gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

右と左でバランスをとる時代は終わって、右が真ん中にきて左に転落する綱渡り。

2017-01-26 23:29:29 | 日記
A.右か左かなんて・わかんない?
 欧州各国の右翼政党の幹部が先日、ドイツ西部の町コブレンツに集まったというニュースがあった。EU=ヨーロッパ連合を批判する右派や極右政党の関係者や支持者、数百人が集結。今年大統領選挙を控えたフランスからは、「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首が、議会選挙が予定されるドイツからは極右「ドイツのための選択肢」のペトリ党首、さらにオランダから極右政党「自由党」のウィルダース党首が、そろって出席した。3党首はスピーチで、アメリカでトランプ新大統領が就任したことについて、「アメリカ国民がみずからの利益を守る政治を取り戻そうと決断した結果だ」などと歓迎した。ウィルダース党首は「きのうアメリカが生まれ変わった。次はヨーロッパだ」と述べ、気勢を上げたという。またルペン党首は、ドイツのメルケル首相がシリアなどからの難民を積極的に受け入れてきたことについて、「難民や移民の受け入れは市民を危険にさらすものだ」と厳しく批判し、会場から大きな拍手を受けたという。
これに対し、集会に反対する抗議デモも行われ、警察側の発表でおよそ5000人が参加したと伝わる。以前の欧州右翼政党といえば、移民・外国人の排斥、極端なナショナリズムの主張で一般市民からはファシズムを肯定する過激な少数派とみられていたはずだった。しかし、ファナティックな極右思想は抑えて国民への浸透を図り、いまや既成の政治への反発、EUと政府の特権層に対する不満を吸収して、第二党進出、あるいは大統領選挙での勝利をうかがうまでに膨らんでいる。彼らには、トランプ勝利は自分たちに共通する動向に見えるのだろう。

「仏大統領選のリスク:頼みは急進左派ポピュリスト ピケティコラム
4か月もしないうちにフランスに新しい大統領がうまれる。「トランプ」や「プレグジット(英国のEU離脱)」に続き、世論調査はまた間違うかもしれない。マリーヌ・ルペン氏が率いる右派ナショナリストが勝利に近づいている可能性も排除できない。激変は回避できても、その次の大統領選では、ルペン氏の政党がフランスのリベラル右派勢力に唯一対抗できる位置に立つリスクは、もはや現実のものだ。かたや急進左派は、ジャンリュック・メランション氏の勝利が期待されているが、悲しいかなありえそうにない。ルペン氏とメランション氏には共通点がある。2人ともEUに関する条約をやり玉に挙げ、国や地域同士が激しく競い合う今の体制を疑問視する。その姿勢がグローバリゼーションから取り残された人びとをひきつける。本質的な違いもある。メランション氏は、物言いが物議を醸し、世界の見方は不安を抱かせるが、国際主義的かつ進歩主義的な発想をする。
 この大統領選のリスクは、他の全ての政治勢力――第メディアも――が両候補を酷評し、「ポピュリスト」のレッテルを貼ってそれでよしとすることだ。この新手の侮辱表現は米大統領選でのバーニー・サンダース氏やメランション氏のような急進左派――を頼りにするしかない。さもないとナショナリズムと排外主義のうねりにさらわれかねない。
 リベラル右派勢力(フランソワ・フィヨン氏)と中道勢力(エマニュエル・マクロン氏)は残念ながら庶民層の現実を無視する戦略を取ろうとしている。2人とも(財政赤字をGDPの0.5%以内に抑える目標などを定めた)2012年のEU財政協定を維持する立場だ。驚くにあたらない。フィヨン氏は協定の交渉にあたった当人で、マクロン氏は施行した張本人だ。あらゆる世論調査で確かめられるように、2人に魅力を感じるのはグローバリゼーションの勝ち組だ。保守的カソリック教徒はフィヨン氏、都市部の富裕ボヘミアン層はマクロン氏支持という興味深い違いはあるが、社会的な問題では大差ない。
 2人とも道理をわきまえた層の代表を自認する。いわく「フランスが労働市場の自由化、財政出動や赤字の削減、資産税廃止、付加価値税の増税で、ドイツやEU本部、市場の信頼を取り戻せば、財政緊縮や債務問題でフランスのために動いてくれるよう求めることができる」と。
  「道理にかなっている」というこの論法の問題点は、まったく道理にかなっていないとこだ。この財政協定がとんでもない間違いだ。ユーロ圏は将来への投資ができなくなり、致命的なわなにはまりこんだ。この規模の公的債務を削減するには例外的措置をとらざるをえない。何十年にもわたってプライマリーバランス(基礎的財政収支)を黒字化し続けしかないが、あらゆる投資能力に延々と負担がかかり続ける。
 英国は1815年から1914年まで1世紀をかけて巨額の黒字を捻出し、これにより年金を支給し、仏革命戦争で負ったGDPの200%もの債務を減らした。この選択は不幸ももたらした。教育への過小評価につながり、英国が後に失速する原因となった。

 対照的に、1945年から55年まで、仏独は同様の債務から迅速に解放された。それは債務取り消し、インフレ、民間資本への特別な課税が併せてあったからだ。これで両国は成長に投資することができたのだ。同じことが今なされなければならない。「ユーロ圏議会」発足をドイツに認めさせて民主的手続きを踏んだうえで債務を軽減するのだ。さもないとイタリアで起きている投資の遅れと生産性の低下がやがてフランス、ユーロ圏全体に広がるだろう。
 歴史を深く読み込むことで、現在の行き詰まりも打開できる。「Histoire mondiale de la France(フランスの世界史)」(パトリック・ブシュロン編、2017年)の著者たちがそう思い起こさせてくれたところだ。同書はアイデンティティーの問題にいらだつフランスにとって真の解毒剤だ。それに比べれば面白くも楽しくもないが、「政府系左派」の候補者指名争いも追いかけねばならない。政府系左派と呼ぶのは、彼らが急進左派と合同の指名争いを行うことができなかったからだ。そのせいで、長い間、政権の座は遠のくかもしれない。
大切なのは、EUルールに本質的な疑問を提起する候補を指名争いで選ぶことだ。マニュエル・バルス氏やバンサン・ペイヨン氏より、ブノア・アモン氏とアルノー・モントブール氏がこの路線に近いようだ。この2人もベーシックインカムと「メイド・イン・フランス」にこだわるだけでなく、EU財政協定に代わる具体的な提案をする必要がある。最初のテレビ討論ではほとんど触れられなかった。おそらく全員が5年前、協定に賛成したためだろう。だからこそ具体的対案を示し、事を明白にすることが急務だ。右派ナショナリストの国民戦線が権力につくことを望まないのであれば、「万事休す」と言わないまでも、事態は切迫している。(©Le Monde, 2017)(仏ルモンド紙、2017年1月15-16日付、抄訳)」朝日新聞2017年1月25日朝刊オピニオン欄。

今のヨーロッパが抱える政治問題は、1990年代以来拡大EUという大枠でまがりなりにも一つの通貨、一つの秩序で経済成長を図るという合意が、各地で反旗を翻されるような事態が表面化している。それは従来の右翼―左翼というとらえ方ではうまく説明しにくい。移民や難民は社会の底辺にいるのだが、これを排除しろという右翼の主張は、同じく社会の下層にいる本国人の憎悪を煽り立てることで勢力を増す。しかし排外主義で国境を閉じれば、経済的にはマイナスで結局国内の階層分化がさらに進んでしまい、行きつく先は内部分裂を深める。しかし、従来の左派リベラルの方もこれに有効な対抗軸を示せない。左派の基盤としていた組織された大衆はあやふやな揺らぎの中で衰弱し、従来の権力秩序からおこぼれの利益を得ているだけの特権層とみなされて軽蔑される。これはヨーロッパの話だけとは言えない。



B.ポストモダン状況に対して何が可能か。
 
「ワールド・ワイド・ウェブのような分野では、生産、交換、消費が不可分に絡みあって同一化さえしかねない。この私の著作物はたちまち流通して、他人によって消費される。様相を帯びるが、これが再考されねばならない。
 「非物質的労働」では、「人と人との関係」が「客観性のうわべに隠蔽されることなく、関係そのものが日常の搾取の対象となる」から、もはやルカーチ理論による「物象化」について語ることはできない。この流動する社会の関係性は、目に見えないどころか、市場取引および交換の直接の対象である。「文化資本主義」のもとで売買されるのは文化的・感情的経験を「もたらす」ものではなく、そうした経験そのものなのだ。
 ネグリがこの重要問題を把握していることは認めざるをえないが、彼の答えは不適切に思われる。出発点としているのは、マルクス『経済学批判要綱(グルントリッセ)』における「固定資本」の地位の急激な変化についての主張である。

 固定資本の発展が示しているのは、一般的な社会的知識が、どの程度まで直接的な生産力になったか、したがって、社会的生活家庭の諸条件そのものが、どの程度まで一般知性の制御のもとに入り、この知性にもとづいて改造されたかということだ。社会的生産力が、知識という形態においてのみならず、どの程度まで社会的実践の、現実の生活過程の直接的器官としても生産されたかということだ。

 つまりこういうことだ。一般的な社会的知識の発達とともに「労働の生産力そのものが最大の生産力」となっており、「直接的生産過程の観点から、それは固定資本の生産と見なすことができる。この固定資本とは人間自身なのである」。
 そしてまた、資本は、生きた労働と対立する「固定資本」として現われることで搾取をおこなうのだから、固定資本の主な要素が「人間自身」「一般的な社会的知識」となった瞬間に、資本主義の搾取の社会基盤は突き崩され、資本の役割はひたすら寄生的なものに変わるというわけだ。
 ネグリ的見解では、今日のグローバルな双方向メディアにおける独創的な発明はもはや個人のものではなく、直接に集団化され「コモンズ」の一部となっているので、著作権を主張してその発明を私有化しようとすると問題が生じる。「所有とは盗みである」という言葉は、ここにきていよいよ文字どおりの意味になってきているのだ。
 では、まさにこうしたこと――認知労働に携わる想像力あふれる特異な能力集団を組織して、その協働成果から搾取すること――をしているマイクロソフトのような企業はどうなのだろうか。そこでいまや残された唯一の課題は、認知的労働者がどうやって「経営者を追い払うか」を想定することのようだ。「なぜなら、認知労働者への産業統制など、まったくの時代遅れで通用しないのだから」。
 新しい社会運動が示しているのは「賃金労働の時代が終わり、対立構造が賃金をめぐる労働と資本の闘いから、市民所得の回復についてのマルチチュードと国家の闘いへと移行しつつあること」だ。そこには「今日の社会の革命的な変化」の基本特性がある。「共有財の重要さを資本に気づかせる必要があるし、もし理解しようとしないのなら強制しなければならない」ということだ。ネグリがここで厳密に述べていることに注意したい。資本を「廃する」ではなく、資本に共有財の重要さを理解するよう「強制」すると言っている。つまり、資本主義の内側にとどまったままなのだ。ユートピア的発想というものがあるとすれば、これがそうにちがいない。
 ネグリは以下に、マルチチュードが要求する直接的生産への、現代の生政治(ビオポリティーク)的資本主義の接近について記している。

 その未来図とは、あるいは商品の流通、情報網、継続する運動、そしてラディカルな労働者の遊動と、これらの活力の無残な搾取……しかし同時に、不断にして無尽蔵の過剰。マルチチュードの生政治力の過剰と、支配制度の構造的な統制力についての過剰だ。ありったけのエネルギーが労働に注がれ、社会が労働に捧げられる。(……)この搾取された総体と労働命令のなかに、鎮めようとする支配力に屈することのない、目的語なしの自由がある。たとえ自由がそれ自身と衝突しようと、(……)このジレンマにはまだ逃走線が用意されている。苦難はしばしば生産的ではあるが、けっして革命的ではない。革命的なのは、過剰、超過、そして力である。

 ここにみられるのは、いかにもポストヘーゲル主義的な構図である。」スラヴィイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(栗原百代訳)ちくま新書、2010.pp.229-233.

 生‐政治(ビオ・ポリティーク)というのは、ネグリ&ハートが「帝国」で出している概念で、これをジジェクはいちおう認めながら、さらに一歩を進める。

「ここでマルクス弁証法的フェティッシュ化の教訓を思い出すことが、いよいよ重要である。人と人との関係の「物象化」(「物と物との関係」として現れること)はかならず、一見したところ逆のプロセス、客観的な社会過程の偽りの「人間化」(「心理学化」)によって強化される。
 早くも一九三〇年代に、フランクフルト学派の第一世代の理論家たちは、グローバルな市場関係が強大な支配権をふるい、当人にはどうしようもない市場サイクルによって個人生産者の成否が決まりだしたとき、カリスマ的「商才」という概念がいかにして、自分の成否をわけのわからないものに委ねながらも「内発的な資本主義イデオロギー」のなかで自己を再主張したかに関心を向けていた。そしてわれわれの生活を統べる市場関係の抽象化が極点へ達しつつある現在、いっそう同じことがあてはまるのではないか?
 書店には、どうすれば成功するか、仲間や競争相手をしのげるかを伝授する心理マニュアルがあふれている。早い話が、成功にふさわしい「態度」が成功の決め手なのだという。
 そこで、ある意味、マルクス主義の定理を逆転させたい気にさせられる。現代の資本主義では、客観的な市場の「物と物の関係」は偽りの人格化をほどこされた「人と人との関係」という形で現れがちである、と。そしてハートとネグリはこの罠に陥ったように見える。彼らが直接の「生の生産」と称揚するものはこの種の構造的な幻想なのである。
 しかし「人と人との関係」に置き換わることの「疎外化」作用をむやみに嘆く前に、そこに解放化という逆の効果もあることを銘記したい。「物と物との関係」へのフェティシズム的置換によって、フェティシズムの対象ではなくなった「人と人との関係」は「形式的」自由と自律を得られるのだ。
 市場経済における「私」は事実上依存的な存在でありつづけるが、それでもこの依存は私と他者のあいだの「自由」な市場交換に規定された「文化的」なものであって、隷従や強制によるものではない、作家アイン・ランドを嘲笑することはたやすいが、彼女の小説『肩をすくめるアトラス』に出てくる有名な「お金をたたえる歌」には一片の真実がある。

 お金があらゆる善の根源だと悟らないかぎり、あなたがたは自ら滅亡を招きます。お金が相互取引の道具でなくなるとき、人間はほかの人間の道具になる。流血、鞭打ち、銃をとるか、それともドルか。どちらか選びなさい――ほかはない。

 商品経済においてどのように「人と人との関係が物と物との関係を装う」かに関してのマルクスの論述の趣旨と似てはいないだろうか。市場経済では、人と人との関係は相互に認められた自由と平等の関係として現われうる。支配は、もはや直接にはおこなわれず、支配のようには見えない。問題は、ランドの作品に内在する前提である。直接ないしは間接の支配関係か搾取のいずれかしか選べないとしている点だ。
 では、人を欺いて自由と思わせるから直接の隷属よりなお悪いという、おなじみの「形式的自由」批判はどうか。この重要な指摘への答えにはマルクーゼの古い金言「自由とは解放の状態をいう」があてはまる。「実質的自由」を要求するためには本来の自由を経験していなければならない。そうしてはじめて実質的隷属を、人間の状態が損なわれていることだと感じられるのだ。この自由と隷属されている現状という敵対性を経験するには、形式的に自由であることを認識せねばならない。つまり資本主義の発展において〈資本〉下の生産過程の形式的包摂が、物質的包摂に先行するのとまったく同様に、形式的自由が前提となって実質的自由の条件を整えるのである。
 有機的な「生」世界を解体するこの抽象化の力は、同時に、解放をめざす政治の源泉にもなっている。この抽象化の現実的地位のもつ哲学的意義は重要である。それによって、歴史の修正や文脈づけによる主観化が斥けられ、「抽象的」デカルト的主体(コギト)が今日のいかなる文化の自己経験の形式をも内側から侵食することになる。どれほど深く特定の文化にコミットしていようと、グローバル資本主義に参加した瞬間にその文化は非帰属化され、抽象的でデカルト的主体にたまたま特有のひとつの「生活様式」と化す。
 われわれはいかにして、このような抽象化が支配力をもつ新しい段階に達したのか?一九六八年の抗議行動の焦点は、資本主義の三本柱(とされたもの)に対する闘争だった。工場、学校、家庭である。結果として、この各領域はのちに脱工業化型へ変容をとげた。工場労働はどんどん外注化され、先進国ではポストフォーディズム的な非階層・双方向型共同作業に改編されている。公的な義務教育に代わって私的でフレキシブルな終身教育が増え、伝統的な家庭に代わって多様な性的関係が生じている。
 左派はまさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵入した。
 社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味することを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつあるのだ。困ったことがあれば、友だちに相談するのでなく、精神科医やカウンセラーに金を払って問題を解決してもらい、子どもは両親が世話するというより、有料の託児所や子守に任されるようになっている。こうして、時代は新たな社会の私有化の、新たなエンクロージャーの過程のさなかになる。
 この新たな私有化を理解するためには、マルクスの一連の概念の大幅な修正を迫られる。マルクスは「一般知性」の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性を予見できなかったのだ。そして、これこそ「知的所有権」をめぐる争いの中心にあるものである。ネグリはこの点で正しい。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれることになる。
 このために今日、搾取はますますレント(超過利潤)の形をとるようになってきている。カルロ・ヴェルチェローネの言うとおり、ポストインダストリアル資本主義は「生成する超過利潤」に特徴づけられる。それゆえ直接権限が必要とされる。超過利潤を引き出す(恣意的な)法的条件、もはや市場で「自然」発生しない条件を課すための権限が。
 おそらくここに今日の「ポストモダン」資本主義の根本的な「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入とが共存し、依存しあっている。
 したがって現代の歴史的変化の地平に見えるものとは、個人的な自由主義と享楽主義が複雑に張り巡らされた国家統制のメカニズムと共存する(そして支えあう)社会である。」スラヴォイ・ジジェク『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(栗原百代訳)ちくま新書、2010.pp.234-239.

 資本主義も工業生産の社会においては、生産手段と技術の制約の中で労働力商品をいかに効率的に搾取するか、という原価計算的分析でよかった。しかしモノの生産流通が富を生みだすのではなくなった現代では、「一般知性」(俗には知識情報と呼ばれる)が私有化されるので、超過利潤は国家と法的機関が介入してさらに空虚に回転する富を生成する、というわけか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ダンスはできないが・・ダン... | トップ | 大統領選挙は、ジェンダーの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事