く世に出るとしている。
 いずれにせよ、近世中期ともなれば、現実には戦闘による死の危険は去り、「追腹(殉死)」も禁じられて、武士社会は安穏を享受していた。だから、武士たることを自負し世間の風潮を憂うる者は、おのれがそうだと思いこんだ戦乱期の武士のあり方を、強調しないではいられなかった。『葉隠』には、全編死とか狂とかの言葉が氾濫し、無私の捨身を時にファナティックに、時に鋭敏・繊細な言語感覚で主張する。異様な印象は拭い難いが、それは、泰平の世なるがゆえに、死の潔さを、逆にいっそう過激な形で、武士生活のすべてに渡る心がけ、生き方として説いたものである。しかし、こうした異議申し立ては、はかない抵抗というほかはなく、武力を凍結された状態が延々と続くなかでは長続きせず、衰退するのは理の当然であった。
切腹は、武士のメンテリティを示す自殺または刑死の方法とされている。割腹・屠腹・腹切ともいわれ、外国にもhara-kiriの名で知られる。
 切腹の元祖とされるのは、第一章に登場する藤原保昌の弟の保輔で、「強盗の張本」として、永延二年(九八八)、獄中で死んだ。捕縛された時に自殺を図り、「刀をぬいで腹を切り、はらわたを引き出した」傷が原因だという(『続古事談』巻五)。
 平安時代以降、自殺の一方法として行なわれるようになったが、広まるのは鎌倉末期から南北朝期で、元弘三年(一三三三)、近江番場(現滋賀県米原市)で六波羅探題の将士が集団自殺し、続いて鎌倉で得宗高時以下が大量自殺した時の衝撃がきっかけではないかと思われる。『太平記』によれば、前者は四三二人、後者は八七三人が腹を切り、あるいは差し違え、またみずから首を掻き落としたという。
 これ以前の武士は、自殺時にはほかの方法を用いることが多く、刀を口に含み俯しに貫いて絶命するなどした。また中世以降も、切腹は武士や男性に限られた自殺法ではなかった。後世には、短刀を左腹に突き立て、右まで回して引き抜き、次いで胸の下から十文字になるよう切り下げ、さらに喉を突くのが正式の作法とされたが、実例はそれほど多いわけではない。
 古式では、藤原保輔のように腹を切り内臓を引き出した。その事実から、生命の源である内臓を神に供えることににより、その神を祀る共同体にたいする祈願者の偽りのない赤心を示すのが、切腹の本義であり、山の神信仰と狩猟の儀礼に起源を持つという説がある。これによれば、武士の切腹は、武運つたなく死に直面した武士が、弓矢の神と彼の帰属する武士集団への最後の忠誠表明をする、という意味をもっていたことになる。鎌倉幕府滅亡時の二つの大量自殺は、得宗に対する近親グループ(北条一門や得宗被官)の献身と忠誠の心情を、劇的な方法で表わさんとしたものであろう。その凄絶さは、得宗の専制政治への各方面からの反発・憎悪を感知していた彼らの、前途なき絶望感が噴出したもの、とも解釈できる。
 腹を切るのは苦痛が多く、死にいたるのも難しいが、勇壮であり、自分の真心を戦場または人前で顕示するには、有効な方法と考えられていた。敗軍の将兵が捕虜を嫌っておこなうのが多いが、主君のためにする追腹、職務上の責任などから迫られてする詰腹などもある。
 刑罰としての切腹は、室町時代からおこなわれたが、近世では、幕府・藩が採用し、侍以上の上級武士にたいする特別の死刑法になった。幕府法では、五〇〇石以上の者は大名屋敷などの屋内で、それ以下の者は牢屋内で、夕方から夜にかけて執行されるのが例であった。
 『古事類苑』法律部二に引用された諸資料から判断すると、前者の切腹の作法は、庭の一画の一丈(三メートル)四方に砂を敷き、その上に縁なしの畳二枚を置き、白木綿の布や、赤毛氈などで覆って切腹の場とする。囚人が無垢無紋の水浅葱(囚人服の色)の裃を着てそこに座ると、正副二名の介錯人が進み出る。正介錯人は姓名を名乗って一礼し、刀を抜いて囚人の背後に立つ。ほかの役人が奉書紙に包んだ九寸五分(28.8センチ)の木刀を三方(白木を用いた膳具の一種)に載せ持参、囚人から九〇センチほど離れた前に置くと、副介錯人は囚人の介添えをして衣服を肌ぬぎにさせる。副介錯人は囚人に三方を取るよううながし、囚人が手を差し伸べて取ろうとする瞬間、正介錯人が刀を振るって首を切った。副介錯人は首を取って検使に見せ、検使は始終を見届けた旨を述べて執行を終える。木刀の替わりに扇を出したり(扇腹)、時には本物の短刀を用いることもあった。切った首や死体は、遺族・家来などに下げ渡される。」高橋昌明『武士の日本史』岩波新書、2018、pp.190-200.
 
 1970年に三島由紀夫が切腹したとき、一種の人工的な「武士の精神」を蘇らせたいという三島の妄想的表現行為は、日本人に異様な衝撃は与えたが、その意図を「武士」にむすびつけて理解する回路はもうなかった。そもそも三島由紀夫は歴史的に定義される武士ではなく文人だったし、権威に対する忠誠の証としての切腹(敵に屈する恥辱を拒否する切腹)、主君からの懲罰としての切腹(自分に帰責する罪の償いとしての切腹)という歴史的意味をまったく無視した、ある意味で西洋的な表現行為だったから、といえるかもしれない。



B.少子化=国家の衰弱モデルへの文化論的批判について
 人口動態という一国社会を根柢から時間的に規定する要素について、日本ほど深刻な事態が予想された国はなく、20世紀の終わりにそのことに気づいて警鐘を鳴らした知識人がかなりいたことも、たしかな事実だと思う。ファシズムの暴力を打破した第二次大戦のもたらした反動としての、飛躍的経済成長と人口爆発は、団塊の世代が高齢者になり、子どもを産むことの意味が女性の幸福にとって疑問視される時代が来て、先進諸国は軒並み少子化が進行する事態になった。最大多数の経済的幸福の増大にとって、人口という個人を越えた課題、しかもきわめて個人的な課題が何を導くかに、多くの市民は鈍感だった。日本は、その先頭を走っていたが故に危機を認識したにもかかわらず、結局なにひとつ有効な対策を講じなかった。フランスの人類学者トッドの診断は、それを比較文化論的視野から説明する。つまり、西洋とは異なった文化的背景、伝統的なイエ的家父長制家族観と、個人よりも集団を優先する社会観を日本の特徴とみて、それが移民の排斥拒否に結びつくとき必然的な国力衰退の原因とおく。果たしてこれは正しいか?

 「行動せず議論 移民は流入:エマニュエル・トッドさん(仏人類学者・歴史学者)
 1990年代に初めて訪日したとき、将来の少子化など人口動態の問題を語る人は多かった。欧州より意識が高いと思いました。来日はこれまで16、17回になりますが、今はこう考えています。人口動態危機について、日本人には何も行動しないまま議論し続ける能力があると‥‥‥。
 国力を増したければ人口動態危機に取り組むはず。それをしない姿勢をナショナリズムとはいえません。
 日本の問題は、女性が働くと子どもをつくれなくなるというところにあります。
 家族人類学の視点から見ると、日本は長男が家を継ぐ直系家族の国です。往々にして、男の方に特権がある。消えつつある家族形態ですが、その価値観はゾンビのように今も残り続けています。
 現代日本で、男尊女卑が激しいわけではない。女性は高等教育を受けられるし、職業上のキャリアを積み上げることもできる。けれどキャリアを積もうとすると子どもをつくりにくい。「あれか、これか」の二者択一を迫られる。
 日本の場合、直系家族というシステムが頂点に達したのは明治期で、近代化のスタートと重なりました。テクノロジーを次世代に伝えながら完成するには効果的でした。競争にも強い。同じく直系家族のドイツは近代化へ離陸すると、わずかの期間で英国より強国になった。明治日本の離陸も恐るべきものでした。しかし、これまでのやり方を断絶し、システムを大きく転換するときに直系家族の価値観は困難に直面します。方向を変えられないのです。
 日本は移民政策に消極的です。ドイツは今、移民を最も受け入れている国の一つですが、直系家族が移民導入の足かせにはなっていません。
 日本文化には、極端な礼節へのこだわりがあります。他人に決して迷惑をかけない。それは一つの価値ですが、移民問題に当てはめてみるとどうなるか。礼節という文化が脅かされることになる。フランスなら話は簡単だ。もともとお互いに不作法だから失うものなどありません。
 現実問題として、日本が移民を拒むのは不可能です。人口減社会の日本では、労働力不足が深刻化し、技能実習生という名の「移民」がすでに始まっています。自分たちだけで暮らしたいという閉鎖的な夢と、外への解放という現実。意識が現実と切り離され、移民の流入はウソの中で始まっているのです。
 人口動態危機の解決策として優先するべきは、まず女性が快適に働き、子どもを産むことができる政策です。未来に向けて豊かになるために、政府は保育園整備や児童手当に巨額の予算を投じるべきです。今すぐ豊かになることしか視野にない政策は、将来、国を貧しくします。(聞き手・大野博人)」朝日新聞2018年7月18日朝刊13面オピニオン欄「鏡を見よう、日本」

 1980年代後半、非熟練労働者の不足が顕著になり、中東などからの不法な外国人労働者が急増したことを背景に、当時の労働省も外国人労働者受入れ問題の検討懇談会を開設した。1988年ごろ大手メディアも「外国人労働者問題」をさかんにとりあげた。1989年に出た西尾幹二『「労働鎖国」のすすめ 外国人労働者が日本を滅ぼす』(カッパビジネス)光文社、同じ年カリフォルニア移民体験を書いた『ストロベリー・ロード』で大宅壮一ノンフィクション賞を受けた石川好が、『鎖国の感情を排す 石川好・戦後とアメリカを質す12篇』(1985年、文藝春秋)も出していたので、ちょうど1987年4月から始まった月一回の深夜討論番組「朝まで生テレビ」で、何度か外国人労働者問題がとりあげられていた。その結果ばかりとはいえないが、日本国内の議論の大勢は、異文化移民の増大への警戒・拒否論に傾き、移民なしでも日本は今の生活水準を維持してなんとかなるという楽観論に囚われた。一つの証拠をあげよう。

「単純労働者の入国問題に関する主な意見
単純労働者についても受入れてはどうかとするもの
○わが国の国際的受容性を高め,また対外摩擦の解消にも役立つことが期待されること。
○わが国において一定の分野には労働力不足が現に存在し,これを埋める日本人労働者を確保することが困難であること。
○わが国社会の国際化に貢献(外国人,異文化の接触等)。
○経済格差がある限り外国人労働者の流入は不可避であり,これを不法就労者として取締りの対象とするだけでは問題の解決にならないこと。
○現在の不法就労者問題を放置すれば,事態はさらに悪化,陰湿化,社会問題化,国際問題化し,アジアの中で孤立しかねないこと。
○一定の範囲で正規に許可することにより,悪質な雇用主やブローカーからの搾取を防止できるようになること。
○ヒトの自由化が避けられない以上,西欧諸国の先例に学び,しかるべき対応策をとりつつ,徐々に門戸を開放すべきこと。

単純労働者の受入れは行うべきではないとするもの
○日本の労働条件の低下,失業率の上昇を招き,労働市場の混乱も招きかねないこと。
○低賃金による外国人労働者の搾取である,ダーティワークを外国人に押しつけているといった非難を受けかねず,新たな国際的摩擦の要因となる可能性があること。
○犯罪率の増加は必至との危ぐ。
○一部の職種の短期的労働者不足には役立つかもしれないが,結局大量の外国人労働者及びその家族の流入により,その子女の教育問題や街の一角のスラム化などに伴う膨大な社会コストが予想されること。
○安易な導入は,人種的対立や偏見を醸成させかねず,日本人の意識の国際化が先決。
○外国人労働者の受入れにより失業,社会的文化的摩擦等の諸問題に直面した西欧諸国の経験を他山の石とすべきこと。
○今日の経済社会の発展をもたらした同質的な日本社会は軽戈に変えるべきでないこと。
○他国の救済のために外国人の失業者を受入れる必要はなく,発展途上国に対する援助は,途上国自身における雇用機会の増大に資する経済協力や投資活動によるのが本筋であるべきであること。
(出所)法務省入国管理局「外国人労働者問題への対応 p5~6

トッドの論に全面的には賛成できない。いまの日本社会は、イデオロギー的には復古的ナショナリズムや伝統家父長家族の男社会が残存しているのは嘘ではないが、日本人のマジョリテイーはそれをいいことだとも、そこに帰るべきだとも思っていないと思う。文化人類学的家族類型をあてはめて、人口問題に適用するのは、実情からはズレる認識だと思う。しかし、外国人労働者問題について、あの時点で人口問題と結びつけて議論したかといえば、心もとない。 
それから30年が経過したいま、あいかわらずこの国の保守指導層は、すべては経済成長なしには解決しない、少子高齢化の問題は自分勝手な女たちの意識を変え、国家のため国力のため、日本人の子どもを増やす以外に手段はないと信じている。しかし、現実はとっくにそんな次元を超えて、外国人の労働力に頼らずに日本経済を支えることなど困難になっている。コンビニでもスーパーでも、工場でも農村でももはや外国人移民の力を借りなければ、急速に衰弱するほかないのが現実ではないか。この問題をマジに考えるなら、急いでやらなければならないことはたくさんある。でも、安倍政権はそんなことには関心がなく、憲法改変とか、労働法制の大幅緩和とか、自衛隊のさらなる増強とか、見当違いのことばかりやっている。国家の未来をちゃんと考えているとは、思えない。これこそ後世に禍根を残すふるまいだ。
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